享保十四年度『日下村森家庄屋日記』解説
一 薬草御用一件
吉宗の博物学奨励
八代将軍吉宗は医学・薬学・植物学などの実学を庇護し奨励した。享保初頭から薬草調査のため、丹羽正伯・野呂元丈・阿部将翁・植村政勝らを全国に派遣して採薬させた。享保五年(1720)駒場御薬園を開き、翌六年には小石川御薬園を拡張し、わが国にないものは種苗を輸入させ、中国人やオランダ人の知識を導入し、多種の薬草の栽植に努めさせた。さらに輸入に頼っていた人参の栽培を始め、国産の普及と奨励と同時に、『東医宝鑑』『和剤局方』『普救類方』などの医薬文献を刊行させ、医療発展に尽くした。これ以後本草学が盛んとなり、各藩でも薬草園の創設が相次ぐこととなる。
薬草巡見
植村佐平次政勝は紀州から吉宗に従って奥御庭方となり、享保五年に「駒場御薬園預り」となった。それ以後吉宗の命により三四年間にわたって全国薬草調査を実施する。享保十四年三月十八日に江戸を立ち大和へ採集巡見に入った。最初の巡見に関する触書は『福壽堂年録』享保十四年三月九日条にある。
植村佐平次薬草御用ニ付、大和一国致廻村候、右国境え入組候所々伊賀・伊勢・紀伊・山城・河内之内へも罷越候、但御料・私領之内江入交り候社領・寺領之分最寄之御代官所ゟ相通可申候
大和への廻村については伊賀・伊勢・紀伊・山城・河内五ヶ国の国境への巡見もあるというだけで、詳しい日程などは一切不明であった。同年三月二十七日、年貢皆済勘定のために蔵屋敷に出た長右衛門は役人から次のように申し渡される。
一公儀ゟ薬草掘ニ大和へ御役人衆御廻り被成候、河内も隣国故、万一境目ニ而ハ河内領へも御越被成候儀も可有之候間、追付書付相廻し可申候間、村々申合入用道具共相持置可申旨被仰付候
薬草掘の役人が大和へお廻りになるので、河内も隣国であり境目村々にも御廻りあるかも知れずということで、河内郡山根(生駒山西麓)にあたる本多氏河内所領村々は入用道具などの準備を申し付けられた。
そして同年四月三日、日下村に蔵屋敷からの廻状が届いているが、これについて長右衛門は『森家日記』に記しておらず、村方文書『長右衛門記録』にも収録されていないので内容は不明であるが、用意道具などの具体的な指示が出されたものと思われる。これ以後河内村々の四ヶ月にわたる騒動が始まることとなる。
薬草巡見への対応―組合結成
巡見一行は大和から生駒山か高安山に調査が入る可能性が最も高く、山麓村々はその情報収集と準備に奔走する。この時、生駒山西麓は本多氏領分、高安山西麓は淀藩領分が大部分を占め、さらに南の石川郡には佐倉藩領分があり、その間に旗本領が入組んでいた。淀藩、佐倉藩などは藩領としてまとまり、生駒山西麓では本多氏領分を中心に連合組合を結成することになる。
四月十日、薬草巡見への対応のために郡切に組合を結成することの了解を蔵屋敷から得る。同月十四日、北条村へ本多氏領北辺八ヶ村の庄屋が寄合い、最寄村で組合を結成する。この日の参加人員は寝屋村四郎兵衛・高宮村安右衛門・日下村長右衛門・芝村七左衛門・植付村与兵衛・額田村太兵衛・出雲井村新七・池嶋村十右衛門の八名であった。相談の内容は、入用道具十人前を南都で調え、和州へ万事聞き合わせに行くことと、巡見があった際に同行する薬草見習いと空掘の人数などの協議であった。大和へ聞き合わせの内容は次のようなものであった。
和刕へ参候者聞合可申事
一薬草見習之者五人之義、河内国ハ深山茂無之候得ハ、御料・私領共道ほと二三里之間ハ不替様ニ可仕候哉
一小鍬・靏のはし弐色ニ而十人前ニ而能候哉
一空堀之者九人之外ハ入不申候哉、若キ達者成者覚書も仕候得ハ能御座候哉
