2011年3月4日金曜日

一 善根寺檜皮大工の伝承

まずこの神社に伝わる檜皮大工の伝承について検証してみたいと思います。伝承の詳細は、大正一二年編纂『大阪府全志』の「大字善根寺」の項に次のようにあります。




里(さと)老(ろう)の口碑(こうひ)にいう。神護景(じんごけい)雲(うん)二年枚(にねんひら)岡(おか)明神(みょうじん)分霊(ぶんれい)の大和の春日に遷座(せんざ)ありし時(とき)、奉仕者(ほうししゃ)供奉(ぐぶ)して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、山中の一小寺たる善根寺の傍に住せしより、戸口次第に繁殖して遂に一村落を為(な)せりと。
其の子孫は春日座(かすがざ)と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、其の祭式には供奉してお下がりの雉、狸、米の贈与に預かれり。これ遷宮(せんぐう)当時の因(ちな)みに依れるものなりしが、明治維新の後に至りて其のこと止みしも、春日座は継続し、(略)同座に伝わり来たれる春日(かすが)曼荼羅(まんだら)を(中略)保管し、(中略)座中一同集いて祭祀せるは本地濫觴(らんしょう)(はじまり)の昔を今に語れるの慣習なるべし。



さらに『枚岡市史』第四巻資料編二によると、明治初年(一八六八)政府は全国の各村誌を作成、提出させました。その時『孔舎衙村誌』も作成されましたがこれは現存せず、昭和三六年に刊行された『くさか村誌』は明治初年の『孔舎衙村誌』と同じ内容とされています。その内容は次の通りです。



大字善根寺ハ神護景雲二年(七六八)、枚岡明神、奈良春日に遷座ノ際、宮仕ノ者供奉シ移リシガ、後故アリテ春日明神屋根職ノ者二五、宮郷土出雲井ニ帰リシガ、転ジテ茲土ニ来リ善根寺ノ傍ニ住シ、漸次戸口繁殖シテ遂ニ一村落ヲナセリト。爾来春日神祭毎ニ、二五名ノ者供奉ノ列ニ加ル、之レ往昔遷宮供奉ノ例ニ依ルト云フ。明治維新ニ至リ、此ノ典ヲ廃セラル。寛文三年日下村ヨリ分離シテ善根寺村トナル。


ここでは二五人の帰った場所が出雲井となっており、これは枚岡神社が鎮座(ちんざ)する村です。さらに大正一一年編纂の『中河内郡誌』にもほぼ同じ内容のものが載せられています。


ではこの伝承の内容を検討してみましょう。枚岡明神とあるのは枚岡神社のことで、善根寺より三㌔南にあり、中臣・藤原氏の祖神である天児屋根命を主神とする元春日とされる河内一宮です。
『枚岡市史』には枚岡神社の項に、


元要記(げんようき)に創祀を白雉(はくち)元年(六五〇)とし、神護景雲二年に大和春日社に分祀(ぶんし)され、宝亀(ほうき)九年(七七八)に大和春日社に倣って武甕槌命・経津主命(たけみかづちのみこと ふつぬしのみこと)が勧請(かんじょう)された。
(奈良の春日大社は明治四年に官幣大社となり昭和二一年に春日大社と改称されたので本稿ではそれ以前は大和春日社と称します)


とあります。伝承では「この枚岡神社から春日大社へ勧請された際に奉仕者が供奉して彼の地に移り、後故ありて二五名は河内に帰った」とされているのです。
伝承のその次の「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、」以下の部分については、『枚岡市史』に記載ある向井家文書の『春日社御造営屋根之日記』に同様の内容が記載されています。

これは明和三年(一七六六)三月に大和春日社屋根葺き替えに奉仕した時のもので、『枚岡市史』に収録されたその内容によると、「明治初年までは南都春日神社の屋根葺き替えのたびに奉仕に出て扶持米を受け、祭式に供奉してお下がりの雉、狸、米を授与されていた」とあります。

つまり伝承の内容とほぼ同一であり、この部分の伝承がこの古文書を典拠としていることは明白です。それを傍証するものが『枚岡市史』に記載ある向井家文書の、元治二年(一八六五)二月、慶応元年(同年)五月の二度にわたって代官所へ差し出した助郷夫役の免除を願う嘆願書です。

この時期、長州征伐を終えた幕府軍の撤退のために伏見・枚方の宿場町が混雑し、その応援のための助郷(すけごう)徴発(ちょうはつ)(人足を出すこと)が近郷村に発せられたのです。この助郷徴発を善根寺村では大和春日への奉仕を理由に免除を願っているのです。助郷免除嘆願の慶応元年のものを見ると、




