2016年9月20日火曜日


大坂城御金蔵破り



 享保十五年(1730)十月二十五日条に以下の記述がある。



十月廿五日 晴

一今日御金奉行士市左衛門殿・河原七兵衛殿・蜂屋多宮殿・木村左次右衛門殿四人、御城代丹後守様へ御((召))出、直ニ御加番方四人へ壱人ツヽ御預ケ

一御金手代衆も御番所へ御召出、直ニ牢屋へ被遣候

一御金方与力衆

     弓削権三左衛門殿

     大須賀万右衛門殿

     片山清左衛門殿

     丹羽勝右衛門殿

右四人も牢屋ノ揚り屋へ御入被成候由ニ候



御金奉行は大坂定番の配下で大坂に在勤し、大坂城内の金蔵の管理・出納を掌る役職であるが、その四名が御加番預けとなり、御金方与力は旗本・御家人などが収容される揚り屋へ収監された。御金手代衆は一般人の牢屋への収監となり、この処分がどのような事件によるものかを長右衛門は記していない。その後の処分については、『大阪編年史』第八巻の享保十六年十二月二十六日条に、『徳川実記』の記載として



十一月七日(中略)大阪城の府金失せしをもってこの事査検の間、その金奉行冨士市左衛門某は大久保山城守忠胤、蜂谷多宮某は保科弾正忠正壽、河原((七))兵衛丹羽式部少輔薫氏木村佐次右衛門柳澤刑部少輔里済に召し預けられ、下吏等みな獄にこめらる。



とあり、日付は「日下村森家庄屋日記」より一年余も後になっているが、いずれも御金奉行の四名が大坂御加番にお預けになったことを記録している。その後、同史料十二月二十七日条に、「奉行所文書」の御金紛失御吟味落着御書付の写として次の記載がある。



   申渡之覚

  改易      大坂御金奉行   冨士市左衛門

  重き追放    同        蜂谷多宮

  遠島      同        木村佐次右衛門

  追放      七兵衛忰     河原八郎兵衛

  追放      同        同 七之丞

   但 十五歳迄親類え預ケ置可申候

  追放      佐次右衛門忰   木村佐吉

  追放      同        同 善八

   但 同人共ニ十五歳迄親類預ケ置可申候

  遠島      大坂御金同心   木村喜左衛門

  暇可遣候    同        南部和平次

  暇可遣候    同        行松助右衛門

  暇可遣候    同        横尾甚蔵

  暇可遣候    五藤次忰御金同心 北嶋吉之丞

  追放      雀部平太左衛門忰 久保辯左衛門

          雀部平太左衛門養父方之弟

            播州西宮ニ罷在候醫師

  所拂               太田宗健

  追放      喜左衛門忰    木村善太郎

追放      同        同 多助

   但 両人共ニ十五歳迄親類え預ケ置可申候

  遠島      冨士市左衛門若党 伊藤金八

  所拂               阿波屋権兵衛

  御金紛失之儀、去年以来令僉儀候、此上猶又遂糺明、急度御仕置可

被仰付候得共、今度日光山御宮御霊屋正遷宮正遷座相済候付テ、赦之為御沙汰、其罪を減せられ、右之通被仰付候也



 御金奉行冨士市左衛門は改易、蜂屋多宮は重き追放、木村左次右衛門

は遠島になり、河原七兵衛は牢死のため、その忰八郎兵衛と七之丞が追

放に処せられた。木村佐次右衛門と、御金同心木村喜左衛門の二人の忰

も追放となり、まだ幼いものは十五歳まで親類預けとなっている。御金

同心四名は暇が遣わされ、御金同心木村喜左衛門のみ遠島となっている。

しかも、雀部平太左衛門は牢死したものか、その忰が追放、その上養父

方の弟である播州西宮の醫師太田宗健までも所拂という、厳しい縁座に

処せられている。冨士市左衛門の若党も遠島という、連座に処せられた。

この時、日光山御宮御霊屋正遷宮があり、そのために減刑されたもので、

本来はもっと重い刑罰であったようである。その後に、与力・手代とそ

の家族、中間・下人まで三七名が列挙され、彼らは構いなしとされてい

る。その後に、「聞書」として

 

  一御金紛失

   享保十五年戌年四月、金千拾三両御蔵ニテ紛失、段々御詮義、同十七年二月済、役人不残牢舎、御金奉行四人冨士市左衛門改易、蜂屋多宮追放、木村左次右衛門遠島、((河))原七兵衛牢死、手代八人ノ内二人牢死、二人遠島、四人追放、天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権左衛門無別條出牢、只今迄ノ通リナリ、丹羽・弓削ハ牢死せられ、子息ヲ被召出ル



