善根寺檜皮大工集団は座の破却をはじめとした近世への転換にともなって河内に生活の基盤を移し、善根寺に春日神社を勧請し、地元での春日の神への奉仕を拠り所として農業に励みつつ、檜皮葺の生業を継続したと思われます。
善根寺春日神社の創建については善根寺村の隣村である日下村の近世庄屋である井上家に残された、元禄五年(一六九二)の『寺社御改(じしゃ おあらため)吟味帳( ぎんみちょう)』によると「河州河内郡善根寺村 木之宮右之社(きのみや みぎのやしろ)往古(おうこ)より年来(ねんらい)勧請(かんじょう)年暦(ねんれき)知(し)レ不申候(もうさずそうろう) 五八年以前建立替申候(こんりゅうかえもうしそうろう) 宮座( みやざ)人数(にんずう)毎年(まいとし)増減御座候祢宜(ぞうげんござそうろう ねぎ)神子(みこ)神主( かんぬし)当村( とうそん)に無御座候(ござなくそうろう)」とあります。元禄五年の五八年前つまり、寛永一一年(一六三四)に建て替されています。
もともと地元にあった小さな祠を建て替えて勧請したのか、すでに勧請されていたものを社殿だけ建て替えたものか不明ですが、とにかく寛永一一年までに春日神社を勧請しています。
この勧請と善根寺村の村立については他にも史料が存在します。このころの善根寺村には大阪城の石垣普請を命じられた足立家が存在し、生駒山から築石を切り出していました。天正一一年(一五八三)の羽柴秀吉による築城だけでなく、元和六年(一六二〇)の徳川氏による修築の時にも命じられています。
「足立家千代のしるべ」によると、そのための人夫が二万人を数え、村の開発と善根寺村の日下村からの分村、春日神社の勧請に大きな役割を果たしたとあります。けれどそれは誇張であり、事実は足立家の石垣普請を契機として人々が集まり、善根寺で近世村落が成立する時期と、彼ら檜皮大工の帰郷が重なりあったと考えるのが妥当でしょう。春日神社の勧請も戦国時代にすでに檜皮大工の活動はあったのですから、足立家の石の切り出し以前に勧請されていたはずです。
とにかくこうした事情で一つの村としてまとまり、寛文三年(一六六三)に、日下村の枝郷であった善根寺が分村したのです。もとより帰郷といっても彼らの生活の本拠は善根寺に存在したのです。春日神社が勧請された時、檜皮大工たちを中心として春日神社の宮座が成立したと考えられます。その時には彼らの「春日鹿曼荼羅」は大きな役割を果たしたことでしょう。祭祀的な宮座と興福寺における商業座である寺座が善根寺においては一つのものとなり、「檜皮(ひはだ)御座(おんざ)」と呼ばれたのです。それを証明する石燈籠が善根寺春日神社本殿右に残されています。
その記銘は文字の磨耗が激しいものの拓本をとると次のように読めます。
北面「善根寺檜皮御座中 長久如意満足所者也」
南面「奉修 木野宮春日社 燈篭諸願成就所敬白」
西面「甲午七月吉祥日」
東面「承応三暦」
承応三年の石灯籠
北面に「檜皮御座中」とあり、承応三年(一六五四)七月に檜皮大工の檜皮御座から春日神社へ奉納したのです。この「木野宮」と称するのは『寺社御改吟味帳』にも「木之宮」と
宝永六年の石灯籠
あり、檜皮葺という木の皮を剥いで成り立つ彼らの生業との関連でしょう。
さらにその他に拝殿南側の玉垣の傍に八基並ぶ石燈篭の真ん中に宝永六年(一七〇九)の年号と「檜皮寺座中」と東面に銘記された石燈籠があります。この「寺座」こそ、中世に春日興福寺に従属していた時に彼らが属していた誇りある地位を象徴するものなのです。彼等は「寺座」であった誇りを忘れず、燈籠にも棟札にも「寺座」と記載したのです。
さらに善根寺での「春日座」についての史料として寛政二年(一七九〇)正月の『春日座中改名帳』という横帳が存在します。これは現在原本は確認できないのですが、『枚岡市史』によると、座に所属するものの出生の届けを座帳に記入し「寺座御許方」として五七名の連記があります。五七名と子の出生を記帳していることから、善根寺春日神社の祭司的な宮座と、檜皮大工の寺座が同一のものとなっていたと思われます。
