2014年2月6日木曜日


江戸時代の日下村
 
論考 

一 享保時代の河内

 

はじめに

森長右衛門が庄屋として活躍した享保十年代(1725~35)は、開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、元禄時代(1688~1704)に頂点に達した経済発展も停滞段階に入った時期であった。幕府財政の逼迫により、八代将軍吉宗は「享保の改革」を強行した。

しかし天下の台所といわれ、全国経済を支えていた大坂においては、江戸中期の経世家海保青陵が、「大坂には金という産物あり((1))」と表現するように、幕府財政の困窮などどこ吹く風という活気溢れる経済活動が営まれていた。河内の村に遺された史料((2))に大坂の繁栄を見事に表現した一節がある。

 

一御当地之儀ハ諸国諸産物入津夥敷、普ク諸人稼キ方多ク、至テ下賤之者共迄似合之渡世有之、誠ニ繁誮之御地ニ奉存候

 

大坂に入津する蔵米や物産を扱う問屋をはじめ、諸藩に資金を融通し、藩財政の経営に手腕を発揮する両替商は巨利を得て大坂の経済繁栄の頂点に君臨していた。そうした巨万の富を誇る豪商のみならず、暮らしかねて各地から大坂を目指した下賤の流入民さえもが、似合いの稼ぎ口を見つけて世を渡ることができる「誠に繁華の地」であった。中之島・堂島・土佐堀あたりに一〇〇を超える諸藩の蔵屋敷が立ち並び、藩と村落を結ぶ位置には用聞がおり、領主支配の実務を受け持っていた。河内郡日下村の庄屋森長右衛門は大坂の有力な用聞たちと親しい交流があったが、そのうちの一人、扇屋三郎右衛門から領主本多氏に納める御用銀を借り入れている。諸藩の村落支配の中枢に精通した用聞は、豊かな財力を背景に、河内村落の銀主の顔も持っていた。そうした様々な金の流れが河内経済を一層活性化させていた。大坂経済の活況に呑みこまれ、豊かさを謳歌していた享保時代の河内にあって、長右衛門たち河内百姓は大いにその恩恵に浴していた。

日下村の領主であった上野国沼田藩本多氏の百姓たちが、食い詰めて江戸へ逃散((3))している時に、河内百姓は豊かな銀で買い入れた米を食べていた。長右衛門や善根寺村の豪農足立家は、有馬温泉に湯治にでかけ、日下山の豪勢な別荘で大坂町人や武士たちと、山海の珍味を楽しんでいた。

「金銀のことは大坂也、商売の筋のことは大坂也((4))」といわれ、金という産物で武士という支配階級を圧倒する大坂町人は河内百姓にとって憧れの的であった。河内の豪農は盛んに大坂町人と縁組をした。経済活動に発した大坂と河内を結ぶ糸は姻戚関係という太いパイプに成長し、さらに密接な人と文化の交流を生み出していた。

しかしこの十数年後、神尾若狭守の巡見が始まり、西国の農民剰余を吸い上げんとする幕府の締め付けが及ぶことになる。まだそれを知らず、我が世の春の中にあった長右衛門たちは、まさにいい時代に生きたのだといえよう。

この享保時代の河内を、その経済発展と、河内の庄屋階級の果たした役割という点から検討してみよう。文中にとり上げる事項内容と原文は『森家日記』と『長右衛門記録』の記載である。

 


1 宮本又次『大坂町人論』 1977 講談社

2 河内郡喜里川村中西家文書「銭相庭高値ニ付歎キ願趣意書取」

3 別項 享保十二年解説「本多氏の領国支配と河内所領」

4 前掲1 

1 河内の経済発展

 

日下村の綿生産

享保時代の河内は大坂という一大経済都市を背後に控え、商品作物生産とその加工業によって発展していたが、その商品作物の筆頭にあげられるのが綿である。

宝永元年の大和川付け替え以後、河内では砂地に適した綿の栽培が飛躍的に増大し、河内地方で生産された綿は平野や久宝寺が集散地となり、繰綿や綛糸に加工され、反物となり、大坂から各地への出荷品の上位を占める商品となっていた。

特に生駒西麓地域は用水不足に悩む急勾配の山里であり、乾燥を好む綿の栽培に適していた。『森家日記』に半田(はんでん)という文言が登場するが、これは田の一段高く盛り上げた部分に綿を植え、周りの低い部分に稲を植えるもので、掻揚(かきあげ)()ともいわれ、肥料が効率よく行き渡る綿栽培の方法で山根(やまんねき)と呼ばれた生駒西麓で盛んに行われていた。

日下村では『長右衛門記録』の出入文書から三名の綿商人が確認できる((1))。綿商人喜兵衛が京都へ売り込みに行き、京都から綿商人が買付けに来ている。

大坂の平野郷では宝暦の時代で全耕地の六〇㌫前後が綿作であった。河内地方でも若江郡小若江での綿作率は延宝五年に五四・二㌫、横小路村で明治二年に五四㌫を占める((2))日下村での綿作付け享保十二年五月晦日条で、田方木綿三町七反六畝廿八歩畑方木綿 四町五反五畝三歩計一八町三反二一であった。

宝暦八年(一七五八)の日下村明細帳((3))よると、綿作は田方で一三町五反、畑方で七町九反とあるので二一町歩に増加している。 

慶安検地で日下村反別は五六町歩((4))となっているので、単純にこの面積で綿作率を出すと享保で三二㌫、宝暦で三八㌫である。だが慶安検地は差出し検地である。近世においては、どこでも検地面積は実際の面積を大幅に下回ることは常識である。明治二〇年代の町村制施行当時の日下村反別は一〇九町歩((5))であった。享保時代には農業技術の発達による開発は明治時代と大差ないものとなっていたことを考えると、享保時代の日下村の田地の実際は、この明治の反別に近いものであったと思われる。では日下村の綿作率は享保で一七㌫、宝暦で一九㌫となり、若江郡や額田郡の五四㌫に比べるとかなり少ない数字となる。だがこの綿作がもたらした剰余は百姓にとって大きな恩恵となった。

百姓は秋に収穫した綿を売り払って得た銀で、年貢銀納分を支払った。銀納値段は毎年の米値段に準じて決められたから、百姓は米の二、三倍にもなる綿の収益分が手元に残ることになる。日下村では毎年秋の山年貢を綿で集める。この綿を村人が入札で買い取り、その銀で物成を納めている。

村内での木綿加工も盛んであった。河内の村明細帳には「女は木綿稼ぎ仕候」とあり、綿を繰り、糸を紡ぎ、機織りが巧みであることが嫁の条件とされた。長右衛門は蔵屋敷役人の依頼で繰綿や綿織物を蔵屋敷へ持参し、向かいの五兵衛から買い取った木綿反物を大坂商人への手土産にしている。

 

日下村の水車産業

綿と並んで河内で大いに栄えたものが水車稼ぎであった。生駒西麓の生駒七谷といわれた谷筋では急峻な谷川を利用した水車産業が江戸時代から盛んに行われ、昭和にいたるまで繁栄を続けた。 

