2014年2月6日木曜日

江戸時代の日下村

論考


二 新田開発と河内の庄屋

 

はじめに

河内の歴史は水との闘いであったといわれる。図1「大和川付替直前元禄時代河内国絵図」に見るように、大和川と何本もの支流が深野池と新開池という二つの大池に流れ込む悪条件の中で、悲惨な水害によって長年辛苦の中にあった。宝永元年(1704)の大和川付替によって、その苦難を乗り越えることができたが、水の干上がった川筋と二つの広大な池が新田として開発されることになり、本田村々は新たな軋轢にさらされることとなった。図2「深野新田周辺図」のように、新開池は鴻池家が開発に乗り出し鴻池新田となり、深野池は東本願寺と河内屋源七が開発に乗り出し、中央部は深野新田、南北は河内屋新田となった。

深野池と新開池は周辺の本田村が悪水を落とす遊水池であったから、開発直後から水利出入が多発した。特に深野新田においてそれが顕著であった。この深野新田を取り上げて、開発における本田村との諸問題について、河内の庄屋が果たした役割を検討してみよう。

 

徳庵組四二ヶ村との提携

地域結合のうちでも最も重要なものが農業経営に直結する水利組合であった。宝永元年の大和川付替えにいたる訴願運動では初期には最大で二七〇ヶ村の連合がみられる。その後縮小されたが最後まで訴願を繰り返したのが徳庵組四二ヶ村という水利組合であった((1))

この組合は徳庵井路が開削された明暦元年(1655)に結成され、徳庵井路に悪水を落す水利権を統括する組合であった。この組合の位置関係は図1に示すとおり、茨田・交野・讃良・河内・若江の五郡にわたる。大和川氾濫の際には河内郡の西側と若江郡が大きな被害を受けたが、北の淀川流域である茨田郡・交野郡・讃良郡、さらに河内郡山方などは直接洪水の被害を受けることはない。しかし大和川氾濫で徳庵井路が壊滅するとこの徳庵組すべての村が悪水井路を失うことになる。そこのところで結束しているのであり、大和川付替えの嘆願は徳庵組の総意でなければならず、四二ヶ村で最後まで嘆願を続けたのである。

大和川付替え後の深野池と新開池の新田開発については、幾多の困難に直面するが、その中でも特に悩まされたのは排水問題であった。両池は古代の河内湖の名残の広大な池であっただけに、水が引いても泥沼のような低湿地で、その排水問題は新田経営の成否を決する鍵となった。

新開池を開発した鴻池家は開発当初に独自の悪水路、鴻池水路を開削したが、深野池の新田は山方の悪水を受ける位置にあったため、排水停滞が危機的情況となった。悪水井路としては徳庵井路が存在していたが、これを利用するには徳庵組四二ヶ村の水利権が大きく立ちはだかっていたため、深野新田独自の悪水井路の開削が窮余の策となった。その解決には既設の徳庵井路を上下に切抜く方法がとられた。

この新徳庵井路の切抜は『吉田村明細帳』によると「宝永五年徳庵組四二ヶ村願いにつき六郷分新井路出来((2))」とあり、図3の付替え以後の井路地図には徳庵井路が二本となり、上を寝屋川、下を六郷井路としている。寝屋川は新田側、六郷井路は本田側の悪水を落としたのである。

新田開発は周辺本田村との間に激しい軋轢を生み出したが、悪水井路に関する問題に対しては「徳庵組四二ヶ村并深野四新田」という新しい結合関係を生み出し協力して解決にあたったのである。

享保十年の徳庵井路修復完成の届書((3))では、

 

一徳庵組四拾弐ケ村、悪水徳庵井路江樋落ニテ御座候処、大河違 被為成下候以後、深野新田地ひくにて立毛無御座候ニ付、右徳庵井路切抜ニ奉願候処、願之通被為 仰付被下候(後略)

 

徳庵井路切抜の理由が、徳庵組四二ヶ村側にあるのではなく、「深野新田地ひくにて立毛無御座候ニ付」と、深野新田側の低地という理由にあるのだということを明記している。

水利組合は複雑に入り込む井路川管理の事情により複数の組合に属することが多かった。徳庵組四二ヶ村の生駒西麓村々は、図1に見るように、恩知川上郷九ヶ村と徳庵山方一一ヶ村に属し、若江郡村々一ヶ村は六郷組に属し、北の木屋から蔀屋までの村々は茨田郡の二〇ヶ用水路を共有する水利組合、ともろぎ組、山方組((4))にも属していた。

井路川を利用する村々の水利権は水利組合の厳しい統制下にあり争論になる前に詳細な約定((5))の取決めをし、それを逸脱する行為は何人にも許されなかった。水という百姓の命に直結する問題では緊迫したせめぎあいが繰り返されたはずで、運営の中心となった庄屋たちは各村の要求を調整し全員が納得し折り合うまで徹底的な話し合いを重ねた。水利組合は古くからの歴史を持ち、さらにその上に新田開発という新しく発生してきた問題に対しては新たな結合が築かれたのである。

しかし「徳庵組四二ヶ村」という五〇年の歴史を持つ水利組合と結束し、「徳庵組四二ヶ村并四新田」という、新たな結合を築くためには、地域社会における新参者である新田側が大きな代償を払う必要があった。

 

