2012年8月30日木曜日

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」
大和義挙の事跡
 (解説)

いわゆる天誅組(てんちゅうくみ)騒動の顛末の詳細であるが、漢文の知識を駆使しつつ故事を引き、難解漢字を多用する名文である。内容的にはこの義挙を肯定し、勇猛な戦死を遂げた人々を賛美するものとなっている。

文久三年(1863)八月十三日三条実美ら尊王(そんのう)攘夷派(じょういは)による、孝明天皇の大和行幸、神武天皇・春日社での攘夷(じょうい)祈願(きがん)詔勅(しょうちょく)が発せられる。攘夷激派公家が長州と結び、御親征の名のもとに討幕軍を大和に起こさんとして、行幸護衛の兵を集め先発隊が派遣されることになった。   

土佐の庄屋であった吉村寅太郎は松本奎堂(けいどう)藤本鉄石などの尊皇攘夷の最激派の脱藩浪士たちとともに、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えてわずか三八名でを出発した。

 河内を通過する間に軍資金・武器を調達し草莽の志士たちを軍勢に加え大和に入る。八月十七日、幕府天領の大和国五条代官所を包囲し、代官鈴木源内に対し、代官所と所管の村々を速やかに引き渡すよう要求したが源内がこれを拒否したため即座に討ち取り、居合わせた数名を殺害、代官所に火を放った。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とし、「御政府」あるいは「総裁所」を称し、この年の年貢を半減することを宣言する。

しかしこの翌日、京において公武合体派の会津藩薩摩藩中川宮と結び尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした。八月十八日の政変である。これによって大和行幸は中止となり京の攘夷派は失脚し、三条実美ら七名の尊王攘夷派公家は京を追放され長州へ落ち延びた。

挙兵の大義名分を失った天誅組は一転して追討を受ける身となった。天誅組は天川辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発した。天誅組総裁吉村寅太郎は五条の医師乾十郎とともに十津川に入って兵を募り、これを朝命を奉じての挙兵と信じた野崎主計ら約千名の十津川郷士が参加して兵力は膨れ上がった。天誅組は高取城を攻撃するが、兵の銃砲撃を受けて混乱のまま敗走。十津川郷士もこの時一三名の戦死者を出した。三河刈谷藩伊藤三弥のように脱走するものも出て、天誅組の戦力の脆さは否めなかった。

幕府は諸藩に命じて大軍を動員して天誅組討伐を開始する。天誅組は激しく抵抗するが、寄せ集めの軍隊で統率が乱れ、その上主将中山忠光の指揮能力の乏しいこともあり敗退を繰り返し、しだいに追い詰められる。朝廷から天誅組を逆賊とする中川宮の令旨が下され、朝命と信じて加勢した十津川郷士はこれを受けて直ちに離反する。九月十九日、忠光は天誅組の解散を命じる。残党は伊勢方面へ脱出を図るが、東吉野村鷲家口で幕府軍に捕捉され壊滅した。藤堂藩の降参の勧めもはねつけた忠光は桜井から河内を経て大阪へ入り、長州に落ち延びた。卿が二十才にして長州穏健派に暗殺されたのは、その二年後の慶応元年十一月のことであった。

この義挙に参加しながら十津川郷士が放免されたのはひとえに中川宮の深慮ゆえであった。京の政変ののち中川宮より十津川郷士に、朝敵にならぬように離反すべしとの御沙汰書が伝達され、さらに、追討軍に繋獄されていた郷士はすべて赦免され解放された。そこには人数的には軍勢の大部分を占める十津川郷士を本隊から外し、討伐を容易にする意図とともに、禁門守衛の任務を帯びる十津川郷士に朝敵という汚名を着せ得ぬという思いがあった。

中川宮が十津川郷士に篤い信頼を寄せるのは、四名の十津川郷士が梅田雲濱を訪ねた折、南朝忠節者の後裔としてのその気風に感じ入った雲浜より、中川宮執事伊丹蔵人を紹介されたことに発する。文久三年十津川郷士が禁門守護の要職に抜擢されたのも雲濱の力に負うところが大きい。

しかしこの時十津川郷士の中には時勢に暗く代官所の指図もなく朝命に従うことを良しとせぬ反対派もいて代官所に出訴に及んだ。この時五条代官鈴木源内(すずきげんない)は反対派に、「朝命は郷の名誉であり禁闕守護の大任をはたすべし。それがもし幕府への不首尾となるならば、自分が屠腹して謝すべし」と説諭した。この鈴木源内の誠意ある説得により双方和解にいたったことを思えば、鈴木代官の懐の広い人間性がうかがわれる。天誅組に有無を言わさず斬殺されるには惜しい人物であった。

天誅組の募兵に応じ、率先して最後まで踏み留まった野崎主計は自ら引責して「大君につかえぞまつるその日よりわが身ありとは思はざりけり」の遺詠とともに十津川山中に自刃して果てた。大義に殉じようとしつつ天誅組と十津川郷士との狭間にあって窮地に陥った末の悲劇であった。主計と行動を共にした郷士深瀬(ふかせ)(しげ)()は、八尾の伴林光平(ともばやしみつひら)とともに藤堂藩に捕縛され、斬首された。のちすべての十津川郷士が赦免されることを思えば彼もまた悲運であった。

