2011年3月17日木曜日

『くさか村昔のくらし』

かわちくさか村昔のくらし


解題

私たち日下古文書研究会では最初の翻刻集として平成十七年に『日下村森家庄屋日記享保十三年度』を刊行いたしました。「日下村森家庄屋日記」は享保時代の日下村の庄屋であった森長衛門が18年間にわたって記録したものです。享保のころの河内の暮らしが詳しく描かれています。
その後「くさか村昔のくらし」を刊行することになり、「日下村森家庄屋日記」から享保のころの村の暮らしを「二八〇年前の村の暮らし」と題して項目別にまとめました。次に「村定めと人々の暮らし」と題して、江戸時代の支配者と百姓のあり方を、「村定め」という法令を取り上げて考えてみました。さらに「享保時代の出来事」と題して「将軍吉宗の日光社参」「勝二郎の疱瘡」「日下村離婚事情」「西称揚寺看坊の自害」を取り上げてわかりやすく解説しました。江戸時代のこの地の暮らしの一端をわかっていただけるのではないかと思います。

それ以後については、とりわけ昭和四〇年代の高度経済成長期までの暮らしを六十代から九十代の地元の方々に取材してまとめました。それらは例えば、「もみじ」「かたまわり」「てんま」という田畑の字名(あざめい)や、モッコで一二〇㌔もの米を運んだ下作年貢納め、フンドシ一丁で池の中に入って樋を抜き、夏の暑い盛りに村中を駆け回って田畑に水を引いた水番、剱先船での大阪までの四時間もの船運、こえタンゴでの田畑への施肥など、機械化されてしまった現代からは想像もつかない暮らしでした。それはそのまま江戸時代の暮らしに繋がるものなのです。


『日下村森家庄屋日記』の翻刻をはじめた平成14年からお話を聞かせていただいた方々は男女30名以上にのぼります。日記の中の農業に関する記載が地元の方々の経験と合致し、理解不可能なことが解明されていったのです。それは私たちにはどんなにか有難く、宝物のような貴重なものとなりました。

私たちには驚くような貴重な体験であっても、その方にとっては何気なく暮らしてきた日々の一こまなのです。その記憶の片隅から引き出す作業は楽しいものでした。「そういえばこんなことがあったなあー」と懐かしげに話されることが、私たちには「へえー!」と感嘆するような出来事であったりするのです。「こんなことを面白がってくれたんはあんただけやなあー」と言いながら話してくださいました。それはまたその方の人生と、人間そのものに真向かうことにもなったのです。

戦地から帰還し、先祖の田畑と山を守って土とともに生きた人、農業の傍ら様々な商売をして大家族を養ってきた人、十二・三才から家計を支えるために生駒山から石を切り出して彫り続けた人、バリキと呼ばれる牛が引く荷車で大阪の町まで出かけて人糞を集めた人、剱先船で恩智川や寝屋川を行き来して水車産業の原料となる貝殻や鉄線を運んだ船頭さん、朝五時起きで男性と同じように農作業をこなし、毎日四升の米を炊き、戦時中空襲警報が鳴るたびに身重の体で何度も防空壕に逃げ込み、難産に耐えて出産した女性、赤銅色のお顔とごつい手のシワの一つ一つにその方が越えてこられた辛苦が刻まれ、精一杯生きてきた誇りが輝いています。

九十才の男性が「昔はデコボコの地道やったから、バリキ(牛に曳かせる荷車)に積んで運んできた満タンの(タンゴ(人糞の入った桶)を)
高野道(”こうやみち”バス通り・旧170号線)まで帰ってきたとこで全部道にぶちまけてしもうてな。臭いわー、近所の人から怒られるわー、ほんまにどないしょうかと思うてなー、こんな困ったことは一生のうちになかったわ。」と笑いながら話されたのですが、私には笑うことなどできませんでした。

この方も、命からがら戦地から復員してきて、大切な弟を戦死させ、年老いた両親と幼い兄弟たちを養うために、農業だけでは食べていけなくて、出来る仕事なら何でもしたのです。この方の苦難はまさに戦後の生きるために必死だった時代を象徴しているように思えたのです。この先輩たちが永々と築いてこられた暮らしの上に今の私たちの暮らしがあるのだという実感がありました。お一人お一人に頭の下がる思いでお話をうかがったのです。

きれいな池で泳いだとか、家の前の小川でザリガニやエビを取ったり、野菜や茶碗を洗ったというお話を聞くと、その池や川を探して歩きました。でもそのほとんどが暗渠となり、埋め立てられています。日下から西の布市の恩智川まで田畑ばかりで何もなかったというお話をうかがって西の方を見渡しても、今は建物しか見えません。かつての暮らしの中に当たり前のようにあった美しい村の風景はもうどこにもないのです。改めて私たちが失ったものの大きさを思わずにいられません。

これからもう五〇年もたってしまうと、かつての自然に溢れたふるさとにあった暮らしはもう誰も知らないものになるでしょう。地元の戦前の暮らしには、江戸時代の日下村の暮らしが痕跡を留めているはずです。それを今伝えないと永久に埋もれてしまうのです。

とりわけ戦争に関しては、戦地に赴かれて無事生還なさった方のお話とともに、日下村の旧家に残されていた軍人必携書や戦地からのはがきや手紙など、貴重な史料をご提供いただきました。それらの一つ一つが厳しい時代に翻弄された人々の運命を物語ります。戦地に赴かれた方の記憶はあまりに生々しく、けれどそれはまぎれもなくあった事実なのです。

辛い時代を掘り起こすことは心重い作業とはいえ、今これを記録し、次代を担う子どもたちにこそ、この時代の真の姿を正しく伝えていかなければなりません。
それが間違ったものであっても、それはその時代の人々が信じて疑わなかった時代の精神というものです。私たちはその誤りに気づいて、新しい時代の精神を築いていかなければなりません。新たな未来をどう形成していくべきかを考えるためにこそ、歴史は学ぶ価値があるのです。

江戸時代から昭和四十年代までの暮らしは現代の子どもには知る機会があまりないものです。この地にあった暮らしを知ることは自分たちのふるさとへの思いを深めることにもなるでしょう。この本を、「おじいさんやおばあさんが小さかった頃にはどんな暮らしがあったの?」という、素朴な疑問にお答えするための一冊としていただければこんなうれしいことはありません。

                        日下古文書研究会 浜田昭子


『くさか村昔のくらし』
目次

  刊行のことば
目次
一 江戸時代の日下村―『日下村森家庄屋日記』
二 二八〇年前の村の暮らし
三 村定めと人々の暮らし
四 享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から
1 八代将軍吉宗の日光社参
2 勝二郎の疱瘡
3 日下村離婚事情
4 西称揚寺看坊の自害
五 聞き取り
昔のくらしー戦前から昭和四〇年代までー
六 戦争の時代
七 木積宮(石切神社)のこと
八 日下村の年中行事
謝辞
   

 

八代将軍吉宗の日光社参




八代将軍吉宗の日光社参         



吉宗の政策

享保十三年(一七二八)四月、八代将軍吉宗が日光社参を挙行する。将軍の日光社参は、四代将軍家綱の寛文三年(一六六三)以来六五年ぶりのことであった。吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫し、いわゆる「享保の改革」という政策が強行された。享保七年(一七二二)に窮余の策としてとられた「上米の制」は、諸大名に対し、一万石について一〇〇石を上納させ、その代わりに、参勤交代の江戸在府を半年に減ずるというものであった。この政策はかなりの実績を上げ、短期間で幕府財政を黒字に転ずるものとなった。しかしこれまでに例を見ない大名への課税であり、軍役としての参勤交代を半減するというものであったため、幕府権威が地に落ちた感は否めなかった。この情勢の中、幕府にも大名にも多大な負担を強いるこの一大イベントを行った背景には並々ならぬ吉宗の意図があった。

享保時代はすでに開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、武士本来の「兵」としての機能は要求されず、官僚化が進んでいた。特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、合戦で敵の首級をかき切ることが誉れとされた武士の「兵」としての本質を真っ向から否定し、重要な軍事訓練であった鷹狩は禁止となり、武士の軟弱化が進んでいた。ここで人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があった。将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への最大の軍役動員である日光社参は、武士の泰平慣れに一石を投じ、封建主従制の根源にあるご恩奉公の倫理を再確認させるための有効な手段であった。それは将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活につながる。それこそが吉宗の目指したものであり、幕府が更なる改革を強力に推し進めるための原動力となるものであった。


日光社参挙行
この時の日光社参の規模は、供奉者一三万三〇〇〇人、関八州から徴発された人足二二万八〇〇〇人、馬三二万頭といわれる。費用は十代家治の安永五年(一七七六)の時の記録で二二万三〇〇〇両といわれ、この時もそれに匹敵するものであったと思われる。泰平の世では軍役動員、隊列編成に不慣れのこともあり、五日前に江戸城吹上で行軍演習が行われ、吉宗も閲兵している。
出発当日、四月十三日はあいにくの大雨であった。江戸市中主要な橋七ヶ所を閉鎖し、御成道筋は一切人留め、というかつてない厳戒態勢が敷かれる中、奏者番秋元但馬守喬房が午前〇時に先駆け、同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続く。吉宗は二〇〇〇人の武士に守られて午前六時に発駕した。最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前十時で、実に一〇時間を要する行軍であった。(『栃木県史』通史編4近世一九八一
御成道筋の庶民には、「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」(『御触書寛保集成』石井良助高柳真三一九三四というお達しであった。庶民はひたすら家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまであった。
一行は、日光御成道の岩槻城・古河城・宇都宮城で宿泊し、十六日に日光山に到着する。十七日が家康の忌日で東照宮で祭祀が行われた。日下村領主本多豊前守正矩は祭礼奉行を命じられ、この日は将軍の補佐役として緊張の連続であった。まさに一世一代の大役、無事やり遂げて当然、そうでなければ進退にも関わる一大行事であった。
供奉の大名たちそれぞれにとっても、事情は同じであったろう。一つ一つの儀式が、何人も犯すべからざる将軍と幕府の強大な権威を顕示していた。それへのひたすらな服従、それだけが生き残るために是非とも必要な最重要事項であると、誰もが感じたに違いない。吉宗の幕府権威の強化という大きな目的が叶えられた瞬間であった。一行はその後同じ道筋を通り、二十一日には江戸城に帰着している。
 
