2012年8月30日木曜日

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」

玉置山始末書写(天理大学付属天理図書館蔵 翻刻第1110号)

解説


玉置神社は近世において聖護院の末寺となり、強大な仏教権力を背景に郷中山林まで支配し専横を極め、宮門跡の権威の前に神社を守る社家が成すすべもなく虐げられていった。この状態がやがて明治の神仏分離令の発令により、それまでの反動で過激な廃仏毀釈の行動へと繋がっていく様子が詳細に述べられている。

 

 慶長年中に、玉置笹之坊伊織以下野尻助左衛門・矢倉左馬之助・長殿妙慶院の四人の者が郷中の年貢を取立てていた。彼らは玉置山の社僧であり、多勢の僧兵をたのみ山林なども支配し、この地の領主のごとき振舞となっていた。この暴挙に憤慨した河津村権兵衛が糾弾し口論となる。権兵衛はこの四人にあやうく殺されるところを娘の機転で逃れ、乞食となって駿河に向かい、府中の将軍徳川秀忠に哀訴した。七年目に京都所司代によって四人は召捕られた。大坂の陣にあたって彼らは出牢し、三名は死を遂げ、玉置笹坊伊織は大坂方に味方し、落城の後紀州橋本において割腹した。同人の家督・田畑・山林は闕所となった。笹坊伊織は玉置山の社家として、玉置山垢離掻山を所持支配していたため、その大山林が闕所山となり、郷民はその処置に困り果てた。

玉置山には近世以前から多くの塔頭が営まれ、多聞院が最も著名で、近世においては光明院・福荘厳院・智荘厳院・浄聖院・本願院などがあり、社坊には杉坊・新坊・飯屋坊・篠坊などがあった。社坊には社家神職がおり、社家数十軒が繁栄していた。

しかし寛永の頃には玉置山は興福寺大乗院の勢力下にあり、確たる本寺もなく衰微し、元禄の頃には無本寺となり、社家も五・六軒という状態にまでなっていた。笹坊伊織の闕所となった山林を伐木するためには本寺を頼む必要があり、元禄四年から三八年間、京都安井門跡を本山とした。安井門跡道恕大僧正は宝永六年(1709)東大寺大仏供養の導師を勤め、十津川上組下組がこれに供奉した。安井門跡支配になってから別当が神領の山林を売り払うということがあり、その後権句という六部(ろくぶ*)が庵主となると、京都聖護院に願い出、享保十二年聖護院森御殿の末寺となった。

(註)六部―六十六部の法華経を六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した修行僧。

 聖護院は常光院の増誉大僧正が大峰修行の後、白河上皇の熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務めて以来、 本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられた。最盛期には全国に二萬余の末寺をかかえる一大修験集団となり、後白河天皇の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより門跡寺院となる。

 十津川はもとより修験道の霊場であった。役行者(えんのぎょうじゃ)にはじまる修験道は古来より吉野より熊野大峰の根本道場を聖地とし、十津川玉置山も熊野奥之院と称される聖地の一つであった。

 聖護院は玉置山に寺院を建立し、高牟婁院と号し玉置山領分山林まで支配下に置いた。修験集団としての聖護院の末寺となったことで、僧兵らが実力行使で収納物を横領し、十津川郷の領主のごとき専横となった。

社家は京都役所へ高牟婁院の横暴を訴えるが、門跡寺院の権威のもとでは成すすべもなく社家の敗訴となった。これ以後社家は衰え、高牟婁院の強権支配は激しさを増した。地頭代官へ訴えるも、強大な権威を持つ宮支配ゆえに力が及ばず、玉置山は僧徒の巣窟となりはて、郷中とは隔絶状態となった。郷民は自分たちの神でありながら、神祭りにも参加できず、神事も仏式で行われるに至った。

慶応四年四月の神仏判然令によってこの事態は大きく転換することになる。同年閏四月四日の太政官通達には以下のようにあった。

 今般諸国大小の神社において、神仏混淆の儀は御廃止に相成り候に付、別当・社僧の輩は還俗の上、神主・神人等の称号に相転じ、神道を以て勤仕致すべく候

この通達を受けて郷民はすばやく動いた。同月二十七日には十津川郷

中より願書を差し出す。その冒頭に、

  玉置山復古之義は積年之志願ニ候

とある、十津川郷中の祖神、三柱鎮座の神社が中古以来仏教寺院勢力

に席巻され、神事祭禮も僧の扱いとなり、郷民の手の届かない状態と

なった玉置山復古の願いは郷民すべての積年の志願であった。この度

の御一新により、僧徒は隠居寺へ住居させ、神事祭禮は社家一統立会

の上勤めたき旨の嘆願を出した。神祇官事務局からは「玉置三所大神」

と称すことを許され、郷民の願いの通り、十津川郷中一統にて奉仕す

ることを命じられた。郷民の志願は聞き届けられたのである。  

これによって聖護院森御殿へこの旨のお届けをし、以後は神事祭禮守護修復は郷中にて社務いたし、玉置山境内山林の管理もすべて郷中に取り戻す旨奏上する。院主からは還俗の上、社務相続の要求を突きつられるが、その儀はお断りをする。村人にとって、還俗してもなお寺院勢力に押さえつけられることは明白であり、これは断じて譲れないところであった。

