2014年2月6日木曜日


江戸時代の日下村 
   『日下村森家庄屋日記』享保12・14年度解説書
 
 
解題      

 

本書は『日下村森家庄屋日記』享保十二年度(1727)・十四年度(1729)の二年分について、興味深い事項についての解説を収めたものである。

 

一 史料『日下村森家庄屋日記』(以下『森家日記』)

 

『日下村森家庄屋日記』は東大阪市の北東に位置する現在の東大阪市日下町、池之端町、布市町の三地域が日下村と呼ばれた江戸時代に、この地の庄屋を勤めた森長右衛門貞靖によって書かれた日記である。

年代としては享保十二年から長右衛門が亡くなる延享二年(1745)までの十八年間にわたる十一冊が現存する。他に享保二一年(1736)の長右衛門の二男平八の手になる日記が一冊あり、寛延二年(1749)から同四年(1751)までの長右衛門の長男生駒山人の日記が三冊ある。享保十三年度日記は東大阪市加納の森義男氏所蔵、他は京都大学所蔵である。

今回取り上げた享保十二年から同十四年にかけては長右衛門が庄屋として最も活躍した時期であり、近郷の庄屋階級をはじめ、大坂町人や武士との幅広い交流を通じて、天下の台所としての大坂と、その経済発展に呑みこまれる河内百姓の姿があますところなく描かれている。特に享保十四年の薬草巡見や、象の来日など、歴史的に重要な事件の詳細が記述され、現代の我々に貴重な史料を提供している。以下文中では『森家日記』とする。

 

 史料『河内国日下村元庄屋長右衛門記録』(以下『長右衛門記録』)

 

『河内国日下村元庄屋長右衛門記録』は享保から寛保にかけての村方文書で、森家の所蔵であったものである。『森家日記』の享保十三年度以外の一五冊とともに、昭和二年に京都大学所蔵となっている。以下文中では『長右衛門記録』とする。

 

三 森長右衛門家

 

森氏は中世には畠山氏被官、後筒井順慶に仕えた武士若松氏を先祖とした名家である。日記の著者、長右衛門貞靖は天和三年(1683)に生まれ、延享二年に六二歳で亡くなっている。享保十二年に四四歳の壮年で日下村の庄屋を勤め、多忙な日々を送っていた。

日下村で最大の石高七八石(『慶安二年検地帳』)を持ち、間口二八間の屋敷と本家(ほんや)・隠居・別座敷、土蔵・納屋・長屋門など九棟(『井上家文書』「宗門御改并家数人別帳」)を擁し、使用人一〇人あまりを抱える近郷きっての豪農であった。

北側に広がる庭園は寛永十一年(1634)に大坂西町奉行となった曽我丹波守古祐(ひさすけ)が造らせたもので、「鳴鶴園(めいかくえん)」と名づけられていた。風光明媚な山懐に抱かれ、鶴も舞い遊ぶこの名庭園は大坂でも広く知られていたようで、物見遊山に訪れる遠来の客が絶えなかった。寛政十年(1798)に上田秋成が日下村に滞在した折、鳴鶴園を題材に和歌や随筆をものしている。

長右衛門は漢学者に師事していた文人でもあり、その長男文雄は、河内に名高い漢詩人「生駒山人」その人である。来照山と称される現在の日新高校の裏山に建つ父子の墓石には、伏見の漢学者龍子明の撰になる碑文が刻まれている。

 

四 日下村の概要

 

河内国河内郡日下村は、生駒の山懐に抱かれた山里である。灌漑用水を多くの溜池に頼り、主要作物は米・麦・大豆・粟・黍の他、商品作物としての綿・菜種・たばこが栽培されていた。

享保十一年(1726)に村高七三五石、人口は一一二四人(内男性五八七人、女性五三七人)。元文二年(1737)の人口一〇四五人(内男性五四二人、女性五〇三人)家数二四〇軒、内無高百姓一三七軒である。因みに平成二四年度の同地域(日下町・池端町・布市町)の人口は一六四〇二人(内男性八一五一人、女性八二五一人)、世帯数六〇〇六軒である。人口は享保の約十四・六倍、世帯数は元文の約二五倍となっている。一世帯人数は元文に四・三人、平成二四年に二・七人で、少子化と核家族化が進む現代の状況を示している。

日下村の庄屋としては森長右衛門貞靖と、隣家の河澄作兵衛常正の二人が勤めていた。年寄としては、五兵衛・治助・治左衛門・与次兵衛がいた。定使としては杢兵衛がおり、日下村では「小走(こばしり)」と呼ばれていた。日下村の医者は玄喜と周益の二人がおり、村方文書の書記は善根寺村の右平次が受持っている。村雇いの船頭は吉右衛門と六右衛門がおり、吉右衛門船は長右衛門が大坂へ行くときに利用し、六右衛門船は瓦や年貢など重いものを運ぶ。日下村は標高一〇〇㍍を超える山里であり、村雇いの狩人次郎兵衛がいた。