本田村と新田との約定

深野新田に隣接する善根寺村は、新田開発によって大きな影響を受けた村の一つであったから、善根寺村庄屋向井家には深野新田関係の水論文書が二八点遺されている。その中に徳庵井路切抜に関して、新田側との間に交わされた約定文書がある。

 

(史料1)

(端裏書)此本証文日下村ニ有之候  

請負申証文之事

一今度徳庵表御新田ニ被為 仰付、我々開発仕、当植付無相違可仕様ニ存候処、先頃之雨ニテ水つかへ、植付不罷成候故、各々江相談之上、徳庵井路切抜之御願一同ニ申上候、願上之通被為 仰付候ハヽ、此上何程之御普請百姓方江被為 仰付候共、不依多少新田請負人方ゟ不残可仕候、勿論自今以後、徳庵切れ候欤、又は井路堤破損等有之候共、我々方ゟ急度可仕候、其外被 仰付候御普請并川筋掘浚諸普請等、永々迄我々方ゟ急度仕、村々百姓中江少も懸ケ申間敷候、為後日証文仍如件

          深野請負人下辻村

                 与三兵衛

 宝永三年戌六月   同   福島村

                 清兵衛

           同   河内屋

                 源七

 

堀溝村 木田村 平池村  石津村  大間村 木屋村 郡村  田井村  高宮村  小路村 岡山村 砂村  蔀屋村  雁屋村  北条村 野崎村 寺川村 中垣内村 善根寺村 日下村 植付村 芝村  額田村  豊浦村  四条村 五条村 池嶋村 玉櫛村

右村々庄屋御衆中

                    

宝永三年(1706)の時点で、新田の悪水を落とすために、新田と山方村で徳庵井路切抜の相談がまとまっていたようで、切抜普請願をするにあたり、普請とその後の修復については新田方で行い、本田村二八ヶ村には負担はかけないという証文である。二八ヶ村は図1に明らかなように、河内郡の徳庵山方村と、茨田郡ともろぎ組、茨田郡山方組に属する寝屋川上流部の村々である。それまで深野池に悪水を落としていた村々が、その悪水請池が新田となることで発生してくる諸問題を警戒し、自らの権益を守るための要求を新田請負人に突きつけ一札入れさせたものである。

この文書の端裏書に「此本証文日下村ニ有之候」とあるが、『森家日記』延享二年(1745)六月二十日条では深野新田と出入になっていた北条村から日下村に古い水利文書を借りにきている。それがこの史料1の文書である。つまり、三七年後であっても、新田側との水論の際にはこの開発当初の約定証文を持ち出すことで、自分たちに有利な解決に持ち込んだのである。さらに徳庵切抜普請とともに、新田の悪水抜普請に関連する諸入用負担についても一札入れさせている。

 

(史料2)

古田新田悪水抜願之普請場所覚

一徳庵井路上下堤切抜諸入用之事

一山方七ヶ村、深野悪水抜、徳庵新井路諸入用之事

一六郷、鴻池悪水抜、徳庵新井路諸入用之事

一徳庵樋橋地代等入用之事

一徳庵樋尻川幅広ケ申諸入用之事

一今福ゟ下片町南迄、山方七ヶ村・深野新田・六郷・鴻池悪水落・鯰江堤諸入用之事

一鴻池善次郎新田之内、新井路・吉田川筋、横山新田之内新井路并地代普請樋諸入用之事

一下野村ゟ御供田村東、本田堤迄、恩知川幅八間ニ掘申候諸入用之事

一拾壱ヶ村之内南四ヶ村悪水落井路、布市橋ゟ御供田村、本田堤迄、井路幅三間ニ掘申候普請地代樋入用之事

一植付領ゟ豊浦領迄山川はね出シ、普請俵入用之事

一赤井前ゟ徳庵迄恩知川と寝屋川と別々落申様ニ鯰江堤、此入用并修復之義、永々迄山方拾壱ヶ村へハかけ申間敷候事

右拾壱ヶ條之普請入用、其外新田内之諸入用、樋橋等迄之諸入用、古田新田立合普請致候筈ニ証文取替シ申候、然共入用之儀不分明ニ付、分量相究、古田方拾壱ヶ村徳庵高千弐百五拾石、但百石ニ付、銀壱貫五百匁ツヽ村々ゟ普請出来次第請取申筈ニ相極メ、残ル普請諸入用銀何程有之候共、新田方江引請、普請致シ、右壱貫五百匁ツヽ之外少も古田方へかけ申間敷候、為後日一札如件

              深野新田請負人

                   清兵衛

               同断

                   与三兵衛

  宝永五年子八月廿八日   同断河内屋

                    源七

豊浦村 額田村 植付村 芝神並村 日下村 善根寺村 中垣内村 寺川村 野崎村 北村 南野村

                      

新田の耕地整備のための悪水井路普請は、周辺村にも影響するものであり、そのための普請がこの十一ヶ条にわたるものである。これらの普請入用、それに伴う周辺村の井路堤修復の入用、その外新田内の樋橋等迄の諸入用が不分明につき、徳庵山方十一ヶ村には「徳庵高百石ニに付、銀一貫五百目ツヽ」と決め、残る普請入用がいくらかかろうとも新田方で引受け、本田山方十一ヶ村へは負担をかけないことを新田請負人が約定している。

この十一箇条の普請では本田村内の井路や堤の普請も含まれており、本田村も利益を蒙ったにもかかわらず、その要因が新田側にあり、新田開発に伴う普請であるとして、一定額以上の負担を拒否する約定を取り付けたのである。