一薬草かこの事
一文箱之事
一指札之事
右三色は如何様成か能候哉
一青ほそ引、薬草かこをりうきう包ニ仕候をゆひ申事ニ候や、御文はこも包ミて結申事ニ候や、ほそ引何間ほと入申事ニ候や
一りうきう八枚ほとニ而よく候や
一左平次様之外誰様ニ而も御添り被遊候や、御人数ハ何ほとニ而候や、御宿ハ何軒ニ而よく御さ候や、御料理之義いか様成事ニ御さ候や
右之品々和刕へ承合ニ人遣候筈
享保十四年九月に出された採薬の公命には
一薬草籠弐つ 但細引りうきう包差札状箱
一うすべり三拾枚 一むしろ百枚 一とま同
一薬草見習之者 五人 一其所之道筋案内之者一人足
用意道具の詳細と、他に「御用の外に馳走がましき儀一切無用のこと、代官所にては手代壱人、私領方にても役人壱人付添諸事御用可相弁」とある。蔵屋敷から廻状された内容はそれよりも品が多くなっているが、村方ではその詳細について疑問が多く、その解明のために大和榛原へ聞き合わせに行くことになったのである。
早速同月十六日、日下村年寄治助が村人友七を連れて大和へ立つ。十九日には豊浦村の道場へ、横小路村から善根寺村までの河内郡山根村々の寄合がある。この寄合は本多氏組合だけでなく、河内郡の南端高安郡に隣接する横小路村から河内郡北端の善根寺村までの河内郡の寄合であった。生駒山中の讃良郡竜間・上田原・下田原三ヶ村が本多氏組合に加入を申し出、この時点で支配領分を超えた連合となる。
この日は委細の相談はなく、とかく河内郡のうち何れの村へ巡見があったとしても、組合村で経費負担することを協議確認する。大和から帰った治助が、生駒山から奈良街道を下り、街道沿いの豊浦村の寄合に出て、大和で得た情報を報告し、一同納得する。三日後の二十二日、治助は蔵屋敷へ報告に出る。蔵屋敷も独自の情報ルートもなく、在地からの情報だけが頼りであった。
薬草御用一行への挨拶
四月はじめ、薬草御用一行が吉野へ入り、さらに吉野川沿いに南の山奥へ分け入ったので、情報連絡は吉野川が南東へ迂回する接点である大和下市村を拠点とし、下市村庄屋岡谷喜右衛門方に、吉野滞在中の薬草御用一行の情報がもたらされ、そこから情報を待ち受ける河内国各地へ発信された。河内国では高安山西麓の恩知村長右衛門が下市村との連絡を受け持ち、河内国の組合へ情報を発信している。恩知村の大東長右衛門は淀藩領高安郡一三ヶ村の大庄屋であった。
この時本多氏領分を中心とした河内山根地域の組合は南北で惣代を立て、北方の惣代は植付村与兵衛と日下村長右衛門、南方惣代は国分村庄屋伊右衛門であった。
四月二十一日、本多氏の南辺の国分村の三庄屋から吉野の薬草御用一行への挨拶の指示がある。
一国分村東野伊右衛門・松村半兵衛・畑庄右衛門連名ニ而、暮合ニ飛脚被差越候、其趣如左
一此度植村左平次様、薬草御用ニ御廻村被成候ニ付、其村爰元ハ和刕境ニ而候故、若御越被成候儀ニ可有之間両村申合聞合等いたし、薬草御用之儀無間違相はからひ候へと御屋敷ニて被仰候、就夫稲葉丹後守様御領分高安郡恩知村、松平左近将監様御領分山田村庄屋中も遠方へ御窺ニ被参、其外ノ御大名様方ノ御下ゟも彼是被参候由、此方様はかり御窺ニ不被参候義如何敷御座候間、一両日中ニ和刕罷越可申間、御両人之内御壱人此方へ向、御出可被成よし被申越候