とあり、この事件が享保十五年四月に御金蔵から一〇一三両が紛失した事件であったことが判明する。天満金役人大須賀萬右衛門・片山清左衛門・丹羽勝左衛門・弓削権左衛門は出牢、役職もこれまで通りとなったが、丹羽・弓削は牢死し、子息が父の役職に召出されている。河原七兵衛と手代八人の内二名も牢死と、合計五名が牢内で死亡している。

この牢死の多さは、牢舎を命じられた精神的な痛手もあろうが、享保十五年十月の入牢から、翌年十二月に判決が出るまで一年二ヶ月もの長期の収監であり、牢内における生活環境の劣悪さも考えられるが、おそらく厳しい尋問や過酷な拷問があったのではないかと想像される。

処罰されたのはすべて役人である。それも最高刑が冨士市左衛門の改

易で、あとは追放と遠島という比較的軽いものであり、彼等役人による犯行であれば、当然磔獄門となったはずで、内部のものの犯行ではなかったようである。

 この事件は、享保十五年四月に起きてから、長右衛門が記したように、十月に関係役人が入牢となるまで半年も経過しており、その上、刑罰申渡が翌年十二月と、決着までに一年八カ月もかかっている。その間に、処分の出たもの一八名と、構いなしのもの三七名と、合計五五名の取り調べが行なわれたにもかかわらず、どの史料にも犯人の記載がなく、結局この事件は解明には至らなかったのである。大坂城御金蔵から大金を奪われたという、この不名誉な事件の犯人さえ判明しなかったということは、幕府威信を大きく損なうものであった。

この事件が刺激となったか、このわずか十年後、元文五年(1740)五月にまたしても御金蔵破りがあった。この事件は、朝日新聞平成二十八年三月十二日付「匠の美」(大阪城天守閣館長北川央氏)によれば、盗まれたのは四千両という大金であった。再度の大事件に江戸からも目付らが大坂城に派遣され、極秘裏の調査の末、事件は解決に至った。犯人は、大番を勤めた旗本窪田伊織の中間の梶助で、主人の鑑札を貰いに行った折に本丸に忍び込み、釘で三重の扉を開け盗み出したのである。大金のため、二回に分けて四〇〇両ずつ運び出し、残りは本丸御殿の床下に隠した。犯行を自供した梶助は、市中引廻しの上磔に処せられ、主人の窪田伊織、金蔵管理の大坂金奉行など多くの役人が処分されたという。

わずか十年の間に二回もの失態であったから、この時は、幕府も十年前の轍を踏むことは許されなかった。事件発生が五月、処分言い渡しが九月と、わずかに四ヶ月という速さでの決着であった。幕府は威信をかけて事件に臨んだのである。

犯人である大番の中間を勤める梶助が、思い付きでこの大胆な犯行を行ったとは考えにくい。釘で厳重な三重の扉を開けることができたのは、それなりの熟練者であったはずで、彼は経験を積んだ盗人稼業のものであったかもしれない。十年前に金蔵破りがあり、成功しているのだ。いつか大仕事をやってのけてやろうという思いが彼の盗人魂を揺さぶるものとなっていたのではないだろうか。自分の技術があれば出来るという自信があったはずである。

中間はいわゆる武家奉公人で、百姓・町人身分から雇われるものであり、はじめから大坂城御金蔵狙いでの中間奉公であったかもしれず、彼は事前に何度か大坂城本丸に忍び込み、御金蔵の扉を下見しながら、扉を開ける方法を探りつつ、その機会を窺っていたのではないだろうか。

だが、彼の犯行は十年前のようにうまくいかなかった。幕府もこの事件を迷宮入りにすることは幕府権威の大きな失墜につながると、総力を挙げて捜査に取り組んだから、わずか四ヶ月で彼の命運は尽きたのである。

大阪城御金蔵は現在も大坂城本丸に現存する。なまこ壁がひときわ美しい建物である。扉は三重で、窓や換気口には鉄格子がはめ込まれ、床下には石を敷き詰め、漆喰で固定されている。この金蔵には、西国の幕領からの年貢や長崎貿易の収益など、幕府年収の四割もの金銀銭が収納されていた。(前掲史料「匠の美」)

莫大な金銀がうなる金蔵は、世の盗賊たちの見果てぬ夢をかき立てるものであったろう。いつの世にも、厳重であればあるだけ、それを突破して大金を手にしようという大胆不敵な輩はいたのである。だからこそ、この厳重な造りもかかわらず、江戸時代に二度も金蔵破りに遭っているのである。