 

徳庵井路切抜普請の時期

徳庵井路切抜普請の時期に関して、『吉田村明細帳』には宝永五年に「六郷分新井路出来」とある。善根寺村庄屋向井家文書では切抜普請願の本文書はなく下書が遺されている。

 

(史料3)

乍恐追テ御訴訟申上候

       河州徳庵組之内廿九ヶ村百姓共同深野御新田請負人

一私共村々并御新田請負人去年ゟ徳庵井路上下之樋御取除被為下、向後切抜悪水落申様と数度御願申上候所、先一水様子見届ケ申様と、被為 仰出候故、延引仕候所、当夏両度水出之節、新田古田大分悪水落兼、迷惑仕候ニ付、先月十六日書付を以委細御願申上候御事

一徳庵井路之儀四十二ヶ村年々水損に逢、迷惑仕候ニ付、御願申上五十二年以前、明暦元年の年、徳庵井路被為仰付三尺四方之樋上下ニ御伏セ被下四十二ヶ村共、右之樋壱ツを以、落申段、六郷ゟ御申上候通、紛無御座候、其後六郷之悪水落兼申候ニ付、三十年以前御願申上六郷村々ゟ新開池之内に井路筋を立、徳庵六郷之樋、三尺四方被仰付、以上二つ之樋ニテ落申候、元来六郷之樋遥後ニ出来仕、新樋ニテ御座候所、近年之内三島新田之悪水新法ニ落、又去酉ノ年新開池御新田之樋新法ニ出来仕、其上又六郷ニ新樋を伏セ被申候も古田新田も悪水無滞落申積を以新規ニ出来仕、曽以、 御公儀様御為メ村々百姓御助ケ之儀ニ候故、新法と乍存、其侭差置申候、徳庵井路四十二ヶ村之内ハ、御願申上、悪水無滞落申井路紛無御座候事

一此度水所御助ケ之為メ大切成大川被為成下、数万石之御助ケ御慈悲ニ逢、難有次第ニ奉存候、然共所々御新田ニ被仰付、川筋斗ニ水ゆとひ御座候故、山方村々古田の悪水亡所ニ逢、勿論深野御新田も成就不仕、迷惑仕極ニ奉存候、兎角早速川水落仕廻申様ニ徳庵堤切抜之儀此度御願申上候

一徳庵上下切抜ニ被仰付被下候共、六郷十壱ヶ村構ニ成申義、少も無御座候、樋ニテ日数十日ニ落申水ハ一日ニも落候得ハ、六郷十壱ヶ村之水も能落申儀ニ御座候、然ハ大分之御助ケニ罷成候、切抜に仕候得ハ水早ク落仕廻、十壱ヶ村之ためニて御座候所、構ニ成候と被申上候ハ、大分之構違ニて御座候、切抜ニ被為 仰付被下候ヘハ、六郷も山方も平等之御助ケニ罷成候事

一六郷村々ゟ徳庵水高多少之儀被申上候、徳庵役高相改候所

   壱万三千四百石余之内

   六千四百石余      六郷十壱カ村徳庵高

   六千五百石余      山方村々徳庵高

   又三百弐拾五町壱反五畝分  深野御新田町歩

但此町歩も山方悪水と一所ニ落申候、大川違成被下候故、六郷村々ハ悪水能落申候、三島新田・新開池御新田新法ニ樋伏り申候故、御助ケニ罷成申候、山方村々并深野池御新田ハ最前申上候通、川筋ニ水ゆとひ川水永々たたえ御座候故、古田新田共ニ亡所仕候、切抜被為 仰付被下候ヘハ不残御助ニ罷成、深野衆御新田も弥成就可仕と奉存候御事

  右申上候通少も偽り無御座候、此度切抜ニ仕水能落申上候ハ、六郷之構少も無御座候、以御慈悲拾壱ヶ村同事ニ水落申様ニ切抜被為 仰付可被下候、万一私共構違ニテ十一ヶ村悪水落兼候ハヽ、如元樋を伏、御意次第ニ堤築立可申候、願上候通、被為仰付被下候ハヽ、乍恐御公儀様御為メ、古田新田共不残御助ニ罷成候、御慈悲を以、御見分之上、被為仰付被下候は、難有可奉存候以上

 

この下書には日付がないが、「去酉ノ年」とあるので年代は宝永三戌年となる。その内容を見ると、「深野池が新田開発されたことによって、山方村々の悪水亡所となり、新田も成就せず迷惑至極」とあり、さらに、「切抜が六郷十一ヶ村の構えになると申しているのは考え違いである。切抜をすれば六郷のためになるはずである。」といっている。

この文書の願人山方村二九ヶ村と深野新田側にとっては、徳庵井路切抜の方法こそが排水問題を解決するものであった。しかし六郷十一ヶ村(のち六郷十三ヶ村)の平野部の村々はその方法では「構」つまり障害になると申し立てて反対しているのである。

図1にみるように、六郷村々の周辺には、吉田川と菱江川があるが、地形的にこの二つの川から用水を引くことはできても、悪水を落すことはできないので、新開池に悪水を排水していた。しかし新開池は土砂が池床に堆積し、湿地帯のような状況になり流れが滞留する。そこで万治四年(1661)、新開池の中に八ヶ村井路(六郷井路)と三ヶ村井路(五箇井路)を開削し徳庵井路に繋いだのである。