享保時代の日下谷では二輌((6))、善根寺村の車谷では八輌((7))が運上銀を納めており、絞油・薬種細粉・胡粉製造を行っている。特に車谷の旧家で、「大坂御城米御用」の木札が遺されており、大坂城米の精米を行っていたことがわかっている。

河内では冬作として麦とともに菜種作りも盛んで、『森家日記』には油屋十兵衛と油屋五右衛門が登場する。彼らは近郷で生産された菜種油を買いつける油商人であった。菜種油は大坂から全国へ移出される商品のトップに上る商品であった。

日下村の車屋源七は水車で胡粉を製造していた。播磨あたりから大坂へ運ばれる牡蠣殻を買入れ、水車で砕いて良質の顔料である胡粉を製造し、京都・大坂へ売りさばいている。彼はほとんど脱農化し、毎年長右衛門から米や麦を一〇石単位で買い入れ、蔵屋敷役人の扶持米も買い受けている。 

車屋源七は常に手元に豊富な銀をもっていたらしく、長右衛門は村の支払いで急にまとまった銀が必要になる場合には源七から借りている。また村で集めた山銭綿を源七が買い取っている。

源七は近世後期には日下村の庄屋として登場する。森長右衛門や相庄屋の河澄作兵衛にみられる、中世以来の豪農が庄屋を勤める時代から、水車業のような商工業で富裕層にのし上ったものが、村落指導者となる時代へと転換するのであるが、享保時代はその過渡期であった。

 

蔵米の村買と在払

河内の百姓は商工業の発展により豊かな銀を握り、その結果高い米需要の状況が生み出されていた。

享保十二年、蔵米の初入札の廻状があった十月八日、長右衛門は落札を確実にするために、本多氏の河内領分二〇ヶ村の郷宿である、いせ屋惣五郎に斡旋を頼む。「初御払米書付」に日下米のみ除き、引米にしてもらえないか蔵屋敷にお伺いしてほしい。それが駄目ならば、二分~五分高くてもいいので、いせ屋から入札してもらえないかというのである。いせ屋はそのような依頼は他の村々からもあるが、蔵屋敷から止められていると断ってくる。

七日後の十五日、相庄屋の作兵衛が大坂へ出向き、大坂町人奈良屋の札に六分高で首尾よく落札してくる。つまり河内村々はこのような裏の手段を講じてでも、また大坂町人よりも高値であっても蔵米を落札する必要に迫られていたのである。結局、享保十二年度は日下村が蔵米合計一〇〇石を村買にしている。しかもその代銀をわずか三日で村人から集めて本多氏の掛屋である米屋平吉へ納めている。

日下村の年貢米は巻末の表2のように、毎年すべて在払いにしている。享保十二年度の日下村一〇〇石村買の他は、北隣にあたる讃良郡中垣内村の庄屋で酒造家善兵衛と日下村の米屋池文右衛門が落札している。享保十三年度は中垣内善兵衛が合計一七〇石、あとは日下村の米屋が落札し、いずれも日下村の郷蔵から直接に米を渡している。十一月二十五日の不明三〇石もおそらく中垣内善兵衛の落札と思われる。では中垣内善兵衛の落札合計は二〇〇石となる。

享保十四年度は大坂町人奈良屋や濱吉右衛門が落札したものの、その米を善根寺村足立註蔵や日下村米屋の忠左衛門や文左衛門が買い取っている。日下村の枝郷である布市郷からは享保十二年十月九日条に、

 

一布市ゟ御蔵米買納之分書付半七持来候、拾五石五斗高も有之候、半左衛門も五斗買呉候様ニと頼申候

 

とあるように、毎年のように買納米の要求があり、今回は大坂町人が落札したものを買い受けたのである。同日条で、日下村大龍寺から飯米のための二〇石の買い入れの要求もある。また毎年蔵屋敷役人五人の扶持米のうち五〇石程度を日下村で買取るように指示があり、そのほとんどを村買いにし、それを村人に分けている。 

享保十三年四月二十三日には前年の蔵残米一三石を村買いにし、八名の村人に分けているが、この時も値段が五分や三分高くなっても買い受けたい旨を蔵屋敷役人に申し出ている。米を作る百姓が年貢米をはじめ蔵屋敷役人の扶持米まで買い入れるという、この米需要の高さが河内における商工業の発展を如実に物語る。

 

日下村の田地の事情

検地帳と実際の面積とはかなりかけ離れていることは近世の村の常識であったが、日下村の反別の実際はもっと実情からかけ離れたものであった。というのは日下村に限らず、山地の田地は平野部より一反の面積が広かったという事情がある。

戦前から農業に携わった古老に取材した情報を総合すると、日下村でも特に勾配のきつい山田では、一反が三六〇坪から多いところでは四五〇坪もあったという。山の斜面を切り開き、石垣などを積み上げて、棚田に整備するにはのり分を多くとる必要がある。また地形によって方形にとることが出来ずいびつな形になり、一反単位に合わすことが困難である。また小高い丘の陰になるような場合、日当たりの悪い部分は反別に入れない。このような事情で一反の面積が三〇〇坪より広くなる。それ故、平野部の布市郷からは「日下の広畝(こうせ)」と呼ばれたという。

さらに検地帳の石盛と実際の収穫高の問題がある。元文二年(1737)の日下村明細帳((8))の石盛は上々田で一石五斗三升である。周辺地域で反当り収穫量が二石六斗から三石二斗もとれれば上出来であるのに、日下村の広畝という事情により、反当り三石五斗から四石も収穫があった。したがって他地域の平均小作料が反当り一石二斗であるのに、日下村では一石八斗であったという。

そのため戦前の日下村では他地域のように、田地を「一反もの」などと面積で呼ばず、「七斗米(ななとまえ)」「五斗米(ごとまえ)」などのようにその田の小作料で呼び習わした。それは一反の面積が、他地域よりも広い上に、まちまちであるという事情による。また山の中に切り開いた田などは「ゆうれい田」といって年貢の対象にならない、いわゆる隠田もあったという。ここから生み出される農民剰余は河内百姓を豊かに潤したはずである。

 

河内村々の余業稼ぎ

明治三年の日下村の「余業人書上((9))」によると、別表のように、杣・木挽31人、古手屋10人、古銅・古道具屋27人、木綿関係8人、米小売7人、質屋3人、機織2人、菜種油関係2人、水車業2人、酒小売2人、あとは石工、八百屋、紺屋、牛博労、くだもの屋、医師、合計一〇一人となっている。

善根寺村の庄屋であった向井家の文書に、慶応三卯年九月の「餘業稼等御取調ニ付書上帳」がある。この史料を集計すると左記のようになる。

水車8人、大工2人、杣・木挽21人、古手6人、古道具14人、木綿3人、薬種細末(水車)3人、綿打3人、米小売2人、酒小売3人、煮売1人、呉服1人、木綿染物1人、素麺2人、石工2人、牛博労2人、馬持2人、合計76人となっている。(次頁別表参照)