河内国最南の大名領が大和の薬草御用一行へ挨拶に上がっているとのことで、本多氏領としても早急に大和へ罷越すべきとの指示であった。稲葉丹波守領分淀藩は恩知村を中心とした高安郡村々(現八尾市)であり、松平左近将監領分佐倉藩は山田村を中心とした石川郡村々(現羽曳野市太子町・富田林市河南町)であり、その他、河内郡山根地域には、大和郡山藩・藤堂藩・小田原藩・狭山藩の領分があった。そうした他領村が大和の御用一行へ挨拶に出ているということで、これは大和に近い河内南辺大名領分の動向をつかむことのできる位置にいた国分村から蔵屋敷へ提言し、「薬草御用之儀無間違相はからひ候へ」との蔵屋敷の意を奉じての指示であった。
この後、国分村庄屋伊右衛門は蔵屋敷役人に登用されている。この年十一月十八日、免定渡しの日に、国分村庄屋である東野伊右衛門が蔵屋敷役人に任命され、国分村に在村し御用の節に蔵屋敷へ詰めることが二〇ヶ村庄屋へ言い渡される。明けて享保十五年正月六日の蔵屋敷での年頭礼の際、東野伊右衛門は本多氏役人七名と共に上座に座して二〇ヶ村庄屋の挨拶を受けている。
薬草御用の一件以後、国分村の迅速な情報収集と蔵屋敷への提言という的確な処置が高く評価され、国分村伊右衛門の蔵屋敷役人任命につながったと思われる。国分村は村高一三〇〇石と本多氏河内所領で最大の石高を持ち、三人の庄屋が立っていたが、伊右衛門の持高が最も多く村内で指導的立場にいた。
大坂に在住する蔵屋敷役人は遠く離れた河内の情勢はつかみがたく、迅速な在地情報の把握が必須であり、特に河内所領の最南端の村である国分村は位置的にも他大名領と隣接し、情報収集に好都合であったから、蔵屋敷の情報窓口的役割を担ったものと思われる。
組合惣代、吉野奥郷へ
国分村の指示通り、早速植付村与兵衛と国分村半七が二十四日から御用一行への挨拶のため大和へ入り、吉野川をさらに奥へ遡った入の波(現奈良県吉野郡川上村)という難所で御用一行に追いつく。彼らの記録した道筋は次のようなものであった。
酉四月廿四日
一国分村ヲ過、 関屋
一新庄 国分ゟ道法三里
一御所 新庄ゟ壱里
此所ニ一宿 ぬしや九郎兵衛方ニ泊
一戸毛村 御所ゟ一里 俗ニトウゲと云
一川井
一今木村 戸毛ゟ一里
一車坂 鷹取城東ニ見ユ 峯ゟ右下市 左上市・吉野山向ニ
当ル、白矢カ嶽辰巳ニ当ル
車坂ヲ登りに発句
うしの跡に付クやつつしの車坂 四ル
一天皇 車坂ヲ下りテ
一桧飼本
一土田村 此所ゟ吉野川ヲ右ニ付ル
一越部 川向ニミゆるハ六田
一まし口 よしの等前向ニ見ル
一上市 川向ヒ飯貝、今木ゟ上市へ弐り半、上市ヲ過宮滝とて岩おもしろき気色、岩のはざまにもずへばし有
一なつみ
一佛がミね 上り下り五十町
坂半ゟ伊勢ノ高見山ミゆる 仏か峯ヲ下り、左ニしらくら山右ニもかやかたけ・あさミかたけ
一谷ニ下り音無川
一西河村 上ミ十五りハ流上ニアリ 下モ十五りハ水下ニあり
一せいめいか瀧 戌亥ニ向、廿五間ほと落、五葉の松あり、天皇御添歩の委細縁記ニ有
一大瀧の里 上市ゟ三里
此所滝上理右衛門ニ一宿
此所吉野川中に滝有、川向よろいかたけ、此大瀧の内ニたちや村助と申者ニ義経殿の太刀有之よし
発句 入の波の遠キヲあがミて
大滝やかうろきずねもかゆたなき 四ル
一寺尾
一茶元 大滝ゟ三十町よしの川左ニ付ル、源氏山南ニ当ル
此源氏山の松ハ切候而も株より二度めを出し候よし
一さこ
清見原天皇のつゝみ石・太鼓石有之よし、さこを過、白矢村川向イ、此所ニ高サ百八十間ノ石ノ塔有、上ニ五葉の松有之よし
一人知
一井戸
一なめ木 此所ヲ過、川ヲ越
一白川
一和田村 大滝ゟ四里 此所林六郎兵衛方ニ而昼飯、是ゟ案内ヲ頼、入の波江立
此所ニ和田の岩屋奥へ百三十間、菊の岩屋・不働ノ岩屋・せうてんの岩屋有、シヤツカハラ百りカケト云、弐ケ所の難所、岩ヲつたひ、足のかけともなく、下ハ数丈の谷ニして、水みなきり身ノ毛も立はかりの難所也、岩ヲトラヘはい上ル所五町計と覚候
