2011年2月28日月曜日

五 善根寺檜皮大工集団の近代

1 官幣大社春日神社社務日誌

明治維新に至って善根寺檜皮大工の活動は終焉を迎えます。明治元年の「神仏分離令」、同四年の「社寺領上知令」により、興福寺の広大な境内地は没収され、塔頭はことごと
く破却され、両門跡をはじめ院家、学侶は還俗させられました。大和春日社は同四年に官幣大社に列せられます。神職は官吏となり、伝統的な春日社家をはじめ、多数の旧神官は一掃され、野田、高畑の社家町はさびれ果てたのです。

旧来の組織の解体は当然善根寺檜皮大工の死活に大きく影響し、大和春日社の屋根葺替、若宮おん祭りのお旅所行宮の松葉の屋根葺に奉仕してきた習慣は途絶え、官幣大社となった春日社と彼らのつながりは完全に消滅したでしょう。彼らを支えていた一本の綱が断ち切られたのです。

近世においてさえ多くの困難の中でよく持ちこたえた彼らの生業の燈は、ここにおいて燃え尽きるほかなかったのです。

現在の地元の古老によると、大正年間には春日社の造営や祭礼に際して善根寺春日座は主要な席次を与えられて列席したとのことです。昭和になってからも、「春日若宮おん祭り」の行列に参加したこともあったようです。春日神社の提灯や檜皮葺の道具は戦後すぐまでは二五人衆の家の蔵に保管されていたそうです。明治以来すでに百数十年、檜皮葺に関しての地元の記憶も、父や祖父に聞いたという程度のあやういもので時代があまりにも遠くへだたってしまったという感は否めません。

明治以降の確かな記録としては、平安末期以来約七〇〇冊という膨大な記録を残している春日大社の社務日誌の昭和七年一二月一四日条に善根寺が登場しています。現在までの膨大な記録に目を通されている、春日大社名誉参事の大東延和氏のご教示により、その日誌を拝見させていただきました。

  官幣大社春日神社 社務日誌
昭和七年一二月一四日水曜 晴れ
一善根寺春日神社社掌高松諸成来社                        
    例年の通り社醸酒弐升献納ス徹餅トシテ藤丸菓子二個 入一三包授与シタリ



大正時代の善根寺春日神社参道
とあり、善根寺春日神社の御神酒神事で造られたお神酒を春日大社へ毎年献上していたのです。しかし春日大社の中で、檜皮葺大工の存在がどう捉えられていたのかは他に史料はなく全く不明です。

善根寺檜皮葺大工の史料年代表
年代 史料所在
永禄一二年(1569) 広八幡神社棟札和歌山県有田郡広川町
承応三年 (1654) 春日神社石燈籠善根寺春日神社
万治二年 (1659) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
寛文九年 (1669) 水度神社棟札京都府城陽市寺田水度坂
元禄三年 (1690) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
元禄七年 (1694) 諏訪神社棟札東大阪市中新開
宝永六年 (1709) 春日神社石燈籠善根寺春日神社
享保一一年(1726) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
延享二年 (1745) 寺座覚書善根寺向井家
10 明和三年 (1766) 春日造営屋根日記善根寺向井家
11 天明三年 (1783) 寺檜皮大工職補任状善根寺向井家
12 文化一一年(1814) 春日若宮修復文書善根寺向井家
13 元治二年 (1865) 助郷夫役除嘆願書善根寺向井家


おわりに
これまでの検証で、史実としては永禄十二年から幕末までの約三〇〇年にわたる善根寺檜皮葺大工集団の活動が明らかになりました。六枚の棟札と、古文書、文献に記された彼らの軌跡の一つ一つから、山深い善根寺春日神社を守りつつ、檜皮葺大工としての生業に励み、戦国時代から明治直前に至るはるかな年月を越えて活動の記録を残した人々の姿が彷彿としてきます。そして善根寺檜皮葺大工をめぐる伝承は彼等のたどった歴史の影に見え隠れします。