日光御用銀
日下村領主本多氏は、藩主本多豊前守正矩が日光社参に供奉と祭礼奉行を命じられたため、本多

氏領分四万石の村々へ二〇〇〇両の御用銀を課した。その内容は、前年十二月三日条に、

下総弐万石へ金千両、  但百石に人足八人馬弐疋ツヽ

  沼田壱万石へ金五百両 人足馬同断

  上方壱万石へ金五百両 即御用に立不申候ニ付人足馬ハ御免 
 
とあり、河内領一万石に対して金五〇〇両で、河内村々一万石での割方を行い、石につき銀二匁七

分となり、日下村石高七三五石で計算すると一貫九九〇匁となる。これは現代の金にして四〇〇万

円前後であろうか。関東の領分では馬、人足もかけられているが、上方は遠方のため免除されてい

る。十三年二月に村人から集めて蔵屋敷へ納められた。御用銀は利息を付けて返済されるものであ

るが、本多氏の財政困難の故か、その翌年から利息の支払いのみで、本銀の返済はなかった。
 
日下村の厳戒態勢
幕府は前月から日光社参に関する触書を頻発し、「火の用心、不審者警戒のため木戸・自身番の昼夜勤務と、奉公人の欠落(かけおち)防止、新規の奉公人の身元確認」を厳重に命じている。(『御触書寛保集成』)幕府にとって最も避けたい、この期に臨んだ民衆の不穏な動きを誘発させない配慮である。六五年ぶりの大行事であり、長右衛門と村人にとってもすべてが初体験であった。
日下村では四月十三日の出発の数日前から、廻状が続々と到着する。将軍が江戸城を留守にし、一〇万人の武士が従軍する日光社参がいかに非常事態であったかが分かる。将軍の出発前の十日から、日下村の中心を南北に貫く東高野街道の辻と、南隣の芝村との境の二ヶ所に番小屋を立てさせ、番人三助に昼夜警戒のため村中を見廻らせている。東高野街道という当時の一級国道や、村境は様々な人間が村へ入り込む可能性がある。諸勧進・物もらい・諸商人など、村外のものの入村が禁じられていたから、例を見ない厳戒態勢であった。
将軍が江戸城を出発されると、遠く離れた日下村にも一層緊張感が張り詰める。連日連夜、村役人である庄屋・年寄が会所に詰める。村中に火の用心を触れ廻らせ、不審者を見張らせる。大坂町中では「鳴物停止令(なりものちょうじれい)」が出されたようで、芝居や普請がとまり、夜は町同心が警戒する緊迫の様子が廻状とともに伝わっている。これは「穏便触(おんびんぶれ)」ともいい、普請などの工事や芝居歌舞音曲の芸能を禁じるもので、いつもは賑やかな大坂の繁華街もひっそりと静まり返っていた。
将軍が日光山に到着されると蔵屋敷からの廻状が続々と届く。「庄屋・年寄・村役人の他出は厳禁、喧嘩口論・火の用心を慎み、物静かにつかまつり」とあり、日下村にも「鳴物停止令」が出されたのである。村でのその規制は、音を伴う商売から家庭内労働にまで及ぶ。誰もが作業を取りやめて家の中で謹慎するしかなかった。 
四月二十一日には、「今日 還御相済候につき町中自身番中番共今晩より無用」(『御触書寛保集成』)の触書が廻る。将軍は日光社参を終え、無事江戸城へ還御となり、その夜から厳戒態勢解除となる。日下村でも連日の会所での警戒が終わり、長右衛門はじめ村人はほっと一息いれる。一汁二菜のささやかな朝食で無事祝いをして、一〇日ぶりにようやく自宅で寝ることが出来たのである。
 
無事終了
将軍帰還から六日遅れで、日下村領主本多豊前守正矩が日光から無事に江戸へ帰着された旨の廻状が届くと、早速翌日に長右衛門は蔵屋敷へお悦びに出る。何事があっても領主へのお祝い言上は欠かせない。
この年の十一月、例年の通り年貢率を申し渡される「御免定御渡」のため、本多氏領河内二〇カ村の庄屋・年寄が蔵屋敷へ召集された。その折、日光御用無事終了の祝儀に領主から酒を賜わる。吸物・肴三種にて酒宴が催されたが、蔵屋敷で領民へのこうした接待は珍しいことであった。御用銀を負担した百姓への慰労でもあろうが、譜代大名で奏者番という幕府官僚の中枢にあった本多氏にとって、この日光社参がいかに一世一代の大行事であったかが伺われよう。
将軍の日光社参という幕府の一大イベントが、生駒西麓の日下村の暮らしに与えた影響は大きなものであった。六五年ぶりの行事では長右衛門たちにとっても戸惑いは多く、蔵屋敷からのお達しに忠実に勤め、ただ何事も無く平穏無事に過ぎてくれることだけを願う日々だったに違いない。日下村という山里の小村にも村の要所二ヶ所に番小屋を立て、日夜番人に村中を見廻らせ、庄屋、年寄の村役人が連日会所で寝起きする。これまでに経験のない厳戒態勢である。庄屋としての長右衛門にとっても神経を張り詰めた日々であった。 
 

このホームページについて

善根寺檜皮大工については、檜皮葺のご研究をなさっている方々のご意見をお寄せください。
特に棟札について、各地の神社の棟札で、善根寺檜皮大工の名のある棟札がある神社があれば、ご一報いただければありがたいです。

2011年3月5日土曜日

善根寺檜皮大工

善根寺檜皮大工の伝承と活動
―発見された棟札と向井家文書から探る彼等の実像―


はじめに

春日神社には古くから伝えられた檜皮大工にまつわる伝承があります。それは単なる伝承ではなく、檜皮大工の存在は確認されています。東大阪市内の諏訪神社の江戸時代の棟札に「善根寺檜皮大工」の名があり、それが彼等の実在と活動を証明する唯一のものとなっていました。

神社の北側は大谷川という川が急峻な谷を形成し、その谷あいに「新聞文化資料館」があります。八〇数年にわたって新聞史料と郷土歴史資料を収集されている中谷作次氏が私費で運営されている資料館です。平成八年にこの資料館を訪れた筆者は貴重な史料に出会ったのです。 

それは和歌山県有田郡の広八幡宮の本殿棟札の写真でした。その表面に善根寺檜皮大工の名があったのです。しかも年号は永禄一二年(一五六九)という中世のものでした。
この棟札が中世における善根寺檜皮大工の存在を証明するものとなりました。それは奈良時代にまつわる善根寺檜皮大工の伝承に繋がる可能性も考えられるものであり、歴史的関心を強く惹かれるものでした。

この思いもかけない発見によって、さらに他にも棟札が遺されているのではないかと心躍る思いで調査を始めました。ちょうどこの時期に、国立歴史民俗博物館から『社寺の国宝重文建造物等棟札銘文集成』が刊行されていたので早速調べてみました。

その結果、新しい近世の四枚の棟札を発見することになりました。この棟札と、地元に遺されていた史料から、三〇〇年にわたる彼等の活動の記録が明らかになりました。

この史料をもとに彼等の活動の軌跡を追い、その伝承と歴史的な事象との関連を探り、伝承が長い年月語り伝えられた歴史的背景にも迫ってみたいと思います。

2011年3月4日金曜日

一 善根寺檜皮大工の伝承

まずこの神社に伝わる檜皮大工の伝承について検証してみたいと思います。伝承の詳細は、大正一二年編纂『大阪府全志』の「大字善根寺」の項に次のようにあります。




里(さと)老(ろう)の口碑(こうひ)にいう。神護景(じんごけい)雲(うん)二年枚(にねんひら)岡(おか)明神(みょうじん)分霊(ぶんれい)の大和の春日に遷座(せんざ)ありし時(とき)、奉仕者(ほうししゃ)供奉(ぐぶ)して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、山中の一小寺たる善根寺の傍に住せしより、戸口次第に繁殖して遂に一村落を為(な)せりと。
其の子孫は春日座(かすがざ)と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、其の祭式には供奉してお下がりの雉、狸、米の贈与に預かれり。これ遷宮(せんぐう)当時の因(ちな)みに依れるものなりしが、明治維新の後に至りて其のこと止みしも、春日座は継続し、(略)同座に伝わり来たれる春日(かすが)曼荼羅(まんだら)を(中略)保管し、(中略)座中一同集いて祭祀せるは本地濫觴(らんしょう)(はじまり)の昔を今に語れるの慣習なるべし。



さらに『枚岡市史』第四巻資料編二によると、明治初年(一八六八)政府は全国の各村誌を作成、提出させました。その時『孔舎衙村誌』も作成されましたがこれは現存せず、昭和三六年に刊行された『くさか村誌』は明治初年の『孔舎衙村誌』と同じ内容とされています。その内容は次の通りです。



大字善根寺ハ神護景雲二年(七六八)、枚岡明神、奈良春日に遷座ノ際、宮仕ノ者供奉シ移リシガ、後故アリテ春日明神屋根職ノ者二五、宮郷土出雲井ニ帰リシガ、転ジテ茲土ニ来リ善根寺ノ傍ニ住シ、漸次戸口繁殖シテ遂ニ一村落ヲナセリト。爾来春日神祭毎ニ、二五名ノ者供奉ノ列ニ加ル、之レ往昔遷宮供奉ノ例ニ依ルト云フ。明治維新ニ至リ、此ノ典ヲ廃セラル。寛文三年日下村ヨリ分離シテ善根寺村トナル。


