2011年11月22日火曜日

向井家文書目録刊行 解題

向井家文書目録





解 題

一 向井家
 善根村の向井家は近世を通じて善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っている。善根寺村大絵図(243㌢×134㌢・目録38)は、年代は不明ながら、「註蔵田地」とあることから、足立家の当主が註蔵であった、享保から寛保年間(1716~44)にかけてのものと思われるが、この大絵図には、向井家の現在地に、郷蔵と、太郎兵衛(向井家)屋敷が描かれている。
その屋敷は元禄時代以前の建物とされ、東大阪市の文化財に指定されている。屋根は萱葺で庇には桟瓦を葺いている。縁側に面して平書院を設け、次の間との境には、桃山末期から江戸初期に好んで用いられた大柄な左右対称文様を透かし彫りにした豪放な板欄間をはめ込んでいる。土間には七つカマドが残され、裏庭には二棟の蔵がある。東大阪市内では最も古く、十七世紀のものとしては非常に重要な民家である。裏庭のむくの木は樹齢五百年といわれ、東大阪市の天然記念物に指定されている。

二 善根寺村
 善根寺村は現東大阪市の最北東に位置し、東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり恩知川に接する。古代から近世初頭まで日下村の枝郷であった。日下は記紀・万葉に登場する古代から広く知られた地名である。承平年間成立の『倭名類聚抄』の河内郡大戸郷に日下村があり、『新撰姓氏録』には「河内国日下大戸村」とある。
 文禄三年(1594)長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて「草香村」と表記されている。徳川氏の時代に入り、元和元年(1615)に天領、その後、寛永11年(1634)7月、大坂西町奉行曽我丹波守古祐の支配下に入る。万治元年(1658)曽我古祐の没後、その子曽我又左衛門近祐が引き継ぎ、その没後、寛文元年(1661)大坂西町奉行彦坂壱岐守の支配下に入る。
この二年後の寛文三年(1663)日下村より分離して善根寺村として独立する。以後、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)天領となり、金丸又左衛門代官支配となる。以後善根寺村は幕末まで一貫して天領であった。


三 文書調査の経緯
 向井家には平成十一年にはじめてお伺いし、旧の本屋の中にあった大きな木箱に入った文書群を写真撮影させていただいたのが最初である。その木箱の蓋には、「昭和三十四年五月六日調済」の付箋があり、現当主のお話では、先々代の当主が調査されたものであろう、とのことであった。
その後ご当主から、蔵の中も一度調べてみてほしいとのお申し出があり、平成二十年五月から改めて蔵の調査に入った。蔵の二階の一番奥から10箱の木箱に入った文書群が見つかった。これらは明治以前に木箱に納められたものと思われる。一階からは木箱7箱、ダンボール12箱の文書群が見つかった。ダンボールのものは、かなり新しい時代に整理されて、仕分けされたものと思われる。いずれも近世初期から幕末までの文書群で、虫食いがあり、一階のものは、破損したもの、湿気で張り付いたものが一部あったが、蔵の中に置かれていたことが幸いし、全体的に、状態は良好であった。以後調査完了まで三年を要した。

四 向井家文書にみる善根寺村の概要
 向井家文書は近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間(1673~84)は次郎右衛門が勤め(目録602・1566)、その後、宝永から正徳年間(1704~16)は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤め(目録1432・1443)、享保三年(1718)閏10月に向井太郎兵衛家に引き継がれた(目録470)。
それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間(1818~44)には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
 文禄三年(1594)長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高1061石9斗6升であり、その構成は田方が78㌫を占め、その内訳は上々田・上田が大部分という、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村であった。
寛文三年に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを『日下村町切帳』(目録75)として日下村から譲り受けた。総数2055点に上る向井家文書の中で、この「日下村町切帳」が最も古いものである。この文書によると、村高1089石7斗7升6合となっている。
この分村の詳細な事情は、寛文四年(1664)の「高免吟味願」(目録542)によって判明する。それによると、善根寺村と日下村では田畑の地質が異なり、日下村と同じ斗代では高免になるという理由で吟味願を出したところ、免定を別紙にし、分村を認められたものであった。分村以後の善根寺村高としては、寛文五年(1665)の「年貢免定」(目録680)によると、397石2斗1升8合である。
 善根寺村は寛永11年(1634)曽我丹波守古祐から、元禄元年(1688)能勢
出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)天領となる。天領となってから金丸又左衛門代官に提出した元禄四年(1691)の「善根寺村明細帳」(目録123)が存在する。表紙には「要大切保存 古昔当村状態判明ス 昭和36・12・10」の付箋があり、先々代のご当主が調査されたものであった。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。
 この元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は360石1斗1升、家数が51軒、そのうち高持35軒・無高16軒となっている。この村高は享保以降、幕末まで426石9升4合となり、家数は文政九年(1826)「宗門人別帳」(目録213)では93軒、そのうち高持35軒、無高57軒と無高が大幅に増加する。
善根寺村は生駒西麓の山方村であり、慶応三年(1867)「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(目録593)によると、杣・木挽職が21軒、石工が2軒あり、山稼ぎが多かったことがわかる。生駒西麓からは生駒石といわれる良質の石材が産出し、石の切り出し事業は、善根寺村豪農である足立家が近世初頭に大坂城石垣普請を請け負って以来の伝統であり、現在の善根寺町においても石材業社が数軒存在する。
 さらに水車職が8軒あり、車谷と呼ばれた生駒西麓の急峻な谷筋での水車稼ぎで、薬種製粉・精米・油絞りなどに従事している。他に、木綿商3軒、古手商6軒、古道具商14軒、綿打業3軒、木綿染色業1軒となっており、河内ならではの商工業の発展がみられる。
特に向井家文書としての特徴は、大和川付替え後に開発された新田との水論文書にあるといえる。善根寺村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替えにより、新田として開発された。善根寺村はじめ山方村は深野池に悪水を落としていたが、その深野池が新田になることで、悪水処理に困難が生じた。
 それは本田村にとっては死活問題であったから、宝永年間以後、新田との水論が多発した。水利文書126点のうち、水論文書は39点、そのうち新田関係の水論文書は28点にのぼる。
その中でも宝永年間12点、正徳年間9点と、付替え直後に水論が集中するのは、深野新田が耕地整備のために用水井路、悪水井路を開削し、それは直に本田村の水利に影響するものであったから、「悪水迷惑」「井路差構」出入が頻発したものである。
新田側には、自らの田畑に水損の危険があっても、山方村の悪水を請通すことが求められ、その上、山方村の悪水を用水として利用してきた平野部の本田村からも訴えられる状況にあった。享保三年(1718)の京都裁許書(目録1449)によってこの水論に一応の決着がつけられ、宝永年間から多発した水論も以後減少する。それは、紆余曲折を経ながらも、新田が一定の収穫を上げる水田となり、地域社会の一員として認められていったことを物語る。
 これらの水論文書は、河内における新田開発が、周辺本田村にもたらした軋轢の大きさを示し、新田開発の実像を物語る史料として貴重なものといえる。
 さらに、特筆すべきは、善根寺檜皮大工に関する文書が11点(目録1789-1799)見つかったことである。善根寺檜皮大工について地元では、神護景雲二年(768)の枚岡神社から南都春日社への勧請の際に、檜皮大工の先祖が供奉したという、古代に遡る伝承を持つことでつとに有名である。
 実際彼らの活動に関しては、戦国時代の永禄十二年(1569)の棟札が見つかっており、彼らの始まりがそれ以前に遡ることは確かである。中世の時代には、南都興福寺の「寺座」に従属し、当時の最高の技能者として南都に住し、畿内各地に檜皮葺の作事に出掛けていたことが明らかになっている。(拙稿「善根寺檜皮葺大工の伝承と活動」『善根寺町のあゆみ』2009)
延享二年(1745)の「寺座覚書」(目録1790)と、明和元年(1764)の「春日社屋弥之日記」(目録1791)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年間から幕末までの南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
 しかも、天明と安政年間の、「興福寺修理目代」から与えられた「寺檜皮大工職補任状」が三点(目録1792・1796・1797)残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。善根寺檜皮大工の存在は、古代に遡る伝承とともに、善根寺村の人々が守り伝えてきた歴史事実であり、向井家文書によって彼らの近世における実像と活動が解明されたことは非常に大きな意義がある。
また蔵からは、漢方薬がはいったままの薬箪笥と、裏に木村宗右衛門御役所の墨書と、「木」の刻印がある「御用」木札(長さ28㌢)が発見された。
 善根寺村における木札については、枚岡市史編纂主任を勤められた藤井直正先生によると、昭和30年代中ごろ、善根寺村車谷水車郷の山川家より「大坂御城米御用」の木札が発見されている。向井家文書に「御城米五拾五石」の「船賃請取覚」(目録858)と、「御城米弐拾五石」の「送り状」(目録876)があることで、この「大坂御城米御用」木札は、車谷の水車で精米した大坂城米の運送の際に用いられたものであることが確認された。
今回の調査によって、近世における善根寺村の全体像が浮かび上がり、これらの実り多い成果が得られたことは、私ども日下古文書研究会の大きな喜びとするものである。
 向井家文書は善根寺村のみならず河内における近世史料としては第一級のものといえる。この史料によってさらに地元の歴史解明が進み、地域史研究に生かされることを願うものである。
なお今回の文書調査に全面的にご協力いただいた向井家ご当主、向井竹利氏に深く感謝申上げます。  

