2011年3月2日水曜日

三 善根寺檜皮大工の実像

1 棟札に見る中世の活動

 (1) 広八幡神社永禄一二年の棟札
近世以前の唯一の棟札である広八幡神社の永禄一二年の棟札は高さ八七㌢、幅一五㌢という、棟札にしてはかなり大きなもので、その記載内容は非常に詳細にわたります。表面に檜皮葺を請負った職人集団を両側に配し、すべての職人名を列記し、裏面には檜皮の出荷状況まで記録しています。ではその記載内容が解明してくれるものを探ってみましょう。

広八幡神社 棟札表面
 ▼記載内容
表時建立社務池永宗介卅九才子甚次郎十八才 
永禄十貮年己巳八月十二日始 
仕手人数 新兵衛 奈良屋源衛門 サカイ新左衛門 番匠童子
与四郎 孫八 与六 善四郎 新次郎     亀
南方 檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次宿所河内善根寺頭三郎(假名) 
紀州在田郡東広八幡宮御上葺両大工
北方 檜皮大工摂津国四天王寺之住人藤原朝臣宗広源左衛(假名)門尉 
仕手人数 善左衛門 又左衛門 新□衛門 源左衛門 弥五郎
源五郎(小工)  甚四郎 源三郎        番匠童子 
廾四才                          太楠
奉加貮一石大夫郷快傳法印 五十才 根来寺蓮花谷院内 
同霜月二日午時棟上御祝言上遷宮
裏                       
御調作領四拾貫大工大工請取 時奉行社僧薬師院 實秀廾五才
惣奉行 世順卅九才 宮仕助大夫 
熊野檜皮百駄荷数貮百卅荷槙八十荷田那辺ヨリ出也裏山檜皮
五十束此分ハ皆浜湊崎山藤次郎廾五才両度以辛労出之
湯河殿ヨリ両大工ニ依被仰付如此候出在所ハ不定置事候 
在田日高二郡勧進本願社僧弁才天院 實粲   
永禄十貮年己巳十月三日筆者同實粲
1.「南都住人、宿所善根寺」
棟札表面に「檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次(ひわだだいくなんとのじゅうにんふじわらあそんいえつぐ)」となっており、その下に「宿所河内善根寺頭三郎(しゅくしょかわちぜんごんじかしらさぶろう)」とあります。この「南都住人」や「大坂住人」という記載は棟札によく出てくるもので、職人の出身あるいは所属を表すものです。北方とある「摂津国四天王寺之(せっつのくにしてんのうじの)住人(じゅうにん)藤原(ふじわら)朝(あ)臣宗(そんむね)広(ひろ)」は大坂の四天王寺に従属する檜皮葺座であることを示しています。では南都住人とあるのはどこに所属していたのでしょうか。これを解明するには、表1の2・4の高山八幡宮の二枚の棟札にある「寺座(てらざ)」という記載がヒントになります。

平安末期以降、商工業者が集団で「座」を結成し貴族や大社寺に従属して貢納金を支払う見返りに諸税の免除と専売特許権を得たのです。畿内では多くの「座」が成立し、大和では特に興福寺とその門跡、大乗院、一乗院に従属する商工座は戦国時代には一〇〇座に近い数に上りました。特に建築関係の手工業座が多く、職種も広範囲にわたっていました。「寺座」とは興福寺に従属する建築職人の「座」なのです。

治承(じしょう)年間(一一七七~一一八一)に重源(ちょうげん)による東大寺再建がはじまり、大和には優秀な技術者が集りました。興福寺は今こそ小さくなっていますが、中世の時代には、現在の奈良駅から春日神社までの区域がすべて興福寺の境内地でした。そこに一〇〇を越える堂塔(どうとう)伽藍(がらん)が建っていました。 

その修復工事は常に行われ、仕事が絶えることはありませんでした。その上に興福寺は大和(やまと)守護(しゅご)として大和一国を治めていましたので、豊かな財力もあり、建築(けんちく)工匠(こうしょう)たちに安定した収入を提供したのです。