ここでは二五人の帰った場所が出雲井となっており、これは枚岡神社が鎮座(ちんざ)する村です。さらに大正一一年編纂の『中河内郡誌』にもほぼ同じ内容のものが載せられています。


ではこの伝承の内容を検討してみましょう。枚岡明神とあるのは枚岡神社のことで、善根寺より三㌔南にあり、中臣・藤原氏の祖神である天児屋根命を主神とする元春日とされる河内一宮です。
『枚岡市史』には枚岡神社の項に、


元要記(げんようき)に創祀を白雉(はくち)元年(六五〇)とし、神護景雲二年に大和春日社に分祀(ぶんし)され、宝亀(ほうき)九年(七七八)に大和春日社に倣って武甕槌命・経津主命(たけみかづちのみこと ふつぬしのみこと)が勧請(かんじょう)された。
(奈良の春日大社は明治四年に官幣大社となり昭和二一年に春日大社と改称されたので本稿ではそれ以前は大和春日社と称します)


とあります。伝承では「この枚岡神社から春日大社へ勧請された際に奉仕者が供奉して彼の地に移り、後故ありて二五名は河内に帰った」とされているのです。
伝承のその次の「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えに至りて扶持米を受け、」以下の部分については、『枚岡市史』に記載ある向井家文書の『春日社御造営屋根之日記』に同様の内容が記載されています。

これは明和三年(一七六六)三月に大和春日社屋根葺き替えに奉仕した時のもので、『枚岡市史』に収録されたその内容によると、「明治初年までは南都春日神社の屋根葺き替えのたびに奉仕に出て扶持米を受け、祭式に供奉してお下がりの雉、狸、米を授与されていた」とあります。

つまり伝承の内容とほぼ同一であり、この部分の伝承がこの古文書を典拠としていることは明白です。それを傍証するものが『枚岡市史』に記載ある向井家文書の、元治二年(一八六五)二月、慶応元年(同年)五月の二度にわたって代官所へ差し出した助郷夫役の免除を願う嘆願書です。

この時期、長州征伐を終えた幕府軍の撤退のために伏見・枚方の宿場町が混雑し、その応援のための助郷(すけごう)徴発(ちょうはつ)(人足を出すこと)が近郷村に発せられたのです。この助郷徴発を善根寺村では大和春日への奉仕を理由に免除を願っているのです。助郷免除嘆願の慶応元年のものを見ると、




当村の儀往古より由緒御座候に付、南都春日社御造営(ごぞうえい)之度毎は申すに及ばず、年々若宮御祭礼の節、御屋根御用、御寺務一乗院宮(いちじょういんのみや)様(さま)、大乗院宮(だいじょういんのみや)様(さま)より仰せ付けられ、多分人足差出罷りあり候に付、前々より助郷等の過役(課役)御免除成し下され候(中略)



と、南都春日社御造営と若宮御祭礼の節の屋根葺き替えに奉仕してきたことにより、助郷を免除される「除(のぞ)き村」となってきたことを述べて、この度の枚方宿の助郷免除を願い出ています。
南都春日社御造営とは二一年ごとの造替であり、若宮祭礼とは「若宮おん祭」のことです。

現在の「若宮おん祭」では準備の一つとして十月一日に一の鳥居の御旅所で「お旅所縄棟祭」が行われ、松の黒木で若宮の本殿と同じ大きさの行宮(あんぐう)が南面して建てられ、松葉で屋根が葺かれます。この屋根葺きに善根寺檜皮大工が奉仕したのです。

つまり『春日社御造営屋根之日記』と「助郷免除嘆願」の二通の向井家文書によって、伝承にある「其の子孫は春日座と称し、春日神社の屋根葺き替えにいたりて扶持米を受け」という部分が事実であることを証明できることになります。

ではその前の部分についてはどうでしょうか。「神護景雲二年枚岡明神分霊の大和の春日に遷座ありし時、奉仕者供奉して彼の地に移りしも、後故ありて二五名は河内に帰り、」の部分です。この供奉が檜皮葺造営のためと考えたいところですが、この時代に善根寺檜皮大工が存在していたとは考え難く、これは事実というよりも何らかの意図をもって創作された伝承と考えるのが妥当です。ここに「二五人衆」という数字がキーポイントとなってそう考えるに値する史料があるのです。

善根寺春日神社の現神主高松諸栄氏の父である高松諸成という人物は、昭和三年に善根寺春日神社に赴任し、昭和一五年に『孔舎衙春日宮社記』を執筆しています。孔舎衙となっているのは、かつて近世初頭には善根寺は日下村の枝郷であったことと、もう一つは、昭和一五年に皇紀二六〇〇年の「神武天皇戦跡顕彰事業」によって日下地区が「神武天皇の孔舎衙坂の戦」の場所として脚光を浴び、二つの戦跡碑が建ったことで、善根寺春日神社の由緒を孔舎衙と結びつけて神話的に著述する必要があったためなのです。

                                         若宮おん祭りお旅所行官

               孔舎衙春日宮社記

その内容は「饒速日命の御降臨(にぎはやひのみこと ごこうりん)」、「神武天皇の御親察、並孔舎衙坂の御戦跡」というようないわゆる神話的記述に終始した神社略記です。その中の「饒速日命の御降臨」の項に次のようにあるのです。


旧事記(くじき)には饒速日命の天降り坐(あまくだりま)せる時の有様を堂々と記して、三二人の防衛の神、五部の人、五部の造、(みやつこ)天の物部(もののべ)二五部の人々などの御徒を副(おんと  そ)へ降し給ふと記しており、現に当地には二五部の末裔と称する二五氏族が連綿として存続して居るのであります。


旧事記とは物部氏系の史書とされる『先代旧事本記』であり、その記述を引いて善根寺春日神社春日講の二五氏族を、饒速日命の御降臨に供奉した天の物部二五部の人々の末裔としているのです。しかし高松諸成氏が昭和一五年のこの時点で結び付けたのではなく、『孔舎衙村誌』編纂の明治初年にすでに二五人衆の伝承が存在したのです。明治以前に『先代旧事本記』の内容を知る人がいて、自分たちの出自をそこに結びつけたのです。

饒速日命に随伴した三二人の防衛の神の一人が天児屋(あめのこや)根(ねの)
命(みこと)であることを考えると、天児屋根命を主神とする枚岡神社、または大和の春日社の関連でこの伝承が生まれたのは当然ともいえます。二五人衆の起源はここにあったのです。

二五人の檜皮大工がいたということではなく、「天の物部二五部」という神話の人々に結びつけたのです。伝承の古代の部分については何らかの意図をもって神話から創作したものと考えるのが妥当です。

ただ二五人衆の子孫と称する現一二戸の家は明治以前に檜皮葺に従事してきた大工の家柄を中心として善根寺春日神社の宮座を構成してきた人々の子孫と考えられます。ではこうした伝承がいつ、どのような理由で創作され、長年にわたって言い伝えられたのかについては「三1(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手」で述べたいと思います。

2011年3月3日木曜日

二 善根寺檜皮大工の棟札

1 新たな棟札の発見

善根寺檜皮大工の名のある棟札は、東大阪市の調査によって市内の諏訪神社のものは知られていましたが、新聞文化資料館で和歌山の広八幡神社の棟札に出会い、他にも棟札が残されているはずだと考えました。

ちょうどその時期に、国立歴史民俗博物館から『社寺の国宝重文建造物等棟札銘文集成』が刊行されていたのは幸運でした。だが、あると確信していたわけではなく、可能性を信じての調査でした。ページを繰るうちに、「河内善根寺」の文字が目に飛び込んできた時、やはりあったのだと、歴史の闇に埋もれていた彼等の活動を探り当てた喜びで一杯でした。

『棟札銘文集成』近畿編の中に京都府と奈良県の神社から四枚の棟札を発見することができたのです。これで善根寺檜皮大工の名のある棟札は合計六枚となりました。その明細を以下に上げておきました。
 
善根寺檜皮大工の棟札
棟札 所在神社 年代 記載された檜皮大工名
1広八幡神社
本殿棟札
和歌山県有田郡
広川町
永禄一二年
(1569)
檜皮大工南都住人藤原朝臣家次
宿所河内善根寺頭三郎
2高山八幡宮
本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
万治二年

(1659)
河州善根寺棟梁 河州善根寺同仕手
寺座宮脇宗兵衛 惣右衛門
長左衛門 五兵衛
彦左衛門 八兵衛 忠次郎
3水度神社
本殿棟札
京都府城陽市
寺田水度坂
寛文九年

(1669)
檜皮大工 河州善口寺村
田中八兵衛 藤原朝臣家次
4高山八幡
宮本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
元禄三年

(1690)
河州善根寺棟梁 善根寺彦左衛門
寺座 八右衛門
藤兵衛 五兵衛
5諏訪神社
本殿棟札
東大阪市
中新開
元禄七年

(1694)
河州河内郡善根寺村藤原朝臣家次
檜皮屋惣兵衛 大工八兵衛
6高山八幡
宮本殿棟札
奈良県生駒市
高山町
享保一一年

(1726)
檜皮大工棟梁 河州河内郡善根寺村
宮脇五兵衛政重


(1) 広八幡神社
新聞文化資料館に残されていた写真は、昭和五九年の大阪市立博物館特別展「紀州の文化財」に出展された棟札の写真でした。広八幡神社は和歌山市から南へ約四〇㌔、有田川の南岸に開けた湯浅港に近い広川町にあります。