     平成23年7月
                 日下古文書研究会         浜田昭子


善根寺村領主変遷
文禄三年(1594)  長束治郎兵衛検地 1061石9斗6升
元和元年(1615)  天領 
寛永十一年(1634) 西町奉行 曽我丹波守古祐
慶安二年(1649)  曽我氏検地 1089石7斗7升6合
万治元年(1658)  曽我又左衛門近祐
寛文元年(1661)  西町奉行 彦坂壱岐守
寛文三年(1663)  西町奉行彦坂壱岐守 
善根寺村分村 
延宝五年(1677)  島田越中守・福富岩之助
天和元年(1681)  藤堂伊予守
元禄元年(1688)  能勢出雲守
元禄四年(1691)  金丸又左衛門代官
宝永元年(1704)  安藤駿河守
正徳四年(1714)  鈴木久太夫代官
享保七年(1722)  桜井孫兵衛代官
同十二年(1727)  玉虫左兵衛代官
同十三年(1728)  鈴木小右衛門代官
寛保元年(1741)  角倉与一代官
宝暦八年(1758)  飯塚伊兵衛代官
宝暦十三年(1763) 旗本勝田幾右衛門采地
安永五年(1776)  風祭甚三郎代官
寛政六年(1794)  鈴木新吉代官
寛政十年(1798)  池田仙九郎代官
享和二年(1802)  柘植又左衛門代官
文化十年(1813)  重田又兵衛代官
同 十三年(1816) 木村宗右衛門代官
天保十一年(1840) 小堀主税代官
同 十四年(1843) 築山茂兵衛代官
同 十五年(1844) 都筑金三郎代官
嘉永二年(1849)  多羅尾又左衛門代官
嘉永六年(1853)  小堀勝太郎代官
文久元年(1861)  小堀数馬代官

向井家文書にみる近世の善根寺村の概要

向井家文書資料集刊行







向井家文書にみる近世の善根寺村の概要

 善根寺村は近世河内国河内郡の最東北(現東大阪市)に位置し、南は同郡日下村、北は讃良郡中垣内村に接する。東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり深野池に接する。
向井家は享保三年(1718)から善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、その所蔵文書は二〇五五点にのぼる。近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っていることから、近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。
善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間は次郎右衛門が勤め、その後、宝永から正徳年間は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤めた。
享保三年に向井太郎兵衛が庄屋となり、それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
 文禄三年(1594)の長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高一〇六一石九斗六升であり、その構成は田方が七八㌫を占め、その内訳は上々田・上田が過半を占める、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村である。
寛文三(1663)に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年(1649)の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを「日下村町切帳」(一・1)として日下村から譲り受けた。
寛永十一年(1634)に曽我丹波守古祐支配となり、
以後元禄元年(1688)の能勢出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)に天領となる。この年に金丸又左衛門代官に提出した「善根寺村明細帳」(二・1)が存在する。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。以後善根寺村は幕末まで天領であった。
元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は三六〇石一斗一升、家数が五一軒、うち高持三五軒・無高一六軒と、高持が無高の倍であった。村高は享保三年(1718)に四二六石九升四合となり、家数は、文政九年(1826)「宗門人別帳」では九三軒、人数四四五人、そのうち高持三五軒、無高五七軒と無高が大幅に増加する。さらに嘉永四年(1851)家数一〇一軒、人数四九八人と、順調に発展する。
善根寺村は山方村であり、「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(十・1)によると、杣職・木挽職などの山稼ぎや、急峻な谷川を利用した水車稼ぎが多く、木綿商・古手商など、河内ならではの商工業の発展がみられる。
また村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替後に新田として開発され、善根寺村はじめ本田村との水論が多発した。深野新田関係の水論文書は二八点にのぼり、享保三年の京都裁許書によってこの水論に一応の決着がつけられることになる。
特筆すべきは、十一点の善根寺檜皮大工に関する文書である。善根寺檜皮大工については、戦国期、永禄十二年(1569)の棟札が発見されており、中世からの活動が確認されているが、これらの文書によって、彼らの近世の実態が明らかになった。
延享二年(1745)の「寺座覚書」(二十四・1)と、明和元年(1764)の「春日社造営屋弥[破損]」(二十四・2)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年中(1684~1688)より南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
しかも、天明三年(1783)、安政三年(1856)、同七年(1860)「興福寺修理目代」から与えられた三点の「寺檜皮大工職補任状」(二十四・3)が残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。
延享元年からの神尾若狭守巡見に関する触書(八・7・8)が二三点にのぼり、村は次々に届く触書に緊張しつつ準備に奔走し、年貢増徴の御旗を掲げてやってくる勘定奉行を迎えた。
「神尾若狭守巡見宿泊明細」(十四・12)によると、善根寺村豪農足立家に神尾若狭守以下四七名、向井家に堀江荒四郎以下一八名が宿泊している。
明治改元の直前、慶応四年(1868)四月から五月にかけて、神仏判然令・丁銀廃止・「天下の大事にあたり金穀御用を相勤めるべし」との太政官通達など、二八項目にのぼる「維新触書」(二十三・1~28)が折紙に写し取られている。
何百年の眠りから覚めたこれらの文書が、新しい地域史の解明に繋がることを期待したい。