2 大工組、仲間と善根寺檜皮大工
近世においては江戸幕府御大工頭中井正清を頂点として畿内近江六ヵ国に大工組が編成され、組頭を通じて支配が貫徹されました。檜皮葺・?葺の建物が集中する京都では、檜皮大工組の触頭として平岡家が統率し、「屋根師仲間定法写」が残されています。幕府支配の徹底とともに営業の確保、大工間の紛争防止、賃金協定、親方、弟子間の規定など、細部にいたるまで詳細に規定し、いわば同業組合的な機能を果たしていました。
近世においては江戸幕府御大工頭中井正清を頂点として畿内近江六ヵ国に大工組が編成され、組頭を通じて支配が貫徹されました。檜皮葺・?葺の建物が集中する京都では、檜皮大工組の触頭として平岡家が統率し、「屋根師仲間定法写」が残されています。幕府支配の徹底とともに営業の確保、大工間の紛争防止、賃金協定、親方、弟子間の規定など、細部にいたるまで詳細に規定し、いわば同業組合的な機能を果たしていました。
河内においては京都のような檜皮大工組の存在は知られていません。ただ河内大工組についてはそのいくらかが研究で明らかになっています。
中井家支配の河内国大工組は四組記載されています。宝暦九年(一七五九)には新堂組、柏田組、古橋組、額田組二組の六組となり、河州六組と称されます。額田組の半右衛門家は先祖が大坂城御役大工で、宝永四年(一七〇七)から正氏と名乗り、善根寺から二㌔南の山手町に現在もご子孫がお住まいです。
額田組半右衛門富房は東大阪市吉田にある春日神社の享保五年(一七二〇)の再建の時の棟札に記載されており、もし善根寺檜皮大工が善根寺に最も近いこの組と関連して作事を行なっていたのであれば、この春日造りの造営に関係しているはずですが、棟札に善根寺の記載はありません
現在日下町の旧家に「五畿内并近江六ヶ国大工杣木挽方・御朱印旧記録」が遺されており、日下村に四名の幕府御用の杣職が存在したことがわかっています。
五畿内并近江六ヶ国 大工杣木挽方 御朱印旧記録
河内郡日下村 儀右衛門 慶応三卯年九月改
中井主水支配(印)河州中組御用役杣
日下町の山本家に残された四枚の鑑札には写真のように、中井主水支配、慶応三年(一八六七)改とあります。杣職人は儀右衛門・弥助・徳左衛門・佐助の四名です。彼等は幕府の造営の際に、日下の山から材木を切り出す名誉ある役目を仰せつかっていたのです。このような中井家支配の「御朱印旧記録」と鑑札が見つかるのは珍しいことで貴重な史料です。
近世における建築職人はその地域の大工組に従属しその支配に服し、幕府の公用作事の国役にも従事させられ、その上農民として田畑を有する者には年貢と夫役をも課せられました。慶長一二年(一六〇七)に大工陳情により、幕府より畿内近江六カ国大工の田畑高役免除が承認され、一般農民の石高と区別されたのです。
高役免除の大工高は世襲され、その後、株権として売買の対象となり形骸化します。善根寺檜皮大工の幕末の「枚方宿助郷免除の嘆願書」はそうした近世初頭の大工高が形骸化した結果、改めて免除嘆願を行なう必要が生じたと考えられます。
3 棟札に見る近世の活動
1.高山八幡宮本殿棟札 万治二年(一六五九)
表
萬治二亥年 河州善根寺棟梁 河州善根寺
和州高山八幡宮社奉御遷宮葺師 宮脇宗兵衛 惣右衛門 新(和州三輪)九郎
六月十一日 同五兵衛 同長左衛門 次(奈良)兵衛
同仕手彦左衛門 同八兵衛 同忠次郎
裏 記載なし
表
萬治二亥年 河州善根寺棟梁 河州善根寺
和州高山八幡宮社奉御遷宮葺師 宮脇宗兵衛 惣右衛門 新(和州三輪)九郎
六月十一日 同五兵衛 同長左衛門 次(奈良)兵衛
同仕手彦左衛門 同八兵衛 同忠次郎
裏 記載なし
2.水度神社本殿棟札 寛文九年(一六六九)
表
己寛文九歳
奉上葺檜皮大工 田中八兵衛藤原朝臣家次敬白
酉三月吉日
裏
天王寺組 □村源右衛門 田中惣十郎
松本□□右衛門 大野□作