永禄十二年の棟札が彼等の中世における活動を証明し、善根寺檜皮葺大工のはじまりが永禄年間以前に遡ることは確かですが、その具体的な年代はより古い棟札の発見に待つしかないのです。だからといって古代にまで遡ることは考え難いことです。

古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。
古代の日本人は大自然すべてを神として崇拝し、従順な畏服で応えました。それは稲穂の名を冠した穀霊神として降臨した「穂能迩迩芸命(ほのににぎのみこと)」と、その子孫としての天皇への畏敬につながります。貴族の筆頭である藤原氏は「穂能迩迩芸命」の随神「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)を祖先神としました。天皇を補佐するものとして神代から約束されていたと権威づけたのです。
古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。


参考文献
『大阪府全志』大正一二年 『中河内郡誌』大正一一年
『枚岡市史』昭和四〇年 『和歌山県史』和歌山県 
佐藤正彦『天井裏の文化史』
『棟札銘文集成』平成八年 国立民俗博物館
大河直躬『番匠』 一九七一年
豊田武『座の研究』 昭和五七年
大野七三『先代旧事本紀訓註』 平成元年
黒田昇義『春日大社建築史論』 
『玉葉』第三巻
『大乗院寺社雑事記』第五・六・七巻
原田多加司『檜皮葺と?葺』 一九九九年
高松米三郎『孔舎衙春日宮社記』 昭和一五年
上田正昭『春日明神』 一九八七年
川上貢『近世上方大工の組・仲間』 一九九七年
「向井家文書」向井竹利氏所蔵


2011年2月27日日曜日

『日下村森家庄屋日記』



『日下村森家庄屋日記』は、この日下村(現東大阪市)の近世庄屋である、森長右衛門貞靖が18年間にわたって記録した日記です。現在この日下町に住む私たちが、この地の歴史を原本によって読み解くことは大変に意義のあることだという思いから、私たちは平成14年に日下古文書研究会を結成し、解読を進めてきました。

そして『日下村森家庄屋日記 享保13年度』については、所蔵されている東大阪市加納の森義雄氏から原本を提供いただき、その翻刻と、関連文書、さらに登場する様々な出来事の解説を一冊の本として刊行いたしました。その他の15冊については京都大学に所蔵されています。私どもはそのすべてについてコピーをいただき、すでに享保1214年度を解読しましたが、京都大学から翻刻許可がいただけないので刊行に至っていません。

日記の内容
享保13年(1728)に四十代の働き盛りであった森長右衛門は、豊かな学識と練達の筆跡で、日下村の明け暮れを詳細に記録しています。庄屋日記はいわゆる「役用留」として、村役人としての役用のみを記録するものが多いのですが、彼は村中の日常の細々とした出来事にも目を注ぎ、なにげない村人の暮らしを丁寧に書き留めています。昭和40年に刊行された『枚岡市史』などでわかっていることや、地元で言い伝えられてきたことの、さらに奥深い事実が解き明かされ、新たな発見があり、郷土の歴史の史料としてこれ以上のものはない、という実感があります。

そしてこの日下の貴重な史料を、今この地に住む我々が読むということの意義は、想像よりもはるかに大きいものがあったのです。森家の屋敷地も、今は畑になっている庭園の小高い丘も、村の会所も、善根寺浜という船着場も、布市の船頭さんのことも、長右衛門家の向かいの五兵衛さんの家も、日下の年配の方なら誰もが知っている事実でした。

こうした古老が経験してきた、この地の戦前までの農業は、そのまま享保時代に繋がります。庄屋日記に登場する、香盤で時間を計る水番や、蔵米納め、下作米納めの作業は、この地で何百年も永々と営まれてきたことなのです。

