2012年8月30日木曜日

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」上杉直温氏日誌

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」上杉直温氏日誌
明治22年の十津川大水害の現地視察 

(解説)

明治二二年十津川の歴史を大きく塗り替える大災害が襲った。八月十七日から三日三晩降り続いた大雨は山を崩し、濁流が民家を押し流した。未曾有の大洪水のあと、なお続く雨中、上杉直温郡書記が現地の被害状況を視察した記録である。

この大水害の第一報をもたらしたのは、大塔村助役側垣文吉よりの急使であった。大洪水のため閉君に四〇〇人が避難していたが、食料も尽き、米六石を回送ありたしとの通報であった。22日の夜午後九時に上杉直温郡書記は梅本光誠と二人で出発したが、所々で橋は落ち、道路は破壊され、通行するにも困難を窮めるものであった。ようやく23日午前五時に大塔村坂本に到着。坂本に仮事務所を設ける。

米塩の輸送に人足を手配し、飛脚を出して水害の情報を集める。玉置高良郡長は田戸街道の開通式に臨み、帰途宇宮原の旅館に宿泊中、土砂崩れのため押し流されて行方不明との報を受ける。
24日辻堂にいたる。辻堂・宇井では流失家屋61戸であった。村長に被災者の取り調べと救護を依頼し、宇宮原に向かうが、道路破壊のため山越えし、旭にいたる。

25日旭川を下り宇宮原に向かい、玉置高良郡長以下11名が遭難した茶屋に至り、捜索するものの、
大量の土砂くずれのため手もつけられない状況であった。直温氏はこの時の心境を、「低回(ていかい)去る(さる)(あた)わず、悲嘆の涙に時を移す」」(悲嘆のあまりその場に立ち尽くし、涙にくれるしかない)と表現している。閉君に仮役場を設け各地の被害状況の取調べと救助の手配をする。
長殿・宇宮原・上野地・林・五百瀬では流失家屋152戸であった。死亡者に関しては、いまだ詳細が判明しない状況のため空欄が多い。人足を出して道路を開き、米塩を運ばせ、被災民の病者の治療に奔走する。
川津で村長更谷喜延氏に報告を受け、26日玉垣内に到着、今西川増水のため橋は落ち、流失家屋は57戸。
27日平谷の十津川村役場に到着。久保村長に報告を受け、避難者救助のことを協議する。中執家屋23戸、死亡3名。
28日今西に宿泊。29日小森村役場に到着。流失家屋23戸。救助米追々上野地・谷瀬・川津へ運搬。この日なお大雨のため移動は困難を極める。
30日谷瀬臨時警察出張所に到着。衛生課員佐々木氏に面会、病者治療の件協議する。
31日帰庁。
 

第二回の出張は道路の修復と仮建設のためであった。被災地巡見のために入郷する勅使堀川侍従を迎えるため道路の整備と、勅使に差し出すための被害状況を示す図面を作成する。

第三回出張は九月十四日、被災民を北海道へ移住させるためにその勧誘のためであった。人民を神社や小学校へ集め説諭する。

 兵庫出張は北海道移民を神戸港へ送っていき、相模丸に乗り込むのを見届けるものであった。

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 2011年9月の紀伊半島大水害は十津川村にも大きな被害をもたらした。この水害の時、123年前の明治の大水害を思い出さぬ十津川人はいなかっただろう。

              2011・9・3 十津川村大水害による土砂崩れ


 
 
 
 
    
           



 

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