寺院は正法寺(明治に廃寺)と禅宗の大龍寺の他、浄土真宗道場として東称揚寺と西称揚寺があった。日下村は木積宮(石切神社)の氏子であったが、御所カ池の畔に寛永時代の領主曽我丹波守を祀った丹波神社がある。曽我丹波守は御所カ池の改修を幕府普請で行い、その善政により水の神として祀られている。

 

五 日下村領主・上野国沼田藩本多氏

 

日下村は、宝永二年(1705)に、譜代大名上野国沼田藩本多伯耆守正永の老中就任によりその役知となる。享保十二年の領主は二代後の本多豊前守正矩で幕府の奏者番を勤めていた。

本多氏は四万石を領し、そのうち一万石が上方領分で、北は枚方の中宮から南河内の古市までの二〇ヶ村であった。本多氏河内所領二〇ヶ村の明細は巻頭の本多氏河内所領図の通りである。

その支配は、大坂城の真南、上堺町にあった蔵屋敷で行われ、『森家日記』から確認できる蔵屋敷役人としては、御留守居役として吉田助左衛門、松本儀太夫の二名、他に松田億右衛門・松田定之進・渡辺伴六・遠山善右衛門・田村清蔵・堀和助・中塚善七・吉田左五平次・森本某の合計十一名が在勤していた。享保十二年暮には森喜右衛門が着任し、二〇ヶ村庄屋に日光社参のための御用銀を申付けている。おそらく本多氏の家老級の人物であったと思われる。

本多氏の蔵元は鴻池善兵衛であった。鴻池善兵衛家は、鴻池家始祖、新六の次男の善兵衛秀成が、元和二年(1616)に分家した家で、本家を継いだ善右衛門正成は八男であり、兄の筋にあたる。本家よりも早く大坂へ出て醸造業を営んだ。掛屋は米屋平吉が任されていた。米屋は平右衛門を称し、平吉は初代の幼名である。初代が享保六年に亡くなっており、この時代は二代目と思われる。

用聞としては萬屋善兵衛がいたが、日下村においては、年貢はすべて在払いであり、触書の伝達は郷宿であるさかい屋が受け持ち、用聞萬屋と村方との接点はあまりなかった。用聞が日記に登場するのは、検見の際に検見役人に随行する時のみである。

 

六 『森家日記』から見えるもの

 

庄屋日記はいわゆる「役用留」として、村役人としての役用を記録するものが多いが、森長右衛門は村中の細々とした出来事にも目を注ぎ、豊かな学識と練達の筆跡で、日下村の明け暮れを丁寧に記録する。当時の人の手になる記録は千金の価があり、一つ一つの出来事が、当時を生きた人々のありのままの姿を描きだす。

長右衛門の庄屋としての活躍、近郷の豪農や文人との交流、大坂町人や武士との密接な関係、当時の大坂と河内の様々な人と金の流れ、大坂の経済発展に呑みこまれる河内百姓の姿を活写する。連日長右衛門の筆は走り、現代の我々が知りたい事実があますところなく説き明かされる。

二八〇年前の風光明媚な山里、豊かな緑を写す日下新池、急峻な生駒山谷を流れ落ちる日下川、山肌に切り開かれた棚田、細い山道の両側のわら葺の集落。この土地と自然とに向き合い、四季のうつろいに心を働かせ、田に鍬をふるう村人。

村中で力を合わせる田植え、汗の匂いさえ感じる夏の水番。暴風雨で崩れた川堤に杭を打ち込む若者の息遣い。疱瘡でなくなった子供を日下川の堤で火葬し、熱病が流行る家々で邪気を払うための蒼朮(そうじゅつ)を焚く。生きることが今よりはるかに困難な時代、すべてが幾多の文献が教えてくれることを超えて、確かにあった人の営みの重さを持っていた。

そんな中での長右衛門の多忙。毎年領主から課せられる御用銀の算段、年貢米の入札の手配、検見役人や土砂留役人の接待。ことあるごとに村役で大坂蔵屋敷へ参上する。庄屋としての多忙に身を置きつつ、長右衛門は百姓の様々な事情の中に入り込んで、暮らしの成立ちに心を砕く。

現代の企業戦士にも勝るとも劣らぬ責務の過酷さの中にあって、長右衛門を支えたものは、父祖伝来のふるさとへの深い郷土愛と、村落指導者としての強い使命感であった。

現在の日本社会を規定したといわれる近世社会、その村落の中心にあったものが庄屋であった。『森家日記』から見える世界、それは今自分たちの中にある根源的なものがここに根差しているのだと教えてくれる。













 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