最後に、この資料集作成にあたり、所蔵文書の提供にご協力いただきました向井家ご当主・向井竹利氏に深く感謝申し上げます。

           日下古文書研究会 
                  浜田昭子

2011年7月19日火曜日

江戸時代の疱瘡

 勝二郎の疱瘡

 江戸時代の河州河内郡日下村の庄屋である長右衛門貞靖が書き残した[『日下村森家庄屋日記』には、長右衛門の子息勝二郎が疱瘡に罹った時のことが詳しく記されています。そこから、江戸時代の疱瘡がどのようなものであったかを知ることができます。

享保一三年(1728)四月、八代将軍吉宗の日光社参というビッグイベントが行われ、幕府のお達しで日本国中にかつてない厳戒態勢がしかれていました。その真っ最中の十七日、村の警戒の総指揮にあたっていた日下村庄屋長右衛門のもとに大坂から飛脚が駆け込んできます。長右衛門の長男勝二郎の疱瘡発病の知らせです。勝二郎はこの時一六才、大坂(おおさか)三郷南組惣(さんごうみなみぐみそう)年寄(としより)という町役人のトップを勤める大商人野里屋へ養子に入っていました。
疱瘡は天然痘と呼ばれ、一九八〇年に世界から根絶されたのですが、江戸時代には最も恐れられた流行病(はやりやまい)でした。この年の初め、長右衛門家の下女が疱瘡を発病し、わずか六日で亡くなっています。その死亡率は約三割といわれ、幼い子どもたちはそのほとんどが亡くなります。
      ✤   ✤   ✤   ✤   
疱瘡という病気は、まず熱とともに小さな発疹が顔や手足に出て、えんどう豆のような大きさになって全身を覆います。それが水泡になって膿をもつと、病人は高熱と激しい痛みに苦しみ、体も顔も腫れ上がって容貌さえも変ってしまいます。三、四週間で発疹が乾き、かさぶたになりますが、まだ膿をもっていて、痛みと治りかけの猛烈なカユミとで病人は夜も寝られない状態になります。かさぶたが落ちるとあとがくぼみとなり、「あばた面」になります。容貌の変化は特に女性にはつらいことで、
「疱瘡は器量さだめ」といわれたのです。
また症状がひどく目にまで発疹が及ぶと盲目になり、男性は座頭(ざとう)、女性は瞽女(ごぜ)という盲人集団に入って生きるしかなかったのです。人々は
「こんな恐ろしい病は鬼神の仕業にちがいない!」
と考え、疱瘡神や疱瘡地蔵を祀り、現代では考えられない迷信が流布しました。牛の糞の黒焼が特効薬として高値で売り出され、幕府も触書を出し、
「黒焼きにした牛の糞を粉にし、白湯にて服用すべし。」
と奨励しました。日下の旧家井上家には、
「おだいもくをとなえ、いただく也」
と朱書された「疱瘡の御守」が残されています。この中にもおそらく牛の糞の黒焼が入っているはずです。今から考えると不衛生この上ない悪迷信ですが、人々はこの病の恐ろしさに、効くと言われれば何でも飛びついたのです。また患者のフトンやネマキまで赤色にし、鎮西八郎為朝を描いた赤い疱瘡絵を護符として枕元に飾ることが流行しました。
       ✤   ✤   ✤   ✤
長右衛門はこの知せに
「またよりにもよってこの厳戒の時に、えらいこっちゃ!」
と頭を抱えました。この時、日光社参の警戒で庄屋は外出を禁じられていたので見舞にも行けず、奉公人や村の医者玄喜を看病に行かせます。ついに二〇日には蔵屋敷へ疱瘡見舞の外出を願い出て、日帰りで許されます。早速勝二郎を見舞うと、大坂の疱瘡専門の名医小林見宜の診断を受けて発疹が水疱になっていました。この時代には疱瘡の伝染性も知られていないので、患者を隔離することなく、勝二郎は大勢の奉公人がいる野里屋で手厚く看病されていたのです。
予断を許さない勝二郎の様態に心引かれながらも、夜ふけにとんぼ返りで帰った長右衛門はすぐに会所に出、日光社参の警戒の陣頭指揮に当ります。庄屋としての勤めと、長男の病状とでその心痛は察するに余りあります。
二一日には日光社参での警戒は終わりますが、ホッとする間もなく、二四日に勝二郎は再び高熱を発し、最も危険な段階です。長右衛門は村の用事で大坂蔵屋敷へ出た後、そのまま野里屋で看病に泊り込みます。翌日勝二郎の熱は下がり、長右衛門は疲れ果てたのか駕籠で日下村へ帰ります。
この後勝二郎の様態は少しずつ好転し、与えていた高麗人参も減らします。当時高麗人参は最高の薬で、一匁(四㌘)で約一両(一〇万円前後)という高価なものでした。この頃には村人からの見舞品がたくさん届きます。発病より十日目、勝二郎の発疹が乾き始めます。
「峠は越したので、もはや気づかいはおまへん。」
という医師小林見宜の言葉に、長右衛門は胸をなでおろしたのです。
       ✤   ✤   ✤   ✤
危機を脱した五月二日、勝二郎は一番湯にかかります。これは(ささ)()といわれ、疱瘡にかかってから二週間後くらいに行われる民間療法です。米のとぎ汁に少量の酒と薬草を入れた湯を病人にかけ、体を拭くのです。乾きかけた発疹の激しい痛みとカユミを癒すためでもあり、また疫病を切り抜けたお祝の行事となっていたのです。だがこんな方法が体にいいわけはなく、五代将軍綱吉は六四才で麻疹にかかり、酒湯にかかった翌日に急逝しています。
酒湯は将軍家・大名家では盛大な儀式となります。この年三月、一六才だった吉宗の嫡男、後の九代将軍家重が疱瘡にかかり、その酒湯の儀の際には諸大名から膨大な進物が献上されたのです。
勝二郎はこの後二番湯・三番湯とかかり、そのつど長右衛門家から祝いとして赤飯を配ります。その後、糸瓜(へちま)の汁も届けます。かさぶたの膿を押し出し、その痛みとカユミを癒すためです 
       ✤   ✤   ✤   ✤
 この年は大坂で疱瘡患者が続出し、疱瘡の専門医が引っ張りだこでした。長右衛門が額田の親類を見舞うと、大坂の疱瘡患者に付き添っていて留守です。血縁や地域のつながりが今より濃厚で、義理を欠くことが最も嫌われた時代です。疱瘡患者が出ると皆が放ってはおきません。「疱瘡祭」と称して大勢の親戚や村人が集まり、患者の枕辺を贈物で飾り立てて宴会をするのです。
善根寺村の庄屋向井家には文政四年(1821)の「市次郎疱瘡見舞之留」という文書が残されています。「赤飯」「菓子」「しんこ(米の粉で作った菓子)」「鯛」「らくがん」「酒」「まんじゅう」「金平糖」「ビワ」など実に五三人の村人からの見舞品が書上げてありました。当時の善根寺村の戸数が九〇軒ほどですから、実に六割の村人が見舞品を贈ったのです。人々は集まって隣人の苦しみを分かち合い、厄病を追い払おうと、真剣でしたが、結局こうしたことでますます感染が広がっていくことになります。
       ✤   ✤   ✤   ✤
疱瘡は河内でも猛威をふるい、加納村で子どもが高熱で危険な状態になり、
「善根寺の足立さんが持っているうにかうを分けてもらえまへんか。」
と頼み込んできます。「うにかう」は「ウニコール」といい、イッカクという北極海にいる鯨の牙から製した疱瘡の特効薬です。これは中国から貿易で入ってくるので大変高価で、豪農である足立家だから持っていたのです。この子は幸い命を取り留めたようです。    
ところが日下村ではとうとう死者が出ます。六月になって
「喜八の息子が疱瘡で相果てました。」
と長右衛門に知せが入ります。早速その日に日下川の堤で火葬します。普通の葬礼の時には日下墓地の火屋(ひや)という火葬場で火葬するのですが、疱瘡という疫病を避けたいという思いからこうした川の土手での火葬となったのです。
勝二郎は回復後七五日が過ぎた七月三日、日下村に帰って本復祝いをし、「お厄( やく)をのがれてめでたいこっちゃ!」
と、祝餅を近郷に配ります。疱瘡は誰もが一度はかかる避けがたいお厄といわれたのです。
       ✤   ✤   ✤   ✤
この後、勝二郎の母親佳世が大坂へお礼に行きます。三人駕籠で、はさみ箱(荷物入れの箱)を担ぐ(おとこ)()と、お供の(おな)(ごし)二人と総勢七人連れです。村の庄屋の「ごりょんさん」が大坂へ出かけるとなると、なんと大そうなことでしょう。野里屋で家族や大勢の使用人に扇子・木綿の反物、子どもには人形などのお礼の品物を贈ります。
       ✤   ✤   ✤   ✤
江戸時代の人々がいかに疱瘡を恐れたか、お分かりいただけたでしょう。神に願い、迷信に頼ることがすべてでした。疱瘡患者の家に集まり、苦しみを共にしようとしたその行為が、かえって流行を拡大させるという悲劇もありました。しかしお互いに薬を融通し合い、何とか隣人を救おうとしたのも、またその地域の助け合いでした。
多くの人がなす術もなく倒れていく中で、丹念で地道な研究によってその伝染性の解明にたどり着いた優れた医者たちもいました。
文化八年(1811)、橋本伯寿は『国字断毒論』を著わして疱瘡が接触すると伝染することを発表し、寛政元年(1789)には緒方春朔が、疱瘡患者のかさぶたを粉にして鼻から吸引する方法で人痘種痘に成功します。
嘉永二年(1849)には大坂で緒方洪庵が「除痘館」を開き、種痘を広めます。けれどもこの種痘も、
「種痘をすると牛になってしまうらしいで!」
という風評が立ち、なかなか普及しなかったのです。民衆の心は旧来の迷信に支配されており、科学的な治療法を理解することができなかったのです。そこで「種痘宣伝の版画」が作られ、種痘の効能をわかりやすく教え広めたのです。
今日撲滅された天然痘に、江戸時代の人々が力を合わせて立ち向かった姿がここにあります。
そしてこの勝二郎はのち、頼山陽にも並び賞される河内に名高い漢詩人、「生駒山人」として大成するのです。
       ✤   ✤   ✤   ✤


