このころの善根寺村の家数が九〇軒ほどであり、実に八五㌫の村人が農業以外の職業を持っている兼業農家であった。

両史料を検討してみると、日下村・善根寺村ともに、山里であり、杣木挽が最も多い。次に古手屋、古道具屋が多いが、優れたリサイクル社会であった近世には繁盛する商売であった。水車業と木綿・菜種油関係がそれに次ぎ、酒小売、呉服屋、くだもの屋もいてかなり豊かな暮らしである。米小売が日下村で七人、善根寺村で二人もいて、飯米需要を満たしていた。いずれも幕末と明治の史料であるが、この状況は近世を通じて河内農村でそれほど変わらないものであったと思われる。

 

経済都市大坂と河内

この河内の状況は経済都市大坂に隣接することで生み出されたものであった。前述の善根寺村「餘業稼等御取調ニ付書上帳」によると、それぞれの業種が大坂の株仲間(綿商人)、惣年寄(古手商)・幕府御大工頭(大工)・天王寺牛支配所(牛博労)から鑑札を受け、毎年運上銀や役銀を納めている。大坂の経済流通機構に組み込まれていたから河内の百姓はこうした多様な職業につくことができたのである。

繁栄する大坂において商業発展が商人の富を蓄積するその傍で、勤勉さと才覚さえ持ち合わせていれば河内百姓もその恩恵にあずかったのだ。日下村の年貢在払い、蔵米の村買いから見えてくる農民剰余は、実際とはあまりにもかけ離れた数字に基づく税制、さらにそれに拍車をかける商品作物生産とそれに付随する非農業生産から生み出されたものであった。毎年形ばかりの検地を繰り返し、村落に押し寄せる自由経済の波を呆然と眺めるしかなかった幕府諸藩の経済困難は必然であった。

近世も早い時期から諸大名は財政窮乏に陥り大坂町人からの大名貸が不可欠であった。江戸中期の経世家太宰春台が「今の世の諸侯は大も小も皆、首を垂れて町人に無心をいい、富商を憑みてその情けばかりにて世を渡る((10))」というように、蔵屋敷御留守居役たちは銀主に頭を下げ、金を引き出すのに必死であった。大名は銀主に家臣同然に扶持米を給与し、節季の祝儀、寒暑の見舞と贈答を欠かさなかった。日下村領主本多氏は大名貸を受けていた善根寺村足立家に毎年の利息銀とともに、国許沼田の名産品である真綿を歳暮として贈っている。

大坂では蔵屋敷役人、つまり武士が立入町人を御茶屋に招いて御振舞をする。「武士道も捨てて町人の太鼓持ち((11))」もしたのである。日下村でも本多氏役人が蔵元鴻池善兵衛の御振舞のために長右衛門屋敷で宴会を行っている。

大坂は何よりも「金の力がものを言う」世界であった。天下の経済を一手に握っていた大坂町人は、幕府の権威は建前にしか過ぎず、物を言うのは経済力だということを骨身にしみて知っていた。支配階級である武士に頭を下げさせることのできる大坂町人の姿こそ河内百姓の憧れであった。だからこそ河内百姓は大坂町人と盛んに縁組をして大坂での成功を目指したのだ。

公儀には常に貧しさを言い立てながら、長右衛門たち河内百姓は大坂経済の最先端の洗礼を受け、常にしたたかな触手を伸ばしていた。商品作物生産も、大坂の株仲間に加入しての多彩な兼業もその結果であり、河内百姓が時代の趨勢を読み取り、新しい経済の潮流に乗り切ることによって、確かな果実を手にしていたことの証である。


1 『長右衛門記録』享保十年諸事覚書

2『枚岡市史』第一巻本編 昭和四十二年 枚岡市

3 東大阪市史資料第六集『河内国河内渋川郡村明細帳』昭和五十三年 東大阪市

4 『井上家文書』慶安二年検地帳 井上家昌氏所蔵

5 前掲2

6 『長右衛門記録』「享保十三年免定引方写」

7 向井家文書 慶応三卯年九月「餘業稼等御取調ニ付書上帳」

8 前掲3

9 『枚岡市史』第四巻 資料編二 昭和四十一年 枚岡市

10 宮本又次『大坂町人論』 1977 講談社

11 前掲10

 

 

業種
日下村
(明治3)
善根寺村
(慶応3)
水車
大工
 
杣・木挽
31
21
古手
10
古道具
27
14
綿商人
薬種細末
 
綿打
米小売
酒小売
煮売
 
呉服
 
木綿染物
素麺
 
石工
牛博労
馬持
 
質屋
 
菜種油
 
医師
 
八百屋
 
果物屋
 
合計
101人
76人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「余業人書上」
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2 河内の庄屋と大坂

 

はじめに

畿内役知の領主権は単なる年貢徴収権に近いものであり((1))村運営のあらゆる面で庄屋の手腕は発揮された。領主が年貢徴収にのみ心を注ぐ下にあって庄屋は百姓の暮らしの成立ちに心を砕いた。支配者と村との間の緩衝地帯ともいうべきその存在に依存することで領主は憂いなく支配を貫徹することができたのである。

享保時代の河内郡日下村の領主は関東大名、上野国沼田藩であった。日下村の庄屋森長右衛門は本多氏河内所領において、減免要求に惣代となり、村落出入には仲介人となり、地域において中心的役割を果たした。この日下村庄屋に焦点を当て、河内の庄屋の実像と、彼等の果たした役割を、経済都市大坂との関係の中に探ってみよう。

 

日下村庄屋森家の財力

日下村庄屋森長右衛門は享保十三年度の下作米だけで一三三石の収入があった。その上に一〇名あまりの奉公人を使った自作農経営があり、年間の飯米と年貢米を差し引いてもまだ八〇石は余る((2))。森家の余剰米は、大坂町人はじめ村内外の非農業生産者や米屋などへ売り払われ、享保期の畿内の高い米需要が吸収していった。森家の消費生活に目を向けると、その裕福さは際立っている。生活用品は大坂町人から買い入れるが、特に書物が多かった。森家の蔵書目録によると、漢籍はじめ実学の書が一二三部上げられており、冊数にすると七〇〇冊近いと思われる。享保十二年には『和漢三才図会』八〇巻を銀一二〇匁で買い入れ、この年買い取った本は九部、支払代銀は計一六〇匁二分に上った。この金額は男性の奉公人の年間給銀を上回るものである。当時高価であった木版本を膨大に所蔵することは、村の文化教育の発展に寄与するための村落指導者としての使命感からであったが、森家の財力をも象徴する。

森家には寛永のころの領主であった大坂西町奉行曽我丹波守古佑が作らせた「鳴鶴園」という豪壮な庭園があり、それは大坂でも有名であったから常に見物人がやってくる。特に春は野崎参りがあり、その帰りに森家の庭園見物というのが、お決まりのコースになっていた。享保十四年春に、森家の庭園見物にきた客は大坂の武士や町人、近郷庄屋など四十七人であり((3))、そのすべてに酒・料理を振舞っている。しかも享保十四年の一年間に森家に逗留した人数は六二人である((4))。  