春日興福寺は藤原氏の氏神(うじがみ)、氏寺(うじでら)であり、藤原氏一門の祈願による造営では京都の宮廷、公家の工匠たちが造営(ぞうえい)に参加しました。それによって王朝貴族の洗練された美的感覚も確実に取り込まれたのです。大和の伝統的な天平風(てんぴょうふう)と京の公家風の二つの潮流が融合し、当時の建築界の頂点に位置する建築技術が醸成されました。
大和の建築工匠たちは「無双(むそう)の上手(じょうず)」とはやされ他国へも呼ばれて出かけていきました。地方では優秀な技能者が存在せず「無双の上手」と称賛された「奈良大工」を高い報酬と役職で優遇し、中央の高い技術を取り入れたのです。

興福寺建築工匠座は大乗院座、一乗院座、寺座の三座に分かれ、共に大和春日社の造営に従事していました。木工の「寺座」は文明年間(一四六九~一四八七)には大和春日社の工事一切を独占していました。檜皮葺の寺座は木工の「寺座」ほどの強い独占力はなかったものの、春日社の屋根は伝統的に檜皮葺であることから檜皮葺座は重んじられ、門跡第一といわれた有力な座であったのです。
興福寺とその門跡の支配下にあった座の番匠(ばんじょう)たちは主として奈良市中に住んでおり、特に「寺座」の番匠は市外に住む「田舎(いなか)番匠(ばんじょう)」と対称的に呼ばれていて、その大部分が奈良市中に住んでいました。

したがって善根寺檜皮大工たちは興福寺の檜皮葺寺座の工匠として南都に住んでいたのです。棟札に「南都住人」と記載していることがそれを証明しています。畿内における春日興福寺の建築職人の名声は高く、「南都住人」は当時の建築界での最高の技術者であることを示すものであったから、それを誇りとして棟札に記載したのです。 

とにかく、善根寺檜皮大工は永禄一二年という時期に南都に住み、「寺座」として大和春日社の檜皮葺に従事しながら各地に出掛けて檜皮葺を行なっていたことがこの棟札によって確認できます。 

2. 藤原朝臣家次の名乗り
善根寺檜皮大工が「藤原朝臣家次」と名乗るのはなぜでしょうか。平安時代から工匠への叙位(じょい)(位階を授けること)、受領(ずりょう)(地方官の官職を与えること)の授与(じゅよ)が行なわれました。建(けん)久(きゅう)元年(一一九〇)一〇月、東大寺再建の上棟に際し、建築工人に受領が行なわれたと、鎌倉初期の関白(かんぱく)九条兼(くじょうかね)実(ざね)がその日記『玉葉(ぎょくよう)』に記しています。

朝廷が行なう叙位や任官も、朝廷の権力の衰えた室町時代に入ると、京都や奈良では大社寺が所属する工匠にその功績を顕彰する手段として受領号などの官職の授与を行なったのです。河内(かわち)権守(ごんのかみ)や讃岐(さぬき)大夫(だいふ)という称号がみられ、権(ごん)大工(だいく)、正大工(しょうだいく)、惣(そう)大工(だいく)、太夫(たゆう)大工(だいく)などの肩書と共に貴族の姓を与えています。中世に大工の呼称は造営の最高責任者「おおいたくみ」のことで、一般の建築職人は番匠と呼ばれました。

近世に指導者の地位を著わす棟梁という呼称が現れると、大工は一般の建築職人の名称となったのです。一四世紀以降の法隆寺では橘(たちばな)、平(たいら)、藤原(ふじわら)、秦(はた)の四氏が指導者としての大工職に定められて相伝されていました。藤原家次は特に檜皮大工に多く、半数以上が家次を名乗っています。藤原家次は実在の人物であり、南家の武智(たけち)麿(まろ)の一一代後に出てくる人ですが、なぜ家次が多いのかは不明です。

以上のことから善根寺檜皮大工は寺座に従属する時代に興福寺から「藤原朝臣家次」の受領名を拝領していると考えられます。

3. 広八幡神社の永禄一二年の檜皮葺作事(さくじ)の実態
棟札の表に両大工名があり、この檜皮葺替えを四天王寺に従属する檜皮大工とともに請け負っています。摂津では四天王寺、大和では興福寺という畿内でもトップクラスの建築工匠が協力し合う関係がありました。それはその神社の規模によって職人数が不足する場合もあり、職人同士で互いに協力関係が築かれていたのです。