一舞場 和田の岩屋百三十間奥へ入ル、松明三挺ともし五人共入申候
一入ノ波 和田ゟ弐里 此所ニ一宿 此所ニ薬師ノ湯有、湯治ス
険しい山旅にもかかわらず、きちんとした道中記の形式で狂歌を挟みながら、道筋の歴史的伝承まで詳しく記録している。河内から南へ国分村を過ぎて、葛城山麓を南へとり、新庄から東の御所に出て、吉野上市より三里の大瀧の里で一宿する。翌日は吉野川添いに東南の川上に向かって進み、和田村で昼食、その後は岩をつたい、足の懸け所もなく下は数丈の谷、身の毛もよだつという難所を越えて吉野川の源流に近い入ノ波に着く。(日下村から入ノ波への道程地図参照)
此所ニ四月廿六日夜植村左平次様、御泊り被成候、此所吉野川筋人家ノ奥ノ端ニ而、是ゟ奥ハ御小屋懸り申候、廿七日ニハ此所ゟ三里奥ニ小屋御懸ケ、夫へ御越被成候、此所ニ而和田村庄屋十兵衛ニ逢事ノ様子相尋、幸田善太夫様御手代藤井勝右衛門殿へ、御目見へ申委細相尋候
ここで二十六日に植村佐平次が宿泊し、二十七日にはさらに三里も奥にはいった人家もない山奥で小屋掛けをしてそちらへ行かれたという。随行していた和田村庄屋と、大和代官幸田善太夫の手代、藤井勝右衛門にお目見えし、挨拶のあとこの後の行動を尋ねている。薬草御用一行が吉野の人家もない山奥に小屋掛けまでして調査を行っていることに、この時の植村佐平次の職務への意気込みが窺える。幕府直属の御用一行には代官手代が随行し、巡見村ではその待遇に気の張るものであった。河内百姓にとってもそれは同じで、足の置き場もないという断崖絶壁の難所を越えてまで挨拶に行くのである。
この時大和巡見に随行していたのは大和代官幸田善太夫の手代藤井勝右衛門の他に、案内人として下市村庄屋岡谷喜右衛門・畠山栄長・井上孫左衛門・中谷籐左衛門・森野藤助(賽郭)の五名の薬草見習いであった。
岡谷喜右衛門が恩知村庄屋大東長右衛門の問い合わせに答え、吉野郡北山郷古瀬村より出した五月十七日付の書状が大東家に遺されている。
大東家文書(Mー27)岡谷喜右衛門書簡(大東家所蔵・掲載許可済)
(封)河州高安郡恩知村 大東長右衛門様 岡屋喜右衛門 御報
従吉野郡北山郷古瀬村ゟ
五月十日御状十四日ニ吉野郡北山郷西野村天ヶ瀬と申所ニ相達致拝見候、如仰先日者宇多郡ニ而得御意、大悦奉存候、愈御堅固ニ被成御座珍重奉存候、私無事ニ御用相勤申候
一植村左平次殿、吉野郡川上郷ゟ直ニ北山郷へ御移り可被成申候処ニ下市辺ニ御薬薗場所御見立可被成由ニ而、俄ニ川上郷ゟ下市へ当月上旬御出被成、近村御見分之上、下市ニ宜場所御座と被仰付候、六月中ニ者大方普請之催可有御座候、下市ゟ吉野郡黒滝郷へ差越、当月十二日ニ山上へ登り竹林寺ニ一宿仕、夫ゟ小笹通七ツ池と申所ゟ北山郷天ヶ瀬へ十三日ニ罷越申候、是ゟ北山郷順々見分之上、奥熊野紀州境ゟ吉野郡十津川郷へ移り順々致見分、十二村郷・舟川郷・天川郷等見分之上、又々下市へ罷出、御薬薗へ植附ケ申分仕廻いたし、夫より和州国中辺隣国境之御見分と被存候、如此之訳ニ御座候へバ、下市迄奥郷ヲ仕廻出候事、六月共七月共難計御座候、重テ下市辺へ御移り之時分忰方より成共御手前様方へ為御知申様ニ可仕候、此方より御一左右申迄ハゆる〳〵と御思召可被成候、尚期後音之時候、恐惶謹言
岡屋喜右衛門
五月十七日 義由(花押)
大東長右衛門様
御報
追啓申入候、藤井勝右衛門殿へ御傳書相返し申候、私ゟ宜御心得御礼申入候様ニ被申付申候、且又此間勝右衛門殿腹中悪少々不快ニ御座候故、南都 御役所へ御手代中代り申、参申候、定而三四日之内ニ手代衆御出可被成候、勝右衛門殿快気被成候ハヽ、御勤可被成候、