創建は嘉禎二年(一二三六)以前と伝え、中世は湯河氏、近世には紀州徳川家の保護を受けただけに、広大な境内に美しい檜皮葺の三間社流造(さんげんしゃながれづく)りの丹塗りの壮麗な本殿が両側に摂社(せっしゃ)を配し、拝(はい)殿(でん)・舞(ぶ)殿(でん)と楼(ろう)門(もん)を持つ豪壮なものです。棟札の発生は平安時代以降とされますが、善根寺檜皮大工のはじまりは、この棟札によって永禄年間以前に遡ることは確かです。

                         広八幡神社本殿

                         広八幡神社楼門


(2) 高山八幡宮
『棟札銘文集成』近畿編Ⅱの中に奈良県生駒市の茶筅の里として知られる高山町の高山八幡宮の棟札三枚に、善根寺檜皮大工の名がありました。万治二年(一六五九)、元禄三年(一六九〇)、享保一一年(一七二六)の三枚です。三枚の棟札の年月はほぼ三〇年周期であり、檜皮葺の寿命が三〇年から四〇年ということから、葺き替えのたびごとに善根寺檜皮大工が出仕していたようです。富雄川添いに鎮座する高山八幡宮の本殿は今も三間社流造りの檜皮葺です。



 
高山八幡宮 拝殿・舞殿

 
高山八幡宮


(3) 水度(みと)神社
『棟札銘文集成』近畿編Ⅰの中に、京都府城陽市寺田水度坂の水度神社の本殿棟札に「寛文九歳(一六六九)檜皮大工河州善□寺村田中八兵衛藤原朝臣家次(たなかはちべえふじわらあそんいえつぐ)」の記載を発見しました。水度神社は城陽市の東のなだらかな丘陵地に位置し、こんもりした森の木々に包まれた参道を抜けると、本殿、拝殿、舞殿があり、いずれも今もみごとな檜皮葺です。

                            水度神社




(4) 諏訪神社
善根寺から三㌔西の東大阪市中新開に諏訪(すわ)神社があります。東大阪市の保存修理により、屋根に載せられた箱棟裏に墨書が見つかりました。そこには元禄七年(一六九四)の年号と「河州河内郡善根寺村、藤原朝臣家次、檜皮屋惣兵衛(ふじわらあそんいえつぐ ひわだやそうべえ)・大工八兵衛」の記載がありました。諏訪神社は室町時代天文元年(一五三二)在銘の古文書「氏神(うじがみ)三社(さんしゃ)興(こう)立記(りゅうき)」によると、戦国時代、信濃の諏訪連(すわのむらじ)の子孫がこの地にいたり、土地を開墾し諏訪明神を勧請(かんじょう)したということです。社殿は室町末期に建立され、市内最古の神社建築です。

以上で合計六枚の棟札が確認されました。善根寺檜皮大工が河内ばかりでなく、和歌山、奈良、京都と畿内に広く活動していた軌跡が明らかになったのです。この他にも棟札が発見される可能性は大きいのです。『棟札銘文集成』は国宝、重要文化財に限られており、そういう指定を受けない小さな神社にも善根寺檜皮大工が出かけていることは大いに考えられるので、これからの発見に期待されます。

諏訪神社

2011年3月2日水曜日

三 善根寺檜皮大工の実像

1 棟札に見る中世の活動

 (1) 広八幡神社永禄一二年の棟札
近世以前の唯一の棟札である広八幡神社の永禄一二年の棟札は高さ八七㌢、幅一五㌢という、棟札にしてはかなり大きなもので、その記載内容は非常に詳細にわたります。表面に檜皮葺を請負った職人集団を両側に配し、すべての職人名を列記し、裏面には檜皮の出荷状況まで記録しています。ではその記載内容が解明してくれるものを探ってみましょう。

広八幡神社 棟札表面
 ▼記載内容
表時建立社務池永宗介卅九才子甚次郎十八才 
永禄十貮年己巳八月十二日始 
仕手人数 新兵衛 奈良屋源衛門 サカイ新左衛門 番匠童子
与四郎 孫八 与六 善四郎 新次郎     亀
南方 檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次宿所河内善根寺頭三郎(假名) 
紀州在田郡東広八幡宮御上葺両大工
北方 檜皮大工摂津国四天王寺之住人藤原朝臣宗広源左衛(假名)門尉 
仕手人数 善左衛門 又左衛門 新□衛門 源左衛門 弥五郎
源五郎(小工)  甚四郎 源三郎        番匠童子 
廾四才                          太楠
奉加貮一石大夫郷快傳法印 五十才 根来寺蓮花谷院内 
同霜月二日午時棟上御祝言上遷宮
裏                       
御調作領四拾貫大工大工請取 時奉行社僧薬師院 實秀廾五才
惣奉行 世順卅九才 宮仕助大夫 
熊野檜皮百駄荷数貮百卅荷槙八十荷田那辺ヨリ出也裏山檜皮
五十束此分ハ皆浜湊崎山藤次郎廾五才両度以辛労出之
湯河殿ヨリ両大工ニ依被仰付如此候出在所ハ不定置事候 
在田日高二郡勧進本願社僧弁才天院 實粲   
永禄十貮年己巳十月三日筆者同實粲
1.「南都住人、宿所善根寺」
棟札表面に「檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次(ひわだだいくなんとのじゅうにんふじわらあそんいえつぐ)」となっており、その下に「宿所河内善根寺頭三郎(しゅくしょかわちぜんごんじかしらさぶろう)」とあります。この「南都住人」や「大坂住人」という記載は棟札によく出てくるもので、職人の出身あるいは所属を表すものです。北方とある「摂津国四天王寺之(せっつのくにしてんのうじの)住人(じゅうにん)藤原(ふじわら)朝(あ)臣宗(そんむね)広(ひろ)」は大坂の四天王寺に従属する檜皮葺座であることを示しています。では南都住人とあるのはどこに所属していたのでしょうか。これを解明するには、表1の2・4の高山八幡宮の二枚の棟札にある「寺座(てらざ)」という記載がヒントになります。

平安末期以降、商工業者が集団で「座」を結成し貴族や大社寺に従属して貢納金を支払う見返りに諸税の免除と専売特許権を得たのです。畿内では多くの「座」が成立し、大和では特に興福寺とその門跡、大乗院、一乗院に従属する商工座は戦国時代には一〇〇座に近い数に上りました。特に建築関係の手工業座が多く、職種も広範囲にわたっていました。「寺座」とは興福寺に従属する建築職人の「座」なのです。

治承(じしょう)年間(一一七七~一一八一)に重源(ちょうげん)による東大寺再建がはじまり、大和には優秀な技術者が集りました。興福寺は今こそ小さくなっていますが、中世の時代には、現在の奈良駅から春日神社までの区域がすべて興福寺の境内地でした。そこに一〇〇を越える堂塔(どうとう)伽藍(がらん)が建っていました。 

その修復工事は常に行われ、仕事が絶えることはありませんでした。その上に興福寺は大和(やまと)守護(しゅご)として大和一国を治めていましたので、豊かな財力もあり、建築(けんちく)工匠(こうしょう)たちに安定した収入を提供したのです。

春日興福寺は藤原氏の氏神(うじがみ)、氏寺(うじでら)であり、藤原氏一門の祈願による造営では京都の宮廷、公家の工匠たちが造営(ぞうえい)に参加しました。それによって王朝貴族の洗練された美的感覚も確実に取り込まれたのです。大和の伝統的な天平風(てんぴょうふう)と京の公家風の二つの潮流が融合し、当時の建築界の頂点に位置する建築技術が醸成されました。
大和の建築工匠たちは「無双(むそう)の上手(じょうず)」とはやされ他国へも呼ばれて出かけていきました。地方では優秀な技能者が存在せず「無双の上手」と称賛された「奈良大工」を高い報酬と役職で優遇し、中央の高い技術を取り入れたのです。

興福寺建築工匠座は大乗院座、一乗院座、寺座の三座に分かれ、共に大和春日社の造営に従事していました。木工の「寺座」は文明年間(一四六九~一四八七)には大和春日社の工事一切を独占していました。檜皮葺の寺座は木工の「寺座」ほどの強い独占力はなかったものの、春日社の屋根は伝統的に檜皮葺であることから檜皮葺座は重んじられ、門跡第一といわれた有力な座であったのです。
興福寺とその門跡の支配下にあった座の番匠(ばんじょう)たちは主として奈良市中に住んでおり、特に「寺座」の番匠は市外に住む「田舎(いなか)番匠(ばんじょう)」と対称的に呼ばれていて、その大部分が奈良市中に住んでいました。

したがって善根寺檜皮大工たちは興福寺の檜皮葺寺座の工匠として南都に住んでいたのです。棟札に「南都住人」と記載していることがそれを証明しています。畿内における春日興福寺の建築職人の名声は高く、「南都住人」は当時の建築界での最高の技術者であることを示すものであったから、それを誇りとして棟札に記載したのです。 

とにかく、善根寺檜皮大工は永禄一二年という時期に南都に住み、「寺座」として大和春日社の檜皮葺に従事しながら各地に出掛けて檜皮葺を行なっていたことがこの棟札によって確認できます。 

2. 藤原朝臣家次の名乗り
善根寺檜皮大工が「藤原朝臣家次」と名乗るのはなぜでしょうか。平安時代から工匠への叙位(じょい)(位階を授けること)、受領(ずりょう)(地方官の官職を与えること)の授与(じゅよ)が行なわれました。建(けん)久(きゅう)元年(一一九〇)一〇月、東大寺再建の上棟に際し、建築工人に受領が行なわれたと、鎌倉初期の関白(かんぱく)九条兼(くじょうかね)実(ざね)がその日記『玉葉(ぎょくよう)』に記しています。