巻末の表4逗留者日数表のように、親戚と思われる豊浦妙清尼は享保十四年には三回、三〇日間滞在しているが、高齢であったため長右衛門は駕籠で迎えにやり、また送り返す。了空という江之子島空楽寺の隠居は、享保十二年四月と五月に三二日間、享保十四年には四回、十二日間滞在し、長右衛門と連日碁を打つ。了空は碁の師匠であったらしく、彼が滞在中は碁好きがやって来て指南を受ける。

近藤元昭という人物はまるで家族のごとく年中森家に滞在する。森家に居る時は常に長右衛門と囲碁を楽しみ、足立註蔵宅や村々の神事にも出かける。彼は京都の猪熊三条に自宅を持ち、森家に滞在しながら、表4―3の近藤元昭出張表のように、京都・大坂・南都を頻繁に往復する。次の記載が彼の素性を明らかにする。

 

享保十二年八月十三日

一元昭比日大坂へ出今日被帰候、在所ノ綿繰屋之分大坂繰屋ゟ差留メ申候処、御番所へ在方ゟ御訴訟申上、無構向後繰申様ニと被仰付向後者在所何方ニ而も繰申様ニ成候由元昭物語也

 

在所の綿繰屋が大坂の業者から綿繰を差し止められたが、訴訟の結果綿繰が認められたという情報を元昭が物語っていることから、彼は河内の綿取引のために森家に長逗留していると思われる。彼は野里屋にも出入し、親密な関係にあった。長右衛門長男勝二郎が享保十三年に疱瘡にかかった際に彼は野里屋で勝二郎の枕辺につききりで看病している。野里屋は南組惣年寄で、近世初頭には糸割符仲間でもあり、元昭と野里屋の関係は絹取引関連と考えられる。

元昭は河内では綿、大坂では野里屋を通じて長崎からの絹、南都では奈良上布を買い付けて京都で売り捌く商人であったと思われる。こうした広範囲に活躍する商人たちとも森家は密接につながり、彼等にとって財力のある森家は都合のいい無料下宿であった。

 

善根寺村豪農足立家

善根寺村足立家は森家と姻戚関係にあり、森家にまさる財力を誇る家柄であった。足立家は奈良時代の和気清麻呂を遠祖とし、足立と改称した二代目、戦国時代の足立又助昌成が尾張国で織田信長に仕えていたが、浄土真宗寺院である加賀金沢の本泉寺から側室を迎えたことが一向一揆に手をやいていた信長の勘気に触れ、本泉寺とともに追放された。その後京都で豊臣秀吉に仕えた昌成は大坂城築城の石垣普請を命じられ、河内国日下村善根寺へ移った。譜代家臣を指揮し、生駒山から石を切り出し大坂へ運んだ。

この石垣普請事業と善根寺村から生駒山中の龍間に至る広大な土地の開発によって財力を蓄え、寛文十年(1670)には恩知川畔の味岡新田の開発に着手し、また茨田郡一番村周辺村々のために淀川から寝屋川へ水を引く井路川開削に銀一五貫目を投じている((5))

足立家の延宝八年(1680)の屋敷図を見ると、石垣を積んだ周濠を廻らせた九四〇〇㎡を越える広大な敷地に、庭園を囲むように蔵だけで大小一二棟を有する豪壮なものである。そのうち米蔵は四棟ある。足立家の持高は寛保二年(1742)に一六九石、別高として一八〇石((6))とある。別高とは大名貸しをしていた大名家からの扶持米である。しかし実高はもっと大きかったはずである。

向井家文書「善根寺村宗門人別帳」によると、足立家には享保七年(1722)に尾張以来の家臣としての譜代下人が一〇名いた。うち一組は夫婦子供連れである。十二年後の享保十九年(1734)には譜代下人は一名となり、河内郡・讃良郡・大和国・大坂などからの奉公人が一七名となっている。このころに足立家が、かつての武士集団の名残を脱ぎ捨てて、河内の豪農としての一時代を築き上げていく過渡期であった。現在の日下町池端にはその昔、足立家の家臣として尾張から移り住んだ家柄と伝える旧家がある。

足立家は享保時代には近郷に鳴り響く豪農となっていた。享保時代の足立家の当主註蔵と長右衛門は従兄弟同士で、お互いの妹を妻としていた。足立家系譜を見ると、長子を除いてすべての子供の養子先や嫁ぎ先は旗本、近郷庄屋、大坂町人などである。 

元禄五年(1692)没の註蔵父十兵衛の娘嘉那は紙問屋の天王寺屋乾弥兵衛へ、久等は紙屋次郎右衛門へ、蝶は土佐藩用聞の早野三郎兵衛に嫁いでおり、これらの大坂町人は足立家と、同時に長右衛門とも親戚で、彼等との密接な交流は享保時代も続いていた。

足立註蔵は複数の大名家へ貸金をしていた。日下村の領主本多氏へは銀二〇貫を貸し、毎年暮に長右衛門が本多氏御留守居役からの利息銀と歳暮の真綿をことづかって註蔵に渡す。

註蔵は「森家日記」享保十三年七月二十四日条で、大坂加番として赴任してきた保科弾正忠正寿にお目見えしているが、保科家とは大名貸でつながっていた。保科家への大名貸は銀三六〇貫という巨額に上っていた(    (7))

足立註蔵の父十右衛門方昌が亡くなった享保十四年一月には、土佐藩大坂蔵屋敷から朦中見舞として酒と饅頭折が届けられた。また同年五月には、土佐藩大坂留守居役大須賀貞右衛門が土佐藩役人や取巻きの大坂町人とともに足立家を訪れて宴会を開いている。このことから、土佐藩も金額は不明ながら足立家から大名貸を受けていたことは確かである。

足立家は近世初頭から二代にわたって大坂城石垣普請に従事したが、元和の徳川氏による再築城で、現存する石垣の刻印の中に「日下」「くさか」あるいは足立家の家紋である輪違いの刻印のある石が土佐藩山内家丁場から発見されている。足立家と土佐藩との結びつきはこの石垣普請の時代に始まったものである。大坂城普請に携わった大名は、資材運搬、人足調達などの円滑な運営に大坂町人の手を借りる必要があり、この提携がのち大坂町人と大名との密接な関係に発展する。足立家もその構図によって大名貸しに手を染めていくことになった。

足立家の金融は大名ばかりではなかった。日下村は享保十一年に新池普請の入用銀として、銀二貫三〇〇匁を村借りとして足立家から融通を受けている。足立家の金融業が広範囲にわたっていたことは次の事実でも明らかである。

日下村が天領となっていた享保二一年五月には代官平岡彦兵衛から足立註蔵に資金融通依頼がある。平岡彦兵衛は同年四月に二〇〇石加えられ、九万石の代官となっていたが、五月十七日に日下村長右衛門へ至急の呼び出しがある。

代官の和州預かり所に子の年(享保一七年)の年貢未進が銀一八〇貫目あり、これが完納にならなければ、代官罷免という切迫した事態にあった。代官は早速和州へ催促に赴くものの、巨額の年貢完納は困難を極め、先ず五〇貫目を足立家から借り受けて納めたい意向である。

