2012年8月30日木曜日


「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」
解 題 


この史料集に収録したものは、十津川郷旧今西村文書である。その内訳は、元十津川村長上杉直温家(屋名(やみょう)花屋・上杉久氏所蔵)、玉置里見家(屋名下村・今西・和平(わだーら)玉置健一氏所蔵)、惣代家(羽根金二氏所蔵)の文書群である。全体の約八〇㌫を占め、二二四点にのぼる上杉家文書については巻末に文書目録を収録した。但し「玉置山始末書写」については天理大学附属天理図書館所蔵である。

旧今西村(現十津川村今西)は十津川村のほぼ中央部、東に十津川沿いの西熊野街道と168号線、西には熊野参詣道小辺路が通る、その中間に位置する地域である。今西川がその西を流れ南の西川に注ぎ、西川は南の十津川に合流する。西に大谷村、東に小森村、北に川津村、南に玉垣内村があるが、いずれの集落とも三㌔から五㌔離れている。明治十六年『十津川郷村誌』(平成二四年三月復刻)によれば、

地形高地にして風雪の害を蒙ること殊に極まれり。気候寒暑共に酷烈なり。南北に鬱蒼たる樹木生ずといえども高土なる故に薪木運搬に不便。物産、米四二石、麦三五石、大豆一石一斗、小豆五斗、玉蜀黍(とうもろこし)四一石、里芋一万斤、その産額多分豊穣を得ざるをもって喰うに不足し平素他国の輸入を仰ぐ。製造物、椎茸百二十斤、製茶三百八十斤、紙麁三百斤、然して上品は稀なり。堺・大阪・新宮等に運搬す。

とある。深山幽谷の地として農産物は二九六人(明治九年調べ)の人口の食用にも不足し、産物もわずかとあれば厳しい暮らしであった。

古くは十津川郷西川組に属し、村内は上原・下原・釜中・三坂の小字に分れ、枝郷として真砂(まなご)()がある。西は湯泉地温泉に至り、さらに南に進むと玉置山である。この山に鎮座する玉置神社は十津川村の祖神を祭る村人の心のよりどころであるとともに、熊野本宮大社に至る大峰奥駆道が中央を貫く修験道の霊場でもある。

東大阪市内の当会がこの文書群にであったいきさつは、十津川村玉置神社の神官である玉置健一氏が当会に入会されたことに端を発す。玉置氏は玉置神社に奉職する中で、限界集落となっていく今西地区の状況に心を痛め、故郷にあったかつての暮らしの姿を明らかにしなければと文献資料の収集調査に努める中で、村に遺された古文書を解読する必要に迫られて当会で勉強をはじめられたのである。

私どもでは玉置氏の持ち込まれる古文書の解読にとりかかろうとしていた、そんな二〇一一年九月、台風一二号による大水害が起こったのである。十津川村の被害は大きく、玉置氏の実家のある今西地区の集落でも地盤崩壊の危険があり、住民は仮設住宅に移っておられた。

しかも明治期に十津川村長を勤めた上杉直温氏の蔵も地すべりの危険があるということで、文書をすべて蔵出しした上、当会へ持ち込まれたのである。早速文書整理にとりかかり、目録を作成する中で、近世初頭からの貴重な史料がぞくぞくと出てくることに驚くばかりであった。

昨年秋から本格的に解読を進める中で、十津川村の歴史にとっぷりと浸ることになった。古来忠孝を尊び、仁義を重んじ、皇室への赤誠尽忠一筋の土地柄、村人が守り伝えてきた誇り高い由緒、幕末維新における十津川郷士の活躍、戊辰戦争における北陸から函館への転戦、明治二二年の水害による北海道への移住など、山深い土地で厳しい自然に寄り添いながら、数々の困難を乗り越えて生きてきた人たちの生々しい記録がそこにあった。村域の九六㌫が山林というこの地域ならではの人々の純朴で一途な思いと、彼らの歩んできた確かな年月の重みに心打たれた。

玉置氏が地元のことを語りだすと口角泡を飛ばして止まらない。そこには生まれ育った郷土への熱い思い、伝え聞いてきたふるさとの歴史への誇りが息づいていた。そのひたすらな思いに突き上げられて、これは早く史料集として刊行しなければという思いに駆られた。

この史料集はひとえに玉置氏の十津川村の歴史に対する深い思い、篤い郷土愛の故に生まれたのである。当会はそのお手伝いをさせていただいただけで、これも私どもに与えられた縁というものであろう。

十津川村の現在について、『十津川郷村誌』の「復刻に寄せて」(十津川村教育長・長曽昌弘氏)を引用させていただこう。

 わが十津川。この山里は今静かです。本村の人口は四千人を切りました。今月末村内四つの中学校は閉校し、四月には村内ただ一つの十津川中学校が開校します。生徒総数八二名です。また四つの小学校への今春の入学児童総数は二一名です。少子化・高齢化・人口減少が同時に進行する先例のない時代を突き進み、限界集落ということばが各所で現実になっている十津川村です。

延享元年(1744)の「村明細帳」によれば、戸数一九一七軒、男四六〇五人、女三八二〇、総人口八四二五人であったことを考えれば現在の人口は半分以下にまで減少している。

今西村地区について言えば、明治九年には五六戸、二九六人であったが、昭和三四年には二八戸となり、現在は七戸、九人となっている。そのほとんどが高齢者世帯である。しかも昨年の水害以後、元の家に戻ることができたものはわずか三世帯に過ぎない。地盤がゆるんでいるため、今なお大雨が降ると恐怖にさらされる暮らしである。この地域がいずれ廃村になる可能性は大きいと言わざるを得ない。

旧今西村の歴史を伝える古文書を史料集として刊行し、かつての暮らしを明らかにすることは大きな意義があるものと確信する。それは確かにあった十津川郷の暮らしの営み、伝統を誇りとして生きた十津川人の生きたあかしを後世へ伝えていくものとなるであろう。 

最後にこれらの文書の翻刻掲載を許可していただいた、天理大学付属天理図書館、上杉久氏、玉置健一氏、羽根金二氏に心より感謝申し上げます。

平成二四年九月          
                 日下古文書研究会 浜田昭子


  

                       十津川郷今西村全景








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