もともと水害の多発する地域であったため、新たな徳庵井路の切抜によって何等かの障害が予想されたと思われるが、それがどのようなものであったか定かではないものの、とにかく切抜普請には反対していたのである。向井家にはこの問題がどのように解決していつ切抜普請に至ったのかについての史料は遺されていない。

野崎村庄屋で新田支配人を勤めた宮崎家の文書((6))

 

(前略)徳庵切抜水落申積り右普請之事、右願ニ付宝永六丑年深野新田支配人佐介御江戸様江御願ニ罷出申候事

一徳庵切抜願之儀、宝永七年寅六月ニ御江戸様ゟ御証文ヲ以、万年長十郎様江被仰付、同七月場所御見分之上、御定杭御〆被下、同八月より普請取掛ニ付

 

徳庵切抜普請については、宝永六年に新田支配人佐助が江戸へ願いに出て、翌七年(1710)七月に場所見分の上、八月から普請に取りかかったとある。同文書「開発諸入用方」によると、深野新田の開発費は宝永七年に前年の五倍近い増加を示していて、これは切抜普請費用が計上されたもので、切抜普請は同年に行われたことになる。結局、平野部の同意を得て普請実現までに四年の月日を必要としたのである。

これを見ると、新田の排水問題は本田村との軋轢によって、危機的なものになっていたことがわかる。新田は、山方村からは悪水を請けることを要求され、徳庵井路切抜普請の実現については平野部の村々の反対にさらされ、新田内の悪水は抜けず、収穫の望めない数年を耐えるしかなかった。深野新田は地主交代が頻繁で、現在では史料によってさまざまで確定できないので、史料ごとに権利移動の明細を挙げたのが表11である。この表11の②に見るように、この辛苦の中にあった宝永六年に、深野南新田は東本願寺から平野屋又右衛門へ分割譲渡されている。深野新田にとっては徳庵切抜普請の実現こそ死命を制する問題であった。新田存続の背水の陣というべき切迫した状況の中で、支配人佐助は江戸へ向かったのである。

 

本田村との軋轢

 新田と本田村との出入は多発したが、表10の②と④のように、新田側が埋めた樋を本田側が迷惑として掘り起こす出入が特に多かった。このように本田村の作り上げていた水利秩序に反する行為はことごとく潰されていく運命にあった。

こうした水論は領主にとっても厄介な問題であった。表10の④の鴻池新田と本田五カ村の出入では、新田側の埋めた樋を掘り上げた本田村の実力行使を、新田側が万年長十郎代官所へ訴えた。代官は「我侭なる致し方、不届き千万」と、同じ代官支配の加納村と菱江村には厳しいお叱りであったが、水走村・吉田村は他領((7))であり、代官万年長十郎にとっても「入組の村々の事故、御取扱いも成り難く、埒明兼申候」とお手上げ状態であった。「って吉田村惣左衛門挨拶をもって和熟仕候」と百姓身分の仲介人が登場して、ようやく解決となったのである((8))この吉田村惣左衛門は後に述べるように吉原村惣右衛門の書写間違いである。水論に関しては代官といえども何の能力もなく、吉原村惣右衛門のような水利に長けた地元の庄屋が乗り出さなければ何の解決も得られなかったのである。

本田村の要求が新田側に脅威となったことは、享保六年に日下村から平野屋新田へ申し入れた文書にも明らかである。

 

    平野屋又右衛門新田へ申遣候覚((9))

 一恩知川より用水取候本田・新田立会井路ニ此度致関留、樋を伏被申候、新法之儀と申樋を伏させ申儀不罷成候間、早々取払ヒ可被申候、其侭ニ致被置候は、此方より堀上可申候間有無之返答被致様ニ丑五月上旬布市忠兵衛を以平野屋新田支配人五兵衛へ申遣候処ニ、五兵衛返答、(中略)門樋ニテ不苦候者、門樋ニ致させ呉候様ニ申候得共、門樋も伏させ申儀、成不申候と申渡候事

 

平野屋又右衛門が東本願寺と河内屋源七から、深野池の南端、深野南新田と河内屋南新田を譲渡されたのは、表11の③のロによると享保六年であるが、その直後に伏せた樋について日下村から取り払い要求を突きつけられている。しかもそのままにして置けば此方より掘り上げると実力行使さえ示唆しており、必要に応じて開閉できる門樋にさせてもらえないかという願いにも、「成り申さず」と拒否している。本田村の水利秩序を乱す行為はことごとく跳ねつけられたのである。

極端にいえば徳庵組村々や、地元の水利を統括していた庄屋が否といえば新田の水利が止まる状況であった。本田村社会が作り上げていた農業経営の規律や水利慣行と円滑な協調関係が築けるかどうかが新田経営の成否を決したのである。

 

新田の悪水・用水難儀

山方村の善根寺村と中垣内村はこれまで深野池に悪水を落としていたが、この池が新田に開発され多くの井路が築かれると、これによって、山方村々の悪水が滞ることになる。そこで正徳三年(1713)、両村が井路差構迷惑として訴訟((10))し、新田内に山方村の悪水を請通すことを要求したのである。