その両側には仕手人数とあり、この工事に携わった職人のすべての名前が列挙されています。善根寺、四天王寺ともに八名、番匠童子が一名ずつです。善根寺の仕手の中に奈良屋やサカイとあるのも他所の職人に応援を頼んでいるのです。番匠童子とあるのは建築現場の古図にも描かれているように、大工集団につき従っていた年少の工匠見習いで、少額ながら作料や食料が支給されていました。

広八幡神社の本殿三間社流れ造りの檜皮葺工事に一八名
で遂行しています。八月一二日に仕事始め、十月三日に弁才天院の實粲(じっさん)がこの棟札を執筆し、「霜月二日午時棟上御祝言上遷宮」とあります。現在奈良、大阪、和歌山の檜皮葺工事に携わり、広八幡神社の檜皮葺替も担当された谷上社寺工業株式会社の谷上永晃氏のお話では、「八月から古い檜皮を取り除き、十月から檜皮葺を初め、棟上御祝言は完成の意味で、霜月(一一月)に完成ということでしょう」とのことです。

右側の「建立社務池永宗介」は広八幡神社に遺された三〇枚の棟札の中の元亀四年(一五七三)の拝殿棟札に「社務湯河忠次郎孫池永宗介」とあり、この人物は南北朝以後足利幕府の奉公衆に列する紀州の国人として活躍した湯河氏一族です。裏面左側に「湯河殿より両大工に仰せ付けられ」とあり、湯河氏がこの作事を采配したことがわかります。湯河氏は永禄二年(一五五九)に短期間ですが守護畠山高政の要請で河内守護代に就任しており、畿内の優秀な檜皮大工を招くことも可能であったのです。

広八幡神社 棟札裏面
 裏面に薬師院や弁才天院とあるのは中世に六坊あった広八幡神社の神宮寺仙光寺の子院であり、その僧實秀と世順が奉行を勤めています。この六坊は天正一三年(一五八五)三月の羽柴秀吉の紀州征伐で薬師院、明王院のみが残り、広八幡神社の別当職を交替で継承しました。

天文一六年(一五四七)の棟札でも湯河氏の子息が社務を勤めているので池永宗介がこの時代の別当(べっとう)(寺務担当者)であったと思われます。弁才天院の實粲(じっさん)が在田(有田)、日高の二郡で勧進(かんじん)(寄付を集めること)を勤め、この棟札の筆者でもあります。左側には根来寺(ねごろじ)の塔頭(たっちゅう)蓮(れん)花谷院(げだにいん)の僧の寄進を記していますが、奉加(ほうか)二〇石とあり、当時の根来寺の財力の大きさが偲ばれます。

裏面の中央に記載されるのは檜皮葺の出荷状況です。熊野の檜皮を一〇〇駄二三〇荷と、槙八〇荷を田辺湾から出荷しています。谷上氏のお話では檜皮は原皮師(もとかわし)と呼ばれる職人が山に入り採取します。一本の檜から採取出来る檜皮の量、八貫目(三〇㌔)を一単位として丸く括り、それを一丸(ひとまる)と称するそうです。馬で運んだ時代は、一駄は五丸 といい、三〇㌔のものを五本、つまり一五〇㌔を積んだといいます。現在も檜皮の単位はこの様式を用いています。つまり一〇〇駄は五〇〇丸(一五㌧)となります。檜皮葺は一坪葺くのに一駄、一五〇㌔が必要といわれ、広八幡神社で合計一〇〇駄必要としています。つまり一〇〇坪分の檜皮です。

広八幡神社の三間社流れ造り本殿で約三〇坪の広さです。現在は一間社の摂社三社あり、安永七年(一七七八)の古図には本殿の横に六社の摂社があるので、中世にも一間社の摂社が六社あったとすると六〇坪、合計で九〇坪となります。ほぼ一〇〇駄の檜皮量に相当します。しかし檜皮の量については、さらに裏山檜皮五〇束と記しているので現在より厚く葺いたのかもしれません。

