明治維新に至って善根寺檜皮大工の活動は終焉を迎えます。明治元年の「神仏分離令」、同四年の「社寺領上知令」により、興福寺の広大な境内地は没収され、塔頭はことごと
く破却され、両門跡をはじめ院家、学侶は還俗させられました。大和春日社は同四年に官幣大社に列せられます。神職は官吏となり、伝統的な春日社家をはじめ、多数の旧神官は一掃され、野田、高畑の社家町はさびれ果てたのです。
旧来の組織の解体は当然善根寺檜皮大工の死活に大きく影響し、大和春日社の屋根葺替、若宮おん祭りのお旅所行宮の松葉の屋根葺に奉仕してきた習慣は途絶え、官幣大社となった春日社と彼らのつながりは完全に消滅したでしょう。彼らを支えていた一本の綱が断ち切られたのです。
近世においてさえ多くの困難の中でよく持ちこたえた彼らの生業の燈は、ここにおいて燃え尽きるほかなかったのです。
現在の地元の古老によると、大正年間には春日社の造営や祭礼に際して善根寺春日座は主要な席次を与えられて列席したとのことです。昭和になってからも、「春日若宮おん祭り」の行列に参加したこともあったようです。春日神社の提灯や檜皮葺の道具は戦後すぐまでは二五人衆の家の蔵に保管されていたそうです。明治以来すでに百数十年、檜皮葺に関しての地元の記憶も、父や祖父に聞いたという程度のあやういもので時代があまりにも遠くへだたってしまったという感は否めません。
明治以降の確かな記録としては、平安末期以来約七〇〇冊という膨大な記録を残している春日大社の社務日誌の昭和七年一二月一四日条に善根寺が登場しています。現在までの膨大な記録に目を通されている、春日大社名誉参事の大東延和氏のご教示により、その日誌を拝見させていただきました。
官幣大社春日神社 社務日誌
昭和七年一二月一四日水曜 晴れ
一善根寺春日神社社掌高松諸成来社
例年の通り社醸酒弐升献納ス徹餅トシテ藤丸菓子二個 入一三包授与シタリ
大正時代の善根寺春日神社参道
とあり、善根寺春日神社の御神酒神事で造られたお神酒を春日大社へ毎年献上していたのです。しかし春日大社の中で、檜皮葺大工の存在がどう捉えられていたのかは他に史料はなく全く不明です。
年代 | 史料 | 所在 | |
---|---|---|---|
1 | 永禄一二年(1569) | 広八幡神社棟札 | 和歌山県有田郡広川町 |
2 | 承応三年 (1654) | 春日神社石燈籠 | 善根寺春日神社 |
3 | 万治二年 (1659) | 高山八幡宮棟札 | 奈良県生駒市高山町 |
4 | 寛文九年 (1669) | 水度神社棟札 | 京都府城陽市寺田水度坂 |
5 | 元禄三年 (1690) | 高山八幡宮棟札 | 奈良県生駒市高山町 |
6 | 元禄七年 (1694) | 諏訪神社棟札 | 東大阪市中新開 |
7 | 宝永六年 (1709) | 春日神社石燈籠 | 善根寺春日神社 |
8 | 享保一一年(1726) | 高山八幡宮棟札 | 奈良県生駒市高山町 |
9 | 延享二年 (1745) | 寺座覚書 | 善根寺向井家 |
10 | 明和三年 (1766) | 春日造営屋根日記 | 善根寺向井家 |
11 | 天明三年 (1783) | 寺檜皮大工職補任状 | 善根寺向井家 |
12 | 文化一一年(1814) | 春日若宮修復文書 | 善根寺向井家 |
13 | 元治二年 (1865) | 助郷夫役除嘆願書 | 善根寺向井家 |
おわりに
これまでの検証で、史実としては永禄十二年から幕末までの約三〇〇年にわたる善根寺檜皮葺大工集団の活動が明らかになりました。六枚の棟札と、古文書、文献に記された彼らの軌跡の一つ一つから、山深い善根寺春日神社を守りつつ、檜皮葺大工としての生業に励み、戦国時代から明治直前に至るはるかな年月を越えて活動の記録を残した人々の姿が彷彿としてきます。そして善根寺檜皮葺大工をめぐる伝承は彼等のたどった歴史の影に見え隠れします。
永禄十二年の棟札が彼等の中世における活動を証明し、善根寺檜皮葺大工のはじまりが永禄年間以前に遡ることは確かですが、その具体的な年代はより古い棟札の発見に待つしかないのです。だからといって古代にまで遡ることは考え難いことです。
古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。
古代の日本人は大自然すべてを神として崇拝し、従順な畏服で応えました。それは稲穂の名を冠した穀霊神として降臨した「穂能迩迩芸命(ほのににぎのみこと)」と、その子孫としての天皇への畏敬につながります。貴族の筆頭である藤原氏は「穂能迩迩芸命」の随神「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)を祖先神としました。天皇を補佐するものとして神代から約束されていたと権威づけたのです。
古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。
参考文献
『大阪府全志』大正一二年 『中河内郡誌』大正一一年
『枚岡市史』昭和四〇年 『和歌山県史』和歌山県
佐藤正彦『天井裏の文化史』
『棟札銘文集成』平成八年 国立民俗博物館
大河直躬『番匠』 一九七一年
豊田武『座の研究』 昭和五七年
大野七三『先代旧事本紀訓註』 平成元年
黒田昇義『春日大社建築史論』
『玉葉』第三巻
『大乗院寺社雑事記』第五・六・七巻
原田多加司『檜皮葺と?葺』 一九九九年
高松米三郎『孔舎衙春日宮社記』 昭和一五年
上田正昭『春日明神』 一九八七年
川上貢『近世上方大工の組・仲間』 一九九七年
「向井家文書」向井竹利氏所蔵
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