□村□兵衛 □□組 長家庄次郎
北野五良兵衛
3.高山八幡宮本殿棟札 元禄三年(一六九〇)
表
元禄三年 善根寺棟梁
和州高山八幡宮社奉御造営葺師 寺座八右衛門
七月廾一日 同 五兵衛
仕手奈良小川町彦兵衛 大坂嶋や町 長左衛門
同 与三兵衛 同 六兵衛
今辻子町 四郎兵衛 大工 茂左衛門
東向町 市郎兵衛 善根寺 彦左衛門
下清水町 彦四郎 同 藤兵衛
裏 記載なし
4.諏訪神社本殿棟札 元禄七年(一六九四)
元禄七年甲戌河州河内郡善根寺村藤原朝臣家次 檜皮屋惣兵衛
大工 八兵衛5⑤ 高山八幡宮本殿棟札 亨保十一年(一七二六)
表
亨保十一丙午年 檜皮大工棟梁
高山八幡宮御社上葺棟札 河州河内郡善根寺村宮脇五兵衛政重
三月吉日
大坂こう産町
仕手 肝煎 弥平次
同すけた町 喜右衛門
同のうにんはし 庄兵衛
同大工町 安兵衛
南都高畑寺座 作兵衛
裏 記載なし
(1)棟札に記載された善根寺檜皮大工
年代としては万治から享保にいたる一〇七年間にわたります。
五兵衛・八兵衛・彦左衛門など同じ名前の大工が三名存在します。年代から考えて同一人ではなく、名を子や孫または血縁者に相伝していると思われます。藤原家次は中世の伝統を受け継ぐ受領名ですが、近世においても使用しています。
年代としては万治から享保にいたる一〇七年間にわたります。
五兵衛・八兵衛・彦左衛門など同じ名前の大工が三名存在します。年代から考えて同一人ではなく、名を子や孫または血縁者に相伝していると思われます。藤原家次は中世の伝統を受け継ぐ受領名ですが、近世においても使用しています。
宮脇宗兵衛・五兵衛、田中八兵衛・八右衛門が棟梁を勤めています。享保一一年には宮脇五兵衛政重となっており、善根寺菩提寺内の墓地にこの宮脇家の宝篋印塔の墓があり、前面に「宮脇氏先区菩提」と銘記され、周囲に四一名の戒名を刻んでいます。西側の墓地内に「法華塔」があり、これはかっての宮脇家の屋敷前の一里塚に宮脇家が建てたものだそうです。
宮脇家墓
法華塔
その碑面は磨耗が激しくわずかに「宮脇宗大夫為人好善近遠慕」「逝年六十有一也」と読め、年号は不明です。この宮脇宗大夫という人物が万治の棟札に登場する宮脇宗兵衛その人と思われます。筆者は平成一一年に善根寺村の近世庄屋である向井家の旧母屋にあった文書群の調査をさせていただきました。
その時に発見した「宗門人別帳」によると、文政四年(一八二一)に五兵衛は二二才、祖母と妹二人の四人家族、一八年後の天保一〇年(一八三九)に五兵衛四一才、妻と一三才の娘との三人家族で、五兵衛はこの時には庄屋を勤めています。そして「手続書」と題した文書に、「当村元庄屋宮脇五兵衛安政五丑年(一八五八)一二月病死仕候、相続人無御座候」とあり、一九年後に相続人がなく断絶したことを伝えています。
宗門人別帳 文政四年
宗門人別帳 天保一年
善根寺の菩提寺住職の記憶では、あとに残された妻が阿弥陀像一体を寺に託していかれたということです。この宮脇五兵衛が、享保時代の日下村庄屋であった森長右衛門貞靖が記録した『日下村森家庄屋日記』の中に登場するのです。
享保一四年(一七二九)に木積宮(現在の石切神社)の屋根葺き替えがありました。江戸時代には木積宮は日下村・額田村・植付村・芝神並(しばこうなみ)村が氏子となっており、四ヶ村で祭祀組合を作り、神社の運営に携わっていました。享保一四年九月二一日、日下村庄屋長右衛門は木積宮四ヶ村の寄り合いに出て、本殿の屋根葺き替えに関する相談をしています。
木積宮の屋根は宝永三年(一七〇六)に葺き替えられ、この年で二三年目にあたっていました。宝永三年には本殿の修復もあり、その費用は三貫二〇〇目(約七〇〇万円)だったようですが、この時は屋根葺き替えだけで、善根寺五兵衛を呼寄せて檜皮葺の見積もりをさせています。