享保十五年の事件の犯人は、結局大金を手にして逃げおおせた。御金蔵を管理する役人たちが大勢刑罰に処せられる中、彼は悠々とどこかでその後の人生を送ったのだ。彼は大金を獲得した喜びよりも、あの強固な造りの幕府の御金蔵を破ってやったという、盗賊としての言いようのない達成感に満たされていたに違いない。しかしながらそれは、捕縛されれば磔獄門という、とてつもなく大きな恐怖と隣り合わせであった。




事項解説

 享保十五年から十八年の出来事の中で、興味深いものを取上げて解説した。出典を記さない史料はすべて「日下村森家庄屋日記」である。

伊勢参宮

 近世を通じて伊勢参宮は非常に盛んであった。「おかげ参り」といわれ、爆発的流行が六〇年を周期に起こり、特に明和八年(1771)には、参詣者が年間二〇〇万人に上ったといわれる。「伊勢参宮おかげの日記」によると、この時の様子は、「奈良街道暗峠に大群衆が押し寄せたため、三軒の茶屋では賄いきれず、食事も出さず、引き返すものも出るしまつ。あまりの人数におびえた茶屋は戸を下して水も出さなかった。」というほどの混雑ぶりであった。
村々では「伊勢講」があり、村人が定期的に集まってお金を出し合い、それを旅費として五・六年に一度、代表者が参詣することになっていた。これを代参といい、旅の行程と、使った路銭を詳しく書き留めて村人に報告する。普通の百姓にとって、伊勢参宮こそ一生に一度の大イベントであった。
日下村では享保十五年、日下村本郷の西に位置する布市郷から大勢の村人が伊勢参宮に出かけている。
  
享保十五年
正月廿九日
一朝飯後より作兵衛殿同船ニテ大坂へ下ル、(中略)儀大夫様へ参、布市参宮願之書付出し申候、(中略)参宮願勝手次第致参宮候様ニと被仰付候、

正月二十九日本多氏大坂蔵屋敷へ出た長右衛門は、布市郷からの参宮願を差し出す。本多氏御留主居役である松本儀大夫より、勝手次第に参宮致すようにとの仰せであった。

二月十九日 朝より曇、八ツ時と夜と雨少降
一今朝布市より参宮有之候、講衆廿五人、喜平次・半右衛門・利兵衛兄弟・武助・義兵衛兄弟・弥兵衛・惣兵衛倅兄弟、其外十四人講参り有之、講之外抜参宮十七人有之候
       惣人数
  太兵衛・又七・弥助・忠助・馬子太兵衛・善兵衛・ゆき・源七・治助・与兵衛・徳兵衛・六左衛門妹・甚兵衛・弥三右衛門・下女さん・九右衛門・下人六兵衛・大乗寺内義・左兵衛内義、娘共上下六人、半右衛門内より三人・半兵衛・文七・嘉右衛門・弥右衛門、講人共合三十八人

農閑期の二月、布市から講衆二五人、講外の抜け参り一七人が出発す
る。長右衛門は名前を記し、講人としての総人数を三八人としている。講人とは「伊勢講」に加入し、その積立金を旅費として代参する人々である。抜け参りとは、「伊勢講」に参加せず、人別送り状などの公式文書も持たないで参ることである。
村を無断で欠落(かけおち)することは支配者にとって由々しきことであったが、伊勢参りだけは大目に見られていた。参宮の大流行の折には、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣することも多く、これが「抜け参り」と呼ばれたゆえんである。
突然村を出て、着の身着のままで抜け参りに出かけた人々は、金を持たなくても困ることはなかった。お参りの人々に報謝することが自身の功徳になると信じられて、沿道で米や湯茶・食べ物・銭などの施しが行われたのである。街道筋での接待をうけるために、旅人は手に柄杓を持ち、筵を背負い、昼間は接待を受けながら、夜は筵を敷いて寺社の縁の下や橋の下に野宿する。筵と柄杓の旅姿が、無銭の旅を可能にした。布市の抜け参りはある程度の金銭を携えていたと思われるが、中には女性もいて、お互いに助け合いながらの旅であったろう。日下村だけでもこの多人数であり、この年の流行もかなりのものであったと思われる。

  二月廿二日 晴
一布市参宮人、今日宮廻り故、手前よりも赤飯遣候、吉兵衛・理兵衛・左兵衛・半右衛門・九兵衛・与左衛門・太右衛門・喜兵衛・又二郎・弥三右衛門・大乗寺与兵衛方へ遣候
 