この時長右衛門は庄屋を退役していたが、庄屋であった作兵衛を通じて長右衛門に依頼がくる。足立註蔵へこの五〇貫目の金策依頼をしてほしいというものであった。

善根寺村はこの時日下村と同じく天領であったが、鈴木小右衛門代官支配であった。平岡彦兵衛代官としてはこの急場を他の代官支配の豪農である足立家の財力で凌ごうという魂胆であった。いかに足立家の財力が近郷に鳴り響いていたかということである。この顛末は明らかではないが、いかに註蔵といえども五〇貫目の調達がすぐに可能であったかどうか疑問である。

足立註蔵は享保十三年九月九日に、鴻池新田会所に逗留中の大津代官鈴木小右衛門にお目見えし、享保十四年九月十五日には大坂東町奉行稲葉淡路守にお目見えしている。この幕府高官との密接な関係は、享保時代の足立家の大坂での地位が並々ならぬものであることを示している。大坂の武士が一目置くのは大名の蔵元や掛屋を勤める両替商ばかりではなかった。足立家のような河内の豪農も、財力においては大坂豪商と並び立つ地位を獲得していた。

註蔵の父十右衛門が宝永年間に善根寺村の庄屋を勤めたが、享保時代には庄屋を退いていた。しかし享保十四年閏九月十二日の善根寺村検見や、享保十八年三月十四日に飢人見分に訪れた代官鈴木小右衛門が逗留するのは、善根寺村庄屋の向井家ではなく足立家であった。享保二十一年二月二八日、平岡彦兵衛代官が河内巡見の折に足立家へ逗留し、トヘイという日下山の足立家別荘で宴会を催している。延享二年の神尾若狭守巡見の際には、足立家に神尾若狭守はじめ四七名の武士が逗留している((8))。その屋敷の広大さはもとより、足立家の豪農としての知名度は武士社会でも別格であった。

当然大坂町人とのつながりも幅広く、享保十四年正月に死去した註蔵父方昌の葬儀に参列した大坂町人は、早野三郎兵衛・紙屋永三郎・塩屋庄次郎・三河仁兵衛・帯屋又兵衛・堺屋三郎兵衛・八百屋与三右衛門・椀屋仁兵衛・新庄屋伊兵衛など九名にのぼり、そのすべてが長右衛門とも入魂であった。

大名家への巨額の大名貸、新田開発、水利普請への投資、中世の城郭を思わせる豪壮な屋敷跡、どれをとっても足立家の想像を絶する財力を象徴している。長右衛門はこの足立註蔵とは何代にも続く姻戚関係で、最も親密な関係にあった。

 

長右衛門と大坂町人

河内の庄屋は多く大坂町人と広範囲な交流があった。長右衛門と大坂町人や武士との人脈は、大名貸によって大坂の武士社会に名の知られた足立家の人脈とも重なり幅広いものになっていた。その交流は大坂の武士で四四名((9))、大坂町人では六一名((10))である。

巻末の表5の大坂の武士のうち下線のあるものは、森家に年頭礼に訪れる武士で、かなり親密な交流があった。特に玉造与力であった本多与五平次は、庭木栽培の趣味で長右衛門とは入魂の間柄であり、その関係は、かつて庄屋を勤めた長右衛門父道意の時代からであろうと思われる。本多与五平次は長右衛門長男勝二郎の野里屋離縁の際に日下村の森家を訪れて勝二郎の説得にあたっている。大坂町奉行所の与力がわざわざ日下村まで出向くことは、森家との並々ならぬつながりを感じさせる。

大坂町人のうち、森家と親戚と思われるものは九家ある。表6の数字に〇のあるものである。そのうちの野里屋四郎左衛門は大坂南組惣年寄、早野権三郎は土佐藩用聞、小橋屋宇兵衛は尼崎藩用聞、扇屋三郎右衛門は尾張藩用聞と、いずれも有力商人であった。長右衛門とこの有力な大坂町人との関係が妙清尼という女性の縁に繋がることが『森家日記』からうかがえる。森家の系譜は明らかでなく、この女性の素性も不明であるが、森家での神事や報恩講の折には森家から駕籠で迎えに行き、長逗留していることから、森家の親族であったと思われる。妙清は豊浦村に住まいしていたが、享保二十年五月三日に八五歳で亡くなった時には、大坂の野里屋・小橋屋・帯屋へ知らせ、野里屋平三郎と小橋屋宇兵衛が駆けつけ、森家は喪に服していることから、この女性が森家から出て、右の三商家のうちのどちらかへ嫁ぎ、その子供が他の二商家に養子に入るか、嫁いでいる可能性が大である。

長右衛門の子息たちは、近郷の庄屋階級や大坂町人へ養子にはいっていた。長右衛門の長男勝二郎は野里屋四郎左衛門家へ、次男万四郎は大坂商人平野屋へ、三男為治郎は三番村安富家へ、四男佐市は水走村庄屋塩川家へ養子となっていた。

長右衛門の従兄弟である足立註蔵の異母弟の丹二郎は、諸国炭問屋である川崎屋四郎兵衛の養子となる。大坂町人となった彼らは頻繁に河内の実家に帰り大坂のさまざまな情報をもたらし、未婚の兄弟を大坂へ縁組させるために奔走する。

河内の庄屋階級は都市大坂から郷土の発展に利するための最先端の情報知識を獲得した。野里屋へ養子に入った長右衛門の長男勝二郎は、享保十四年に十七歳で野里屋の嫡子が継ぐ若名である新助を名乗り、惣年寄名代を仰せつかる。彼は大坂奉行所に届く各地の情報、奉行所役人の交代などを父長右衛門に知らせてくる。

長男勝二郎の野里屋への養子は、いずれ大坂の惣年寄としての出世を期待したものであったが、勝二郎は商売が身にあわなかったか、二一歳となった享保十八年(1733)に野里屋を離縁する。この離縁問題に関して説得工作で登場する人物は、帯屋又兵衛・小橋屋宇兵衛・扇屋三郎右衛門・平野屋清閑・いせ屋弥右衛門の大坂町人五名と、大坂町奉行所役人の本多与平次である。帯屋は紙問屋であり、先述のように小橋屋宇兵衛、扇屋三郎右衛門はいずれも大名の用聞であり、平野家清閑はのち長右衛門次男万四郎が養子に入る商家である。本多与五平次は長右衛門と入魂の玉造与力であり、いせ屋は本多氏二〇ヶ村の郷宿であった。

最終的には日下村の三㌔南にある豊浦村庄屋で旗本代官を兼ねる中村四郎右衛門家の隠居教雲老が勝二郎の意思を確認し、野里屋との間で養子解消の円満な解決に労をとる。中村家は近世初頭の婚姻により森家とも姻戚((11))であったが、勝二郎不縁の最終交渉を行うということは野里屋と中村家との深い関係を示している。あるいは中村教雲こそが、勝二郎の野里屋養子を実現させた立役者であったかもしれない。

この有力商人との密接な関係が長右衛門に広範囲な情報をもたらす。享保十四年九月には扇屋三郎右衛門が用聞を勤めていた大名の領国である尾張と越前へ出張し、長右衛門にその土産話をしている。

