大坂城御金蔵破り
享保十五年(1730)十月二十五日条に以下の記述がある。
十月廿五日 晴
一今日御金奉行冨士市左衛門殿・河原七兵衛殿・蜂屋多宮殿・木村左次右衛門殿四人、御城代丹後守様へ御招出、直ニ御加番方四人へ壱人ツヽ御預ケ
一御金手代衆も御番所へ御召出、直ニ牢屋へ被遣候
一御金方与力衆
弓削権三左衛門殿
大須賀万右衛門殿
片山清左衛門殿
丹羽勝右衛門殿
右四人も牢屋ノ揚り屋へ御入被成候由ニ候
御金奉行は大坂定番の配下で大坂に在勤し、大坂城内の金蔵の管理・出納を掌る役職であるが、その四名が御加番預けとなり、御金方与力は旗本・御家人などが収容される揚り屋へ収監された。御金手代衆は一般人の牢屋への収監となり、この処分がどのような事件によるものかを長右衛門は記していない。その後の処分については、『大阪編年史』第八巻の享保十六年十二月二十六日条に、『徳川実記』の記載として
十一月七日(中略)大阪城の府金失せしをもってこの事査検の間、その金奉行冨士市左衛門某は大久保山城守忠胤、蜂谷多宮某は保科弾正忠正壽、河原市兵衛は丹羽式部少輔薫氏、木村佐次右衛門某は柳澤刑部少輔里済に召し預けられ、下吏等みな獄にこめらる。
とあり、日付は「日下村森家庄屋日記」より一年余も後になっているが、いずれも御金奉行の四名が大坂御加番にお預けになったことを記録している。その後、同史料十二月二十七日条に、「奉行所文書」の御金紛失御吟味落着御書付の写として次の記載がある。
申渡之覚
改易 大坂御金奉行 冨士市左衛門
重き追放 同 蜂谷多宮
遠島 同 木村佐次右衛門
追放 七兵衛忰 河原八郎兵衛
追放 同 同 七之丞
但 十五歳迄親類え預ケ置可申候
追放 佐次右衛門忰 木村佐吉
追放 同 同 善八
但 同人共ニ十五歳迄親類預ケ置可申候
遠島 大坂御金同心 木村喜左衛門
暇可遣候 同 南部和平次
暇可遣候 同 行松助右衛門
暇可遣候 同 横尾甚蔵
暇可遣候 五藤次忰御金同心 北嶋吉之丞
追放 雀部平太左衛門忰 久保辯左衛門
雀部平太左衛門養父方之弟
播州西宮ニ罷在候醫師
所拂 太田宗健
追放 喜左衛門忰 木村善太郎
追放 同 同 多助
但 両人共ニ十五歳迄親類え預ケ置可申候
遠島 冨士市左衛門若党 伊藤金八
所拂 阿波屋権兵衛
御金紛失之儀、去年以来令僉儀候、此上猶又遂糺明、急度御仕置可
被仰付候得共、今度日光山御宮御霊屋正遷宮正遷座相済候付テ、赦之為御沙汰、其罪を減せられ、右之通被仰付候也
御金奉行冨士市左衛門は改易、蜂屋多宮は重き追放、木村左次右衛門
は遠島になり、河原七兵衛は牢死のため、その忰八郎兵衛と七之丞が追
放に処せられた。木村佐次右衛門と、御金同心木村喜左衛門の二人の忰
も追放となり、まだ幼いものは十五歳まで親類預けとなっている。御金
同心四名は暇が遣わされ、御金同心木村喜左衛門のみ遠島となっている。
しかも、雀部平太左衛門は牢死したものか、その忰が追放、その上養父
方の弟である播州西宮の醫師太田宗健までも所拂という、厳しい縁座に
処せられている。冨士市左衛門の若党も遠島という、連座に処せられた。
この時、日光山御宮御霊屋正遷宮があり、そのために減刑されたもので、
本来はもっと重い刑罰であったようである。その後に、与力・手代とそ
の家族、中間・下人まで三七名が列挙され、彼らは構いなしとされてい
る。その後に、「聞書」として
一御金紛失
享保十五年戌年四月、金千拾三両御蔵ニテ紛失、段々御詮義、同十七年二月済、役人不残牢舎、御金奉行四人冨士市左衛門改易、蜂屋多宮追放、木村左次右衛門遠島、田原七兵衛牢死、手代八人ノ内二人牢死、二人遠島、四人追放、天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権左衛門無別條出牢、只今迄ノ通リナリ、丹羽・弓削ハ牢死せられ、子息ヲ被召出ル
とあり、この事件が享保十五年四月に御金蔵から一〇一三両が紛失した事件であったことが判明する。天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権左衛門は出牢、役職もこれまで通りとなったが、丹羽・弓削は牢死し、子息が父の役職に召出されている。河原七兵衛と手代八人の内二名も牢死と、合計五名が牢内で死亡している。