しかも新田が苦労したのは悪水問題だけではなかった。用水においても深野新田は淀川から取水する二〇箇用水組合に加入を許されず、水利権のない新田にとっては山方村の悪水を用水として利用するしかなかった。しかし山方悪水は平野部の三箇村・御供田・灰塚村の三ヶ村が用水として利用してきたものであったため、正徳三年に三ヶ村が用水難儀として深野新田を訴え((11))のである。

深野新田と本田村の、悪水と用水をめぐる一連の水論は、五年の紆余曲折を経て、享保三年(1718)に京都裁許書((12))が出る。「善根寺・中垣内両村の悪水が滞る際は、御供田村橋際樋前より角堂出合之筋迄、平野部三ヶ村より掘さらえをし、新田の用水に関しては、北条・寺川・野崎の山方村の山水を使い、渇水の際には平野部三ヶ村と新田とで樋門を開ける日数を決めて取水する」という条件で一応の決着がつけられた。

 

新田の経営困難―享保再検地

深野新田は当初、東本願寺大坂難波御堂祠堂御田地として本願寺十七世真如が開発に乗り出し、その実際は惣百姓直参之門徒に仰せ付けられた。

東本願寺は宝永二年(1705)に開発地代金を平野屋又右衛門から融通を受けている。請負人から徴収した地代金は返済に回されず、開発諸入用に流用された。東本願寺による開発はその当初から借入金を前提とした脆弱な財政下で行われたのである((13))

宝永五年の検地の後も続けられた開発費用、徳庵切抜普請の負担がのしかかり、その上に、こうした本田村との軋轢は新田経営をますます悪化させた。それに耐えかねて深野新田は頻繁な地主交代の運命をたどった。表11の②に見るごとく、深野南新田は宝永六年、河内屋南新田は享保六年(1721)に平野屋又右衛門にいずれも質流れ譲渡された。以後両新田は平野屋新田と呼ばれた。その後、平野屋又右衛門から助松屋・天王寺屋の二人の地主を経て高松長左衛門へ渡っている。

この頻繁な地主交代の理由は水利問題だけではなかった。『平野屋会所文書』の「新田開発明細書上帳((14))」に次の文言がある。

 

享保四亥年十月隣村五人之者ゟ新田地広之趣訴人有之(中略)被為

成再検地、惣新田之内打出シ三町九反五畝廿九歩被遊御切取、訴人

之者江被遣候御事

 

宝永元年の大和川付替え以前から、深野池の湿地帯の中に、周辺本田村が葭小物成場、流作場として利用してきた区域があり、その部分も新田に組み込まれてしまったとして、正徳二年(1712)に本田村からその返還要求の出訴を行ったのである。それを受けて享保四年(1719)に新田の再検地が行われた。この再検地により、新田側は論所場所を本田村へ返還させられたばかりでなく、領主側の年貢増徴政策に組み込まれ、耕地の等級引き上げなどにより、石高は表11の最下段⑦「新田石高変遷」に見るとおり、いずれも倍以上に跳ね上がったのである。

これは「訴人検地」といわれ、新田経営は大きな打撃を受けることとなった。鴻池新田はこの再検地で、石高が八七五石から一七〇六石に倍増し、年間作徳額は三分の一にまで落ち込んだ((15))

『平野屋会所文書』「文化二年 平野屋新田明細帳((16))によると、

 

右訴人検地ニテ御高一倍余りニ相成、其上地面切取、□□重ニ難儀ニ付、東本願寺売払被申候、河内屋南北新田ハ買主□□候

 

深野新田でも、訴人検地により石高が倍になり、経営困難によって東本願寺が売却せざるを得ない状態となった。表11③に見るごとく、深野三新田と河内屋二新田が、相前後して鴻池又右衛門と平野屋又右衛門へ質入の上、享保七年迄にすべて質流れ譲渡された。本田村の出訴が契機となり、再検地によって経営困難に陥った地主が新田を手放さなければならなかったわけである。本田村の水利圧力の上に、享保再検地という大きな打撃によって深野新田は地主が次々と替わる運命にあった。新田がいかに周辺本田村の激しい挟撃に曝されていたかということである。

 

新田経営の実務担当者

東本願寺から譲渡されて平野屋新田の開発に乗り出した平野屋の『平野屋会所文書目録((17))』では水利関係が九八点と最多である。それは周辺村々との間に、いかに水利関係の出入が頻繁に発生したかを示している。徳庵組という最も水利問題の頻発する地域に新田が開発されることはさらに水論を複雑で解決困難なものした。しかし質流れ譲渡によって新田地主となった大坂町人は水利の知識が皆無であり、その出入の内容さえ把握困難であった。では新田経営の実際の担い手は誰であったのか。

野崎村庄屋宮崎佐助という人物は、深野新田支配人として開発の当初から新田経営の実務にあたっていた。宮崎家には深野新田開発の当初からの文書類が所蔵されており、佐助は享保六年には新田五町余を取得し地主となっている。

史料1・史料2に深野新田請負人として登場する下辻村与三兵衛と福島村清兵衛はいずれも百姓身分であるが、地主である大坂町人河内屋源七より前に署名している。宮崎家文書「御田地請負人」によると、清兵衛は新田三六町歩、与三兵衛は二〇町歩の請負人として記載されている((18))。野崎村佐助をはじめ、こうした周辺農村の上層農民が新田請負人となり、支配人となって町人地主にかわって新田経営を采配したのである。周辺の百姓が新田経営に乗り出すことになった理由については、表10の①の『平野屋会所文書』「善根寺村・中垣内村出入行一件写((19))詳しい。

