2012年8月30日木曜日

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」

明治22年の大水害による北海道移民の記録
 
(解説)

明治二二年十津川の歴史を大きく塗り替える大災害が襲った。八月一七日から三日三晩降り続いた大雨は山を崩し、濁流が民家を押し流した。未曾有の大洪水のあと、なお続く雨中、五条と下市から救援物資が運ばれたが、分断された道路を切り開きながらの命がけの作業であった。

飢餓にさらされていた村民は何とか命をつないだが、水害により家も田畑も勿論、全財産を失った三〇〇〇人近い被災民の今後は大きな課題となった。海外移住の機運が盛んであった当時、北海道移住という案が出されたのは災害半月後の九月初旬であった。

『遠津川』(新十津川村 明治四四年)によると、この間の事情を次のように伝える。

 田園ハ変ジテ湖沼トナリ山林ハ荒レテ砂礫トナリ村落或ハ水底ニ沈ム。ソノ惨状実ニ云フベカラズ、嗚呼人生ノ艱難ハ天変地異ヨリ甚シキハナカルベシ。住ムニ家ナク耕スニ地ナシ、(中略)遂ニ本道ニ移住シ新ニ天府ノ国ヲ拓キ農耕ノ業ヲ営ミ百年ノ長計ヲ立テ北門ノ鎖鑰(サヤク)トナラントノ議ヲ一決シ(後略)

住むに家なく、耕すに田畑なき人々が、新たな地を開拓し、遠き将来を幸多いものにせんとする望みを立て北の大地を目指す。この時北海道という最北の地を守衛することこそが十津川人の取るべき道であった。まさにこの「北門ノ鎖鑰(守衛)トナラン」という決意こそ、彼らの勤王思想と朝廷御守衛の民という誇り高い伝統に適った大義名分であった。

北海道長官永山武四郎の協力のもと、旅費はもとより、農機具一切、収穫までの食糧・家屋まで官給を仰ぐという破格の条件で村民の説得が行われた。

「十津川移住民件緊要誌」によると、「北海道釧路郡長談話筆記」として北海道について当時の釧路郡長宮本千万樹が次のように述べている。

開墾は極めて易く砂石少くして鋤・鍬の入り易く、吉野の二倍の耕作を為し、大抵夫婦二人にて一年間に壱町歩は開墾できる。札幌には製糸会社や製糖会社があり、農産物の売捌きにも便利である。」と夢の新天地であるとの談話を印刷配布し、村民の不安を取り除いた。しかし現実にはそんな生易しいものではなかった。彼らの移住先は石狩国樺戸郡トック原野、空知太を西へ石狩川を渡った大原生林であった。

しかも冬は目の前、新雪の来る十一月までに北海道に渡る必要があった。財産を売り払いわずかなものを荷造りし、一戸あたり三円三六銭の支度金を手にして、第一回目の七九〇人が出発したのは水害のわずか二か月後の十月一八日であった。

着の身着のままで故郷をあとにした彼らの旅は過酷なものとなった。交通手段もまだ発達しない明治という時代、歩いて神戸港を目指したのだ。人々の風体はさまざまであった。老人は茶筅に結び、子供は餞別の手拭をかぶり、一番組二番組と書かれた籏七流を押し立てていた。そればかりではなく、『十津川記事・下』によれば十津川人たちは、

「奮去南山向北洋」

「莫道別離難此北行他日福」

籏を立てていた。

住み慣れたふるさとである南山を去って北へ向かう決意をした彼らは、別離の悲しみを振り払って、この先には明るい暮らしが待っているのだと思うことで足を前に進めたのだ。

彼らの七分通りは甲冑・刀剣・猟銃を身に負うていた。北海道移住は「北門ノ鎖鑰」、つまり北方守衛のために他ならず、国家非常時に馳せ参ずるという彼らの伝統にのっとり、先祖伝来の武具を携える必要があったのである。