この義挙は尊攘激派の吉村寅太郎が孝明天皇大和行幸の先駆けとなるべく、尊攘派公家中山忠光を擁立して挙兵したものであった。忠光は先に官位を辞し長州に出奔し下関の夷船襲撃に加わったほどの尊攘急進派であったから討幕軍の大将としてふさわしい人物であった。しかしなんといっても吉村二五才、忠光一八才、しかも十津川郷士などを募兵するも俄かにかき集められた農民兵で武装集団としては結束力に欠ける軟弱なものであった。その上大和代官襲撃の直後、京の政変により朝敵となると十津川郷士は離反し、その後の戦況は悲惨なものとなった。あまりにも過激な尊攘思想に傾倒した末の、短慮に過ぎた挙兵であったといわざるをえない。

この史料ではしかしこの義挙の評価を次のように賛美する。

古今無比ノ忠節家タル楠氏ノ功績モ之ニ及バザルコト遠シト謂フベシ

と忠臣楠氏に比して高く評価し、さらに

斯ク雄大ニシテ清廉潔白ナル盡忠報國心ヲ国家教育ノ基礎タラシメザラバ、何ヲ以テ後昆ノ指導者タラシム可キ

とその盡忠報國心に最大の賛辞を贈っている。

この挙兵に河内からも多くの志士たちが参加した。彼らを天誅組河内勢と呼ぶ。特に河内綿の集散地として栄えた富田林の豪農にして代官であった甲田村(こうだむら)水郡(にごり)善之祐は小荷駄奉行となって金穀・銃砲・刀鎗・鐘鼓はじめ、人足の調達などもすべて受け持ち財政面で大きく貢献した。善之祐は長男英太郎とともに参戦し、河内勢は長野村()(どし)米蔵・鬼住村上田主殿など十数名に上った。しかし逆賊として追討されるに至って水郡は河内勢十三名の連名にて忠光と決別を宣言し紀州へ出んとして十津川郷に入る。湯川村の田中主馬宅に寄宿した折、火薬を投ぜられ一同火傷を負い、自害を覚悟するも善之祐は、「紀州藩に自首し刑場に果て忠誠を天下に知らしめん」と説得して紀州軍に投じ捕縛された。この時守備者はその高い志を壮として酒食を供して慰めたと伝える。一同京都に護送され六角獄にて処刑された。

十津川勢が深瀬(ふかせ)(しげ)()以外すべて放免されたのと対照的に河内勢は無残な最期を遂げた。ただ一つの救いは当時十三才の善之祐の長男英太郎が年少ゆえに放免されたことであった。彼は故郷に帰り、「水郡長雄の履歴」や「長義自叙伝」など後の天誅組研究の貴重な資料を遺した。

しかし天誅組のその無計画で強引な統率に疑問を抱くものも出ていた。河内の植田主殿と十津川郷士玉堀為之進は、天誅組主将中山忠光に抗議し、半日議論したが意見合わず、遂に両名は反逆者の名をもって天ノ川本陣、鶴屋治兵衛邸で斬殺された。

植田主殿は藤田東湖の門弟であり、二二才の熱烈な勤皇の志士であった。玉堀為之進は十津川郷林村の庄屋であり、当時五三才の分別を以て慎重論を唱えていた。天誅組が十津川に援兵を求めた時、すでに京都の政変により逆賊とされていたこと、後に十津川が天誅組から離脱せざるを得なかったことを思う時、玉堀の論は当を得たものであったはずである。彼の辞世「国の為仇なす心なきものを仇となりしは恨みなりける」がその無念の心境を映して悲痛である。

八尾から挙兵に応じた伴林光平(ともばやしみつひら)は八尾教恩寺の住職として多くの門人に国学・歌道の教授をしていたが、手紙で参加を求められ五条へ駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。義挙失敗の後、捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した『南山(なんざん)(とう)雲録(うんろく)』を執筆し、翌年二月、京都で斬首された。京都六角の獄舎に移されたときは生野の変で囚われた平野国臣と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。

伴林光林とともに挙兵に応じた平岡(ひらおか)(きゅう)(へい)は大和出身で伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒したものであった。天誅組壊滅後、追っ手を逃れて北畠治房と名を変え、維新後は司法官として横浜、京都、東京の裁判所長を歴任して男爵まで上り詰めた。

伴林光平は河内枚岡の中西多豆廼舎(なかにしたずのや)多豆伎(たずき)父子や豊浦の中村四端(なかむらしたん)・花園の岩崎(いわさき)(よし)(たか)を中心とした歌会に加わり、当時華やかな文芸サロンの一員として活躍していた。そうした影響もあったか、日下村庄屋であった(かわ)(すみ)雄次郎(ゆうじろう)氏も一時この挙に応じたことが知られている。