2011年3月17日木曜日

『くさか村昔のくらし』

かわちくさか村昔のくらし


解題

私たち日下古文書研究会では最初の翻刻集として平成十七年に『日下村森家庄屋日記享保十三年度』を刊行いたしました。「日下村森家庄屋日記」は享保時代の日下村の庄屋であった森長衛門が18年間にわたって記録したものです。享保のころの河内の暮らしが詳しく描かれています。
その後「くさか村昔のくらし」を刊行することになり、「日下村森家庄屋日記」から享保のころの村の暮らしを「二八〇年前の村の暮らし」と題して項目別にまとめました。次に「村定めと人々の暮らし」と題して、江戸時代の支配者と百姓のあり方を、「村定め」という法令を取り上げて考えてみました。さらに「享保時代の出来事」と題して「将軍吉宗の日光社参」「勝二郎の疱瘡」「日下村離婚事情」「西称揚寺看坊の自害」を取り上げてわかりやすく解説しました。江戸時代のこの地の暮らしの一端をわかっていただけるのではないかと思います。

それ以後については、とりわけ昭和四〇年代の高度経済成長期までの暮らしを六十代から九十代の地元の方々に取材してまとめました。それらは例えば、「もみじ」「かたまわり」「てんま」という田畑の字名(あざめい)や、モッコで一二〇㌔もの米を運んだ下作年貢納め、フンドシ一丁で池の中に入って樋を抜き、夏の暑い盛りに村中を駆け回って田畑に水を引いた水番、剱先船での大阪までの四時間もの船運、こえタンゴでの田畑への施肥など、機械化されてしまった現代からは想像もつかない暮らしでした。それはそのまま江戸時代の暮らしに繋がるものなのです。


『日下村森家庄屋日記』の翻刻をはじめた平成14年からお話を聞かせていただいた方々は男女30名以上にのぼります。日記の中の農業に関する記載が地元の方々の経験と合致し、理解不可能なことが解明されていったのです。それは私たちにはどんなにか有難く、宝物のような貴重なものとなりました。

私たちには驚くような貴重な体験であっても、その方にとっては何気なく暮らしてきた日々の一こまなのです。その記憶の片隅から引き出す作業は楽しいものでした。「そういえばこんなことがあったなあー」と懐かしげに話されることが、私たちには「へえー!」と感嘆するような出来事であったりするのです。「こんなことを面白がってくれたんはあんただけやなあー」と言いながら話してくださいました。それはまたその方の人生と、人間そのものに真向かうことにもなったのです。

戦地から帰還し、先祖の田畑と山を守って土とともに生きた人、農業の傍ら様々な商売をして大家族を養ってきた人、十二・三才から家計を支えるために生駒山から石を切り出して彫り続けた人、バリキと呼ばれる牛が引く荷車で大阪の町まで出かけて人糞を集めた人、剱先船で恩智川や寝屋川を行き来して水車産業の原料となる貝殻や鉄線を運んだ船頭さん、朝五時起きで男性と同じように農作業をこなし、毎日四升の米を炊き、戦時中空襲警報が鳴るたびに身重の体で何度も防空壕に逃げ込み、難産に耐えて出産した女性、赤銅色のお顔とごつい手のシワの一つ一つにその方が越えてこられた辛苦が刻まれ、精一杯生きてきた誇りが輝いています。

九十才の男性が「昔はデコボコの地道やったから、バリキ(牛に曳かせる荷車)に積んで運んできた満タンの(タンゴ(人糞の入った桶)を)
高野道(”こうやみち”バス通り・旧170号線)まで帰ってきたとこで全部道にぶちまけてしもうてな。臭いわー、近所の人から怒られるわー、ほんまにどないしょうかと思うてなー、こんな困ったことは一生のうちになかったわ。」と笑いながら話されたのですが、私には笑うことなどできませんでした。