朝廷が行なう叙位や任官も、朝廷の権力の衰えた室町時代に入ると、京都や奈良では大社寺が所属する工匠にその功績を顕彰する手段として受領号などの官職の授与を行なったのです。河内(かわち)権守(ごんのかみ)や讃岐(さぬき)大夫(だいふ)という称号がみられ、権(ごん)大工(だいく)、正大工(しょうだいく)、惣(そう)大工(だいく)、太夫(たゆう)大工(だいく)などの肩書と共に貴族の姓を与えています。中世に大工の呼称は造営の最高責任者「おおいたくみ」のことで、一般の建築職人は番匠と呼ばれました。

近世に指導者の地位を著わす棟梁という呼称が現れると、大工は一般の建築職人の名称となったのです。一四世紀以降の法隆寺では橘(たちばな)、平(たいら)、藤原(ふじわら)、秦(はた)の四氏が指導者としての大工職に定められて相伝されていました。藤原家次は特に檜皮大工に多く、半数以上が家次を名乗っています。藤原家次は実在の人物であり、南家の武智(たけち)麿(まろ)の一一代後に出てくる人ですが、なぜ家次が多いのかは不明です。

以上のことから善根寺檜皮大工は寺座に従属する時代に興福寺から「藤原朝臣家次」の受領名を拝領していると考えられます。

3. 広八幡神社の永禄一二年の檜皮葺作事(さくじ)の実態
棟札の表に両大工名があり、この檜皮葺替えを四天王寺に従属する檜皮大工とともに請け負っています。摂津では四天王寺、大和では興福寺という畿内でもトップクラスの建築工匠が協力し合う関係がありました。それはその神社の規模によって職人数が不足する場合もあり、職人同士で互いに協力関係が築かれていたのです。

その両側には仕手人数とあり、この工事に携わった職人のすべての名前が列挙されています。善根寺、四天王寺ともに八名、番匠童子が一名ずつです。善根寺の仕手の中に奈良屋やサカイとあるのも他所の職人に応援を頼んでいるのです。番匠童子とあるのは建築現場の古図にも描かれているように、大工集団につき従っていた年少の工匠見習いで、少額ながら作料や食料が支給されていました。

広八幡神社の本殿三間社流れ造りの檜皮葺工事に一八名
で遂行しています。八月一二日に仕事始め、十月三日に弁才天院の實粲(じっさん)がこの棟札を執筆し、「霜月二日午時棟上御祝言上遷宮」とあります。現在奈良、大阪、和歌山の檜皮葺工事に携わり、広八幡神社の檜皮葺替も担当された谷上社寺工業株式会社の谷上永晃氏のお話では、「八月から古い檜皮を取り除き、十月から檜皮葺を初め、棟上御祝言は完成の意味で、霜月(一一月)に完成ということでしょう」とのことです。

右側の「建立社務池永宗介」は広八幡神社に遺された三〇枚の棟札の中の元亀四年(一五七三)の拝殿棟札に「社務湯河忠次郎孫池永宗介」とあり、この人物は南北朝以後足利幕府の奉公衆に列する紀州の国人として活躍した湯河氏一族です。裏面左側に「湯河殿より両大工に仰せ付けられ」とあり、湯河氏がこの作事を采配したことがわかります。湯河氏は永禄二年(一五五九)に短期間ですが守護畠山高政の要請で河内守護代に就任しており、畿内の優秀な檜皮大工を招くことも可能であったのです。

広八幡神社 棟札裏面
 裏面に薬師院や弁才天院とあるのは中世に六坊あった広八幡神社の神宮寺仙光寺の子院であり、その僧實秀と世順が奉行を勤めています。この六坊は天正一三年(一五八五)三月の羽柴秀吉の紀州征伐で薬師院、明王院のみが残り、広八幡神社の別当職を交替で継承しました。

天文一六年(一五四七)の棟札でも湯河氏の子息が社務を勤めているので池永宗介がこの時代の別当(べっとう)(寺務担当者)であったと思われます。弁才天院の實粲(じっさん)が在田(有田)、日高の二郡で勧進(かんじん)(寄付を集めること)を勤め、この棟札の筆者でもあります。左側には根来寺(ねごろじ)の塔頭(たっちゅう)蓮(れん)花谷院(げだにいん)の僧の寄進を記していますが、奉加(ほうか)二〇石とあり、当時の根来寺の財力の大きさが偲ばれます。

裏面の中央に記載されるのは檜皮葺の出荷状況です。熊野の檜皮を一〇〇駄二三〇荷と、槙八〇荷を田辺湾から出荷しています。谷上氏のお話では檜皮は原皮師(もとかわし)と呼ばれる職人が山に入り採取します。一本の檜から採取出来る檜皮の量、八貫目(三〇㌔)を一単位として丸く括り、それを一丸(ひとまる)と称するそうです。馬で運んだ時代は、一駄は五丸 といい、三〇㌔のものを五本、つまり一五〇㌔を積んだといいます。現在も檜皮の単位はこの様式を用いています。つまり一〇〇駄は五〇〇丸(一五㌧)となります。檜皮葺は一坪葺くのに一駄、一五〇㌔が必要といわれ、広八幡神社で合計一〇〇駄必要としています。つまり一〇〇坪分の檜皮です。

広八幡神社の三間社流れ造り本殿で約三〇坪の広さです。現在は一間社の摂社三社あり、安永七年(一七七八)の古図には本殿の横に六社の摂社があるので、中世にも一間社の摂社が六社あったとすると六〇坪、合計で九〇坪となります。ほぼ一〇〇駄の檜皮量に相当します。しかし檜皮の量については、さらに裏山檜皮五〇束と記しているので現在より厚く葺いたのかもしれません。

裏山檜皮五〇束は「濱湊崎山藤次郎(はまみなとさきやまとうじろう)廾五(にじゅうご)才両度以辛労出之(りょうど しんろうをもって これをいだす)」とあります。神社は周囲に山や森を持ち、その産する材木で数十年毎の社殿修復をまかなったのです。裏山であっても濱湊崎山より出荷しているのは山と海に狭められた紀州の地形の厳しさ故でしょう。濱湊は有田川か広八幡神社に最も近い広川の河口でしょうか。紀ノ川の河口の紀伊湊が中世には現在よりかなり奥まったところに位置していたように、中世との地形の違いがあり、現在のどこかは不明です。 

谷上氏のお話では和歌山での檜皮採取は、昭和三〇年代でも船で運ぶしかなかったといいます。この出荷の困難さを筆者實粲は、原皮師藤次郎の苦労を讃えるように、「両度(りょうど)辛労(しんろう)をもってこれを出(い)だす」と生々しく伝えています。『棟札銘文集成』の中でも檜皮葺の棟札でこれほど詳細な工事の実情を記載したものはなく貴重な史料です。

檜皮葺の出荷を示す裏面の記載が一〇月三日で、一一月二日の上棟が完成とすると、職人数一八名で葺仕事だけでは一ヵ月でやり遂げています。現在の葺く工程は坪当たり五人といわれます。一八人で一ヵ月、一応二八日間と仮定し五〇四工(く)となります。これは坪五人として一〇〇坪の檜皮を葺く延べ労働人数となります。

その下に、「槙八〇荷」とあるのは昔は?材(こけらざい)として槙が使われたことがあり、?で葺く建物があったのかもしれません。

裏面に御調作領四〇貫とあり、これが大工の給金です。中世の番匠の日別賃金を作料といい、大工で一〇〇文、一般の番匠では二五文という例があり、他に食料米大工一斗、権(ごん)大工(だいく)は九升、座(ざ)衆(しゅう)八升が支給されました。賃金についての史料は少なく確かなことは不明です。

(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手

善根寺春日神社 鹿曼荼羅


善根寺春日神社の宮座に伝わる「春日(かすが)鹿(しか)曼荼羅(まんだら)」は、現在大阪市立天王寺美術館に寄託され、室町時代のものであることが証明されました。
ではこれはどのようにして伝わったのでしょう。室町時代の善根寺檜皮大工が置かれていた春日興福寺内の状況を調べてみました。

中世前期には朝廷や貴族勢力に守られていた造営制度が崩壊し、建築工匠座は大社寺に従属し、職場の安定を求めました。その中では職場をめぐる争いが激化したのです。やがて一四世紀頃には職場の確保を目的とした大工(だいく)職(しき)が成立します。これは大社寺に補任料を納めて補任状を免許されると職場の独占と給田などの庇護を与えられ、その代償として祭礼の用銭、労役奉仕などの義務を負わされるものでした。大工職は大きな権利として相続、売買されたので争奪の対象となったのです。

こうした職場の独占、領主に対する優先権など座衆の対立に対して優劣の根拠となったのは座の先例であり、由緒でした。古くからの正しい由緒が最も貴重とされたから、朝廷との関係を示す古い系図や文書が証拠として持ちだされたのです。

善根寺檜皮大工の伝承はこうした中世の風潮の中で春日社内での優位な地位の獲得のために生み出されたと考えられます。『先代旧事本記』に登場する枚岡神社の主神天児屋根命に随神した二五部の人に自分たちの出自を置くことは、神代とのつながりを意味します。しかも神護景雲二年の枚岡神社からの遷宮につき従ったというのは大和春日社の創祀に関係するわけで、大和春日社の中でも最高の権威を持ちえたはずです。

この由緒はおそらく『先代旧事本記』の内容を熟知した人物が作り上げたものと思われますが、最も効果ある由緒として、春日社内での善根寺檜皮大工の地位を引き上げることに成功したでしょう。

春日鹿曼荼羅のみならず春日曼荼羅には、春日宮曼荼羅、春日社寺曼荼羅、春日本地仏(ほんちぶつ)曼荼羅(まんだら)など諸形式があり、藤原氏一門の尊崇を受け、遠隔地の人々が春日曼荼羅を春日の神として日夜拝することによって参詣に代えたのです。やがて南山城、大和を中心に春日講が結成され、毎月春日曼荼羅の前で法楽を催し、民衆の中に春日信仰として広まっていきました。