この善根寺五兵衛こそ、善根寺檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛であることは明白です。善根寺五兵衛は木積宮の檜皮葺について、「下地の通り、こけら葺きにして五〇〇目、替棟の外まで檜皮葺にして一貫目」と見積もりしています。五ヶ村庄屋が村へ帰り、百姓の意見を聞いてからもう一度九月二五日に寄り合います。そこでは額田村庄屋から入札にして下値になるようにしては、という意見で、公儀へ葺き替えの御願いをしてから入札することに決まります。
額田村庄屋の話では、他の業者にも見積もらせ、「さや(外囲い)もいたし、さやふきかへ共に五〇〇目、」と報告します。つまり檜皮葺の一貫目よりかなり安価であるということは、檜皮葺ではない他の材質であったと思われますがその詳細は不明です。
閏九月三日に木積宮の神主数馬が七日に奉行所へ屋根葺き替えのお届けに行くことを日下村長右衛門に伝えに来ています。その後十月七日には木積宮屋根葺き替えに日下村より人足三人を遣しています。十月廿九日には屋根葺き替えの費用の割付の相談があり、総費用七八三匁八分一厘となっています。この価格ではおそらく檜皮葺ではなかったと思われます。これを四ヶ村で石高に応じた割付をし、公平に負担しています。
この『日下村森家庄屋日記』の善根寺五兵衛の記載に出会ったことは、五枚の棟札を発見した時と同じような感動がありました。享保一四年といえば、その三年前の享保一一年に奈良県の高山八幡宮の屋根葺き替えに出かけているわけで、善根寺檜皮大工の江戸時代の活躍を証明するものとなったのです。
水度神社の寛文の田中八兵衛もこの時代の指導者とも思われ、万治から元禄にかけて三度名が出てきます。田中家は『枚岡市史』編纂の昭和四〇年代には善根寺に住んでおられたようですがその後転出されたようです。彦左衛門も万治と寛文の二度登場しています。
(2) 檜皮大工の実際の人数
寛文の水度神社の葺替えでは、天王寺組ともう一組の応援を受け、八名の大工名が裏面に記載されています。高山八幡宮の万治には善根寺七名で和州三輪一名、奈良一名、元禄には善根寺四名で奈良から五名、大坂から三名、享保には大坂から四名、南都から一名いずれも応援を受けています。どの作事も善根寺檜皮大工単独で行なうのではなく、必ず奈良や大坂の檜皮大工の手を借りています。これは元来檜皮大工は普段は農業をしながら「出職」として社寺へ出掛け、現場で作業を行い、一定期間で完成させるため、「助職人」として各地から職人が応援に駆け付けたのです。永禄の棟札でも四天王寺の檜皮大工とともに行なっています。では実際の善根寺檜皮大工の人数は何人いたのでしょうか。
日下古文書研究会では平成二一年から再び善根寺向井家に文書調査に入り、今回は蔵の中の文書を調べさせていただいております。そこから檜皮大工に関する貴重な文書が数点見つかりました。そのうちの一通、文化一一年(一八一四)に善根寺春日神社若宮の屋根修復があり、その普請について檜皮大工が約定した一札から檜皮大工の人数が確認できます。
一札之事
一此度当地若宮御殿御屋根修復之義、武左衛門棟梁として仁兵衛・弥右衛門同心致葺立積り
左之通
一檜皮長サ惣テ二尺五寸弐ツ切之事
一軒厚サ平ニテ五寸、出平ニテ四寸地腹玄皮之事
一葺足下壱尺三分足、上弐尺五部足中之間四分足御鉾下壱
尺三分足、上惣テ四分足之事
一足代手伝人足其外入用物皆式引受申、代銀六百匁出来立之上申請候、相対之事
右之通葺足万端少も無相違、尤かつこうよくふき立、檜皮等も地皮を用ひず随分宜敷所ヲ相用ひ可申候、其外釘入用物等無倹約丈夫ニ葺立可申候、然ル上は当年より三〇ヶ年之間畜類之あらし候は格別不起地軒付等ニ荒相立不申様急度請合可申候、万一荒相立候ハヽ、無料ニテ私共より早速取繕可申候、若其節差支之もの有之候ハヽ相残ル印形之者より取繕可申候、たとひ子孫ニ至り候テも少も違変無御座候、為後日差入申請合一札依テ如件
文化一一年戌年二月
善根寺村檜皮葺師
棟梁 武左衛門(印)
同村同心 仁兵衛(印)
同村同断 弥右衛門(印)
善根寺村御役人中
右六百匁之内金弐両先受取仕候処相違無御座候以上