 

地主(平野屋)又右衛門儀は大坂之町人にて御座候付、新田開発以後、田地方之儀、私共相勤来り、地主ハ地所之訳一円不奉存知候故、乍恐私共口上書を以、奉申上候

(中略)

河州讃良郡深野南新田

              地主平野屋又右衛門代

                 支配人貞次郎

 宝暦二年申二月七日       同  清兵衛

 

新田地主は大坂町人であり、「地所の訳一円存ぜず」、つまり土地のことは全くわからないという状態で、出入の当事者である地主に代り、支配人が口上書を提出している。支配人の清兵衛は宝永五年の約定文書に新田請負人として登場した福島村清兵衛である。また同文書の別項では

 

尤又右衛門儀ハ御公儀之掛屋も被仰付、殊ニ内福之又右衛門儀ニ候得ハ、地方之事不被存一も之事、対決以前ニ其段相断申上、其方共罷出対決仕候テ相済可申候(後略)

 

地主平野屋又右衛門は公儀の掛屋も勤める裕福な大坂町人であるが、「地方のことは一つも存じられず」というありさまで、新田経営の実際を担当していたのは百姓身分の支配人であり、出入に関しても、訴訟の当事者たる地主に代わり支配人が出頭するありさまであった。新田地主である大坂町人は地元の田畑に関する知識は皆無であり、その開発や出入に関しては地元の有力百姓や庄屋階級が実務を取り仕切った。それは、新開池を開発した鴻池家の『鴻池新田開発事略((20))』に

 

右開発不容易不案内にては成就も無覚束被思召(中略)玉串村山中庄兵衛別而地方之儀委敷懇家に付、万事此仁を御頼被成候、其余近村に巧者成庄屋を世話に御頼被成候

 

開発に不案内にては成就も覚束なく、地方に詳しい玉串村山中庄兵衛に万事を頼み、近郷村の巧者なる九名の庄屋に世話を頼んでいることからも明らかである。大坂町人が財力で乗り込んでも実際の開発に何の能力もなく、長年その地で農業を営み、農業や水利の知識・技術が豊富な地方の庄屋を支配人として登用し、実務を担当させてこそはじめて新田開発が可能であった。

 

河内の水利技術―吉原村藤井家

河内百姓がこの新田経営を牛耳った背景の一つには、河内地域の複雑に入り組む井路を効率よく機能させる優れた水利技術があった。それは長年の水との闘いの歴史故に磨かれたものであった。

では本田村社会においてどのような人物が水利を主導したのであろうか。表10の②⑤の出入に仲介人として登場する吉原村庄屋惣右衛門は、図1に見るごとく、深野・鴻池両新田と境を接する村々の水利組合である六郷組十三ヶ村の惣代である。徳庵組四二ヶ村が落とした悪水が最終的に流れ込む旧新開池と吉田川・菱江川に囲まれた地域は、旧大和川流域においてもっとも過酷な水害にさらされた。その水利の心臓部ともいえる部分の統括者が吉原村惣右衛門であった。徳庵組の惣代としては、前述の享保十年徳庵井路修復完成届書の最後に

 

六郷組惣代・吉原村庄屋惣右衛門、南山方惣代・日下村庄屋与平次((後改名長右衛門))

右同断・寺川村庄屋重兵衛、北山方惣代・砂村庄屋又七郎

 

とあるようにこの四名が取り仕切っていたが、六郷組の惣代である惣右衛門がその中でも実力者であった。『森家日記』の吉原惣右衛門に関する記載を拾ってみると、

 

享保十三年五月十四日 

一新喜多新田ノ西方、六郷井路堤先日ノ雨ニて崩申、水留致置候間、今日南北山方深野共立会見分いたし候様ニ惣右衛門より廻状出候

同年五月十六日

一新喜多新田高田川と六郷井路との北堤十二三間ほと切込候故、今日吉原惣右衛門・深野新田市助・寺川重兵衛見分(後略)

同年六月三日 

 一吉原惣右衛門より新喜多新田西方切所普請出来ニ付 来ル六日ニ今福権兵衛方へ寄合見分ニテ普請請取入用銀割ニ付廻状相廻申候

同年六月七日

一(前略)新喜多新田西方くすね川、六郷井路へ切込候所今福清七落札ニテ普請出来ニ付、昨六日寺川重兵衛・砂又七・吉原惣右衛門・深野天王寺会所藤蔵立会、普請銀受取割方も相済候

享保十四年四月四日

一吉原惣右衛門ニ道ニテ逢申候、徳庵北堤之儀、抜並より御国役ニ御願申、堤方御代官御見分被成候筈ニ罷成候由、(中略)新喜

多ノ西ノ切所、三四拾匁斗ニテ腹付上置受取致させ可申由申候

同年五月十五日

吉原惣右衛門参候テ新喜多西方堤修復入用割方南山方分六匁弐厘取かへ渡し(後略)

 