春日曼荼羅は興福寺絵所の絵師によって制作されましたが、室町時代には制作、販売を取り扱う絵屋が登場し量産され、春日信仰の大衆化を推し進めました。善根寺檜皮大工たちは自らの権威ある由緒によって室町時代にこの曼荼羅を大和春日社から拝領したか、あるいはそうした絵所で作成された曼荼羅を購入したものと思われます。


(3) 秀吉による座の破却 
中世には春日興福寺に従属し、当寺の最高の技術を持って各地に檜皮葺に出かけていた善根寺檜皮大工集団は中世の終りとともに大きく運命が転換することになります。
応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱(一四六七~一四七七)以後、大和でも混乱と兵火にみまわれ、筒井(つつい)氏(し)、越智(おち)氏(し)、十市(とうち)氏などの大和の国人領主が勢力をのばしていました。商工業者は寺社を離れ、春日興福寺に従属していた諸座も、大和の国人領主の下に走り、その保護を受けていました。興福寺のかつての膨大な領地は衰退の一途をたどりはじめるのです。

天正一三年閏八月の羽柴秀長が大和郡山に入城しますと、筒井氏以下大和武士は伊賀へ移されたのです。これによって興福寺の没落は決定的となり、大和に君臨した興福寺の中世的権威は落日を迎えたのです。 

豊臣政権の成立後、秀吉は関所の撤廃と共に、座の破却を行ないました。いわゆる「楽(らく)市(いち)楽座(らくざ)」といわれるものです。天正一五年(一五八七)には豊臣秀長が奈良、郡山の「諸公事座(もろもろのくじざ)を悉(ことごと)く破れ」と命じています。これ以後畿内近国の直轄都市を中心として工人、商人の座をいわず、全面的に廃止され、商工業者は貴族や大社寺から完全に独立して自由な営業を行なうことになりました。

戦国の混乱を制し、天下人となった秀吉にとって、貴族、大社寺の荘園領主に結びついた中世的な経済秩序を打ち破り、経済機構を統一政権に組み込むためにぜひとも必要な手段であったのです。これによって、さしもの春日興福寺の膨大な商工座も解体されました。 

建築工匠の座については「諸座御棄破(しょざごきは)」の命令とともに、諸職人の使用は寺家の自由にしてよいとされ、座が否定されて後も、大社寺においては従来の工匠を召し使って造営修復の作事が行なわれ、かつての工匠によって職場の独占が行なわれました。こうした座は近世には仲間組合へと繋がっていきます。奈良今(いま)辻子(ずし)の符坂油座(ふざかあぶらざ)や大山崎(おおやまざき)の油座は慶長のころには有力な仲間を形成しています。建築座についても仲間を形成し、その後も大和春日社の造営、造替、修復に出仕したのです。

興福寺の「寺座」をはじめとして法隆寺の四人の番匠大工も、中世以来の世襲大工職や夫役(ぶやく)免除の特権を否定され、幕府(ばくふ)大工頭(だいくかしら)中井家の支配下で南京組、西京組、法隆寺組などの工匠集団に編成されて、幕府の行なう諸工事に使役されたのです。興福寺「寺座」は近世に入って「春日座」と称し、慶長一八年(一六一三)の造替では寺座の指導者であった一六人大工が春日座大工として、幕府の大工頭である中井大和守との折衝に当たっています。

中世興福寺は没落し、朱印領二万石を与えられて、秀吉、徳川政権への服従を強いられることになります。数百といわれた座は破却され、座衆は春日興福寺という大きな支えを失ったのです。

善根寺檜皮大工も例外なく非情な歴史の変革の波に押し流されるしかなく、河内善根寺に帰ったのです。それが善根寺檜皮大工の伝承にある「故ありて河内に帰り」ということだったのではないかと思うのです。つまり「南都住人」であった善根寺檜皮大工は、近世への転換によって興福寺に従属する「寺座」として受けていた生活の安定を失い、河内へ生活の基盤を移すことを余儀なくされたのです。それは「檜皮葺座」が興福寺の座衆の中でも符坂油座とともに最も裕福な座であったことを考えても、善根寺檜皮大工にとっては余りにも苛酷な運命であったでしょう。この新しい時代の流れに翻弄された記憶を、伝承の「故ありて」という言葉に込めたのではないかと考えます。

2011年3月1日火曜日

四 善根寺春日神社檜皮大工集団の近世

1 善根寺春日神社の勧請と善根寺村の分村

善根寺檜皮大工集団は座の破却をはじめとした近世への転換にともなって河内に生活の基盤を移し、善根寺に春日神社を勧請し、地元での春日の神への奉仕を拠り所として農業に励みつつ、檜皮葺の生業を継続したと思われます。

善根寺春日神社の創建については善根寺村の隣村である日下村の近世庄屋である井上家に残された、元禄五年(一六九二)の『寺社御改(じしゃ おあらため)吟味帳( ぎんみちょう)』によると「河州河内郡善根寺村 木之宮右之社(きのみや みぎのやしろ)往古(おうこ)より年来(ねんらい)勧請(かんじょう)年暦(ねんれき)知(し)レ不申候(もうさずそうろう) 五八年以前建立替申候(こんりゅうかえもうしそうろう) 宮座( みやざ)人数(にんずう)毎年(まいとし)増減御座候祢宜(ぞうげんござそうろう ねぎ)神子(みこ)神主( かんぬし)当村( とうそん)に無御座候(ござなくそうろう)」とあります。元禄五年の五八年前つまり、寛永一一年(一六三四)に建て替されています。

もともと地元にあった小さな祠を建て替えて勧請したのか、すでに勧請されていたものを社殿だけ建て替えたものか不明ですが、とにかく寛永一一年までに春日神社を勧請しています。
この勧請と善根寺村の村立については他にも史料が存在します。このころの善根寺村には大阪城の石垣普請を命じられた足立家が存在し、生駒山から築石を切り出していました。天正一一年(一五八三)の羽柴秀吉による築城だけでなく、元和六年(一六二〇)の徳川氏による修築の時にも命じられています。 

「足立家千代のしるべ」によると、そのための人夫が二万人を数え、村の開発と善根寺村の日下村からの分村、春日神社の勧請に大きな役割を果たしたとあります。けれどそれは誇張であり、事実は足立家の石垣普請を契機として人々が集まり、善根寺で近世村落が成立する時期と、彼ら檜皮大工の帰郷が重なりあったと考えるのが妥当でしょう。春日神社の勧請も戦国時代にすでに檜皮大工の活動はあったのですから、足立家の石の切り出し以前に勧請されていたはずです。

とにかくこうした事情で一つの村としてまとまり、寛文三年(一六六三)に、日下村の枝郷であった善根寺が分村したのです。もとより帰郷といっても彼らの生活の本拠は善根寺に存在したのです。春日神社が勧請された時、檜皮大工たちを中心として春日神社の宮座が成立したと考えられます。その時には彼らの「春日鹿曼荼羅」は大きな役割を果たしたことでしょう。祭祀的な宮座と興福寺における商業座である寺座が善根寺においては一つのものとなり、「檜皮(ひはだ)御座(おんざ)」と呼ばれたのです。それを証明する石燈籠が善根寺春日神社本殿右に残されています。
その記銘は文字の磨耗が激しいものの拓本をとると次のように読めます。

 北面「善根寺檜皮御座中 長久如意満足所者也」
  南面「奉修 木野宮春日社 燈篭諸願成就所敬白」
  西面「甲午七月吉祥日」
  東面「承応三暦」


承応三年の石灯籠

北面に「檜皮御座中」とあり、承応三年(一六五四)七月に檜皮大工の檜皮御座から春日神社へ奉納したのです。この「木野宮」と称するのは『寺社御改吟味帳』にも「木之宮」と



宝永六年の石灯籠

あり、檜皮葺という木の皮を剥いで成り立つ彼らの生業との関連でしょう。

さらにその他に拝殿南側の玉垣の傍に八基並ぶ石燈篭の真ん中に宝永六年(一七〇九)の年号と「檜皮寺座中」と東面に銘記された石燈籠があります。この「寺座」こそ、中世に春日興福寺に従属していた時に彼らが属していた誇りある地位を象徴するものなのです。彼等は「寺座」であった誇りを忘れず、燈籠にも棟札にも「寺座」と記載したのです。

さらに善根寺での「春日座」についての史料として寛政二年(一七九〇)正月の『春日座中改名帳』という横帳が存在します。これは現在原本は確認できないのですが、『枚岡市史』によると、座に所属するものの出生の届けを座帳に記入し「寺座御許方」として五七名の連記があります。五七名と子の出生を記帳していることから、善根寺春日神社の祭司的な宮座と、檜皮大工の寺座が同一のものとなっていたと思われます。

2 大工組、仲間と善根寺檜皮大工

近世においては江戸幕府御大工頭中井正清を頂点として畿内近江六ヵ国に大工組が編成され、組頭を通じて支配が貫徹されました。檜皮葺・?葺の建物が集中する京都では、檜皮大工組の触頭として平岡家が統率し、「屋根師仲間定法写」が残されています。幕府支配の徹底とともに営業の確保、大工間の紛争防止、賃金協定、親方、弟子間の規定など、細部にいたるまで詳細に規定し、いわば同業組合的な機能を果たしていました。

河内においては京都のような檜皮大工組の存在は知られていません。ただ河内大工組についてはそのいくらかが研究で明らかになっています。
中井家支配の河内国大工組は四組記載されています。宝暦九年(一七五九)には新堂組、柏田組、古橋組、額田組二組の六組となり、河州六組と称されます。額田組の半右衛門家は先祖が大坂城御役大工で、宝永四年(一七〇七)から正氏と名乗り、善根寺から二㌔南の山手町に現在もご子孫がお住まいです。