長右衛門は大坂南組惣年寄や町奉行所与力といった大坂三郷の行政の中枢を担う人物から、幕府の動向や大坂の都市行政の実情を、有力な用聞、大名出入商人からは、大名領国の社会経済情勢を、大坂商人となった息子たちからは大坂経済の最先端の情報を入手した。それは長右衛門の視野を多角的なものにし、正確な情報分析能力を養うこととなった。

 

河内の庄屋の人脈

長右衛門の町奉行所役人との広範囲な人脈は大坂でも知られたことであったから、大坂町人から口利きを頼まれることも多かった。享保十四年閏九月から十月にかけて、長右衛門は大坂井戸掘久五郎の跡目相続について、御城内御出入町人を管轄する町奉行所役人林与助((12))に首尾よく認められるように依頼してほしいという願いを塩川只右衛門へ手紙で取り次いでいる。塩川只右衛門は足代庄屋であり、町奉行所の役人林与助と親密な交流があり、井戸掘久五郎は長右衛門と塩川只右衛門の交流を知っていたから、長右衛門に取り次ぎを依頼してきたのである。町奉行所役人と河内の庄屋の間の密接な関係は大坂町人にとっても頼りになるものであった。

長右衛門と町奉行の与力や同心との交流も幅広く、森家に年頭礼に訪れる人物は、本多与五平次・与八郎親子、朝比奈逸八郎、伊藤清左衛門の四名で、長右衛門が年頭礼に行く人物も六名いる。特に玉造与力本多与五平次とは前述のように親密な仲であった。

享保十三年三月、その関係を知っていた日下村領主である本多氏蔵屋敷役人が、飯尾善六という人物の「町奉行松平日向守様御臺所用人」への推挙を、与力本多与五平次に口利きするように長右衛門に依頼してくる。この口利きはうまくいったようで、長右衛門は蔵屋敷御留守居役吉田助左衛門から「大儀であった」と礼をいわれている。都市大坂と密接な関係を築いていた日下村庄屋長右衛門が、豊かな財力と幅広い人脈、さらに確かな力量を持つ人物として大坂でも一目置かれる存在であったことは想像にかたくない

長右衛門に限らず、河内の庄屋・豪農は大坂町人や武士と、姻戚や、庄屋という職務を通じて、あるいは商取引を通じてつながっていた。長右衛門は大坂の与力本多与五平次と、豊浦庄屋中村教雲は大坂南組惣年寄の野里屋と、足代庄屋塩川只右衛門は町奉行所役人林与助と、いずれも親密な関係にあった。

他領での例としては、河内国高安郡淀藩大庄屋である大東家をあげる事が出来る。大東家の『郡村役用留』((13))によると、安永九年(1780)七月、淀藩は大坂町奉行所貸付銀について山村与助に聞合うように大東長右衛門に依頼してくる。大坂三町人の一人で、大工支配を兼ねた山村家と、淀藩大庄屋大東家が密接な関係にあり、経済困難にあえぐ領主淀藩稲葉氏にとってそれは頼りになるものであった。河内の庄屋の大坂町人との幅広い人脈に依存することで藩経営は成り立っていたのだといえる。

河内の豪農であった有力庄屋たちは一様に大坂の武士社会や町人社会と広範囲に繋がり、その人脈が大坂町人はもとより、領主の武士にとっても大いに利用に値するものとなっていた。

 

庄屋の力量

享保十四年には大坂で小橋屋宇兵衛と柴屋三郎兵衛との間の何らかの問題を長右衛門が仲介している。同年二月十九日、長右衛門は用聞小橋屋宇兵衛の依頼で柴屋三郎兵衛と対談し、その後惣年寄野里屋へも立ち寄り相談している。三月二日にも小橋屋宇兵衛と柴屋三郎兵衛の三人で対談し、三月八日には小橋屋が、長右衛門の世話で柴屋との問題が埒明したことを報告してくる。柴屋三郎兵衛は、小出主計・増田太兵衛など六名の旗本の用聞((14))を勤めている。出入仲介が本業である用聞同士の問題を仲介するということが、長右衛門という人物の高い力量を示している。

本多氏蔵屋敷や町奉行所から日下村長右衛門に村落出入りの仲介依頼が来ることが多かった。それは長右衛門が豪農としても庄屋としても近郷で一目置かれる人物であったからである。河内の庄屋の経験と政治力は蔵屋敷や奉行所の武士にとって依存するに足るものであった。

 

庄屋と蔵屋敷役人

日下村の領主であった本多氏の蔵屋敷役人は河内所領の庄屋階級と密接な交流を持ち、特にその財力に依存していた。日下村では、毎年五〇石ほどの蔵屋敷役人の扶持米を村買いにし、蔵屋敷の飯米を下し、暮には正月の門松を送る。毎年の節句・年中行事の折の蔵屋敷への祝儀贈答は、二〇ヶ村の郷割明細によると、享保十二年に一三七匁、同十三年には二九四匁が計上されている。祝儀は村からも別に渡される。長右衛門は享保十三年末の歳暮御礼の際に役人への祝儀だけで銀六〇匁使っている。大坂蔵屋敷の本多氏役人は、藩の経済困窮を背負っていた国許沼田の役人たちよりはるかに実入りはよかったはずである。

享保十三年三月に長右衛門は、本多氏の蔵元である鴻池善兵衛の御振舞を命じられている。日下村背後の鷲尾山の花見にやってきた本多氏役人と蔵元鴻池善兵衛とその取巻き町人の一行九名を、大坂の料理屋で詰めさせた提重を持たせて花見に案内し、長右衛門屋敷で山海の珍味で接待し、また酒肴を持たせて船で大坂へ送り届ける。その費用銀一三〇目は日下村で負担し、あとで二〇ヶ村入用に組み入れている。つまり本多氏役人は二〇ヶ村に経費負担させて蔵元振舞を行ったのである。

また森家の名庭園鳴鶴園は大坂でも有名であったから、蔵屋敷役人や家族が野崎参りに来た折には森家の庭園見物に寄ることが度々であった。享保十四年三月二十四日に蔵屋敷役人三名が取り巻きの町人と野崎観音を参詣した折には、日下村の船頭が大坂へ迎えに行き、野崎参りへ案内の後、森家屋敷で接待し、船で大坂へ送り届け、また大坂の料亭で酒宴を張る。蔵屋敷役人やその夫人たちが鳴鶴園を訪れた際も酒肴で接待している。いずれも長右衛門の財力を見込んで賂を受けるのだ。

この蔵屋敷役人への贈賄は当然見返りを期待したもので、長右衛門は毎年御留守居役の松本儀太夫に、年末の支払いのために必要な一貫目の現銀の調達を依頼する。松本儀太夫の背後にはしかるべき銀主がいて、その間を仲介したということであろう。さらに興味深い事柄が『森家日記』の次の記載である。

 

享保十四年十一月大朔日 

一作兵衛と会所へ出、当引方之様子密ニ承候故、隠密ニ致勘定候

同年十一月七日 

一終日作兵衛と会所ニ而、内分密ニ小前帳ニ、三郷共取米かけ布市池端ハ十分一・三分一米方口米壱分迄帳面ニ記置申候

 