田畑の字名などは、古くから農業に従事してきた地元の人が呼び慣わしてきたものですが、急速に田畑が宅地に変わっていく現在、死語になりつつあります。九〇才の古老から教えていただいた「みよし」や、旧家の方からうかがった、「あまよろこび」や「ひのつり」という言葉。また、八朔の日から昼寝がなくなることから、「いやな八朔また来たか」という言葉などは、農作業の中で使われてきた言葉でした。

田畑の単位も、六畝を「むせ」八畝を「やせ」と呼び、「むせ田」「やせもん」という呼び習わし方、また日下村では勾配のきつい山の田んぼが広畝(こうせ)と呼ばれ、一反の面積が他地域より広かったいう事実など、我々には宝物のように貴重な情報でした。こうした地元の特殊な実情を踏まえないと、この庄屋日記に記された細かい数字から、当時の農業経営の実態を把握することは困難です。

享保時代の日下村は、確かに今も、古老の記憶の中に鮮やかに痕跡を残しています。年配の方々にとっては自明のことながら、「今これを記録しなければ!」という思いが強くなっていきました。
地域にあった懐かしい年中行事、古くから連綿と続いてきた伝統や風習が忘れられると、それに付随した言葉や思想も迷信として抹殺されていきます。それは歴史の流れというもので、くい止めることはできません。

『日下村森家庄屋日記』はこの地に生きた先人たちが、その時代時代に新しいものを受け入れ、古いものを忘れ去って生きて来た道に光を当ててくれました。それをたどり、埋もれた化石を掘り出し、現代に繋がる痕跡をさぐる。その作業はどんな苦労も吹き飛ばすほどの楽しさに満ちていました。

何時の時代にも古い史料の解読にはその時代の制約があり、我々の仕事は平成という時代を反映したものにならざるを得ません。我々がたぐり得る記憶にないものは、それ以前に廃れてしまったことなのだから、現時点での記録は、民俗学の一つの方法でもあります。
『日下村森家庄屋日記』の暮らしは現在の暮らしとは大きく違うものです。身分
制と格式に縛られ、支配者への絶対服従しかない時代、すべてが手作業という重労働の農作業、疱瘡や腫れ物にも、漢方薬と鍼灸だけが頼り、平均寿命が四十才前後という、生きることが今よりもはるかに過酷な時代。その中で与えられた境遇をありのままに受け入れ、精一杯生きた人々の姿があります。

そして長右衛門の姿から見える河内の庄屋の実像は、私たちの想像をはるかに超えたものでした。河内の豪農は、一大経済都市として繁栄する大坂と隣接するという大きな利運を背景に、都市大坂から郷土の発展に利するための最先端の情報知識を獲得しました。
そのために河内の豪農は、近郷庄屋階級ばかりでなく、大坂の有力商人とも盛んに縁組しました。長右衛門の長男は大坂南組惣年寄である大商人へ養子に入っていたのです。近世初頭から何代にもわたって繰り返されてきたそうした姻戚関係は、否が応でも河内の豪農の人脈を拡大させることになります。

長右衛門の交友関係は大坂惣年寄をはじめ、町奉行与力といった大坂行政の中枢を担う人物から、有力な用聞、大名出入商人、諸国問屋にまで広がっていました。しかもそのほとんどは姻戚でつながっていたので、親密な交流となっていました。

長右衛門は大坂南組惣年寄や町奉行所与力といった大坂三郷の行政の中枢を担う人物から、幕府の動向や大坂の都市行政の実情を、有力な用聞、大名出入商人からは、大名領国の社会経済情勢を、大坂商人となった息子たちからは大坂経済の最先端の情報を入手したのです。

それは長右衛門の視野を多角的なものにし、正確な情報分析能力を養うこととなりました。いわば河内の庄屋はこの多様な環境での経験と政治力によって単なる百姓身分を越える存在となり、実質的には、大坂の武士や町人と並び立つ地位に上り詰めていたのです。