額田組半右衛門富房は東大阪市吉田にある春日神社の享保五年(一七二〇)の再建の時の棟札に記載されており、もし善根寺檜皮大工が善根寺に最も近いこの組と関連して作事を行なっていたのであれば、この春日造りの造営に関係しているはずですが、棟札に善根寺の記載はありません
現在日下町の旧家に「五畿内并近江六ヶ国大工杣木挽方・御朱印旧記録」が遺されており、日下村に四名の幕府御用の杣職が存在したことがわかっています。

五畿内并近江六ヶ国 大工杣木挽方 御朱印旧記録

河内郡日下村 儀右衛門 慶応三卯年九月改

中井主水支配(印)河州中組御用役杣

日下町の山本家に残された四枚の鑑札には写真のように、中井主水支配、慶応三年(一八六七)改とあります。杣職人は儀右衛門・弥助・徳左衛門・佐助の四名です。彼等は幕府の造営の際に、日下の山から材木を切り出す名誉ある役目を仰せつかっていたのです。このような中井家支配の「御朱印旧記録」と鑑札が見つかるのは珍しいことで貴重な史料です。

近世における建築職人はその地域の大工組に従属しその支配に服し、幕府の公用作事の国役にも従事させられ、その上農民として田畑を有する者には年貢と夫役をも課せられました。慶長一二年(一六〇七)に大工陳情により、幕府より畿内近江六カ国大工の田畑高役免除が承認され、一般農民の石高と区別されたのです。 

高役免除の大工高は世襲され、その後、株権として売買の対象となり形骸化します。善根寺檜皮大工の幕末の「枚方宿助郷免除の嘆願書」はそうした近世初頭の大工高が形骸化した結果、改めて免除嘆願を行なう必要が生じたと考えられます。

3 棟札に見る近世の活動 
1.高山八幡宮本殿棟札 万治二年(一六五九)
表 
     萬治二亥年 河州善根寺棟梁         河州善根寺        
和州高山八幡宮社奉御遷宮葺師 宮脇宗兵衛   惣右衛門 新(和州三輪)九郎
六月十一日         同五兵衛 同長左衛門 次(奈良)兵衛
同仕手彦左衛門 同八兵衛 同忠次郎
裏 記載なし

2.水度神社本殿棟札 寛文九年(一六六九)
表 
己寛文九歳       
奉上葺檜皮大工  田中八兵衛藤原朝臣家次敬白
酉三月吉日

天王寺組 □村源右衛門       田中惣十郎
松本□□右衛門      大野□作
□村□兵衛   □□組 長家庄次郎
北野五良兵衛

3.高山八幡宮本殿棟札 元禄三年(一六九〇)

元禄三年       善根寺棟梁 
和州高山八幡宮社奉御造営葺師 寺座八右衛門
七月廾一日         同 五兵衛 
仕手奈良小川町彦兵衛 大坂嶋や町 長左衛門
同 与三兵衛     同 六兵衛 
今辻子町 四郎兵衛    大工 茂左衛門
東向町 市郎兵衛   善根寺 彦左衛門
下清水町  彦四郎     同  藤兵衛   
裏 記載なし

4.諏訪神社本殿棟札 元禄七年(一六九四)
元禄七年甲戌河州河内郡善根寺村藤原朝臣家次 檜皮屋惣兵衛
大工 八兵衛5⑤ 高山八幡宮本殿棟札 亨保十一年(一七二六)

亨保十一丙午年  檜皮大工棟梁        
高山八幡宮御社上葺棟札 河州河内郡善根寺村宮脇五兵衛政重
三月吉日          
大坂こう産町
仕手 肝煎  弥平次
同すけた町  喜右衛門
同のうにんはし  庄兵衛
同大工町  安兵衛
南都高畑寺座  作兵衛
裏 記載なし


(1)棟札に記載された善根寺檜皮大工

年代としては万治から享保にいたる一〇七年間にわたります。
五兵衛・八兵衛・彦左衛門など同じ名前の大工が三名存在します。年代から考えて同一人ではなく、名を子や孫または血縁者に相伝していると思われます。藤原家次は中世の伝統を受け継ぐ受領名ですが、近世においても使用しています。

宮脇宗兵衛・五兵衛、田中八兵衛・八右衛門が棟梁を勤めています。享保一一年には宮脇五兵衛政重となっており、善根寺菩提寺内の墓地にこの宮脇家の宝篋印塔の墓があり、前面に「宮脇氏先区菩提」と銘記され、周囲に四一名の戒名を刻んでいます。西側の墓地内に「法華塔」があり、これはかっての宮脇家の屋敷前の一里塚に宮脇家が建てたものだそうです。
宮脇家墓

法華塔
その碑面は磨耗が激しくわずかに「宮脇宗大夫為人好善近遠慕」「逝年六十有一也」と読め、年号は不明です。この宮脇宗大夫という人物が万治の棟札に登場する宮脇宗兵衛その人と思われます。筆者は平成一一年に善根寺村の近世庄屋である向井家の旧母屋にあった文書群の調査をさせていただきました。

その時に発見した「宗門人別帳」によると、文政四年(一八二一)に五兵衛は二二才、祖母と妹二人の四人家族、一八年後の天保一〇年(一八三九)に五兵衛四一才、妻と一三才の娘との三人家族で、五兵衛はこの時には庄屋を勤めています。そして「手続書」と題した文書に、「当村元庄屋宮脇五兵衛安政五丑年(一八五八)一二月病死仕候、相続人無御座候」とあり、一九年後に相続人がなく断絶したことを伝えています。

宗門人別帳 文政四年
宗門人別帳 天保一年

善根寺の菩提寺住職の記憶では、あとに残された妻が阿弥陀像一体を寺に託していかれたということです。この宮脇五兵衛が、享保時代の日下村庄屋であった森長右衛門貞靖が記録した『日下村森家庄屋日記』の中に登場するのです。

享保一四年(一七二九)に木積宮(現在の石切神社)の屋根葺き替えがありました。江戸時代には木積宮は日下村・額田村・植付村・芝神並(しばこうなみ)村が氏子となっており、四ヶ村で祭祀組合を作り、神社の運営に携わっていました。享保一四年九月二一日、日下村庄屋長右衛門は木積宮四ヶ村の寄り合いに出て、本殿の屋根葺き替えに関する相談をしています。

木積宮の屋根は宝永三年(一七〇六)に葺き替えられ、この年で二三年目にあたっていました。宝永三年には本殿の修復もあり、その費用は三貫二〇〇目(約七〇〇万円)だったようですが、この時は屋根葺き替えだけで、善根寺五兵衛を呼寄せて檜皮葺の見積もりをさせています。
この善根寺五兵衛こそ、善根寺檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛であることは明白です。善根寺五兵衛は木積宮の檜皮葺について、「下地の通り、こけら葺きにして五〇〇目、替棟の外まで檜皮葺にして一貫目」と見積もりしています。五ヶ村庄屋が村へ帰り、百姓の意見を聞いてからもう一度九月二五日に寄り合います。そこでは額田村庄屋から入札にして下値になるようにしては、という意見で、公儀へ葺き替えの御願いをしてから入札することに決まります。 

額田村庄屋の話では、他の業者にも見積もらせ、「さや(外囲い)もいたし、さやふきかへ共に五〇〇目、」と報告します。つまり檜皮葺の一貫目よりかなり安価であるということは、檜皮葺ではない他の材質であったと思われますがその詳細は不明です。

閏九月三日に木積宮の神主数馬が七日に奉行所へ屋根葺き替えのお届けに行くことを日下村長右衛門に伝えに来ています。その後十月七日には木積宮屋根葺き替えに日下村より人足三人を遣しています。十月廿九日には屋根葺き替えの費用の割付の相談があり、総費用七八三匁八分一厘となっています。この価格ではおそらく檜皮葺ではなかったと思われます。これを四ヶ村で石高に応じた割付をし、公平に負担しています。

この『日下村森家庄屋日記』の善根寺五兵衛の記載に出会ったことは、五枚の棟札を発見した時と同じような感動がありました。享保一四年といえば、その三年前の享保一一年に奈良県の高山八幡宮の屋根葺き替えに出かけているわけで、善根寺檜皮大工の江戸時代の活躍を証明するものとなったのです。

水度神社の寛文の田中八兵衛もこの時代の指導者とも思われ、万治から元禄にかけて三度名が出てきます。田中家は『枚岡市史』編纂の昭和四〇年代には善根寺に住んでおられたようですがその後転出されたようです。彦左衛門も万治と寛文の二度登場しています。

(2) 檜皮大工の実際の人数

寛文の水度神社の葺替えでは、天王寺組ともう一組の応援を受け、八名の大工名が裏面に記載されています。高山八幡宮の万治には善根寺七名で和州三輪一名、奈良一名、元禄には善根寺四名で奈良から五名、大坂から三名、享保には大坂から四名、南都から一名いずれも応援を受けています。どの作事も善根寺檜皮大工単独で行なうのではなく、必ず奈良や大坂の檜皮大工の手を借りています。これは元来檜皮大工は普段は農業をしながら「出職」として社寺へ出掛け、現場で作業を行い、一定期間で完成させるため、「助職人」として各地から職人が応援に駆け付けたのです。永禄の棟札でも四天王寺の檜皮大工とともに行なっています。では実際の善根寺檜皮大工の人数は何人いたのでしょうか。

日下古文書研究会では平成二一年から再び善根寺向井家に文書調査に入り、今回は蔵の中の文書を調べさせていただいております。そこから檜皮大工に関する貴重な文書が数点見つかりました。そのうちの一通、文化一一年(一八一四)に善根寺春日神社若宮の屋根修復があり、その普請について檜皮大工が約定した一札から檜皮大工の人数が確認できます。