裏山檜皮五〇束は「濱湊崎山藤次郎(はまみなとさきやまとうじろう)廾五(にじゅうご)才両度以辛労出之(りょうど しんろうをもって これをいだす)」とあります。神社は周囲に山や森を持ち、その産する材木で数十年毎の社殿修復をまかなったのです。裏山であっても濱湊崎山より出荷しているのは山と海に狭められた紀州の地形の厳しさ故でしょう。濱湊は有田川か広八幡神社に最も近い広川の河口でしょうか。紀ノ川の河口の紀伊湊が中世には現在よりかなり奥まったところに位置していたように、中世との地形の違いがあり、現在のどこかは不明です。 

谷上氏のお話では和歌山での檜皮採取は、昭和三〇年代でも船で運ぶしかなかったといいます。この出荷の困難さを筆者實粲は、原皮師藤次郎の苦労を讃えるように、「両度(りょうど)辛労(しんろう)をもってこれを出(い)だす」と生々しく伝えています。『棟札銘文集成』の中でも檜皮葺の棟札でこれほど詳細な工事の実情を記載したものはなく貴重な史料です。

檜皮葺の出荷を示す裏面の記載が一〇月三日で、一一月二日の上棟が完成とすると、職人数一八名で葺仕事だけでは一ヵ月でやり遂げています。現在の葺く工程は坪当たり五人といわれます。一八人で一ヵ月、一応二八日間と仮定し五〇四工(く)となります。これは坪五人として一〇〇坪の檜皮を葺く延べ労働人数となります。

その下に、「槙八〇荷」とあるのは昔は?材(こけらざい)として槙が使われたことがあり、?で葺く建物があったのかもしれません。

裏面に御調作領四〇貫とあり、これが大工の給金です。中世の番匠の日別賃金を作料といい、大工で一〇〇文、一般の番匠では二五文という例があり、他に食料米大工一斗、権(ごん)大工(だいく)は九升、座(ざ)衆(しゅう)八升が支給されました。賃金についての史料は少なく確かなことは不明です。

(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手

善根寺春日神社 鹿曼荼羅


善根寺春日神社の宮座に伝わる「春日(かすが)鹿(しか)曼荼羅(まんだら)」は、現在大阪市立天王寺美術館に寄託され、室町時代のものであることが証明されました。
ではこれはどのようにして伝わったのでしょう。室町時代の善根寺檜皮大工が置かれていた春日興福寺内の状況を調べてみました。

中世前期には朝廷や貴族勢力に守られていた造営制度が崩壊し、建築工匠座は大社寺に従属し、職場の安定を求めました。その中では職場をめぐる争いが激化したのです。やがて一四世紀頃には職場の確保を目的とした大工(だいく)職(しき)が成立します。これは大社寺に補任料を納めて補任状を免許されると職場の独占と給田などの庇護を与えられ、その代償として祭礼の用銭、労役奉仕などの義務を負わされるものでした。大工職は大きな権利として相続、売買されたので争奪の対象となったのです。

こうした職場の独占、領主に対する優先権など座衆の対立に対して優劣の根拠となったのは座の先例であり、由緒でした。古くからの正しい由緒が最も貴重とされたから、朝廷との関係を示す古い系図や文書が証拠として持ちだされたのです。

善根寺檜皮大工の伝承はこうした中世の風潮の中で春日社内での優位な地位の獲得のために生み出されたと考えられます。『先代旧事本記』に登場する枚岡神社の主神天児屋根命に随神した二五部の人に自分たちの出自を置くことは、神代とのつながりを意味します。しかも神護景雲二年の枚岡神社からの遷宮につき従ったというのは大和春日社の創祀に関係するわけで、大和春日社の中でも最高の権威を持ちえたはずです。

この由緒はおそらく『先代旧事本記』の内容を熟知した人物が作り上げたものと思われますが、最も効果ある由緒として、春日社内での善根寺檜皮大工の地位を引き上げることに成功したでしょう。

春日鹿曼荼羅のみならず春日曼荼羅には、春日宮曼荼羅、春日社寺曼荼羅、春日本地仏(ほんちぶつ)曼荼羅(まんだら)など諸形式があり、藤原氏一門の尊崇を受け、遠隔地の人々が春日曼荼羅を春日の神として日夜拝することによって参詣に代えたのです。やがて南山城、大和を中心に春日講が結成され、毎月春日曼荼羅の前で法楽を催し、民衆の中に春日信仰として広まっていきました。