この牢死の多さは、牢舎を命じられた精神的な痛手もあろうが、享保十五年十月の入牢から、翌年十二月に判決が出るまで一年二ヶ月もの長期の収監であり、牢内における生活環境の劣悪さも考えられるが、おそらく厳しい尋問や過酷な拷問があったのではないかと想像される。
処罰されたのはすべて役人である。それも最高刑が冨士市左衛門の改
易で、あとは追放と遠島という比較的軽いものであり、彼等役人による犯行であれば、当然磔獄門となったはずで、内部のものの犯行ではなかったようである。
この事件は、享保十五年四月に起きてから、長右衛門が記したように、十月に関係役人が入牢となるまで半年も経過しており、その上、刑罰申渡が翌年十二月と、決着までに一年八カ月もかかっている。その間に、処分の出たもの一八名と、構いなしのもの三七名と、合計五五名の取り調べが行なわれたにもかかわらず、どの史料にも犯人の記載がなく、結局この事件は解明には至らなかったのである。大坂城御金蔵から大金を奪われたという、この不名誉な事件の犯人さえ判明しなかったということは、幕府威信を大きく損なうものであった。
この事件が刺激となったか、このわずか十年後、元文五年(1740)五月にまたしても御金蔵破りがあった。この事件は、朝日新聞平成二十八年三月十二日付「匠の美」(大阪城天守閣館長北川央氏)によれば、盗まれたのは四千両という大金であった。再度の大事件に江戸からも目付らが大坂城に派遣され、極秘裏の調査の末、事件は解決に至った。犯人は、大番を勤めた旗本窪田伊織の中間の梶助で、主人の鑑札を貰いに行った折に本丸に忍び込み、釘で三重の扉を開け盗み出したのである。大金のため、二回に分けて四〇〇両ずつ運び出し、残りは本丸御殿の床下に隠した。犯行を自供した梶助は、市中引廻しの上磔に処せられ、主人の窪田伊織、金蔵管理の大坂金奉行など多くの役人が処分されたという。
わずか十年の間に二回もの失態であったから、この時は、幕府も十年前の轍を踏むことは許されなかった。事件発生が五月、処分言い渡しが九月と、わずかに四ヶ月という速さでの決着であった。幕府は威信をかけて事件に臨んだのである。
犯人である大番の中間を勤める梶助が、思い付きでこの大胆な犯行を行ったとは考えにくい。釘で厳重な三重の扉を開けることができたのは、それなりの熟練者であったはずで、彼は経験を積んだ盗人稼業のものであったかもしれない。十年前に金蔵破りがあり、成功しているのだ。いつか大仕事をやってのけてやろうという思いが彼の盗人魂を揺さぶるものとなっていたのではないだろうか。自分の技術があれば出来るという自信があったはずである。
中間はいわゆる武家奉公人で、百姓・町人身分から雇われるものであり、はじめから大坂城御金蔵狙いでの中間奉公であったかもしれず、彼は事前に何度か大坂城本丸に忍び込み、御金蔵の扉を下見しながら、扉を開ける方法を探りつつ、その機会を窺っていたのではないだろうか。
だが、彼の犯行は十年前のようにうまくいかなかった。幕府もこの事件を迷宮入りにすることは幕府権威の大きな失墜につながると、総力を挙げて捜査に取り組んだから、わずか四ヶ月で彼の命運は尽きたのである。
大阪城御金蔵は現在も大坂城本丸に現存する。なまこ壁がひときわ美しい建物である。扉は三重で、窓や換気口には鉄格子がはめ込まれ、床下には石を敷き詰め、漆喰で固定されている。この金蔵には、西国の幕領からの年貢や長崎貿易の収益など、幕府年収の四割もの金銀銭が収納されていた。(前掲史料「匠の美」)
莫大な金銀がうなる金蔵は、世の盗賊たちの見果てぬ夢をかき立てるものであったろう。いつの世にも、厳重であればあるだけ、それを突破して大金を手にしようという大胆不敵な輩はいたのである。だからこそ、この厳重な造りもかかわらず、江戸時代に二度も金蔵破りに遭っているのである。
享保十五年の事件の犯人は、結局大金を手にして逃げおおせた。御金蔵を管理する役人たちが大勢刑罰に処せられる中、彼は悠々とどこかでその後の人生を送ったのだ。彼は大金を獲得した喜びよりも、あの強固な造りの幕府の御金蔵を破ってやったという、盗賊としての言いようのない達成感に満たされていたに違いない。しかしながらそれは、捕縛されれば磔獄門という、とてつもなく大きな恐怖と隣り合わせであった。