被災民の列はおよそ十日も続いた。沿道の人々は生涯のうちでこれほど気の毒な人々の群れをみたことがないといった。

沿道に住んでいた老女の回想によると、「家へいのう」と泣く幼子に、「あそこにもう家はないのや」とさとしながら歩く母親のいたわしい姿に、弟の綿入れの袢纏を脱がしてその幼子に着せてやったという。また、幼児を抱いて歩く若い父親のポケットにお金を押し込む人、薬や手拭を差し出す人もいた。梅田駅では煎り豆やちり紙を贈られ、篤志家からたばこの種を二千袋も贈られた。新聞記事を見た全国民からは多くの支援が寄せられた。

それぞれ小隊に分けて、五条から高田を越えて八尾の柏原まで歩く。出発の翌日から降り出した雨にずぶ濡れになりつつ峠越えをし、宿で濡衣を干して夜を明かし、また翌日も重い濡衣のまま雨に打たれて山越をするのは随分難儀なことであった。柏原から天王寺まで開通したばかりの汽車に乗る。

別隊は高野山から堺に出た。これもざんざ降りの道中となり、高野山から学文路、橋本の渡しで紀ノ川を渡った。三日市で宿屋へ泊り、堺から難波まで汽車に乗った。人々は初めて見る汽車に度胆を抜かれた。森秀太郎の懐旧録には汽車のことを「大きな真っ黒い動物が赤い火を明かして大変な勢いで白い湯気を吐きつつ驀進してくる。」とある。

難波から八軒家船着場へ出て、淀川の広さと、天神橋の長さにまた驚き、町を歩くと街燈の明るさに驚嘆する人々であった。

 「十津川移民着道談話記」は小樽港に到着したところから記録されている。しかし報告書の形式であり、より詳細は『十津川出国記』(川村たかし著)を参考にしながら、彼らのその後を追ってみよう。

第一着船遠江丸は二二年十月廿八日午前第八時五分に小樽港に着く。其乗組人員七九〇、第二着船東海丸は十一月五日着。此乗組人員八三〇人、十一月六日午前第八時、第三回兵庫丸着、此人員八六九人、総計二四八九人、此内二名の死亡者、又三名の生児あり、総人員二四九〇人であった。

小樽で移民たちは日用品を買い求めた。男性は外套・毛布・酒・焼酎、女性は針や糸、布きれなど開拓地では入手できないものを仕入れた。それからは四班に分かれて石炭用の箱台車にむしろを敷いて乗り込んだ。終点の幌内で降り、集治監(刑務所)で一泊。明治に入って北海道には多くの監獄が作られた。囚人たちは炭鉱や道路建設に駆り出されたので、各地に集治監(刑務所)があった。

移住実地選定まで空知太(そらちふと)(瀧川村)の屯田兵屋に寓居することとなり、この間十一里ばかりの道は急ごしらえの道路に降った雪が泥となって歩行きわめて困難であった。前夜配られたツマゴという雪靴を履いていたが雪がさらに降つもり、寒気は薄着の人々を震え上がらせた。囚人たちが老人子供を籠で背負い、移民の荷物を担いで後に続いた。

夕刻奈井江(ないえ)に着いた時には全員疲労の極みに達していた。囚徒の監獄署に宿泊することとなるが、夜具もなく、寒風肌を刺し、実に言語に尽し難き難儀であった。囚人が火を焚くものの、床は氷の冷たさで横になることもできないまま夜を明かした。この一夜の辛苦は後まで語り継がれた。困難な場面に遭遇すると、「奈井江泊りのような」と人々は表現したのである。

その後疲れも癒えぬ体で空知太に向かい、屯田兵屋に到着した。間口三間半、奥行五間の家にて造作も終らず、建築が強行される中、一家屋に四戸が仮居住した。家族の多いものは四戸で二十人にも及び、起臥炊事などは雑沓のようであったが、ここで春まで過ごすのである。