この文書は文化一一年二月、善根寺村氏神である春日神社の若宮の屋根葺について、善根寺檜皮大工の棟梁武左衛門と仁兵衛・弥右衛門の三名が屋根葺を請負い、その仕様について詳しく列記し、入用銀六〇〇匁を完成ののちに受け取ることを明記しています。
そしてかっこうよく丈夫に葺き立てること、三〇年間の維持の保障と、もしその期間中に畜類などにより破損した場合は子孫にいたっても無償で修繕することを約定した文書です。
この文書により文化年間には檜皮大工棟梁は武左衛門であり、仁兵衛と弥右衛門が檜皮大工として存在していたことがわかります。
この史料とこれまでに発見された棟札から檜皮大工名を年代ごとにまとめたものが以下の表です。
| 高山八幡宮 棟札1659 |
|
| 諏訪神社 棟札1694 |
| 若宮修復文書 1814 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
棟梁 | 頭三郎 | 宮脇宗兵衛 | 田中八兵衛 |
| 檜皮葺屋 惣兵衛 | 宮脇五兵衛 政重 | 武左衛門 | ||||
大工 | 新兵衛 | 宮脇五兵衛 | 仁兵衛 | ||||||||
与四郎 | 惣右衛門 | ||||||||||
孫八 | 彦左衛門 | ||||||||||
与六 | 忠次郎 | 彦左衛門 | |||||||||
善四郎 | 長左衛門 | 藤兵衛 | |||||||||
新次郎 | 八兵衛 | 八兵衛 |
永禄の場合は四天王寺に従属する檜皮大工とともに請負っているので惣人数としては一八名ですが、善根寺檜皮大工としては七名です。近世になって永禄一二年と万治二年には七名、
元禄三年には四名、文化一一年には三名となっていたのです。けれどその下には弟子や見習いもいたはずで、三名は大工集団を率いる立場であったと思われます。
棟梁としては田中八兵衛・八右衛門と、宮脇宗兵衛、惣兵衛・五兵衛、文化年間には武左衛門となっています。時代によって変動はありますが、下線のある人物が重複しているように、大工を出す家柄は決まっていたようです。
中世の作事は南都興福寺に従属する寺座としてのものであり、請負形態は近世になってからのものとは異なっていたはずです。近世に南都興福寺の保護を離れて独自で普請請負をするようになってから檜皮大工の規模は縮小されたことは容易に想像できます。それでも彼等の技術と伝統は絶えることなく継承されたのです。
(3) 近世の檜皮葺の実態
近世村落の形成とともに、地域共同体の連帯が強まり、村々で氏神を勧請し、宮座の組織が作られました。支配層も支配地域との結びつきや支配の円滑な運営のために神社の保護に尽くしました。そうした背景があったとしても 神社の檜皮葺の作事は限られたもので、しかも三〇年という檜皮葺の耐用年数があり、一般の大工に比べても仕事量は大きく制限されたでしょう。
当然善根寺檜皮大工集団が近世を通じて檜皮葺の生業を継続するためには農民としての比重が高く、決して豊かな生活の保障が得られるものではなかったはずです。また檜皮葺技術を次世代に伝えていくことの困難さもあったでしょう。文化年間には三名という小規模になっていたのも無理からぬことです。
それでも善根寺檜皮大工集団が生業の燈を絶やす事がなかったのは幕末の史料に見られるように、毎年の春日若宮のお旅所の行宮の松葉の屋根葺に出仕するという名誉ある奉仕があったからではないでしょうか。そして伝承も大きく存在していたでしょう。春日の大和遷宮に供奉したという伝承は檜皮葺の技術とともに子孫や弟子に伝えられ、彼らを支えてあまりあるものであったに違いありません。
そして中世に興福寺寺座であった誇りは彼等から消えることなく、近世の棟札にも宮座の古文書にも石燈籠にも「寺座」と刻み込んでいるのです。では「寺座」という地位は近世にも存在していたのでしょうか。そのへんを解明する史料が向井家文書にあります。
(4)向井家文書「寺座覚書」
向井家の蔵の調査で「寺座覚書」が見つかっています。