河内の豪農庄屋は大坂経済の恩恵を受けて、財力においても武士階層を圧倒していました。常に蔵屋敷で平身低頭する長右衛門の方が、領主役人よりも懐が豊かであったことは誰の目にも明らかでした。長右衛門は豊かな財力と幅広い人脈、さらに確かな力量を持つ人物として一目置かれる存在であったことは想像にかたくないでしょう。

長右衛門は蔵屋敷役人から町奉行与力への口利きを依頼され、用聞同士の争論の仲介までしています。蔵屋敷役人も奉行所役人も、事あるごとに河内の庄屋を呼び出し、直接に村落出入の仲介人として指名し、さまざまな依頼事をし、賂を受けるのです。河内の豪農庄屋の存在は大坂の武士にとって依存するに足るものであったのです。

また長右衛門は河内地域の他の村々との寄り合いにも出かけます。この時代の村々の抱えていた問題、田畑の収穫に大きく影響する水利問題での争いや、また天候不良による不作の時には、年貢の減免のために、村々が連合して訴えを起こします。

とりわけ河内においては大和川付替え後に開拓された新田との軋轢が度々の水利争論となって大きく立ちはだかってきたのです。

長右衛門の肩に重くのしかかるものは現在の企業戦士の比ではありません。支配者と村との狭間にあって、村の安泰と村人の暮らしのよりよい成り立ちに心を砕いた長右衛門の姿は、この時代の庄屋階級の典型であり、そこには父祖伝来の地への深い郷土愛と使命感が伺えます。

長右衛門は今よりはるかに高価であった本をたくさん買い入れています123部もの蔵書を持ち、自身の子弟教育ばかりでなく、村人に本を貸し出して、村人の教育に役立て、文化の高揚を目指す姿勢があります。まず村のこと、村人の暮らしに心配りをすることが庄屋というものの勤めでありました。

自然を敬い、より良い暮らしを希求しつつ、襲いかかる病気や災害などの不幸にも力を合わせて立ち向かった先人たちの姿からは、確かにあった営みの重さがひしと迫ってきます。そこに今の私たちが忘れてしまった大切な何かを感じとることができます。

この日記を読むことで長右衛門たちが守ってきた暮らしが今の私たちの暮らしに息づいていることを知ることができ、自分たちの住むふるさとへの誇りと愛着を新たにすることが出来たのです。
二百八十年前の享保時代の生駒西麓の日下村の暮らしがどのようなものであったかを多くの人々に知っていただきたいという思いから、これからも『日下村森家庄屋日記』の解読を続け、それをあくまでも一般の人にわかりやすく解説したものを目指して、刊行していきたいと考えています。

しかし今のところその希望は叶えられそうにありません。京都大学の翻刻許可が困難という大きな難問が立ちはだかっているからです。でも私どもはその重い扉を開けていただける日が来るまで努力を続けていきたいと思っています。
                                                                                         日下古文書研究会   浜田昭子

『日下村森家庄屋日記 享保13年度」についてはすでに完売しています。
しかしその内容の一部については『くさか村昔のくらし』の中の「280年前の村の暮らし」と
「享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から」に掲載しています。




2011年2月25日金曜日

『善根寺町のあゆみ』

「善根寺町のあゆみ」刊行

 

日下古文書研究会では平成二十年春に「かわちくさか村昔のくらし」を刊行しました。その後善根寺町の方々からもこのような本を作りたいという声が上がりました。善根寺町には今まで町史というような歴史文化を網羅した本はなかったのです。
そしてそれは善根寺町において長年、地元の歴史文化に関する新聞記事を蒐集してこられた新聞文化資料館々長中谷作次氏の長年の念願でもあり、何度か計画しながら果たせずにいたのでした。地元からの要望を契機に「善根寺町史」の実現に向かって動き出すことになりました。
 
まず誰にも分かりやすいものをということで「善根寺町のあゆみ」という題目にして地元の皆さんのご協力をお願いすることになりました。孔舎衙校区の自治連合会の酒井秀和会長に委員長をお願いし、「善根寺町のあゆみ」編集委員会を立ち上げました。経費については東大阪市の地域まちづくり活動助成金を申請することになりました。
 
