2012年6月12日火曜日

象の来日物語




象の来日物語            

 

二八〇年前に象が大坂へやってきました。八代将軍吉宗は新し物好きで、外国から珍しい動植物を輸入しました。長崎の通訳から象のことを聞いた吉宗は早速中国の貿易商人に象を注文したのです。

広南(ベトナム)から牝牡二頭の象が長崎に到着したのは享保十三年(1728)六月七日のことでした。牝象は到着の三ヶ月後、九月に死亡しましたが、牡象は翌十四年(1729)三月十三日、ベトナム人の象使い二名と通訳が付き添い、長崎を出発しました。関門海峡を船で渡り、あとは陸路で江戸へ向います。

幕府は象通行のための注意事項をお触書にして出しています。道中では、青草や藁・飲水・象小屋の他、川渡りのための船を用意させます。また牛馬はもちろん犬猫などの動物は外に出さないこと、大勢の見物人が集まり騒がないことなども厳しく言い渡されています。象の巨体で暴れるようなことがあると大変なことになりますから、幕府は神経をつかって細々したことまで触れています。

多摩川の六郷渡しのような大きな川では舟橋を組ませます。川幅一〇六㍍に船三六艘を並べ、杭と(とら)(づな)という太い綱で固定して、その上を通行させるのです。延べ八〇五人の人足が七日間かけて作業しました。この費用は近郷六二ヶ村が負担させられたのです。

象が通行するそれぞれの村でも領主から触書が廻されています。鐘・太鼓・拍子木などは鳴らさないこと。鍛冶屋(かじや)や大工など大きな物音を出す商売や、煙が上がる作業も禁止させます。象通行の当日、人々は仕事どころではなかったのです。

「享保の象行列」(山下幸子・尼崎市史研究紀要)によれば尼崎城下を行く象の行列は、村役人や御徒目付(おかちめつけ)が先頭を行き、見物人や牛馬を排除し、足軽(あしがる)が犬猫を追い払います。後ろの「象食い物人足」が象の食べ物、米・藁・笹の葉・草などを運んでいます。時には饅頭やミカンなども与えます。もちろん飲水も桶で運びます、大名行列にも負けないくらいの大行列でした。象の小屋も牛小屋の四倍くらいの広さが必要だったのです。

この象がやってくるという情報は早くから大坂に伝わっており、河内の人たちもこの巨大な珍獣を一目見ようと待ちかねていました。四月二十日には到着ということで、その前日には芝村(現石切)・日下村・善根寺村から村人がぞくぞくと大坂へ向かいます。

いよいよ二十日になり、象は尼崎から神崎・十三へ向かい、天神橋筋を通り、大坂城の南西にあった南組惣会所へ到着します。沿道では大坂人のみならず、近郷の村人が馴染の宿屋に泊りこんで象を見物しています。

「ワーえらい大きいなー!鼻が長いでー!耳が大うちわみたいやなー!」とびっくりしています。

象は南組惣会所で四日間を過ごし、四月二十六日に京都に到着し、天皇に拝謁します。しかし御所に上がるには位が必要ということで、「広南従四位象(こうなんじゅしいぞう)」という位が与えられ中御門天皇の上覧(じょうらん)に供したのです。宮中では象をお題とする歌会まで開かれました。その時の天皇の御製(ぎょせい)が、

時しあればひとの国なるけだものもけふ九重にみるがうれしき 

というもので、天皇ばかりでなく、この時象を見た文人は和歌・俳句・狂歌などの作品を残しています。

刀の(つば)根付(ねつけ)(帯にはさむ飾りもの)にも象がデザインされ、当時の歌舞伎役者も顔負けという大人気!「象のかわら版」が出されて、それには、「象の大きさは、長さ一丈(3㍍)、高さ五尺余(1・5㍍)あり、鼻は長く四尺(1・2㍍)もある。眼は笹の葉のごとく、すべて長い鼻を巻きのべて食をとり水をのむ。足は柱のごとく太く、足指は見えず、栗のような爪五ツあり。尾は牛の尾のごとし。その寿命五百年をたもつ」とあって、寿命五百年は大げさですが、初めて象を見た人々の驚きが伝わります。