六郷井路と徳庵井路の修復に関する問題では常に吉原惣右衛門が徳庵組四二ヶ村へ指示を出し指導的役割を勤めている。新田と本田村の出入についても、表10の②③⑤の仲介は彼が行っている。表10の④の宝永四年の鴻池新田と本田五ヶ村の出入で仲介人となっている吉田惣左衛門は、『吉田村明細帳((21))()の「庄屋役付け」には宝永四年時点の庄屋として次郎太夫と甚七となっており、惣左衛門の名はその前後にも見られない。この史料『鴻池新田開発事略』は鴻池家の別家草間直方が鴻池新田開発の一〇〇年後の文化元年(1804)に、古い史料をもとに著わしたものであり、この吉田惣左衛門は吉原惣右衛門の書写間違いと思われる。では新田関係の出入はほとんどが惣右衛門の介入で解決している。

惣右衛門の父親か祖父とされる人物・藤井四郎右衛門は、寛文七年(1667)から阿波国吉野川河口部にあたる、阿波国板野郡笹木野村の開発に乗り出している。この事業は寛文九年(1669)には藩の開発許可を得て、大縄五二五町歩余が着工された。鍬下が明けて検地が実施されたが、年貢未進により、開発地を徳島藩に差出し撤退している。

この事業は結局挫折したとはいえ、上方の百姓が遠く四国の新田開発に参画する背景には、彼が水利に長けた地方巧者であったことが大きい。藤井氏の祖先は近江佐々木氏の末裔であり、文明年間(1469―87)に河内国に至り、新開池の東部を開発して吉原村を興した。しかしこの地域は大和川流域でも最も低湿地であり、大和川付替え以前は、真っ先に過酷な水害に襲われる村であった。そのために藤井家には開発や水利に必要な知識と技術が集積・継承されており、また低湿地に立地する吉原村を庄屋として運営してきた実績があったから、阿波国吉野川河口部の開発に乗り出したのである((22))

藤井四郎右衛門の子孫である吉原惣右衛門が、享保時代に徳庵組を主導したのも、それまでの藤井家の父祖伝来の水利の地方巧者としての実績が地域社会で認められたものであったからである。

この河内の水利技術は他国人にとっても感嘆に価するものであった。天保三年(1832)十一月、三河吉田藩主・松平伊豆守信順は大坂城代として河内巡村を行い、家臣として従った柴田善伸はその状況を日記に記している。その『柴田善伸日記((23))』によると、

 

天保三年十一月六日、中新田巡村に行かんとす。新田の支配人良助倅、迎えに来る。大内同道、迎え船に乗る。放出の水道に伏越樋有、六ケ敷((むつかしき))入組たる普請也。中新田も鴻池新田も掻生にて稲よくみのりたり。(中略)七ツ出立、寝屋川に至る。此処、井堰を掛る場の設有り。旱の時板をせき止め、用水をかき入る也とぞ。

 

巡村の際に見た新田周辺に設置された水道の伏越樋((24))や、井堰の構造の見事さに感心して書きとめている。それらは柴田善伸の国許三河では見られない珍しいもので、河内ならではの水利技術の高さを示すものである。

河内地域は旧大和川が周辺田畑よりも一丈以上も高い天井川と化し、さらにそれが入りこむ深野池と新開池は流れも途絶え滞留するだけの湿地帯となり、図1のように、その先で楕円形に迂回しながら南からの三本の川と合流するという例のない悪条件の中にあった。度々の洪水によって、泥水に這いずりまわるような悲惨な境涯にさらされてきたからこそ、吉原村藤井四郎右衛門や惣右衛門のような水利の真髄というものを知り尽くした地方巧者を育成したのである。

彼らの水利技術であれ、幾多の水論を裁く自治能力であれ、苦難の歴史に磨かれたものであり、大和川付替という大事業を乗り越えてきた河内の地域社会全体で培ってきたものであった。新田側が新たに埋めた樋は彼らが築き上げた聖域を新参者に侵されるようなものであり、許されるものではなかったから実力行使で掘り上げるのである。

本田村のすさまじい圧力を受ける新田経営の実態を考えると、本田村の庄屋の采配に服従しなければ新田経営は不可能であった。だからこそ新田地主は河内の庄屋や有力農民を支配人として任命し、実務を委任するしかなかった。複雑な本田村との駆け引きをさばき切れるのは彼らでしか成し得ないものであった。実質的に河内の庄屋階級が新田開発を主導したのである。

 

新田のその後

新田経営は過酷であったが、新田を開拓していった入植者たちの苦労も並大抵ではなかった。『平野屋会所文書』の「江戸願明細帳((25))の中には悲痛な言葉が並んでいる。「仮初(かりそめ)の悪水にても一面の水下になり田畑上土押流し、(中略)毎年打ち続く水亡により小作百姓年々飢に及び、地主より借金夥しく」といった状況が記されている。

平野屋新田に隣接する善根寺村にも、戦前から平野屋新田の小作をしていた方がいて、そうした古老に取材すると、平野屋新田の土地は粘土質で水はけは悪い、しかも旱になるとすぐに乾燥するという、まことに耕作しにくい土地であったという。そこで平野屋の田んぼのことを「ままこ」と呼んでいたという。

そして、ようやく実って刈り取った稲を天日乾燥のために「はざ掛け」しても、地面が粘土質で柔らかいため、稲の重さで「はざ」の柱が倒れてしまう。朝から掛けてきた稲がすべて落ちて、一からやり直しということも度々であった。しかも以前の深野池の堤の部分が人の背丈ほどの高さがあり、乾燥した稲をあぜ道に上げるのが大変で、普通の田んぼの二倍の労力がかかったという。