一札之事
一此度当地若宮御殿御屋根修復之義、武左衛門棟梁として仁兵衛・弥右衛門同心致葺立積り
左之通
一檜皮長サ惣テ二尺五寸弐ツ切之事
一軒厚サ平ニテ五寸、出平ニテ四寸地腹玄皮之事
一葺足下壱尺三分足、上弐尺五部足中之間四分足御鉾下壱  
尺三分足、上惣テ四分足之事
一足代手伝人足其外入用物皆式引受申、代銀六百匁出来立之上申請候、相対之事
右之通葺足万端少も無相違、尤かつこうよくふき立、檜皮等も地皮を用ひず随分宜敷所ヲ相用ひ可申候、其外釘入用物等無倹約丈夫ニ葺立可申候、然ル上は当年より三〇ヶ年之間畜類之あらし候は格別不起地軒付等ニ荒相立不申様急度請合可申候、万一荒相立候ハヽ、無料ニテ私共より早速取繕可申候、若其節差支之もの有之候ハヽ相残ル印形之者より取繕可申候、たとひ子孫ニ至り候テも少も違変無御座候、為後日差入申請合一札依テ如件
文化一一年戌年二月 
善根寺村檜皮葺師
棟梁   武左衛門(印)
同村同心  仁兵衛(印)
同村同断 弥右衛門(印)
善根寺村御役人中
右六百匁之内金弐両先受取仕候処相違無御座候以上

この文書は文化一一年二月、善根寺村氏神である春日神社の若宮の屋根葺について、善根寺檜皮大工の棟梁武左衛門と仁兵衛・弥右衛門の三名が屋根葺を請負い、その仕様について詳しく列記し、入用銀六〇〇匁を完成ののちに受け取ることを明記しています。





そしてかっこうよく丈夫に葺き立てること、三〇年間の維持の保障と、もしその期間中に畜類などにより破損した場合は子孫にいたっても無償で修繕することを約定した文書です。
この文書により文化年間には檜皮大工棟梁は武左衛門であり、仁兵衛と弥右衛門が檜皮大工として存在していたことがわかります。
この史料とこれまでに発見された棟札から檜皮大工名を年代ごとにまとめたものが以下の表です。





善根寺檜皮大工変遷表
         広八幡神社
棟札1569
高山八幡宮


棟札1659
       水度神社
棟札1669
         高山八幡宮
棟札1690
諏訪神社


棟札1694
    高山八幡宮
棟札1726
若宮修復文書


1814
棟梁 頭三郎 宮脇宗兵衛 田中八兵衛
           八右衛門
五兵衛
檜皮葺屋


惣兵衛
宮脇五兵衛
政重
武左衛門
大工 新兵衛 宮脇五兵衛



仁兵衛

与四郎 惣右衛門





孫八 彦左衛門





与六 忠次郎
彦左衛門

 

善四郎 長左衛門
藤兵衛



新次郎 八兵衛

八兵衛

永禄の場合は四天王寺に従属する檜皮大工とともに請負っているので惣人数としては一八名ですが、善根寺檜皮大工としては七名です。近世になって永禄一二年と万治二年には七名、
元禄三年には四名、文化一一年には三名となっていたのです。けれどその下には弟子や見習いもいたはずで、三名は大工集団を率いる立場であったと思われます。

棟梁としては田中八兵衛・八右衛門と、宮脇宗兵衛、惣兵衛・五兵衛、文化年間には武左衛門となっています。時代によって変動はありますが、下線のある人物が重複しているように、大工を出す家柄は決まっていたようです。

中世の作事は南都興福寺に従属する寺座としてのものであり、請負形態は近世になってからのものとは異なっていたはずです。近世に南都興福寺の保護を離れて独自で普請請負をするようになってから檜皮大工の規模は縮小されたことは容易に想像できます。それでも彼等の技術と伝統は絶えることなく継承されたのです。


(3) 近世の檜皮葺の実態

近世村落の形成とともに、地域共同体の連帯が強まり、村々で氏神を勧請し、宮座の組織が作られました。支配層も支配地域との結びつきや支配の円滑な運営のために神社の保護に尽くしました。そうした背景があったとしても 神社の檜皮葺の作事は限られたもので、しかも三〇年という檜皮葺の耐用年数があり、一般の大工に比べても仕事量は大きく制限されたでしょう。
当然善根寺檜皮大工集団が近世を通じて檜皮葺の生業を継続するためには農民としての比重が高く、決して豊かな生活の保障が得られるものではなかったはずです。また檜皮葺技術を次世代に伝えていくことの困難さもあったでしょう。文化年間には三名という小規模になっていたのも無理からぬことです。

それでも善根寺檜皮大工集団が生業の燈を絶やす事がなかったのは幕末の史料に見られるように、毎年の春日若宮のお旅所の行宮の松葉の屋根葺に出仕するという名誉ある奉仕があったからではないでしょうか。そして伝承も大きく存在していたでしょう。春日の大和遷宮に供奉したという伝承は檜皮葺の技術とともに子孫や弟子に伝えられ、彼らを支えてあまりあるものであったに違いありません。

そして中世に興福寺寺座であった誇りは彼等から消えることなく、近世の棟札にも宮座の古文書にも石燈籠にも「寺座」と刻み込んでいるのです。では「寺座」という地位は近世にも存在していたのでしょうか。そのへんを解明する史料が向井家文書にあります。

(4)向井家文書「寺座覚書」

向井家の蔵の調査で「寺座覚書」が見つかっています。

寺座覚書

この文書は六丁ほどの竪帳で、破損と虫食いによって判読困難な部分もかなりあり、内容の詳細は解明困難なものですが、末尾に「右之通延享年中御造営之時南都両座ニ致出入候覚書也」とあります。つまり延享年中の春日の御造営の時に南都両座と出入になったことの顛末と思われます。

延享二年八月廿三日に南都 春日御造営の木作初があり、その首尾が前日に通達されたようです。しかし
新法ニ御祝儀  一御殿大乗院様座、二ノ御殿一乗院様座、 三御殿寺座ニ相勤様、 大乗院様御家老多聞院様、南院様御両人より被 仰渡候、左様ニ相勤[  ]古法ニ違甚難渋之段、達テ御願申上候候
とあり、一の御殿は大乗院座、二の御殿は一乗院座、三の御殿は寺座と、新しく普請場所を決めたことが古法に相違するということで願書を差し出したようです。

その返答が河州寺座ハ宮本座故、三ノ御殿相勤申由、右寺座ハ檜皮葺師 三座之座頭故如此申付候と被仰候とあるので、善根寺檜皮大工は河州寺座と称され、宮本座(みやほんざ)であり檜皮葺師で三座の座頭(ざがしら)であるためこの如くに申し付けるのだという返答です。そしてとにかく明二三日に迫っているので木作初の祝儀はこのまま勤めるようにとの指示がありました。

八月二五日に善根寺檜皮大工棟梁である宮脇五兵衛と庄屋太郎兵衛が南都大乗院役所に出頭し、御前御記録帳と寺座之覚書を照合し、相違ないことが確認されます。そのあとの記載は普請の内容と、最後に御普請奉行帯刀様他一名の仰渡しがありますが、欠損が多く詳細は不明です。

全文の解釈は困難ながら、おそらく河州寺座がそれまでの作事の受け持ちを変更されたようで、それを訴えたものと思われます。けれどその原因は不明です。

その後には「寺座法」として座頭になる事が出来るのは「年兄月兄日兄」とあるので、年齢序列が重んじられたようです。

葺初早ク致候者を座頭ニ可致[   ]左様ニ致候テハ古法と相違ニ付、
とあり、檜皮を早く葺く能力によって座頭にするのは古法に違反するとあります。中世以来の伝統で、年齢によって次(階級)が決定されていたものを、実際の能力によって評価する動きが出てきたことへの戒めであろうと思われます。そのあとには養子や他家へ嫁したものの決まり事が記されていますがこれも破損が激しく内容が不明です。
この文書によって貞享・宝永・享保の春日の御造営に、善根寺檜皮大工たちが奉仕していたこと、しかも善根寺檜皮大工が「河州寺座と」称され、南都興福寺内で重要な地位を占めていたことが証明されたのです。近世の棟札にも石燈籠にも古文書にも「寺座」と記録したのは、「寺座」の地位が中世の遺物ではなく、近世においても厳然と存在していたからなのです。

(5)向井家文書「春日社御造営屋弥[ 以下破損]」

(表紙)明和元年 春日社御造営 屋弥
向井家文書の中に明和元年に書上げた春日社御造営の屋根檜皮葺の記録が見つかりました。竪帳の下部が大きく破損しており、解読困難なものですが、春日社の御移殿、酒殿、御本社、若宮、浮雲社などの屋根葺について詳細に寸法と坪数を書上げています。
枚岡市史に掲載された明和三年の『春日社御造営屋根之日記』は向井家に現存しませんので、それより二年前に書上げられたこの文書は、善根寺檜皮大工が春日社御造営に出仕したことを示す貴重な史料となります。
(6)向井家文書「春日社造立諸入用帳」
辛享保六年 春日社造立諸入用帳 丑二月六
これは享保六年(一七二一)に善根寺春日神社造立の経費を書上げたものです。奉行所へお願いに行った時に役人に贈る和紙から、遷宮に必要なもめん生地一疋、春日づくり宮造立の大工手間、檜皮材料と葺き手間、檜皮葺に必要な竹釘、縄をはじめ、拝殿修復、練塀、拝殿左右や練塀下の切石まですべての経費を書上げています。大工手間が多くかかり過ぎたようで、年寄と足立註蔵に相談し増加分を支払っています。