寺座覚書
この文書は六丁ほどの竪帳で、破損と虫食いによって判読困難な部分もかなりあり、内容の詳細は解明困難なものですが、末尾に「右之通延享年中御造営之時南都両座ニ致出入候覚書也」とあります。つまり延享年中の春日の御造営の時に南都両座と出入になったことの顛末と思われます。
延享二年八月廿三日に南都 春日御造営の木作初があり、その首尾が前日に通達されたようです。しかし
新法ニ御祝儀 一御殿大乗院様座、二ノ御殿一乗院様座、 三御殿寺座ニ相勤様、 大乗院様御家老多聞院様、南院様御両人より被 仰渡候、左様ニ相勤[ ]古法ニ違甚難渋之段、達テ御願申上候候
とあり、一の御殿は大乗院座、二の御殿は一乗院座、三の御殿は寺座と、新しく普請場所を決めたことが古法に相違するということで願書を差し出したようです。
その返答が河州寺座ハ宮本座故、三ノ御殿相勤申由、右寺座ハ檜皮葺師 三座之座頭故如此申付候と被仰候とあるので、善根寺檜皮大工は河州寺座と称され、宮本座(みやほんざ)であり檜皮葺師で三座の座頭(ざがしら)であるためこの如くに申し付けるのだという返答です。そしてとにかく明二三日に迫っているので木作初の祝儀はこのまま勤めるようにとの指示がありました。
八月二五日に善根寺檜皮大工棟梁である宮脇五兵衛と庄屋太郎兵衛が南都大乗院役所に出頭し、御前御記録帳と寺座之覚書を照合し、相違ないことが確認されます。そのあとの記載は普請の内容と、最後に御普請奉行帯刀様他一名の仰渡しがありますが、欠損が多く詳細は不明です。
全文の解釈は困難ながら、おそらく河州寺座がそれまでの作事の受け持ちを変更されたようで、それを訴えたものと思われます。けれどその原因は不明です。
その後には「寺座法」として座頭になる事が出来るのは「年兄月兄日兄」とあるので、年齢序列が重んじられたようです。
葺初早ク致候者を座頭ニ可致[ ]左様ニ致候テハ古法と相違ニ付、
とあり、檜皮を早く葺く能力によって座頭にするのは古法に違反するとあります。中世以来の伝統で、年齢によって次(階級)が決定されていたものを、実際の能力によって評価する動きが出てきたことへの戒めであろうと思われます。そのあとには養子や他家へ嫁したものの決まり事が記されていますがこれも破損が激しく内容が不明です。
この文書によって貞享・宝永・享保の春日の御造営に、善根寺檜皮大工たちが奉仕していたこと、しかも善根寺檜皮大工が「河州寺座と」称され、南都興福寺内で重要な地位を占めていたことが証明されたのです。近世の棟札にも石燈籠にも古文書にも「寺座」と記録したのは、「寺座」の地位が中世の遺物ではなく、近世においても厳然と存在していたからなのです。
(5)向井家文書「春日社御造営屋弥[ 以下破損]」
(表紙)明和元年 春日社御造営 屋弥
向井家文書の中に明和元年に書上げた春日社御造営の屋根檜皮葺の記録が見つかりました。竪帳の下部が大きく破損しており、解読困難なものですが、春日社の御移殿、酒殿、御本社、若宮、浮雲社などの屋根葺について詳細に寸法と坪数を書上げています。
枚岡市史に掲載された明和三年の『春日社御造営屋根之日記』は向井家に現存しませんので、それより二年前に書上げられたこの文書は、善根寺檜皮大工が春日社御造営に出仕したことを示す貴重な史料となります。
(6)向井家文書「春日社造立諸入用帳」
辛享保六年 春日社造立諸入用帳 丑二月六
これは享保六年(一七二一)に善根寺春日神社造立の経費を書上げたものです。奉行所へお願いに行った時に役人に贈る和紙から、遷宮に必要なもめん生地一疋、春日づくり宮造立の大工手間、檜皮材料と葺き手間、檜皮葺に必要な竹釘、縄をはじめ、拝殿修復、練塀、拝殿左右や練塀下の切石まですべての経費を書上げています。大工手間が多くかかり過ぎたようで、年寄と足立註蔵に相談し増加分を支払っています。
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