昭和になってからもこの状態であったことを考えれば、開発当初の苦難は察するに余りある。新田に入植した百姓は、まさに泥沼にまみれるような長年の努力によって、水はけの悪い池底を美しい田畑に作り変えてきたのである。新田地主の大坂町人にとっても、この新田経営はぜひとも成功させなければならないものであった。だからこそ、幾度も地主は替わりながらも永々と開拓は続けられたのである。

本田村も初期のころは自分たちの死活問題もあって、新田への攻撃は激しいものになったが、新田経営がまるで破綻してしまっても困るわけで、お互いに共存していける道を探りながら、次第に新田は排水設備が整備され、農地としての形を整えていったのである。そして善根寺村向井家文書でも、享保三年の京都裁許書以後には水利出入は減少し、延享以後はほとんどなくなる。それは開発から二〇年を過ぎるころから、ようやく新田も一定量の収穫が上がる水田となり、地域社会の一員として認められて河内に溶け込んでいった証拠である。

そしてこの河内百姓が大難渋の悪場所と格闘しながら米をつくり、木綿や菜種といった商品作物を生産し((26))、それが大坂から全国へ向けて出荷された。泥沼のような湿地帯を見わたすばかりの水田に生まれ変わらせてきた新田入植者たち、そしてその水利の苦難を共にしてきた徳庵組をはじめとする河内百姓の力が、天下の台所と言われた大坂の繁栄を支えたのだといえよう。


徳庵井路の現状

徳庵井路は埋め立てられ現在は寝屋川となっている。大正十三年、徳庵に取水口を儲け、寝屋川より取水する画期的な揚水機場が竣功し、昭和四十六年に排水ポンプを新設、平成五年に揚排水ポンプ・電気設備が改修される。毎年四月の田植時には満潮時に寝屋川から取水し徳庵樋門を閉じて、東の六郷・五箇井路に通水し、網の目のように張り巡らされた支線水路を経由して六郷地域の田畑に送水する。九月には徳庵の樋門を開けて六郷・五箇井路の水を寝屋川へ放水する。

現在の六郷・五箇井路はコンクリートで護岸改修されて、ポンプでスムースに水を送り、排水され、洪水もなくなり、人間が水を制御できるようになった。その反面また違う悩みが生まれている。農地が減り、水の役割が忘れ去られ、昔の人々がその維持に心血を注いだ井路川にゴミが捨てられるのだ。地元ではその対策に努力している。

六郷組十三ヶ村は、昭和二五年「拾六個井路普通水利組合」となり、現在は「拾六個土地改良区」となっている。この水利組合は実に三五〇年の歴史を持つ組合であり、「水土里(みどり)ねっとじゅうろっか」として「二一世紀土地改良区創造運動」に取り組み、地域の学校をまわり、環境学習で水の大切さを子供たちに教える活動をしている。

 
 





1 中九兵衛『甚兵衛と大和川』 2004

2 東大阪市資料「吉田村明細帳」所収「六郷明細帳」

3『長右衛門記録』享保十年公儀地頭へ諸事書上

4 表12「水利組合村名一覧」・図1

5 表7 水利問題協議約定 六郷明細帳

6 『宮崎家文書』「天明三癸卯歳改」「寛政元己酉改」宮崎佐利氏所蔵

7 表9 六郷組16ヶ村領有関係

8 草間直方「鴻池新田開発事略」『大阪府農地改革史』所収1952 

9 『長右衛門記録』「他領へ付届并郷内言渡」

10 『向井家文書』水利5「深野新田井路差構出入」向井竹利氏所蔵

11 前掲10 水利4「平野部三ヶ村用水難儀訴訟」

12 前掲10 水利7「京都裁許書」

13 井上伸一「河内深野池の開発のはじまり」深野新田宮崎家文書の意義 『大阪府立狭山池博物館研究報告』4 2007

14『平野屋会所文書』イー19「文化二年 平野屋新田明細帳」大東市教育委員会

15 井上伸一「新田開発をめぐる軋轢と享保再見地」『大阪文化財研究』第29号 2006・3 

16 前掲14 イー22「文化二年 平野屋新田明細帳」

17 大東市史編纂史料目録第二集 『平野屋会所文書目録』大東市教育委員会平成17年

18 前掲13

19 前掲14 ホー20「善根寺村・中垣内村出入一件写」

20 前掲8

21 前掲2

22 井上伸一「寛文期における吉野川下流域の新田開発と上方勢の動向―阿波国板野郡笹木野村を中心にー」近畿大学大学院文芸研究科 文芸研究 第9号 2012・3

23『柴田善伸日記』豊橋市立図書館蔵 

24 河川が井路川と交差する場合に川床の下に樋を通し通水する設備

25『平野屋会所文書』イー6 「享保十四年江戸願明細帳」

26『大阪府地誌』

明治十年生産高  深野北新田 実綿二四〇〇斤 菜種四二石 

中新田 実綿三二〇〇斤 菜種四八石 

明治十四年生産高 深野南新田 実綿二七〇〇斤 菜種六〇石 

井上伸一氏のご教示による

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


深野新田関係水論文書(向井家文書)

向井家新田関係文書





 史料1 宝永3年新田と本田村約定





   正徳3年 三村用水出入





    享保3年 京都裁許書





 宝永5年 徳庵切抜願に付山方村と取替一札




 





  史料3 宝永3年 徳庵切抜願下書





 史料2 徳庵井路普請入用一札




 

      

 

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