その後象は、東海道を通って江戸浜御殿に到着し、将軍吉宗が江戸城大広間から象を見物したのです。これ以後、象は浜御殿で飼育されますが、次第に大きくなって気も荒くなり、像使いが殺されるという事件が起きます。飼育に行き詰った幕府は、餌係の中野村の源助に払い下げることとなります。浜御殿から中野村にうつされた象は周囲に空堀と土手を築いた小屋に収容されました。

中野村の源助さん、ここでひともうけをしようと考え、ゾウ小屋を建て、入場料をとって庶民に見物させました。象をかたどった記念グッズやゾウだんご・ゾウ餅も売り出します。毎日大量に排泄される糞も無駄にはしません。乾燥して黒焼きにし、「象洞(ぞうとう)」と称して、当時最も恐れられた流行病(はやりやまい)疱瘡(ほうそう)(天然痘)に効果があると宣伝したため、人々が争って買い求めたのです。しかしこれが本当に効いたかというと、そんなはずはないわけで、当時の書物には、「疱瘡の薬といって象洞を十六文で売っているが、効いたものは一人も無し」とあります。

しかし、なんと言っても浜御殿でのような手厚い保護は得られず、待遇の悪化となり、一年後寛保二年(一七四二)に象は死亡します。長崎に上陸してから一四年後のことでした。

その後も源助さんは象の頭蓋骨と牙の見世物興業を行っています。たいした商売根性です。その後象骨と牙は中野村宝仙寺へ売却され、長く寺宝として保存されていたのですが、戦災で焼失したそうです。現在東京都中野の公園に象小屋の跡という看板が立っています。 

誰もみたことのない珍獣の象がやってくるという出来事はこの年のビッグイベントでした。河内人たちもこぞって見物に出かけ、生きた象の姿に度肝を抜かれたに違いありません。 

その後の象の運命は悲劇的であったのですが、「広南従四位象」という殿上人となって天皇に拝謁し、各地で一大象ブームを引き起こしたことで、日本の歴史に大きな足跡を残すことになったのです。

参考文献
『江戸時代の古文書を読む』「享保の渡来象始末記」太田尚宏 徳川林政史研究所              
                       
         本稿は石切神社発行季刊誌「いしきりさん」H24夏号に掲載





江戸時代のお花見


❀ 江戸時代のお花見 ❀ 

                 



日本人にとって春の一番の楽しみは花見である。石切駅の下にある日下新池は桜の名所である。堤の桜が満開になると、背後の山の緑とともに水面に映えて絵のように美しい。享保時代の春の一日、日下村の庄屋であった森長右衛門さんは、訪れた客と日下新池の畔で、弁当と酒を持参して花見を楽しんでいる。

江戸時代は、石切駅のガードを越えて生駒山へ続く辻子谷道も花の名所であった。急峻な谷筋を登っていくと、鷲尾山興法寺があるので「鷲尾山(わしおやま)」と呼ばれた今は桜はないが、『河内名所図会』の巻五に

鷲尾山(わしのおやま) 神並村の上方也。山脈伊駒山に続て、山峰悄絶にして、桜樹多し

とあるので、江戸時代には山ザクラが多く自生していたのであろう。

二八四年前にここ鷲尾山で行われた花見を紹介しよう。享保十三年(1728)の春三月八日のことである。日下村領主である譜代大名本多氏の蔵屋敷役人田村清蔵が日下村の庄屋長右衛門を訪れ、大坂の両替商鴻池善兵衛を鷲尾山の花見に招待したいとのことで協力を求めてきた。