長右衛門は検見のあと、免定を頂戴する前に、引方、つまり畝引の数字を知らされているのだ。それは情報を得て早い時期に免割帳を作成することができる。庄屋の手数をはぶくという意味では、村方への恩恵であるが、蔵屋敷役人にとっては表向きにはできない配慮であり、「隠密」「内分密」という文言がそのへんの事情を示唆する。この蔵屋敷役人の村方への接近は、度重なる贈賄へのお返しである。河内の庄屋と領主役人との間には、お互いの要求を知り抜いた末の合理的な相互扶助関係が築かれていた。蔵屋敷役人は事あるごとに庄屋を呼び出し、直接に村落出入の仲介人として指名し、さまざまな依頼事をし、賂を受けるのだ。

河内の庄屋階級は大坂経済の恩恵を受けて、財力においても武士階級を圧倒していた。常に蔵屋敷で平身低頭する長右衛門の方が、国許の財政苦難を背負っていた本多氏蔵屋敷役人よりも懐が豊かであったことは誰の目にも明らかであった。

大坂ではその経済的地位の高さによって、武士階級の地位が実質的なものとなり得ず、支配が錯綜するという事情により領主権力が一円的な封建的強権たり得ず、長右衛門たちは武士階級の本質を知りぬき、賄賂や接待で慰撫し、実質的にその関係を持ちつ持たれつという対等なものへ押し上げることに成功していた。

 

本多氏における直接支配

本多氏においては領主と村の間に用聞萬屋善兵衛がいたが、彼の村落支配への介入はほとんどなかった。年貢はすべて在払いであったし、蔵屋敷からの触書は郷宿いせ屋の飛脚が伝達した。もちろんいせ屋への指示は蔵屋敷からの命を受けた用聞萬屋が行ったと思われるが、用聞萬屋と村との接点はほとんどなかった。『森家日記』に用聞萬屋善兵衛の名前が登場するのは、蔵屋敷役人の検見巡見の際に、検見見舞と称して森家へやってきた時のみである。

こののち享保十五年七月に本多氏が駿河に移封となり、日下村が天領として平岡彦兵衛代官支配となったのちは、年貢収納をはじめ支配のすべては用聞大和屋又右衛門が采配している。特に享保二十年に始まって以後、長年もめ続けた日下本郷と布市郷との争論については用聞大和屋が仲介に乗り出し、直接布市との対談に出向いている。

本多氏二〇ヶ村一万石という小規模な支配では用聞のような中間支配層は必要なく、直接支配が可能であった。九万石支配の平岡彦兵衛代官の天領においては、大和屋という強い支配力を持つ用聞が必要とされたのである。

本多氏支配においては、蔵屋敷役人は常に村の庄屋を呼び出して、直接に対面して支配を行う。だからこそ長右衛門たち庄屋と蔵屋敷役人の間に親密な関係が築かれたのだといえよう。

 

庄屋の果たした役割

長右衛門は、百姓の暮らしの様々な事情の中に入り込んで問題を解決し、暮らしの成立ちに心を砕いている。母親の面倒を見ない人がいる、また自分の妹や母親に乱暴する人がいると、見かねた村人が長右衛門に意見をしてやってくれと言って来る。長右衛門はその村人を呼びつけて、理由を聞き、叱りつけて諭し、暮らしが成り立つように、算段をしてやる。その上、帰りには五升の米を持って帰らせる。

善根寺村の庄屋向井家文書に、村人が庄屋に提出した一札がある。常々農業を怠け、不行跡にて、今日を暮らしかね、夜になるとよその家の軒端に立って施しを受けるという人物が、姪と不義をしたうえ、姪の奉公先まで押しかけ刃物を持ち暴れるという事件を起こした。このような人間をも村は見捨てず、五人組が請合人となり、今後は更正させることを誓約して、一札を庄屋へ提出している。

このように農業を怠け暴力沙汰を起こす、博奕に手を出すなど、共同体秩序にはみ出す人間はいつの時代にもいたが、たいていのことは村の五人組が請け負って、その上の庄屋が全責任を負うことによって平穏な村の暮らしの維持を図った。どんな人をも包み込んでしまう一種の自浄作用というものを近世の村社会はもっていた。

八〇〇年にわたって藤原定家以来の和歌の伝統を守り伝えてこられた冷泉貴美子氏は、「和の文化は、『私とあなたは一緒』ということを根本にしている。西洋の芸術は他とは異なる自分の個性を表現するものであるが、和歌をはじめ、歌舞伎や日本舞踊などの和の伝統芸能は、型を決め、古くから伝えられてきたその約束事の中で磨き上げていく世界である。人と違うことを旨とする西洋芸術とは正反対にある((15))。」と言われている。

そうした和の文化を継承し、守り伝えてきた日本人の精神風土こそが、落伍者を出さないで、一緒に生きていこうという近世社会の基盤にあった。その上に、近世は年貢が村請であった。寡婦や病人の家は皆で農作業を手伝う。村全体で収穫を上げて、村全体で年貢を支払う。これが誰もがお互いのことを考え、村の成り立ちに心を砕く、という日本人気質を作り上げた。近世の村落社会がもっていた共同体意識、常に周囲へ配慮しつつ、平和で穏やかな村の暮らしを維持していこうとするこの精神こそが、世界で最も安全な国日本を作り上げたといえよう。

「日本人は集団行動が得意であるが自己主張を持たない」ということは欧米人の日本人批判でいわれることである。しかし近世の村の中で自己主張は必要がなかったのだ。村の平穏無事な秩序維持のためには周囲に合わせることこそが求められた。

欧米は古くからの多民族国家であり、人種も宗教も風俗習慣も異なる人々が構成する。その根底には個人主義が浸透している。特に移民国家であるアメリカでは自分の身は自分で守るしかないという意識が徹底している。だから銃を持つ。それが開拓時代からの生きるための術であったという国であり、米国における凶悪犯罪件数は日本の数十倍((16))とされる。そこが日本と決定的に違うところである。近世の村落社会がもっていた共同体意識、それは欧米社会にある個人主義とは対極にある。

その近世の村落の中心にあったものが庄屋であった。『森家日記』から見える庄屋の姿、長右衛門が村の平穏無事な暮らしの維持に力を注ぐその行為は、庄屋という役職だからというだけでない、それを越えたものがあると感じられる。

長右衛門は常に高麗人参を入れた印籠を持ち、「このごろ父親が夢の中のようになって困っている」という村人に、当時高価であった高麗人参を惜しげもなく与えている。村人の悩みを自分のものとして対処する。そうしたことが常に何気なく出来る人物、それが庄屋という存在であった。そして村人の側にもそうした庄屋に対する厚い信頼と尊敬の思いがあったはずである。

庄屋といわれた人々は、多かれ少なかれ村のすべてに責任を持つという自覚を持っていた。それが村と村人への欲得を離れた貢献につながっていく。そこには他の地域に遅れをとらないように、時代に乗り遅れないように地域社会を担っていこうとする、リーダーとしての強い使命感があった。この庄屋という存在に注目してこそ初めて近世の村社会の本当の姿が浮かび上るのだ。