当村の儀往古より由緒御座候に付、南都春日社御造営(ごぞうえい)之度毎は申すに及ばず、年々若宮御祭礼の節、御屋根御用、御寺務一乗院宮(いちじょういんのみや)様(さま)、大乗院宮(だいじょういんのみや)様(さま)より仰せ付けられ、多分人足差出罷りあり候に付、前々より助郷等の過役(課役)御免除成し下され候(中略)



と、南都春日社御造営と若宮御祭礼の節の屋根葺き替えに奉仕してきたことにより、助郷を免除される「除(のぞ)き村」となってきたことを述べて、この度の枚方宿の助郷免除を願い出ています。
南都春日社御造営とは二一年ごとの造替であり、若宮祭礼とは「若宮おん祭」のことです。

現在の「若宮おん祭」では準備の一つとして十月一日に一の鳥居の御旅所で「お旅所縄棟祭」が行われ、松の黒木で若宮の本殿と同じ大きさの行宮(あんぐう)が南面して建てられ、松葉で屋根が葺かれます。この屋根葺きに善根寺檜皮大工が奉仕したのです。

つまり『春日社御造営屋根之日記』と「助郷免除嘆願」の二通の向井家文書によって、伝承にある「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えにいたりて扶持米を受け」という部分が事実であることを証明できることになります。

ではその前の部分についてはどうでしょうか。「神護景雲二年枚岡明神分霊の大和の春日に遷座ありし時、奉仕者供奉して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、」の部分です。この供奉が檜皮葺造営のためと考えたいところですが、この時代に善根寺檜皮大工が存在していたとは考え難く、これは事実というよりも何らかの意図をもって創作された伝承と考えるのが妥当です。ここに「二五人衆」という数字がキーポイントとなってそう考えるに値する史料があるのです。

善根寺春日神社の現神主高松諸栄氏の父である高松諸成という人物は、昭和三年に善根寺春日神社に赴任し、昭和一五年に『孔舎衙春日宮社記』を執筆しています。孔舎衙となっているのは、かつて近世初頭には善根寺は日下村の枝郷であったことと、もう一つは、昭和一五年に皇紀二六〇〇年の「神武天皇戦跡顕彰事業」によって日下地区が「神武天皇の孔舎衙坂の戦」の場所として脚光を浴び、二つの戦跡碑が建ったことで、善根寺春日神社の由緒を孔舎衙と結びつけて神話的に著述する必要があったためなのです。

                                         若宮おん祭りお旅所行官

               孔舎衙春日宮社記

その内容は「饒速日命の御降臨(にぎはやひのみこと ごこうりん)」、「神武天皇の御親察、並孔舎衙坂の御戦跡」というようないわゆる神話的記述に終始した神社略記です。その中の「饒速日命の御降臨」の項に次のようにあるのです。


旧事記(くじき)には饒速日命の天降り坐(あまくだりま)せる時の有様を堂々と記して、三二人の防衛の神、五部の人、五部の造、(みやつこ)天の物部(もののべ)二五部の人々などの御徒を副(おんと  そ)へ降し給ふと記しており、現に当地には二五部の末裔と称する二五氏族が連綿として存続して居るのであります。


旧事記とは物部氏系の史書とされる『先代旧事本記』であり、その記述を引いて善根寺春日神社春日講の二五氏族を、饒速日命の御降臨に供奉した天の物部二五部の人々の末裔としているのです。しかし高松諸成氏が昭和一五年のこの時点で結び付けたのではなく、『孔舎衙村誌』編纂の明治初年にすでに二五人衆の伝承が存在したのです。明治以前に『先代旧事本記』の内容を知る人がいて、自分たちの出自をそこに結びつけたのです。

饒速日命に随伴した三二人の防衛の神の一人が天児屋(あめのこや)根(ねの)
命(みこと)であることを考えると、天児屋根命を主神とする枚岡神社、または大和の春日社の関連でこの伝承が生まれたのは当然ともいえます。二五人衆の起源はここにあったのです。

二五人の檜皮大工がいたということではなく、「天の物部二五部」という神話の人々に結びつけたのです。伝承の古代の部分については何らかの意図をもって神話から創作したものと考えるのが妥当です。

ただ二五人衆の子孫と称する現一二戸の家は明治以前に檜皮葺に従事してきた大工の家柄を中心として善根寺春日神社の宮座を構成してきた人々の子孫と考えられます。ではこうした伝承がいつ、どのような理由で創作され、長年にわたって言い伝えられたのかについては「三1(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手」で述べたいと思います。

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