その三日後、おかげ詣りに出かけたものが伊勢に到着し、神宮にお参りするとのことで、長右衛門は参宮人の十一軒の家へ赤飯を贈っている。留主の村人にとっても、お伊勢さんへの参詣は村の中でもお祝するべき重要な神事であった。伊勢には日下村から三日の行程であった。普通大坂からは片道五日といわれているので、かなりの早さである。
   
二月廿三日 晴
一布市左兵衛、妻・娘、致参宮候ニ付、酒振舞申度よし申越候故、暮合より作兵衛同道ニテ参候、与次兵衛、元竹等も請伴ニテ夕飯之上、夜半前迄語申候、茂兵衛も参候

布市左兵衛が妻・娘とともに参宮するとのことで、長右衛門に酒を振
舞っている。村人も集まっているようで、参宮の前にも村人へ振舞をす
ることが慣習となっていた。

  二月廿六日 
一布市参宮人致下向候、八日目也

二十六日に参宮人が帰ってきた。長右衛門は八日目としるしているが、実際は七日目である。参宮のあと伊勢の宿で一日遊んだとして、往復で六日ということになる。

二月廿八日
一池嶋十兵衛殿より友右衛門無尽ノかけ銀もたせ越被申候、六万寺林右衛門かけ銀も壱所ニ参候、十六日無尽相勤申候節ハ、参宮被致延引ニ成候よしニテ候

二月二八日、六万寺村林右衛門が十六日の無尽を勤めるために、伊勢参宮を延引するとのこと。この時、布市ばかりでなく、六万寺村でも参宮するものがいたということで、この年の参宮は流行していたものと思われる。

三月四日
一昼柄布市ニあやつり有之候、参宮之足休メ也

三月四日には参宮の足休めとして布市であやつりがある。足休めとは旅のあとで行われる慰労会である。享保十八年四月、長右衛門の子息新助はじめ、村人が数人で吉野へ旅した時も、帰って九日目に会所で足休めが行われている。料理や酒も出て、皆で楽しむのである。
あやつりとは人形浄瑠璃のことである。浄瑠璃語りの竹本義太夫が貞享元年(1684)、大坂道頓堀竹本座を開設して義太夫節浄瑠璃の基礎を築いた。義太夫は作者の近松門左衛門と提携し、時代物「国姓爺合戦」や、実際に起きた事件を題材とした世話物「曾根崎心中」などを上演し大繁昌していた。
この人形浄瑠璃の流行は河内村落にも波及し、享保十三年(1728)九月十六日の善根寺村の豪農足立家での神事の折、大坂町人の河内屋太郎左衛門が三味線弾きを召連れ、浄瑠璃を語っている。大坂の裕福な旦那衆が義太夫節を習うことが流行っていて、人々が集まる場所で語り聞かせることが大きな楽しみになっていたのである。
当然、村落を廻る人形浄瑠璃一座のようなものもあったはずで、布市では彼等を呼び寄せて演じさせたのである。 そうした芸能者を招くにはかなりの経費も掛かったと思われるが、布市の人々にとって、参宮を無事終えたことは、たとえ高額であっても、当世はやりの「あやつり」を楽しんで祝うべきことであったのである。

        

   筵を背負い、柄杓を持って米・銭の報謝を受ける
   石川英輔『大江戸庶民いろいろ事情』

2016年5月12日木曜日


信楽御役所見学

好天に恵まれた426日、日下古文書研究会では、河内の村方文書にもよく登場する「信楽御役所」の陣屋跡の見学に行きました。

 信楽御役所は多羅尾家居館であり、代官所として機能しました。現在は滋賀県甲賀市信楽町多羅尾の田畑と小川に囲まれた小高い丘にありました。今は建物はすべてなくなっており、石垣と蔵が遺されているだけです。 

敷地は南北にのび、陣屋建物や庭園のあった上段曲輪と蔵屋敷の下段曲輪に分かれており、その中ほどに東から入る正面入り口が設けられています。古い写真によって茅葺の主屋に格式の高い瓦葺の玄関を備えた建物であったことが分かります。

 代々代官として近江・畿内の天領代官を勤めた多羅尾氏は、13世紀から近衛家の信楽荘の荘官として活躍し、在地領主として力を蓄え、戦国期には甲賀武士の中でも有力な国人としての地位を築きました。

天正10年の「本能寺の変」に際し、当時の当主多羅尾光俊が手勢を率いて、堺から三河へ脱出する徳川家康の「神君伊賀超え」を助け、道中警護に尽力します。その功により旗本に取り立てられ、信楽代官に任じられます。以後、明治まで多羅尾家は世襲代官として多羅尾に陣屋を置き、近江・河内・伊勢・大和の天領を治めたのです。
明治頃の写真
入口