この方も、命からがら戦地から復員してきて、大切な弟を戦死させ、年老いた両親と幼い兄弟たちを養うために、農業だけでは食べていけなくて、出来る仕事なら何でもしたのです。この方の苦難はまさに戦後の生きるために必死だった時代を象徴しているように思えたのです。この先輩たちが永々と築いてこられた暮らしの上に今の私たちの暮らしがあるのだという実感がありました。お一人お一人に頭の下がる思いでお話をうかがったのです。

きれいな池で泳いだとか、家の前の小川でザリガニやエビを取ったり、野菜や茶碗を洗ったというお話を聞くと、その池や川を探して歩きました。でもそのほとんどが暗渠となり、埋め立てられています。日下から西の布市の恩智川まで田畑ばかりで何もなかったというお話をうかがって西の方を見渡しても、今は建物しか見えません。かつての暮らしの中に当たり前のようにあった美しい村の風景はもうどこにもないのです。改めて私たちが失ったものの大きさを思わずにいられません。

これからもう五〇年もたってしまうと、かつての自然に溢れたふるさとにあった暮らしはもう誰も知らないものになるでしょう。地元の戦前の暮らしには、江戸時代の日下村の暮らしが痕跡を留めているはずです。それを今伝えないと永久に埋もれてしまうのです。

とりわけ戦争に関しては、戦地に赴かれて無事生還なさった方のお話とともに、日下村の旧家に残されていた軍人必携書や戦地からのはがきや手紙など、貴重な史料をご提供いただきました。それらの一つ一つが厳しい時代に翻弄された人々の運命を物語ります。戦地に赴かれた方の記憶はあまりに生々しく、けれどそれはまぎれもなくあった事実なのです。

辛い時代を掘り起こすことは心重い作業とはいえ、今これを記録し、次代を担う子どもたちにこそ、この時代の真の姿を正しく伝えていかなければなりません。
それが間違ったものであっても、それはその時代の人々が信じて疑わなかった時代の精神というものです。私たちはその誤りに気づいて、新しい時代の精神を築いていかなければなりません。新たな未来をどう形成していくべきかを考えるためにこそ、歴史は学ぶ価値があるのです。

江戸時代から昭和四十年代までの暮らしは現代の子どもには知る機会があまりないものです。この地にあった暮らしを知ることは自分たちのふるさとへの思いを深めることにもなるでしょう。この本を、「おじいさんやおばあさんが小さかった頃にはどんな暮らしがあったの?」という、素朴な疑問にお答えするための一冊としていただければこんなうれしいことはありません。

                        日下古文書研究会 浜田昭子


『くさか村昔のくらし』
目次

  刊行のことば
目次
一 江戸時代の日下村―『日下村森家庄屋日記』
二 二八〇年前の村の暮らし
三 村定めと人々の暮らし
四 享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から
1 八代将軍吉宗の日光社参
2 勝二郎の疱瘡
3 日下村離婚事情
4 西称揚寺看坊の自害
五 聞き取り
昔のくらしー戦前から昭和四〇年代までー
六 戦争の時代
七 木積宮(石切神社)のこと
八 日下村の年中行事
謝辞
   

 

八代将軍吉宗の日光社参




八代将軍吉宗の日光社参         



吉宗の政策

享保十三年(一七二八)四月、八代将軍吉宗が日光社参を挙行する。将軍の日光社参は、四代将軍家綱の寛文三年(一六六三)以来六五年ぶりのことであった。吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫し、いわゆる「享保の改革」という政策が強行された。享保七年(一七二二)に窮余の策としてとられた「上米の制」は、諸大名に対し、一万石について一〇〇石を上納させ、その代わりに、参勤交代の江戸在府を半年に減ずるというものであった。この政策はかなりの実績を上げ、短期間で幕府財政を黒字に転ずるものとなった。しかしこれまでに例を見ない大名への課税であり、軍役としての参勤交代を半減するというものであったため、幕府権威が地に落ちた感は否めなかった。この情勢の中、幕府にも大名にも多大な負担を強いるこの一大イベントを行った背景には並々ならぬ吉宗の意図があった。

享保時代はすでに開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、武士本来の「兵」としての機能は要求されず、官僚化が進んでいた。特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、合戦で敵の首級をかき切ることが誉れとされた武士の「兵」としての本質を真っ向から否定し、重要な軍事訓練であった鷹狩は禁止となり、武士の軟弱化が進んでいた。ここで人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があった。将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への最大の軍役動員である日光社参は、武士の泰平慣れに一石を投じ、封建主従制の根源にあるご恩奉公の倫理を再確認させるための有効な手段であった。それは将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活につながる。それこそが吉宗の目指したものであり、幕府が更なる改革を強力に推し進めるための原動力となるものであった。


日光社参挙行
この時の日光社参の規模は、供奉者一三万三〇〇〇人、関八州から徴発された人足二二万八〇〇〇人、馬三二万頭といわれる。費用は十代家治の安永五年(一七七六)の時の記録で二二万三〇〇〇両といわれ、この時もそれに匹敵するものであったと思われる。泰平の世では軍役動員、隊列編成に不慣れのこともあり、五日前に江戸城吹上で行軍演習が行われ、吉宗も閲兵している。
出発当日、四月十三日はあいにくの大雨であった。江戸市中主要な橋七ヶ所を閉鎖し、御成道筋は一切人留め、というかつてない厳戒態勢が敷かれる中、奏者番秋元但馬守喬房が午前〇時に先駆け、同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続く。吉宗は二〇〇〇人の武士に守られて午前六時に発駕した。最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前十時で、実に一〇時間を要する行軍であった。(『栃木県史』通史編4近世一九八一
御成道筋の庶民には、「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」(『御触書寛保集成』石井良助高柳真三一九三四というお達しであった。庶民はひたすら家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまであった。
一行は、日光御成道の岩槻城・古河城・宇都宮城で宿泊し、十六日に日光山に到着する。十七日が家康の忌日で東照宮で祭祀が行われた。日下村領主本多豊前守正矩は祭礼奉行を命じられ、この日は将軍の補佐役として緊張の連続であった。まさに一世一代の大役、無事やり遂げて当然、そうでなければ進退にも関わる一大行事であった。
供奉の大名たちそれぞれにとっても、事情は同じであったろう。一つ一つの儀式が、何人も犯すべからざる将軍と幕府の強大な権威を顕示していた。それへのひたすらな服従、それだけが生き残るために是非とも必要な最重要事項であると、誰もが感じたに違いない。吉宗の幕府権威の強化という大きな目的が叶えられた瞬間であった。一行はその後同じ道筋を通り、二十一日には江戸城に帰着している。
 
