2016年9月20日火曜日

事項解説

 享保十五年から十八年の出来事の中で、興味深いものを取上げて解説した。出典を記さない史料はすべて「日下村森家庄屋日記」である。

伊勢参宮

 近世を通じて伊勢参宮は非常に盛んであった。「おかげ参り」といわれ、爆発的流行が六〇年を周期に起こり、特に明和八年(1771)には、参詣者が年間二〇〇万人に上ったといわれる。「伊勢参宮おかげの日記」によると、この時の様子は、「奈良街道暗峠に大群衆が押し寄せたため、三軒の茶屋では賄いきれず、食事も出さず、引き返すものも出るしまつ。あまりの人数におびえた茶屋は戸を下して水も出さなかった。」というほどの混雑ぶりであった。
村々では「伊勢講」があり、村人が定期的に集まってお金を出し合い、それを旅費として五・六年に一度、代表者が参詣することになっていた。これを代参といい、旅の行程と、使った路銭を詳しく書き留めて村人に報告する。普通の百姓にとって、伊勢参宮こそ一生に一度の大イベントであった。
日下村では享保十五年、日下村本郷の西に位置する布市郷から大勢の村人が伊勢参宮に出かけている。
  
享保十五年
正月廿九日
一朝飯後より作兵衛殿同船ニテ大坂へ下ル、(中略)儀大夫様へ参、布市参宮願之書付出し申候、(中略)参宮願勝手次第致参宮候様ニと被仰付候、

正月二十九日本多氏大坂蔵屋敷へ出た長右衛門は、布市郷からの参宮願を差し出す。本多氏御留主居役である松本儀大夫より、勝手次第に参宮致すようにとの仰せであった。

二月十九日 朝より曇、八ツ時と夜と雨少降
一今朝布市より参宮有之候、講衆廿五人、喜平次・半右衛門・利兵衛兄弟・武助・義兵衛兄弟・弥兵衛・惣兵衛倅兄弟、其外十四人講参り有之、講之外抜参宮十七人有之候
       惣人数
  太兵衛・又七・弥助・忠助・馬子太兵衛・善兵衛・ゆき・源七・治助・与兵衛・徳兵衛・六左衛門妹・甚兵衛・弥三右衛門・下女さん・九右衛門・下人六兵衛・大乗寺内義・左兵衛内義、娘共上下六人、半右衛門内より三人・半兵衛・文七・嘉右衛門・弥右衛門、講人共合三十八人

農閑期の二月、布市から講衆二五人、講外の抜け参り一七人が出発す
る。長右衛門は名前を記し、講人としての総人数を三八人としている。講人とは「伊勢講」に加入し、その積立金を旅費として代参する人々である。抜け参りとは、「伊勢講」に参加せず、人別送り状などの公式文書も持たないで参ることである。
村を無断で欠落(かけおち)することは支配者にとって由々しきことであったが、伊勢参りだけは大目に見られていた。参宮の大流行の折には、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣することも多く、これが「抜け参り」と呼ばれたゆえんである。
突然村を出て、着の身着のままで抜け参りに出かけた人々は、金を持たなくても困ることはなかった。お参りの人々に報謝することが自身の功徳になると信じられて、沿道で米や湯茶・食べ物・銭などの施しが行われたのである。街道筋での接待をうけるために、旅人は手に柄杓を持ち、筵を背負い、昼間は接待を受けながら、夜は筵を敷いて寺社の縁の下や橋の下に野宿する。筵と柄杓の旅姿が、無銭の旅を可能にした。布市の抜け参りはある程度の金銭を携えていたと思われるが、中には女性もいて、お互いに助け合いながらの旅であったろう。日下村だけでもこの多人数であり、この年の流行もかなりのものであったと思われる。

  二月廿二日 晴
一布市参宮人、今日宮廻り故、手前よりも赤飯遣候、吉兵衛・理兵衛・左兵衛・半右衛門・九兵衛・与左衛門・太右衛門・喜兵衛・又二郎・弥三右衛門・大乗寺与兵衛方へ遣候
 
その三日後、おかげ詣りに出かけたものが伊勢に到着し、神宮にお参りするとのことで、長右衛門は参宮人の十一軒の家へ赤飯を贈っている。留主の村人にとっても、お伊勢さんへの参詣は村の中でもお祝するべき重要な神事であった。伊勢には日下村から三日の行程であった。普通大坂からは片道五日といわれているので、かなりの早さである。
   
二月廿三日 晴
一布市左兵衛、妻・娘、致参宮候ニ付、酒振舞申度よし申越候故、暮合より作兵衛同道ニテ参候、与次兵衛、元竹等も請伴ニテ夕飯之上、夜半前迄語申候、茂兵衛も参候

布市左兵衛が妻・娘とともに参宮するとのことで、長右衛門に酒を振
舞っている。村人も集まっているようで、参宮の前にも村人へ振舞をす
ることが慣習となっていた。

  二月廿六日 
一布市参宮人致下向候、八日目也

二十六日に参宮人が帰ってきた。長右衛門は八日目としるしているが、実際は七日目である。参宮のあと伊勢の宿で一日遊んだとして、往復で六日ということになる。

二月廿八日
一池嶋十兵衛殿より友右衛門無尽ノかけ銀もたせ越被申候、六万寺林右衛門かけ銀も壱所ニ参候、十六日無尽相勤申候節ハ、参宮被致延引ニ成候よしニテ候

二月二八日、六万寺村林右衛門が十六日の無尽を勤めるために、伊勢参宮を延引するとのこと。この時、布市ばかりでなく、六万寺村でも参宮するものがいたということで、この年の参宮は流行していたものと思われる。

三月四日
一昼柄布市ニあやつり有之候、参宮之足休メ也

三月四日には参宮の足休めとして布市であやつりがある。足休めとは旅のあとで行われる慰労会である。享保十八年四月、長右衛門の子息新助はじめ、村人が数人で吉野へ旅した時も、帰って九日目に会所で足休めが行われている。料理や酒も出て、皆で楽しむのである。
あやつりとは人形浄瑠璃のことである。浄瑠璃語りの竹本義太夫が貞享元年(1684)、大坂道頓堀竹本座を開設して義太夫節浄瑠璃の基礎を築いた。義太夫は作者の近松門左衛門と提携し、時代物「国姓爺合戦」や、実際に起きた事件を題材とした世話物「曾根崎心中」などを上演し大繁昌していた。
この人形浄瑠璃の流行は河内村落にも波及し、享保十三年(1728)九月十六日の善根寺村の豪農足立家での神事の折、大坂町人の河内屋太郎左衛門が三味線弾きを召連れ、浄瑠璃を語っている。大坂の裕福な旦那衆が義太夫節を習うことが流行っていて、人々が集まる場所で語り聞かせることが大きな楽しみになっていたのである。
当然、村落を廻る人形浄瑠璃一座のようなものもあったはずで、布市では彼等を呼び寄せて演じさせたのである。 そうした芸能者を招くにはかなりの経費も掛かったと思われるが、布市の人々にとって、参宮を無事終えたことは、たとえ高額であっても、当世はやりの「あやつり」を楽しんで祝うべきことであったのである。

        

   筵を背負い、柄杓を持って米・銭の報謝を受ける
   石川英輔『大江戸庶民いろいろ事情』

0 件のコメント:

コメントを投稿