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ではなぜ大名である本多氏の役人が大坂町人を接待する必要があったのか。そこには大名貸というシステムがあった。近世も早い時期から諸大名は財政窮乏に陥り、大坂町人からの借金がなければやっていけなかった。蔵屋敷の役人たちは大坂の両替商に頭を下げ、金を引き出すのに必死であった。毎年扶持米を給与し、節季の祝儀、盆暮の付け届けなど、種々の贈答を欠かさなかった。特に新しい借金を申し込む時には大坂町人を招いてお茶屋で接待をし、酒肴や芸者をはべらせて振舞までする。

武士として高い身分を誇り、町人や百姓からあがめられてはいても、金がなくては暮らせないのが現実。大坂では町人が金の力で武士の上に立っていた。それゆえにこそ天下の大坂と呼ばれた。又そこに、建前よりも本音・実質を重んじる「大坂人かたぎ」が生まれてきたのだ。

鴻池善兵衛は大坂にその人ありとうたわれた鴻池善右衛門の兄の筋で、かなりの金を本多氏に融通していた。本多氏役人はさらなる借金の申し込みのためにこの町人に振舞をしなければならなかったのである。

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今回はその接待を鷲尾山での花見と決め、長右衛門の屋敷で軽く夕飯を振舞うようにとの申し出である。しかもそれは翌日なのである。さあそれから長右衛門家は大騒ぎ。

「こらえらいこっちゃ!」とばかり、人足を集めて座敷や庭園を掃除させ、下男を大坂へ買物にやる。大坂の料亭の板前を呼寄せ、四重の大きな重箱に豪華な料理を詰めさせる。

翌日朝、村の船着場にお出迎えすると、主客の鴻池善兵衛が蔵屋敷役人や取り巻きの大坂町人を引き連れて九人で到着。早速一行は鷲尾山へ花見物に登る。茶、弁当、豪華な肴を詰めた提重と、よもぎもち・豆粉もち・下々へはにきりめし・にしめなどを下男に持たせる。

花見を終えて午後三時ごろから長右衛門家で宴席。麦飯と一汁六菜という豪華さ。鯛やウナギの焼き物に、塩貝・くらげの酢の物、よめな・干大根のしたし物、奈良漬やたくあんの香の物まで二〇種類にのぼる山海の珍味。長右衛門も粗相があってはたいへんと、下女下男を指揮し、

「はよ! お膳とお酒運んでんか!」と料理の手配に右往左往。

ようやく宴もはね、日暮れには船で帰られる。大坂へ四時間はかかるので、帰りの船にも、どじょう・白魚・サザエのつぼ焼き・たまごという高級な料理を持たせ、燭台や傘も積み込まれる。

まさに至れり尽くせりの接待である。「麦飯と醤油汁のかるいもので。」といわれて、これだけの饗応をしなければならないのが、村の庄屋の勤めであった。 

この接待にかかった費用は、銀一三〇匁、今の金にして二〇数万円。これを本多氏支配の村々二〇ヶ村で負担させられたのだ。その数日後に蔵屋敷へ出た長右衛門は、花見に来られたことのお礼を申し上げている。

長右衛門は、夕方来た役人に有無を言わさず急に明日の接待だといわれて、てんてこ舞いに振り回され、豪華なご馳走を供し、大金を費やし、それが終われば蔵屋敷にお礼言上に上がるのだ。百姓には武士への絶対服従しか選択肢はなかった。それに逆らうことなど夢にも考えなかっただろう。

とはいえ支配階級の武士が金に困り、最下級に位置づけられている町人が裕福というこの現実こそが、江戸時代を覆う巨大な矛盾であった。日下村のお花見一件が、如何ともしがたい、この時代の社会の現実を、鮮やかに切り取って私たちに見せてくれている。

現在の辻子谷道には、山道の両側に西国八十八ヶ所の本尊と弘法大師像が仲良く並ぶ石仏が興法寺まで続いている。

  

辻子谷道

日下新池の桜


参考文献『日下村森家庄屋日記』森義雄氏所蔵




      



日下新池の桜