日光御用銀
日下村領主本多氏は、藩主本多豊前守正矩が日光社参に供奉と祭礼奉行を命じられたため、本多

氏領分四万石の村々へ二〇〇〇両の御用銀を課した。その内容は、前年十二月三日条に、

下総弐万石へ金千両、  但百石に人足八人馬弐疋ツヽ

  沼田壱万石へ金五百両 人足馬同断

  上方壱万石へ金五百両 即御用に立不申候ニ付人足馬ハ御免 
 
とあり、河内領一万石に対して金五〇〇両で、河内村々一万石での割方を行い、石につき銀二匁七

分となり、日下村石高七三五石で計算すると一貫九九〇匁となる。これは現代の金にして四〇〇万

円前後であろうか。関東の領分では馬、人足もかけられているが、上方は遠方のため免除されてい

る。十三年二月に村人から集めて蔵屋敷へ納められた。御用銀は利息を付けて返済されるものであ

るが、本多氏の財政困難の故か、その翌年から利息の支払いのみで、本銀の返済はなかった。
 
日下村の厳戒態勢
幕府は前月から日光社参に関する触書を頻発し、「火の用心、不審者警戒のため木戸・自身番の昼夜勤務と、奉公人の欠落(かけおち)防止、新規の奉公人の身元確認」を厳重に命じている。(『御触書寛保集成』)幕府にとって最も避けたい、この期に臨んだ民衆の不穏な動きを誘発させない配慮である。六五年ぶりの大行事であり、長右衛門と村人にとってもすべてが初体験であった。
日下村では四月十三日の出発の数日前から、廻状が続々と到着する。将軍が江戸城を留守にし、一〇万人の武士が従軍する日光社参がいかに非常事態であったかが分かる。将軍の出発前の十日から、日下村の中心を南北に貫く東高野街道の辻と、南隣の芝村との境の二ヶ所に番小屋を立てさせ、番人三助に昼夜警戒のため村中を見廻らせている。東高野街道という当時の一級国道や、村境は様々な人間が村へ入り込む可能性がある。諸勧進・物もらい・諸商人など、村外のものの入村が禁じられていたから、例を見ない厳戒態勢であった。
将軍が江戸城を出発されると、遠く離れた日下村にも一層緊張感が張り詰める。連日連夜、村役人である庄屋・年寄が会所に詰める。村中に火の用心を触れ廻らせ、不審者を見張らせる。大坂町中では「鳴物停止令(なりものちょうじれい)」が出されたようで、芝居や普請がとまり、夜は町同心が警戒する緊迫の様子が廻状とともに伝わっている。これは「穏便触(おんびんぶれ)」ともいい、普請などの工事や芝居歌舞音曲の芸能を禁じるもので、いつもは賑やかな大坂の繁華街もひっそりと静まり返っていた。
将軍が日光山に到着されると蔵屋敷からの廻状が続々と届く。「庄屋・年寄・村役人の他出は厳禁、喧嘩口論・火の用心を慎み、物静かにつかまつり」とあり、日下村にも「鳴物停止令」が出されたのである。村でのその規制は、音を伴う商売から家庭内労働にまで及ぶ。誰もが作業を取りやめて家の中で謹慎するしかなかった。 
四月二十一日には、「今日 還御相済候につき町中自身番中番共今晩より無用」(『御触書寛保集成』)の触書が廻る。将軍は日光社参を終え、無事江戸城へ還御となり、その夜から厳戒態勢解除となる。日下村でも連日の会所での警戒が終わり、長右衛門はじめ村人はほっと一息いれる。一汁二菜のささやかな朝食で無事祝いをして、一〇日ぶりにようやく自宅で寝ることが出来たのである。
 
無事終了
将軍帰還から六日遅れで、日下村領主本多豊前守正矩が日光から無事に江戸へ帰着された旨の廻状が届くと、早速翌日に長右衛門は蔵屋敷へお悦びに出る。何事があっても領主へのお祝い言上は欠かせない。
この年の十一月、例年の通り年貢率を申し渡される「御免定御渡」のため、本多氏領河内二〇カ村の庄屋・年寄が蔵屋敷へ召集された。その折、日光御用無事終了の祝儀に領主から酒を賜わる。吸物・肴三種にて酒宴が催されたが、蔵屋敷で領民へのこうした接待は珍しいことであった。御用銀を負担した百姓への慰労でもあろうが、譜代大名で奏者番という幕府官僚の中枢にあった本多氏にとって、この日光社参がいかに一世一代の大行事であったかが伺われよう。
将軍の日光社参という幕府の一大イベントが、生駒西麓の日下村の暮らしに与えた影響は大きなものであった。六五年ぶりの行事では長右衛門たちにとっても戸惑いは多く、蔵屋敷からのお達しに忠実に勤め、ただ何事も無く平穏無事に過ぎてくれることだけを願う日々だったに違いない。日下村という山里の小村にも村の要所二ヶ所に番小屋を立て、日夜番人に村中を見廻らせ、庄屋、年寄の村役人が連日会所で寝起きする。これまでに経験のない厳戒態勢である。庄屋としての長右衛門にとっても神経を張り詰めた日々であった。 
 

このホームページについて

善根寺檜皮大工については、檜皮葺のご研究をなさっている方々のご意見をお寄せください。
特に棟札について、各地の神社の棟札で、善根寺檜皮大工の名のある棟札がある神社があれば、ご一報いただければありがたいです。

2011年3月5日土曜日

善根寺檜皮大工

善根寺檜皮大工の伝承と活動
―発見された棟札と向井家文書から探る彼等の実像―


はじめに

春日神社には古くから伝えられた檜皮大工にまつわる伝承があります。それは単なる伝承ではなく、檜皮大工の存在は確認されています。東大阪市内の諏訪神社の江戸時代の棟札に「善根寺檜皮大工」の名があり、それが彼等の実在と活動を証明する唯一のものとなっていました。

神社の北側は大谷川という川が急峻な谷を形成し、その谷あいに「新聞文化資料館」があります。八〇数年にわたって新聞史料と郷土歴史資料を収集されている中谷作次氏が私費で運営されている資料館です。平成八年にこの資料館を訪れた筆者は貴重な史料に出会ったのです。 

それは和歌山県有田郡の広八幡宮の本殿棟札の写真でした。その表面に善根寺檜皮大工の名があったのです。しかも年号は永禄一二年(一五六九)という中世のものでした。
この棟札が中世における善根寺檜皮大工の存在を証明するものとなりました。それは奈良時代にまつわる善根寺檜皮大工の伝承に繋がる可能性も考えられるものであり、歴史的関心を強く惹かれるものでした。

この思いもかけない発見によって、さらに他にも棟札が遺されているのではないかと心躍る思いで調査を始めました。ちょうどこの時期に、国立歴史民俗博物館から『社寺の国宝重文建造物等棟札銘文集成』が刊行されていたので早速調べてみました。