春日曼荼羅は興福寺絵所の絵師によって制作されましたが、室町時代には制作、販売を取り扱う絵屋が登場し量産され、春日信仰の大衆化を推し進めました。善根寺檜皮大工たちは自らの権威ある由緒によって室町時代にこの曼荼羅を大和春日社から拝領したか、あるいはそうした絵所で作成された曼荼羅を購入したものと思われます。


(3) 秀吉による座の破却 
中世には春日興福寺に従属し、当寺の最高の技術を持って各地に檜皮葺に出かけていた善根寺檜皮大工集団は中世の終りとともに大きく運命が転換することになります。
応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱(一四六七~一四七七)以後、大和でも混乱と兵火にみまわれ、筒井(つつい)氏(し)、越智(おち)氏(し)、十市(とうち)氏などの大和の国人領主が勢力をのばしていました。商工業者は寺社を離れ、春日興福寺に従属していた諸座も、大和の国人領主の下に走り、その保護を受けていました。興福寺のかつての膨大な領地は衰退の一途をたどりはじめるのです。

天正一三年閏八月の羽柴秀長が大和郡山に入城しますと、筒井氏以下大和武士は伊賀へ移されたのです。これによって興福寺の没落は決定的となり、大和に君臨した興福寺の中世的権威は落日を迎えたのです。 

豊臣政権の成立後、秀吉は関所の撤廃と共に、座の破却を行ないました。いわゆる「楽(らく)市(いち)楽座(らくざ)」といわれるものです。天正一五年(一五八七)には豊臣秀長が奈良、郡山の「諸公事座(もろもろのくじざ)を悉(ことごと)く破れ」と命じています。これ以後畿内近国の直轄都市を中心として工人、商人の座をいわず、全面的に廃止され、商工業者は貴族や大社寺から完全に独立して自由な営業を行なうことになりました。

戦国の混乱を制し、天下人となった秀吉にとって、貴族、大社寺の荘園領主に結びついた中世的な経済秩序を打ち破り、経済機構を統一政権に組み込むためにぜひとも必要な手段であったのです。これによって、さしもの春日興福寺の膨大な商工座も解体されました。 

建築工匠の座については「諸座御棄破(しょざごきは)」の命令とともに、諸職人の使用は寺家の自由にしてよいとされ、座が否定されて後も、大社寺においては従来の工匠を召し使って造営修復の作事が行なわれ、かつての工匠によって職場の独占が行なわれました。こうした座は近世には仲間組合へと繋がっていきます。奈良今(いま)辻子(ずし)の符坂油座(ふざかあぶらざ)や大山崎(おおやまざき)の油座は慶長のころには有力な仲間を形成しています。建築座についても仲間を形成し、その後も大和春日社の造営、造替、修復に出仕したのです。

興福寺の「寺座」をはじめとして法隆寺の四人の番匠大工も、中世以来の世襲大工職や夫役(ぶやく)免除の特権を否定され、幕府(ばくふ)大工頭(だいくかしら)中井家の支配下で南京組、西京組、法隆寺組などの工匠集団に編成されて、幕府の行なう諸工事に使役されたのです。興福寺「寺座」は近世に入って「春日座」と称し、慶長一八年(一六一三)の造替では寺座の指導者であった一六人大工が春日座大工として、幕府の大工頭である中井大和守との折衝に当たっています。

中世興福寺は没落し、朱印領二万石を与えられて、秀吉、徳川政権への服従を強いられることになります。数百といわれた座は破却され、座衆は春日興福寺という大きな支えを失ったのです。

善根寺檜皮大工も例外なく非情な歴史の変革の波に押し流されるしかなく、河内善根寺に帰ったのです。それが善根寺檜皮大工の伝承にある「故ありて河内に帰り」ということだったのではないかと思うのです。つまり「南都住人」であった善根寺檜皮大工は、近世への転換によって興福寺に従属する「寺座」として受けていた生活の安定を失い、河内へ生活の基盤を移すことを余儀なくされたのです。それは「檜皮葺座」が興福寺の座衆の中でも符坂油座とともに最も裕福な座であったことを考えても、善根寺檜皮大工にとっては余りにも苛酷な運命であったでしょう。この新しい時代の流れに翻弄された記憶を、伝承の「故ありて」という言葉に込めたのではないかと考えます。

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