五月、高牟婁院主敬純僧は弁事御役所へ願書を差し出す。「十津川郷より、朝廷の仰せであるとして、郷中において社務奉仕の申出があり、仏像仏具も焼き捨て、還俗して社務相続の願いは撥ね付けられ、隠居或は立退きを要求されている。また山林田畑の証文も引き渡すようにとのことで、朝廷御沙汰の権威をもってする横暴である。」との嘆願であった。

双方対決の後、高牟婁院立退については、山林田畑買受料として二百五十両を差出し、証文を十津川郷中へ引き渡すことで内済する。いかに門跡寺院とはいえ、太政官通達に抵抗することは不可能であった。

長年の仏教権威の苛虐に耐え続けた村人にとって、往古より村人の心のよりどころであった玉置神社を寺院勢力から分離し、村人の手に取り戻したいという思いは、押さえつけられたバネが跳ね返すような強靭なエネルギーとなった。院主の還俗の上、社務相続という要求を言下にはね付けたのは、郷民の寺院権力への強い嫌悪と憎悪があったからに他ならない。七月には高牟婁院の立退きを断行し、いち早く村の神社を仏教勢力から取り戻したのである。

玉置神社の神事・神祭りはじめ社務についても古くからの社家は遠ざけられていたのであるが、明治三年かつての社家四家に玉置神社奉仕が委任されることとなった時、ようやく十津川郷士たちの思いは達せられたのである。玉置山のこの行動は、十津川郷の他の寺院にも波及し、すべての寺院の廃寺へと進展していった。

「十津川寺跡をさぐる」(著者 横谷正光・発行所 十津川村)によれば、十津川における寺院の始まりについては、折立村松雲寺の開基素菴公が応永六年(1399)に亡くなっているので、その頃から十津川郷に寺が建立されていったと考えられる。

寛文十二年(1672)閏六月、池穴村竜蔵院が山城宇治興聖寺と本末契約し、以後十津川郷民は禅宗に帰依し、以後寺数は増加し、明治初年には五一ヶ寺を数えた。今西村は天竜山泉昌寺であった。

明治四年五条県十津川出張所から郷中へ出された通達には、「寺院の尊大繚乱、僧侶の破戒怠惰は政教を害するものであり、維新の趣意を奉戴し、僧尼は区戸長へ還俗を願い出るべく」とあり、明治五年二月に郷中五一ヶ寺が廃寺の願いを差出し、翌六年四月には裁下された。十津川の寺院四七ヶ寺は曹洞宗宇治興聖寺の末寺で、四ヶ寺は臨済宗妙心寺内金牛院であったが、明治四年から六年にかけてすべて廃寺となった。これにより寺僧も還俗した。

この十津川郷において廃寺が容易に行われたその背景には、郷内五一ヶ寺がすべて禅宗であったことが大きい。禅宗は檀家との精神的繋がりが淡泊であり、村民の中に宗教的欲求がそれほど強烈ではなかったことが作用している。しかも明治維新の理想とする王政復古の精神こそが十津川郷民の理想とする勤皇思想そのものであったことも、彼らをして必然的に維新の先駆者として改革へと駆り立てたのである。しかも玉置山のいち早い廃仏毀釈も彼らの行動に拍車をかけることとなった。

この廃寺の理由について願書には、「無住或いは貧寺にて、このまま差し置いては村方難渋につき廃寺仕り、以後は神葬祭に仕りたく」とあるが、興聖寺文書では同寺の末寺であった四三ヶ寺のうち、三四ヶ寺は住職がおり無住という理由は成り立たない。ひとえに十津川郷民の仏葬祭ではなく、神道の神葬祭でなければという願いに他ならない。

そこには十津川郷民の勤皇思想への傾倒があった。文久三年(1863)、勤皇攘夷を唱えた志士たちの動きが騒然とした洛中の状況に危機感を覚えた十津川郷士たちが、中川宮へ御所の警備を願い出て許されている。そこには古来より勤皇の志を伝統としてきた十津川郷士たちの熱い思いがあったのであり、その思いこそが明治維新の復古精神と合致し、仏教勢力の排除、廃寺を推進するエネルギーとなったのである。

明治六年十津川郷の寺院が姿を消し、神葬祭に切り替えられた。各家では神式で死者の霊をお祀りし、神主が彼岸に合祀を営む。郷内の各字に祖霊社を設けており、今西村は荒木神社境内にある。