その結果、新しい近世の四枚の棟札を発見することになりました。この棟札と、地元に遺されていた史料から、三〇〇年にわたる彼等の活動の記録が明らかになりました。

この史料をもとに彼等の活動の軌跡を追い、その伝承と歴史的な事象との関連を探り、伝承が長い年月語り伝えられた歴史的背景にも迫ってみたいと思います。

2011年3月4日金曜日

一 善根寺檜皮大工の伝承

まずこの神社に伝わる檜皮大工の伝承について検証してみたいと思います。伝承の詳細は、大正一二年編纂『大阪府全志』の「大字善根寺」の項に次のようにあります。




里(さと)老(ろう)の口碑(こうひ)にいう。神護景(じんごけい)雲(うん)二年枚(にねんひら)岡(おか)明神(みょうじん)分霊(ぶんれい)の大和の春日に遷座(せんざ)ありし時(とき)、奉仕者(ほうししゃ)供奉(ぐぶ)して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、山中の一小寺たる善根寺の傍に住せしより、戸口次第に繁殖して遂に一村落を為(な)せりと。
其の子孫は春日座(かすがざ)と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、其の祭式には供奉してお下がりの雉、狸、米の贈与に預かれり。これ遷宮(せんぐう)当時の因(ちな)みに依れるものなりしが、明治維新の後に至りて其のこと止みしも、春日座は継続し、(略)同座に伝わり来たれる春日(かすが)曼荼羅(まんだら)を(中略)保管し、(中略)座中一同集いて祭祀せるは本地濫觴(らんしょう)(はじまり)の昔を今に語れるの慣習なるべし。



さらに『枚岡市史』第四巻資料編二によると、明治初年(一八六八)政府は全国の各村誌を作成、提出させました。その時『孔舎衙村誌』も作成されましたがこれは現存せず、昭和三六年に刊行された『くさか村誌』は明治初年の『孔舎衙村誌』と同じ内容とされています。その内容は次の通りです。



大字善根寺ハ神護景雲二年(七六八)、枚岡明神、奈良春日に遷座ノ際、宮仕ノ者供奉シ移リシガ、後故アリテ春日明神屋根職ノ者二五、宮郷土出雲井ニ帰リシガ、転ジテ茲土ニ来リ善根寺ノ傍ニ住シ、漸次戸口繁殖シテ遂ニ一村落ヲナセリト。爾来春日神祭毎ニ、二五名ノ者供奉ノ列ニ加ル、之レ往昔遷宮供奉ノ例ニ依ルト云フ。明治維新ニ至リ、此ノ典ヲ廃セラル。寛文三年日下村ヨリ分離シテ善根寺村トナル。


ここでは二五人の帰った場所が出雲井となっており、これは枚岡神社が鎮座(ちんざ)する村です。さらに大正一一年編纂の『中河内郡誌』にもほぼ同じ内容のものが載せられています。


ではこの伝承の内容を検討してみましょう。枚岡明神とあるのは枚岡神社のことで、善根寺より三㌔南にあり、中臣・藤原氏の祖神である天児屋根命を主神とする元春日とされる河内一宮です。
『枚岡市史』には枚岡神社の項に、


元要記(げんようき)に創祀を白雉(はくち)元年(六五〇)とし、神護景雲二年に大和春日社に分祀(ぶんし)され、宝亀(ほうき)九年(七七八)に大和春日社に倣って武甕槌命・経津主命(たけみかづちのみこと ふつぬしのみこと)が勧請(かんじょう)された。
(奈良の春日大社は明治四年に官幣大社となり昭和二一年に春日大社と改称されたので本稿ではそれ以前は大和春日社と称します)


とあります。伝承では「この枚岡神社から春日大社へ勧請された際に奉仕者が供奉して彼の地に移り、後故ありて二五名は河内に帰った」とされているのです。
伝承のその次の「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、」以下の部分については、『枚岡市史』に記載ある向井家文書の『春日社御造営屋根之日記』に同様の内容が記載されています。

これは明和三年(一七六六)三月に大和春日社屋根葺き替えに奉仕した時のもので、『枚岡市史』に収録されたその内容によると、「明治初年までは南都春日神社の屋根葺き替えのたびに奉仕に出て扶持米を受け、祭式に供奉してお下がりの雉、狸、米を授与されていた」とあります。

つまり伝承の内容とほぼ同一であり、この部分の伝承がこの古文書を典拠としていることは明白です。それを傍証するものが『枚岡市史』に記載ある向井家文書の、元治二年(一八六五)二月、慶応元年(同年)五月の二度にわたって代官所へ差し出した助郷夫役の免除を願う嘆願書です。

この時期、長州征伐を終えた幕府軍の撤退のために伏見・枚方の宿場町が混雑し、その応援のための助郷(すけごう)徴発(ちょうはつ)(人足を出すこと)が近郷村に発せられたのです。この助郷徴発を善根寺村では大和春日への奉仕を理由に免除を願っているのです。助郷免除嘆願の慶応元年のものを見ると、




当村の儀往古より由緒御座候に付、南都春日社御造営(ごぞうえい)之度毎は申すに及ばず、年々若宮御祭礼の節、御屋根御用、御寺務一乗院宮(いちじょういんのみや)様(さま)、大乗院宮(だいじょういんのみや)様(さま)より仰せ付けられ、多分人足差出罷りあり候に付、前々より助郷等の過役(課役)御免除成し下され候(中略)



と、南都春日社御造営と若宮御祭礼の節の屋根葺き替えに奉仕してきたことにより、助郷を免除される「除(のぞ)き村」となってきたことを述べて、この度の枚方宿の助郷免除を願い出ています。
南都春日社御造営とは二一年ごとの造替であり、若宮祭礼とは「若宮おん祭」のことです。

現在の「若宮おん祭」では準備の一つとして十月一日に一の鳥居の御旅所で「お旅所縄棟祭」が行われ、松の黒木で若宮の本殿と同じ大きさの行宮(あんぐう)が南面して建てられ、松葉で屋根が葺かれます。この屋根葺きに善根寺檜皮大工が奉仕したのです。

つまり『春日社御造営屋根之日記』と「助郷免除嘆願」の二通の向井家文書によって、伝承にある「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えにいたりて扶持米を受け」という部分が事実であることを証明できることになります。

ではその前の部分についてはどうでしょうか。「神護景雲二年枚岡明神分霊の大和の春日に遷座ありし時、奉仕者供奉して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、」の部分です。この供奉が檜皮葺造営のためと考えたいところですが、この時代に善根寺檜皮大工が存在していたとは考え難く、これは事実というよりも何らかの意図をもって創作された伝承と考えるのが妥当です。ここに「二五人衆」という数字がキーポイントとなってそう考えるに値する史料があるのです。

善根寺春日神社の現神主高松諸栄氏の父である高松諸成という人物は、昭和三年に善根寺春日神社に赴任し、昭和一五年に『孔舎衙春日宮社記』を執筆しています。孔舎衙となっているのは、かつて近世初頭には善根寺は日下村の枝郷であったことと、もう一つは、昭和一五年に皇紀二六〇〇年の「神武天皇戦跡顕彰事業」によって日下地区が「神武天皇の孔舎衙坂の戦」の場所として脚光を浴び、二つの戦跡碑が建ったことで、善根寺春日神社の由緒を孔舎衙と結びつけて神話的に著述する必要があったためなのです。

                                         若宮おん祭りお旅所行官

               孔舎衙春日宮社記

その内容は「饒速日命の御降臨(にぎはやひのみこと ごこうりん)」、「神武天皇の御親察、並孔舎衙坂の御戦跡」というようないわゆる神話的記述に終始した神社略記です。その中の「饒速日命の御降臨」の項に次のようにあるのです。


旧事記(くじき)には饒速日命の天降り坐(あまくだりま)せる時の有様を堂々と記して、三二人の防衛の神、五部の人、五部の造、(みやつこ)天の物部(もののべ)二五部の人々などの御徒を副(おんと  そ)へ降し給ふと記しており、現に当地には二五部の末裔と称する二五氏族が連綿として存続して居るのであります。


