2016年2月13日土曜日




今米村の川中家文書から村の出来事-1-

行倒れもの一件

近世の村方文書を読むと、この地に生きた先人たちの生きざまが直接に伝わってきます。こういう人々が、こうした暮らしをしていたのだと、まさに確かにあった営みの重さというものが胸に迫ります。

私どもが今解読しています、河内国河内郡今米村の庄屋である川中家に伝わる文書から、興味深いものを紹介しましょう。

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嘉永四年(1851)の二月十日、今でいえば三月ですが、まだまだ寒さ厳しい頃。村を見廻っていた番人が、今米村の東に位置する川中新田の堤に、男一人が倒れているのを発見します。よく見ると、病気のようでそれもかなり重い様子です。

早速川中新田の支配人へ知せに走ります。村人数人で屋敷へ運び入れ、薬や食べ物を与えて介抱します。しかしながら、回復することなく、翌日十一日に相果ててしまいます。よほど衰弱していたようです。早速この時の領主代官である信楽御役所へ御届しなければなりません。

その時の文書によると、この男は五・六年前から、この堤周辺に住みついていたもののようです。年は三十ばかりでしょうか。着ていたのは袖無しの帷子一枚、持参していた雑物は、箸一膳と茶碗一個です。二月の寒空に、袖無しの麻の帷子一枚という軽装で、家々を廻って物乞いをしていたのでしょう。箸一膳、茶碗一個が全財産という、あまりにも哀れな境遇。まだ若い彼がなぜこのような悲惨な状況に陥ったのか、それは誰にも分りません。

 このような行倒れ人は他にも記録があります。それはこの件より遡ること五十二年、寛政十一年(1799)のこと。吉田村の庄屋が川中新田の支配人へ宛てた文書にこうありました。

 「九月九日に川中新田と、吉田村の村境に、病気の行倒れ者があったが、当村より立会い、確認したところ、当村の領内に間違いないことが分かったので、念のために一札入れます。」

 この文書が物語るのは、こういう事件がよくあって、その行倒れ者の倒れていた場所がどの村かということが大きな問題であったということです。倒れていた場所の村がその行倒れものの世話をし、亡くなった場合は、領主にその旨を御届しなければなりません。村としては経費も懸り、大変迷惑なことでありました。そこで、村境で行倒れ者を見つけると、隣村領内へ場所を移し、面倒を逃れるような場合もあったのです。特に川岸に流れ着いた水死人は、棒で突いて川の流れの真ん中へ押出し、隣村へ流れるようにすることもあったのです。

そこで幕府から村々への御触書には、「行倒れ者を見つけたら、その所を替えずに御届するように」とあります。行倒れものの場所を移すということが、いかに頻繁に行われていたかということがわかります。

そのことから考えると、この吉田村の文書は、行倒れものの倒れていた場所が、吉田村と川中新田の領境であったから、村争いにならないように、この一札を入れたのです。

近世の村では食い詰めた人、物乞いしか生きる手段のない人々が多くいたのです。その最後は哀れなもので、行倒れた場所の村人もそれによって迷惑を蒙ることもあったのだと、そういう現実がこうした文書からわかってきます。


今米の川中家