河澄家には寛政のころ上田(うえだ)(あき)(なり)が逗留し、彼の随筆『山霧記(さんむき)』が遺されている。当時俳人として活躍した枚岡の中村四端(なかむらしたん)同耒耜(  らいし)・浪速の()(えん)らの俳句の掛軸も所蔵されており、河澄家は河内における文芸サロンとして多くの文人たちの活躍の場となっていた。河澄家十九代雄次郎も明治三年から十四年にかけて歌文集『閑居(かんきょ)草紙(ぞうし)』を著し、文芸への傾倒は代々の風雅の伝統を発揮したものであった。当然雄次郎もこの河内文芸サロンで活躍した伴林光林の国学者・勤皇家としての人物像に影響されたことは大いに考えられる。

雄次郎は二四才にして、家人の制止も聞き入れず日下村を出奔して天誅組に参加した。彼は水郡善之祐らの河内勢と行動を共にしていなかったようで、無事に離反してある寺に隠れ住んだ。しばらく忍んで平穏な時代になり、家人は雄次郎らしき人物の生存を知り、説得の上日下村に連れ帰った。家督を継ぎ、常房と称したのちは地元の近代的発展に貢献した。学制施行の折には自邸に郷学校を創設し、孔舎衙(くさか)小学校の建設には土地と私財を寄付し、子供たちの教育に尽くした。明治十四年十一月四十二才の若さで亡くなっている

天誅組の義挙はわずか三八名で出発したあと各地の勤皇篤志家からの資金援助を受け、河内から十津川にいたる道程で、河内勢・十津川勢を加え、千名を超える大軍に膨れ上がっている。勤皇思想の篤い伝統を有する十津川郷は当然としても、河内においてこれほどの加勢をみたその理由は何といっても河内綿の集散地として豪商軒を並べる町場として発展していたことが大きかった。

河内の庄屋・豪農・僧・神官といった村落の上層階級はその財力を背景に、膨大な蔵書を蓄え、自らが古今の典籍を修め、学識を高めるとともに、常に広範囲の文人・知識人との交流を求めた。それは京・大坂に代表される中央の高い文化と、最先端の情報を吸収しようとするものであった。儒学とともに江戸中期からの国学の隆盛はそうした向学の徒を大いに刺激し、幕末の勤皇思想への傾倒はいわば自然な流れとなっていた。とくに南河内は全国の著名な志士たちの訪れる尊攘運動の中心地となっていた。

そうした中で富田林甲田村の水郡善之祐は伊勢国神戸(かんべ)の代官で大庄屋を勤める家に生まれ、勤皇の志が強く志士達を金銭的に援助していた。彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている代々勤皇の家であった。黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、文久三年の「足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件」に関与して帰郷する。その後も邸内に常に武芸者を擁して武技を鍛錬させ、勤皇の志篤き十津川郷は事ある時には「三千ノ精兵ヲ得タルニ難カラズ」として武芸者を送り武術を指導せしめていたほどの人物であった。常に王事に尽くさんと待ち構えていた水郡にとって天誅組の義挙はまさに渡りに船であったろう。しかし彼も天誅組の統率の混乱と京の政変により失望し、離脱するしかなかった。しかし時すでに遅く、自らの志とは正反対の討伐される身となって京六角獄で斬られた時は三七才の若さであった。

のみならず各地の勤皇家が天誅組の義挙に賛同し財政援助をしている。河内人中野彌次郎は参陣する伴林光林に軍資を贈り、淡路島の大地主であった古東(ことう)(りょう)()衛門(えもん)は津井港や岩屋港の改修に私財を投じ、海岸防衛隊を組織し武術者を養成していたが、義挙に際し先祖代々の全財産を処分し軍資金として供出した。自らも上洛して挙兵に参加、のち京の六角獄で処刑されている、王塔村天川辻本陣として自邸を提供した鶴屋治兵衛は屋敷のみならず家財一切、兵粮を提供し、天誅組壊滅の後、自邸が幕府軍の本陣になることを嫌って自ら屋敷を焼いた。信ずるもののためにすべてを投げ打った人々であった。

経済的にも文化的にも先進地域であった畿内に彼らのような経済力と行動力、そして時代の先を見通す力とを備えた草莽(そうもう)の志士が多く出現していた。すでに弱体化した幕府の将来のないことを予見し、私利私欲を離れて新しい時代への変革を自らの手で成し遂げようとした人々がいて、彼らの財も命も惜しまぬ支援があればこその義挙であった。

あまりにも拙速に過ぎ、現実を見る冷静な判断も計画性も欠いた精神性のみが先走りした挙であったが、その一途な純粋性ゆえに、多くの志士を行動に駆り立て、そしてなによりも勤皇の伝統を堅持する十津川郷士にとっては、武器を取って馳せ参ぜずにおれない挙となったのである。

大きな犠牲を払い失敗に終わったとはいえ、この挙は尊攘派の初めての武力蜂起という点で、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府権威の失墜を決定的にしたことで、近代日本へ向かう時代の歯車を一つ推し進めたといえよう。

 

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