内容については、中谷作次氏が長年にわたって収集された郷土史料をご提供いただき、それを参考にして項目を決めました。考古学・古代・中世の時代については藤井直正先生と勝田邦夫氏に執筆をお願いしました。

藤井直正先生は『枚岡市史』編纂主任を勤められた東大阪市の歴史の大先輩であり、四〇年にわたる研究の成果の集大成となる原稿をお寄せいただきました。「善根寺町のあけぼの」はまさに藤井先生でなければ書けない、とっておきの善根寺町の歴史のはじまりです。
 
勝田邦夫氏は発掘を通じて古代のムラを紹介していただき、中世の時代に善根寺地域を支配した水走氏の動向についても解説していただきました。
 
近世については日下古文書研究会の浜田昭子が担当しました。当会で読み進めている『日下村森家庄屋日記』には善根寺村の事情も豊富に収録されており、特に足立家の動向については日記の記載が大いに役立ちました。

また当会では平成二十年より善根寺町の近世庄屋である向井家に文書調査に入っており、そこから近世文書が多く出ていた関係で、「向井家文書から見る善根寺村」という一項を設けました。向井家は近世初頭から庄屋を勤めておられ、古文書が多く残されていました。
 
現在では元禄時代(一六八八~一七〇四)以前の村方文書が発見されるのは稀といわれる中で、それよりはるかに古い文書群が遺されていました。慶安二年(一六四九)の帳切帳や、善根寺村が日下村から分村した事情のわかる寛文四年(一六六四)の文書など、驚きの発見が続きました。三六〇年前の虫食いだらけの文書に、よく残っていてくれたと感動の連続でした。
 
最大の発見は善根寺檜皮葺大工の記録「寺座覚書」です。この文書は、善根寺檜皮葺大工が南都春日興福寺において「河州寺座」と呼ばれて活動していたことを証明する貴重な史料となりました。建築職人として春日興福寺に属するということが、当時の最高の技術者集団であったことを示しています。善根寺春日神社において連綿と行われている「御神酒神事」とともに、この善根寺檜皮葺大工の歴史こそ、善根寺町民にとって最も誇りとするべきものではないかと思います。
 
これらの文書を使って近世の善根寺村の生の暮らしを地元の皆さんに知っていただける事ができたことは文書調査に携わるものにとって望外の喜びでありました。
 
「大川沿いの史跡」と「昔のくらし」につきましては、地元の方々に取材や史料提供でご協力をいただきました。また孔舎衙校区のお茶の間サークルの皆さんに取材し、戦争体験者の貴重なお話を「戦争の時代」と題して収録しました。六〇年あまりを経てもなお胸の痛む思いを抱き続けてきた方々は辛い記憶を吐き出すように話してくださったのです。
 
たくさんの地元の方々の熱意によってこの本が出来上がりました。セピア色の写真と現在の善根寺町の写真を入れて、読みやすい楽しいものを目指しました。
 
善根寺町の歴史は、はるか縄文時代に始まりました。この本を手に取ると、時空を超えた歴史の旅に飛び出すことができます。この地にどのような人々がいたのか、その暮らしがどのようなものだったのか、それを知ることはこの上ない喜びです。
 
そしてまぎれもなくあった、先人たちが永々と築き上げてきた暮らしの上に今の私たちの暮らしがあります。過去を振り返る事はこれからをより良く生きるための智恵を得ることです。ふるさとの歴史文化をよく知り、先人たちの生きざまに敬意をはらいつつ、それを誇りにして生きるかぎり、私たちの前には明るい未来が開けてくるはずです。この本をそのための一冊にしていただければこんなうれしいことはありません。
 