旧事記とは物部氏系の史書とされる『先代旧事本記』であり、その記述を引いて善根寺春日神社春日講の二五氏族を、饒速日命の御降臨に供奉した天の物部二五部の人々の末裔としているのです。しかし高松諸成氏が昭和一五年のこの時点で結び付けたのではなく、『孔舎衙村誌』編纂の明治初年にすでに二五人衆の伝承が存在したのです。明治以前に『先代旧事本記』の内容を知る人がいて、自分たちの出自をそこに結びつけたのです。

饒速日命に随伴した三二人の防衛の神の一人が天児屋(あめのこや)根(ねの)
命(みこと)であることを考えると、天児屋根命を主神とする枚岡神社、または大和の春日社の関連でこの伝承が生まれたのは当然ともいえます。二五人衆の起源はここにあったのです。

二五人の檜皮大工がいたということではなく、「天の物部二五部」という神話の人々に結びつけたのです。伝承の古代の部分については何らかの意図をもって神話から創作したものと考えるのが妥当です。

ただ二五人衆の子孫と称する現一二戸の家は明治以前に檜皮葺に従事してきた大工の家柄を中心として善根寺春日神社の宮座を構成してきた人々の子孫と考えられます。ではこうした伝承がいつ、どのような理由で創作され、長年にわたって言い伝えられたのかについては「三1(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手」で述べたいと思います。

2011年3月3日木曜日

二 善根寺檜皮大工の棟札

1 新たな棟札の発見

善根寺檜皮大工の名のある棟札は、東大阪市の調査によって市内の諏訪神社のものは知られていましたが、新聞文化資料館で和歌山の広八幡神社の棟札に出会い、他にも棟札が残されているはずだと考えました。

ちょうどその時期に、国立歴史民俗博物館から『社寺の国宝重文建造物等棟札銘文集成』が刊行されていたのは幸運でした。だが、あると確信していたわけではなく、可能性を信じての調査でした。ページを繰るうちに、「河内善根寺」の文字が目に飛び込んできた時、やはりあったのだと、歴史の闇に埋もれていた彼等の活動を探り当てた喜びで一杯でした。

『棟札銘文集成』近畿編の中に京都府と奈良県の神社から四枚の棟札を発見することができたのです。これで善根寺檜皮大工の名のある棟札は合計六枚となりました。その明細を以下に上げておきました。
 
善根寺檜皮大工の棟札
棟札 所在神社 年代 記載された檜皮大工名
1広八幡神社
本殿棟札
和歌山県有田郡
広川町
永禄一二年
(1569)
檜皮大工南都住人藤原朝臣家次
宿所河内善根寺頭三郎
2高山八幡宮
本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
万治二年

(1659)
河州善根寺棟梁 河州善根寺同仕手
寺座宮脇宗兵衛 惣右衛門
長左衛門 五兵衛
彦左衛門 八兵衛 忠次郎
3水度神社
本殿棟札
京都府城陽市
寺田水度坂
寛文九年

(1669)
檜皮大工 河州善口寺村
田中八兵衛 藤原朝臣家次
4高山八幡
宮本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
元禄三年

(1690)
河州善根寺棟梁 善根寺彦左衛門
寺座 八右衛門
藤兵衛 五兵衛
5諏訪神社
本殿棟札
東大阪市
中新開
元禄七年

(1694)
河州河内郡善根寺村藤原朝臣家次
檜皮屋惣兵衛 大工八兵衛
6高山八幡
宮本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
享保一一年

(1726)
檜皮大工棟梁 河州河内郡善根寺村
宮脇五兵衛政重


(1) 広八幡神社
新聞文化資料館に残されていた写真は、昭和五九年の大阪市立博物館特別展「紀州の文化財」に出展された棟札の写真でした。広八幡神社は和歌山市から南へ約四〇㌔、有田川の南岸に開けた湯浅港に近い広川町にあります。

創建は嘉禎二年(一二三六)以前と伝え、中世は湯河氏、近世には紀州徳川家の保護を受けただけに、広大な境内に美しい檜皮葺の三間社流造(さんげんしゃながれづく)りの丹塗りの壮麗な本殿が両側に摂社(せっしゃ)を配し、拝(はい)殿(でん)・舞(ぶ)殿(でん)と楼(ろう)門(もん)を持つ豪壮なものです。棟札の発生は平安時代以降とされますが、善根寺檜皮大工のはじまりは、この棟札によって永禄年間以前に遡ることは確かです。

                         広八幡神社本殿

                         広八幡神社楼門


(2) 高山八幡宮
『棟札銘文集成』近畿編Ⅱの中に奈良県生駒市の茶筅の里として知られる高山町の高山八幡宮の棟札三枚に、善根寺檜皮大工の名がありました。万治二年(一六五九)、元禄三年(一六九〇)、享保一一年(一七二六)の三枚です。三枚の棟札の年月はほぼ三〇年周期であり、檜皮葺の寿命が三〇年から四〇年ということから、葺き替えのたびごとに善根寺檜皮大工が出仕していたようです。富雄川添いに鎮座する高山八幡宮の本殿は今も三間社流造りの檜皮葺です。



 
高山八幡宮 拝殿・舞殿

 
高山八幡宮


(3) 水度(みと)神社
『棟札銘文集成』近畿編Ⅰの中に、京都府城陽市寺田水度坂の水度神社の本殿棟札に「寛文九歳(一六六九)檜皮大工河州善□寺村田中八兵衛藤原朝臣家次(たなかはちべえふじわらあそんいえつぐ)」の記載を発見しました。水度神社は城陽市の東のなだらかな丘陵地に位置し、こんもりした森の木々に包まれた参道を抜けると、本殿、拝殿、舞殿があり、いずれも今もみごとな檜皮葺です。

                            水度神社




(4) 諏訪神社
善根寺から三㌔西の東大阪市中新開に諏訪(すわ)神社があります。東大阪市の保存修理により、屋根に載せられた箱棟裏に墨書が見つかりました。そこには元禄七年(一六九四)の年号と「河州河内郡善根寺村、藤原朝臣家次、檜皮屋惣兵衛(ふじわらあそんいえつぐ ひわだやそうべえ)・大工八兵衛」の記載がありました。諏訪神社は室町時代天文元年(一五三二)在銘の古文書「氏神(うじがみ)三社(さんしゃ)興(こう)立記(りゅうき)」によると、戦国時代、信濃の諏訪連(すわのむらじ)の子孫がこの地にいたり、土地を開墾し諏訪明神を勧請(かんじょう)したということです。社殿は室町末期に建立され、市内最古の神社建築です。

以上で合計六枚の棟札が確認されました。善根寺檜皮大工が河内ばかりでなく、和歌山、奈良、京都と畿内に広く活動していた軌跡が明らかになったのです。この他にも棟札が発見される可能性は大きいのです。『棟札銘文集成』は国宝、重要文化財に限られており、そういう指定を受けない小さな神社にも善根寺檜皮大工が出かけていることは大いに考えられるので、これからの発見に期待されます。

諏訪神社