また玉置神社から神葬祭を司る神主に「祀掌心得」十ヶ条を出し、「仏説に惑わされる者には、弊習を氷解し、開化進歩の儀を説諭いたすべし。」と厳しく旧弊を正すことを命じている。十津川郷ではこれ以後、還俗した僧侶の大半が祀掌となり、祖先祭や葬儀を受け持つことになったのである。

では寺跡はどうなったのか。上杉家文書「諸伺留」明治五年二月条に次のようにある。

廃寺之儀ニ付伺書

当郷中村々ニ於テ建立寺院之僧徒共、追々還俗仕、又ハ其生国ニ立帰り大分明寺ニ相成、然處村ニ寄リテハ夫々取毀チ、或は合寺或は狭地に引直し、霊屋等ニ致度旨願之向モ有之、尤明寺ニテ差置候テは自然破壊スル而巳ニ御座候間、断然廃寺之儀御差支モ無御座候ハヽ、右願之趣聞届、就中取除候分は跡地桑茶等植付ケ為致度、此後トテモ右辺追々可願出義と奉存候間此段奉伺候、以上

「当郷の寺院僧徒は還俗し、又は生国に立帰り、空き寺となっているので、寺は村で取り壊し、霊屋(たまや)に致したく、また寺跡地には桑・茶を植付けしたい。」と願い出ているのである。

これ以後十津川郷の寺跡は多くは田畑となり、集会所となり、若者の剣道道場となった。また明治五年に太政官の学制布告があり、奈良県参事より、「廃寺に伴う付属品処理の費用は学資に組み入れられるべく」という通達が出されたので、寺跡に多くの学校が建てられた。『十津川学校史』によると、松雲寺跡に折立小学校、光明寺跡に武蔵小学校、泉蔵寺跡に小原小学校、清竜寺跡に七色小学校を創立している。

他の地域ではその後序々に寺が復活していくが、十津川郷内には一宇の寺堂も復活することなく現在に至り、祖先祭・葬祭もすべて神職が行っている。(次項十津川村神葬祭写真参照)それは近世において、郷民の祖神であった玉置山が門跡寺院の強大な権威に席巻され、自分たちの神を自らの手で祭ることさえ出来なかった記憶があまりにも大きな痛みとして生々しく郷民の中に疼いており、それへの嫌悪が消え去ることがなかったからに他ならない。

しかし十津川郷のみに限らず、多くの地域で激しい廃仏毀釈運動が起こった背景には、近世初頭からの寺請制度の弊害というものがあった。庶民は宗門人別帳に登録され、檀那寺に生死を管理される。寺への奉仕やお布施が十分でないと檀那寺のほうから葬儀や法事の執行を遅延されあるいは停止され、挙句の果てには檀家から切り離す()(だん)ということをする。それは宗門人別帳からはずされて無宿者となり、社会で生きていけないということを意味する。

いきおい寺の横暴は目に余るものとなる。そうした寺の権力を傘にきた行為、僧侶の腐敗といったことも庶民の心を仏教から離反させた大きな要因であった。

十津川郷では文久年間に玉置山高牟婁院主・権僧正定玄の女犯の事実を見かねた郷士たちが聖護院に訴願し、院主は隠居引退となった事実がある。こうした僧侶の堕落も一層仏教に対する反感軽視を増幅させていった。 

特に寺院の強権は神職のものに向かった。神官が神葬祭をしたいと願い出ても檀那寺が承知せず、神職を務める社家は長く檀那寺に非常な圧迫を受け、彼らの不満は鬱積していた。こういう状況の中で明治の神仏分離令が出たわけで、特に神職のものがこれまでの反動で強硬な廃仏毀釈へ突き進んだのもいわば当然ことであった。

古来日本人の根底には、自然神を崇拝し、死者は祖霊となって子孫の繁栄を見守るという死生観があり、日本人固有の神祭り習俗があった。しかし仏教の伝来以降、仏教による儀礼が民衆の中に深く浸透し、神仏習合の中に埋没してしまい、神祭りも仏教一色となってしまったことも、人々の本来の姿への回帰を促したと考えられる。

しかしながら廃仏毀釈によって多くの貴重な仏教経典・古代史料・美術工芸品が廃棄され、巷間・海外に流失し、大きな文化破壊に繋がったことも事実である。

一つの強大な権威があまりに長く君臨することの弊害、それが崩壊する時のエネルギー、その結果失うものの大きさということを思い知らされる歴史事実である

 

参考文献

『十津川寺跡をさぐる』横谷正光・発行所 十津川村「十津川寺院のあゆみ」

『熊野』里写虎雄 地方史研究所編 昭和三二年「玉置山」

『千葉政清遺文集』昭和四七年十津川村史編輯所「十津川郷における廃仏毀釈」

『神葬祭大事典』加藤隆久編 二〇〇三年

          
                     十津川村玉置山 玉置神社写真    撮影佐古金二郎








 



 

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