常に村落の中心にあってその発展を支えた庄屋、支配階級と民衆の狭間にあって、時にはそこから生まれる軋轢にさらされながらも、生まれ育った父祖伝来の土地への深い郷土愛を持って民衆を導いた庄屋たち。彼らこそが、現代に至る日本の原型を作り上げたといわれる近世社会の根底を支えたのだ。改めて近世歴史の中で庄屋というものが果たした役割が再評価されるべきではないだろうか。

 

河内文化と大坂

河内と大坂との連携は文化の面でも例外ではなかった。庄屋・豪農・僧・神官といった村落の知識階級は膨大な蔵書を蓄え、古今の典籍を修め、常に広範囲の文人・知識人との交流を求めた。それは京・大坂に代表される中央の高い文化と、最先端の情報を吸収しようとするものであった。儒学とともに江戸中期からの国学の隆盛はそうした向学の徒を大いに刺激し、彼らは競って文人学者に師事し、自己の研鑽に励んだ。それは同時に何よりも地域社会を支え、高揚させようとした彼らのリーダーとしての自負心の現われでもあった。

事実、長右衛門自身も漢学を修めた文人でもあった。森長右衛門貞靖の墓碑銘に「鳥山碩夫(芝軒)に師事し漢学を学んだ」とあるが、この人物は伏見の人で漢詩を儒学から独立させ、専門詩人として門戸を張った嚆矢とされる。のち大坂に移ったので長右衛門が若い頃に師事したと考えられるが、正徳五年(1715)に亡くなっている。

『森家日記』には漢学者として大坂浦江の義門師が登場する。義門師は享保十五年(1730)に亡くなっているが、どのような人物であったかは文献にも出ていない。義門師は常に足立家に逗留し、森家にもよく出入りする。

森家の蔵書の中には、『三體詩』『聯珠詩格』『千家詩』や、鳥山碩夫の『和山居艸』『芝軒吟稿』などの漢詩集や、『四声以呂波韻』『和語円機活法』など漢詩の音韻や作詩の字典が多い。『森家日記』には長右衛門自身の漢詩も見受けられ、難解な漢字を書きこなすその流麗な筆跡からは豊かな漢学の素養がうかがわれる。

その長男勝二郎は二一歳で野里屋を退いた後に、「生駒山人」という漢詩人として大成し、『生駒山人詩集』全七巻を残し、弟の万四郎は平野屋清助となったのち、漢詩集『桃亭稿』( (17))を遺している。

森家には近郷の豪農・庄屋や僧・医師をはじめ、大坂の町人・武士が常に出入していた。いわば当時の知識階級の社交場であったから、大坂で流行していた文芸や遊芸、漢詩や謡・浄瑠璃が披露され、河内における文化サロン的な役割も果たしていた。

こうして醸成された文化的な素地はその後も大きな成果をもたらした。寛政十年(1798)には上田秋成という当時の第一級の文学者が日下村を訪れ、四ヶ月滞在している。それは風光明媚な日下村での物見遊山ではなく、村落に存在した厚い文化層の強い欲求に応じたものであった。  

上田秋成を日下に招いたのは善根寺村の豪農足立家から大坂の豪商平瀬家に嫁ぎ、寡婦となって日下村に庵をむすんでいた紫蓮尼(唯心尼)という女性であった。平瀬家は大坂でも屈指の両替商「千草家」を営み、大坂商人の子弟の儒学塾「懐徳堂」に資金を提供していた。若い頃に「懐徳堂」に学んでいた秋成は、千草屋の御寮人であった紫蓮尼とも親交があった。前年に妻を亡くし、目を患った失意の秋成は、緑深い日下の風光の中で療養の日々を過ごす。経済活動に発した河内と大坂を結ぶ糸は、姻戚関係という太いパイプに成長し、それがさらに密接な人と文化の交流を生みだしていた。

上田秋成という大きな啓発を得て、加納の森公道(森家の分家)、三番安富重正(長右衛門三男為二郎養子先)河澄常之、近隣の寺の住職などの知識人が集い、河内の一大文化サークルというにふさわしい文芸の高まりを見せた。

享保時代に長右衛門貞靖や生駒山人が築いた文芸の萌芽は、次の化政期(1804~30)から幕末にかけての河内での多彩な文芸活動へと発展し、それを支えたのは庄屋階級を中心とした村落の有力者であった。

 

近代における庄屋

近世から近代への幕開けにも庄屋の力が大きく存在した。明治に戸長として新しい町村制のもとで地方行政を担ったのも多く近世の庄屋たちであった。森長右衛門とともに、享保時代に相庄屋として活躍した河澄家の幕末の当主である雄次郎氏は、明治になって戸長となり、地租改正などの大きな制度改革の中で村の財政を切り盛りした。村会や郷学校という新しい制度の創設に奔走し、地域の子供たちの教育に自身の屋敷を提供し私財を投じた。

昭和十五年の皇紀二六〇〇年記念の奉祝行事の時には日下村と善根寺村に二基の「神武天皇顕彰碑」が立ったが、その記念に「孔舎衙村史」をまとめたのも雄次郎氏の孫である河澄正直氏であった。彼らの地域社会を担っていこうとする熱意は時代を超えて受け継がれた。

明治の近代への大きな転換を急激な革命ではなく、緩やかな波動に替えて民衆へと浸透させ得たのは彼らだからこそ可能であった。その狭間には、島崎藤村の『夜明け前』に代表される彼らならではの苦悩もあったはずである。そして戦後の農地改革によって解体されるまで、村落社会をリードし続けた彼らの力は日本の近代的発展をその底辺で支えたのだ。

 


1 安岡重明「畿内における封建制の構造」『日本封建経済政策史論』1985

2 別項「森家の盛衰」参照

3 巻末表3 森家の庭園見物人  

4 巻末表4 森家の逗留人

5 『枚岡市史』第一巻 本編 昭和四十二年 枚岡市 

6 『向井家文書』「寛保二年宗旨人別帳」向井竹利氏所蔵

7 『小西新右衛門文書』伊丹博物館所蔵 

天明五年覚で足立家が銀三六〇貫の債権放棄の見返りとして一五〇石の扶持米を与えられている

8 『向井家文書』「神尾若狭守巡見宿泊明細」向井竹利氏所蔵

9 巻末表5 長右衛門交友関係―大坂武士

10 巻末表6 長右衛門交友関係―大坂町人

11『枚岡市史』第四篇 資料編二 昭和四十一年 枚岡市

「中村家系譜」中村四郎右衛門正敏の四代前の正教の息女亀が森長右衛門家へ嫁いでいる

12『難波雀 浪花袖鑑 享保十三年』大阪市史編纂所 平成十一年 

御城中御用御役附

13『河内国高安郡淀領郡村役用留』八尾市立民俗資料館友の会古文

書部会編

14 前掲12

15 冷泉貴美子『冷泉家八〇〇年の「守る力」』2013

16 日本の凶悪犯罪、人口10万人あたり5・9件、(2010年警察庁調べ)米国の凶悪犯罪、10万人あたり403件(FBI)

17 前掲5

 

 

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