ようやく荷物が到着し、米や金品が配布され、落ち着きを取り戻す中、兵屋一棟に移住者仮事務所を置き、二〇戸に一人の伍長、総代・会計・戸籍係各一人宛を置き、永住の地を樺戸字徳冨と占定する。旧里より送り来た上杉直温郡書記、久保総代は帰郷の途についた。

しかしここでの生活は辛苦を極めるものとなった。井戸はなく水は渓流へ出て汲まねばならず、洗面器も風呂桶もなく、ふとんは一家族に二枚、若者はむしろを敷いて寝た。零下二〇度になると壁の隙間から吹雪が吹き込み、寒さは耐え難い。薪もなく、生木を焚くしかなく、もうもうと煙が立ち込めて、結膜炎を病むものが多かった。その上、煙を出すため連子窓を開け、そこから冷気が吹き込み、老人子供から風邪をひき、十二月までに三九人が死に、九〇〇人が病んでいた。春までに実に九六名が命を落とし、あとにも病人ばかりという地獄のような冬となった。

十一月から積雪烈寒の土地を指して移住することの無謀さを考える時、三・四月のいい時期を見計ることが肝要であるという教訓を得ることになる。しかしすべてを濁流に奪われた彼ら被災民にはその余裕はなかったのである。この苦難の中で屯田兵の勧誘が盛んに行われ、好条件と、北の守りにつけるということが十津川郷士の血を騒がせ、九五戸が入隊していった。

明けて明治二三年一月移民仮居住地空知太を瀧川村名づけ、同時に移民永住の地徳冨を新十津川村と称することとなる。やがて春となり、入植地を抽選で決め、一行が開拓地に向ったのは六月になってからであった。半年を暮した屯田兵屋を掃除し、便所もきれいに汲み上げて去った。石狩川を丸木舟で渡り、原野の一軒家にたどり着く。新十津川村役場を開設、同時に村医も来着し開業する。移民たちは早速開墾にとりかかった。笹を刈り取り、木を伐採し、ソバや大根を蒔いた。

開拓民は一戸あたり五町歩(一万五千坪)の原野を与えられたが、この年の開墾総高は、二一三町九反二九歩、一戸平均三反九畝二五歩、内作付反別五九町四反五畝五歩、収穫としては、蕎麦二五四石余、大根一三万四三八〇貫余、馬鈴署一六一石余、六月の入植では他の作物が種蒔時期に遅れたのはいかんともしがたいことであった。十二月二八日、開墾勉励者一七一人ヘ賞典授與を行う。

二四年はネズミの被害多いものの、収穫物は、麦・粟・黍・小豆・大豆・馬鈴薯・大根などがあり、旧郷で作っていた煙草、藍、麻などは試したが土が合わず収穫出来なかった。菜蔬物の良質なことは旧郷の幾倍で、殊に南瓜類の種類多く美味で重さ四・五貫もある。西瓜と玉菜(カフーベツ)の風味のよいことは驚きであった。

同年一月には故郷の玉置神社の分霊を役場の近くに仮殿を建てて奉安した。社は二七年に上徳富のスシン島と呼ぶ石狩川畔に移した。

二四年三月、徳富川を挟んで北と南に二つの小学校が開校された。学齢児童四八一人、内就学生二七五人、内上徳冨校は男生九一人、女生三二人、下徳冨校は男生一一四人、女生四〇人、訓導二人、授業生二人。児童は袢纏・股引・たび・草履で通学した。雨天や雪どけ道の時には裸足になった。極寒の冬も教室で火鉢に炭を入れるだけであった。弁当には粟や馬鈴薯・かぼちゃ・大豆を持たせた。

新十津川村戸籍を調査すると、二四八九人移北し、内三一二人は屯田兵に入隊し、残リ人員二一七七人が全村の元祖となる。その後第二移住者が加わり、縁故なく入籍する者と、死生差引き人員二四〇九人、内男一二七〇人、女一一三九人であった。

