向井家文書資料集刊行
向井家文書にみる近世の善根寺村の概要
善根寺村は近世河内国河内郡の最東北(現東大阪市)に位置し、南は同郡日下村、北は讃良郡中垣内村に接する。東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり深野池に接する。
向井家は享保三年(1718)から善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、その所蔵文書は二〇五五点にのぼる。近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っていることから、近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。
善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間は次郎右衛門が勤め、その後、宝永から正徳年間は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤めた。
享保三年に向井太郎兵衛が庄屋となり、それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
文禄三年(1594)の長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高一〇六一石九斗六升であり、その構成は田方が七八㌫を占め、その内訳は上々田・上田が過半を占める、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村である。
寛文三(1663)に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年(1649)の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを「日下村町切帳」(一・1)として日下村から譲り受けた。
寛永十一年(1634)に曽我丹波守古祐支配となり、
以後元禄元年(1688)の能勢出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)に天領となる。この年に金丸又左衛門代官に提出した「善根寺村明細帳」(二・1)が存在する。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。以後善根寺村は幕末まで天領であった。
元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は三六〇石一斗一升、家数が五一軒、うち高持三五軒・無高一六軒と、高持が無高の倍であった。村高は享保三年(1718)に四二六石九升四合となり、家数は、文政九年(1826)「宗門人別帳」では九三軒、人数四四五人、そのうち高持三五軒、無高五七軒と無高が大幅に増加する。さらに嘉永四年(1851)家数一〇一軒、人数四九八人と、順調に発展する。
善根寺村は山方村であり、「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(十・1)によると、杣職・木挽職などの山稼ぎや、急峻な谷川を利用した水車稼ぎが多く、木綿商・古手商など、河内ならではの商工業の発展がみられる。
また村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替後に新田として開発され、善根寺村はじめ本田村との水論が多発した。深野新田関係の水論文書は二八点にのぼり、享保三年の京都裁許書によってこの水論に一応の決着がつけられることになる。
特筆すべきは、十一点の善根寺檜皮大工に関する文書である。善根寺檜皮大工については、戦国期、永禄十二年(1569)の棟札が発見されており、中世からの活動が確認されているが、これらの文書によって、彼らの近世の実態が明らかになった。
延享二年(1745)の「寺座覚書」(二十四・1)と、明和元年(1764)の「春日社造営屋弥[破損]」(二十四・2)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年中(1684~1688)より南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
しかも、天明三年(1783)、安政三年(1856)、同七年(1860)「興福寺修理目代」から与えられた三点の「寺檜皮大工職補任状」(二十四・3)が残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。
延享元年からの神尾若狭守巡見に関する触書(八・7・8)が二三点にのぼり、村は次々に届く触書に緊張しつつ準備に奔走し、年貢増徴の御旗を掲げてやってくる勘定奉行を迎えた。
「神尾若狭守巡見宿泊明細」(十四・12)によると、善根寺村豪農足立家に神尾若狭守以下四七名、向井家に堀江荒四郎以下一八名が宿泊している。
明治改元の直前、慶応四年(1868)四月から五月にかけて、神仏判然令・丁銀廃止・「天下の大事にあたり金穀御用を相勤めるべし」との太政官通達など、二八項目にのぼる「維新触書」(二十三・1~28)が折紙に写し取られている。
何百年の眠りから覚めたこれらの文書が、新しい地域史の解明に繋がることを期待したい。
最後に、この資料集作成にあたり、所蔵文書の提供にご協力いただきました向井家ご当主・向井竹利氏に深く感謝申し上げます。
日下古文書研究会
浜田昭子
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