屋敷跡
御役所からの風景




2016年2月13日土曜日




今米村の川中家文書から村の出来事-1-

行倒れもの一件

近世の村方文書を読むと、この地に生きた先人たちの生きざまが直接に伝わってきます。こういう人々が、こうした暮らしをしていたのだと、まさに確かにあった営みの重さというものが胸に迫ります。

私どもが今解読しています、河内国河内郡今米村の庄屋である川中家に伝わる文書から、興味深いものを紹介しましょう。

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嘉永四年(1851)の二月十日、今でいえば三月ですが、まだまだ寒さ厳しい頃。村を見廻っていた番人が、今米村の東に位置する川中新田の堤に、男一人が倒れているのを発見します。よく見ると、病気のようでそれもかなり重い様子です。

早速川中新田の支配人へ知せに走ります。村人数人で屋敷へ運び入れ、薬や食べ物を与えて介抱します。しかしながら、回復することなく、翌日十一日に相果ててしまいます。よほど衰弱していたようです。早速この時の領主代官である信楽御役所へ御届しなければなりません。

その時の文書によると、この男は五・六年前から、この堤周辺に住みついていたもののようです。年は三十ばかりでしょうか。着ていたのは袖無しの帷子一枚、持参していた雑物は、箸一膳と茶碗一個です。二月の寒空に、袖無しの麻の帷子一枚という軽装で、家々を廻って物乞いをしていたのでしょう。箸一膳、茶碗一個が全財産という、あまりにも哀れな境遇。まだ若い彼がなぜこのような悲惨な状況に陥ったのか、それは誰にも分りません。

 このような行倒れ人は他にも記録があります。それはこの件より遡ること五十二年、寛政十一年(1799)のこと。吉田村の庄屋が川中新田の支配人へ宛てた文書にこうありました。

 「九月九日に川中新田と、吉田村の村境に、病気の行倒れ者があったが、当村より立会い、確認したところ、当村の領内に間違いないことが分かったので、念のために一札入れます。」

 この文書が物語るのは、こういう事件がよくあって、その行倒れ者の倒れていた場所がどの村かということが大きな問題であったということです。倒れていた場所の村がその行倒れものの世話をし、亡くなった場合は、領主にその旨を御届しなければなりません。村としては経費も懸り、大変迷惑なことでありました。そこで、村境で行倒れ者を見つけると、隣村領内へ場所を移し、面倒を逃れるような場合もあったのです。特に川岸に流れ着いた水死人は、棒で突いて川の流れの真ん中へ押出し、隣村へ流れるようにすることもあったのです。

そこで幕府から村々への御触書には、「行倒れ者を見つけたら、その所を替えずに御届するように」とあります。行倒れものの場所を移すということが、いかに頻繁に行われていたかということがわかります。

そのことから考えると、この吉田村の文書は、行倒れものの倒れていた場所が、吉田村と川中新田の領境であったから、村争いにならないように、この一札を入れたのです。

近世の村では食い詰めた人、物乞いしか生きる手段のない人々が多くいたのです。その最後は哀れなもので、行倒れた場所の村人もそれによって迷惑を蒙ることもあったのだと、そういう現実がこうした文書からわかってきます。


今米の川中家











2016年1月4日月曜日

東大阪市で初めての史料館開館! 平成29年4月の予定!

 東大阪都市清掃施設組合の新工場建設に係る還元対策として、南側の水走公園にコミュニテイーゾーンを創設し、その核となる施設として、水走史料館(仮称)が開館します。
 1 階は史料館として、地域に遺された歴史資料、古文書類を展示する、市内でも初めての施設となります。

2 階には会議室を設け、展示に関する講演会、地域のサークル活動、公園と連携してのイベントの開催など、多目的な利用が可能です。

外観は江戸時代風の古民家や蔵をイメージしたデザインで、公園の緑と調和して、市民の憩いの場となります。
 場所は、中央大通り近鉄けいはんな線吉田駅より北東に約1.2 キロ、水走公園の北側です。

東大阪の新しい文化発信地として、皆様の期待に応えていくものとなるでしょう。

史料館イメージ図

◆古文書を募集しています!
 新しい史料館で展示するための歴史的資料や古文書類を募集します。市内で古い史料や古文書類をお持ちの方は、お申し出ください。日下古文書研究会で調査整理し、史料館で展示させていただきます。

お問合わせは下記へ
 日下古文書研究会 浜田昭子 
  電 話・Fax:072-987-2996
  携 帯:090-8237-8875
  メール:kusakacom-ak18@apple.zaq.jp