                        日下古文書研究会 浜田昭子
 
目次
             
 刊行のことば        
  地図 文久元年村絵図    
明治十八年の善根寺村 
現在の善根寺町    
  目次 執筆担当 
       
善根寺町のあけぼの
  縄文土器の発見            

古代の善根寺町
  山丘の古墳           
  発掘された古代のムラ        
  神武天皇の伝承            
  原始蓮                

中世の善根寺町
  水走氏の動向             
 氏神・春日神社の祭祀      
「檜皮御座」の始まりと活動   

近世の善根寺町
 大坂築城と日下石           
 石奉行・足立家の系譜        
 足立家の活動        
 足立家の大名貸        
 足立家の味岡新田訴訟      
 「向井家文書」に見る善根寺村 
 善根寺村の分村事情       
 車谷の水車          
 東高野街道と一里塚        

近代の善根寺町 
 稲荷山遊園地と谷崎潤一郎    
 昔の暮らし          

善根寺町の文化財
 大川沿いの史跡        
 善根寺町の寺院            
善根寺町の石造物           
民俗と信仰              
 
 あとがき            
 編集委員会 協力者名     

 

2011年2月24日木曜日

講演のお知らせ




★ くすのきカレッジ日本史・郷土史学科

「江戸時代の暮らし」

2017・10・10(火)PM7:00~8:30 
        明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』より



2017・12・12(火)  PM7:00~8:30 
         明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』より    

講師浜田昭子

場所:くすのきプラザ (若江岩田希来里内)
    近鉄若江岩田駅前


★ 河澄家講演会

2017・10・29(日) 13:30~15:30 

  

講師 浜田昭子
 
東大阪市指定文化財 旧河澄家 072-984-1640 申込み 10月1日より  東大阪市日下町7-6-39





孔舎衙公民分館
ふれあい勉強会
★2018.3.7



河内の豪農と都市大坂
      『日下村森家庄屋日記』を史料として

講師:浜田昭子








































2011年2月23日水曜日

例会のご案内


             例会案内

以下の日時で例会を行っております。
参加ご希望の方は下記までお電話ください。
又は直接下記会場へ起こしください。
日時:2017年度 月2回

11月 12(日)    14:00~16:00    『忍耐堂見聞雑誌』解読

11月 26(日)      〃            〃


12月 3(日)      〃            〃
12月 17(日)     〃            〃





 ・場所:孔舎衙(くさか)公民分館 
近鉄バス停 孔舎衙小学校前(
)
     東大阪市日下町5-3-37 
・TEL・FAX 072-985-8791
  ・浜田昭子 072-987-2996 



2011年2月22日火曜日

会員募集

  
いつでもだれでも、
古文書に興味ある方は、浜田昭子、又は孔舎衙公民分館へ申込み、又は直接に会場にお越しください。



浜田昭子 ℡Fax072-987-2996 


          kusakacom-ak18@apple.zaq.jp
                  
 
         
 
  
 

会場:孔舎衙公民分館 近鉄バス停・孔舎衙小学校前
 東大阪市日下町5-3-37 
TELFAX:072-985-8791





2011年2月21日月曜日

刊行物の紹介

『日下村森家庄屋日記 享保13年度』  平成17年刊行  完売
 

『くさか村昔のくらし』平成20年刊行  在庫あり 1000
 











『善根寺町のあゆみ』 平成21年刊行  在庫あり 1000円







 
 







『向井家文書目録』 平成23年7月刊行  在庫あり 1000円

                                     












 『向井家文書資料集』 平成23年11月刊行 在庫あり 1000円


2012年新刊




『旧今西村文書にみる十津川郷の歴史』  1500円 完売


 

 




 




2011年2月20日日曜日

お問い合わせ

日下古文書研究会へのお問い合わせは、以下までお願いいたします。

 

代表:浜田昭子 072-987-2996
    東大阪市北石切町1-30


✉アドレス
kusakacom-ak18@apple.zaq.jp






例会場所、又は日時については
  
 孔舎衙(くさか)公民分館 近鉄バス停 孔舎衙小学校前
     東大阪市日下町5-3-37 
    ・TELFAX 072-985-8791