又「アイヌ」は凡一七戸、人口五九人、内男二六人、女三三人、その容貌は骨格偉大眼光鋭く総身毛多く、男は鬚髯甚だ多し、女は唇上に入墨す、耳には環を嵌むを常とし、業務は多く山川に猟し、木実草根を甞め、開墾は僅々のみ、近年移民の増加に従い、平常人民の風に習い、荷物の運搬等をし、彼等の間には一種特別の言語があるが、内地人に対するときは本邦言語で語ることを得る。彼等の内に酋長樺一理というものあり、樺戸雨龍上川を統轄する。教育はなく、当村学校ヘ入学せしむべく様諭すが、まだ一人も入校するものなし。

北海道殖民は日々増加し、各地の進歩は驚くばかりである。小樽市街は商業盛んで、戸数も五〇〇〇戸を下らず、札幌には壮麗・堅廓であり、家屋は洋風で練瓦石造多く、各廰及種々の会社煙筒の数多く、師範学校、農学校、郵便電信局、製糖会社、製麻会社、電気会社等は人の目を驚かすほどである。その他江別、岩見澤、市来知など新十津川村に至る通路、鉄道線路停車場など施設も充実している。空知太迄は鉄道線を布設し、今歌臼には砂川という停車場を設け、奈井江には屯田騎兵が置かれ、戸数二・三〇〇戸の一市街となっている。移民がたどり着いた原野の空知太は屯田兵が次々入村し、開墾が進められ殷賑を極めるほどであった。新十津川の北には、華族、諸公共有の天下有名の大農場があり、洋風器械にて開墾している。

北海道動物について内地では、猛獣毒蛇がいて、人は皆熊に噛まれ、大蛇に呑まれ、囚徒の外は常人の行くべき所にあらずといわれたものであるが、現実は雲泥の差がある。熊はいるが人が挑発しなければ襲ってこないし、蛇は内地の十分の一もいない。猿猪等の害もあまりない。ここで「十津川移民着道談話記」は終わっている。

 その後新十津川村では順調に収穫を上げていたが、三十年には大規模な虫害に襲われた。「虫送り」を復活したが、その年の作物は全滅であった。しかし水田は被害を免れたため、これ以後水稲栽培が盛んになった。翌三一年には石狩川の氾濫によって、耕地の半ばは濁流に洗われた。虫害に続く水害で離村者が続出し、村民の団結は崩れ新しい開拓者が流れ込む。大正二年の冷害は大凶作を引き起こした。村の反当り平均は八升に過ぎず、大豆・小豆・トウモロコシも全滅し、ワラビの根を団子にして食べるしかなかった。

その後も水害や冷害に襲われながら、移民たちは力を絞って開墾を進めた。次第に水田熱高揚の時代となり、もともと寒冷地に不向きとされた水稲であったが、北海道の気候に適う直蒔法を取り入れ品種改良が行われた。水稲作付面積は明治二七年三町歩であったものが、大正に入ると二三〇〇町歩と増加し、昭和三五年に北海道の産米はついに五〇〇万石となり、新潟県をぬいて日本一となったのである。

甲冑・槍・刀を帯び、十津川人の伝統としての「北門の鎖鑰につかん」という大義名分を旨とし、はるかな北の大地に赴いた人々は、想像を絶する辛苦を乗り越え、希望を失わずたゆまぬ努力の末に、確かな成果を獲得したのである。 

新十津川村では入植後の激動期を経て、他府県人の流入が増加し、住民の構成は年々変動し、十津川出身者の割合は次第に減少した。その間の通婚を経て新しい地域社会を形成しつつ、今もなお大和十津川村を母村として敬愛の念を抱き続ける精神は失われることなく村人の心に息づいている。

 

参考文献

『十津川記事・下』十津川村役場編 昭和二七年

『十津川出国記』川村たかし 1987年 北海道新聞社

『遠津川』新十津川村 明治四四年

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