長引申候ハヽ、勤り申間敷候、是迄首尾能御勤ニ而御座候 以上
恩知村長右衛門の書状を吉野北山郷西野村天ヶ瀬で受け取った岡谷喜右衛門が御用一行に随行し、薬草見習いとして勤めていることが記されている。御用一行は吉野川源流の川上郷からさらに西南に下った北山郷へ廻り、にわかに北西の下市で薬草園の土地を見分し、黒滝郷から北山郷天ヶ瀬に戻り、さらに奥熊野から十津川郷まで廻っている。大和中央部から現三重県境へ、さらに南の現和歌山県境まで巡見している。山々の連なる難所でありいかに過酷な行程であったかに驚かされる。
十津川郷から北へ天川郷見分の上、再び下市に戻り薬草園に植付する分の薬草を確保し、それから大和隣国境へ見分の予定としている。下市郷を出るのは、「六月か七月か計り難く」とあり、知らせを待つようにと言っている。追而書には代官手代藤井勝右衛門が腹痛で南都より交代の手代が来る手はずになっているとある。険しい山中での野草採集には体力も消耗したであろう。
文中の薬園の設置については、森野藤助の記録した「賽郭日記」によると、下市願行寺に薬草を仮植えし、七月六日から下市村の平原において薬園普請に従事した。完成ののち薬草木を植付栽培して薬園を完成している。その後薬草見習いとして随行したものは御家人に取り立てられ、岡谷喜右衛門・畠山栄長は江戸に出仕した。森野藤助はその後も薬草御用に随行し、享保二十年(1735)「カタクリ」の製造を命じられ、以後毎年幕府にカタクリを納め、家業とした。さらに拝領した貴重な薬草種を屋敷裏山で栽培した。
組合で準備万端整える
五月二十三日、日下村東道場へ寝屋村より池島村迄の本多氏領庄屋中が寄合い、用意道具等の相談をする。さらに五月二九日には豊浦村道場で河内郡山根の村々が寄合う。
七月五日、植村佐平次一行が吉野奥郷をしまい、下市へ帰還との知らせが恩知村長右衛門より来る。早速下市へ聞合せに行くように、国分村庄屋へ手紙で依頼し、十日には植付与兵衛が国分村へ相談に行く。
七月十一日、植付道場にて郡の寄合がある。本多氏組合には、河内郡の四条・出雲井・豊浦・額田・神並・芝・植付・日下・善根寺の九ヶ村に竜間・上田原・下田原・三ヶ村が加わり、合計十二ヶ村組合となる。入用負担は村単位で一ヶ村より銀一五匁ツヽ先集めし、南都で入用道具、大坂で薬草籠などを誂えることなどを決議する。
日下村では御廻りの節の村絵図を用意し、隣村芝村・善根寺村の立会いの上で山中の境目に塚を築き、芝村より四条村迄の山の鎌留めを触れる。採薬に同行する薬草見習い五人を選出し、実際に山へ登らせ、境目、字名などの口合わせをする。森家には大坂の料理屋が御用一行御廻りの際の料理献立の相談に来て、準備に抜かりはない状況であった。
七月十三日 本多氏領分日下村より北、中宮村迄の村が北条村へ寄合う。讃良郡北条・中野・南野・野崎・寺川・中垣内の各村も加入を申し出て、支配や郡を越えた十八ヶ村組合となる。本多氏組合は最終的に本多氏の南辺村々である、国分・舟橋・誉田・古市を加えて合計二十二ヶ村組合となる。
長右衛門が生駒山東麓の俵口村へ薬草御用への準備を尋ねると、何の用意もないという返事。この大騒ぎの河内に比べ、のんびりした生駒山里の村の様子が対照的である。領主によって対応に大きな違いが見られる。
見分なしの報告
七月二十日に岡谷喜右衛門から手紙が届く。
一暮方国分ゟ岡谷喜右衛門手紙植付迠参候、此状之趣
口上
今廿日石見川御泊之筈、又御用之義御座候而、明廿一日ニ相延申候、左様ニ御心得可被遊候、御聞憑候和州河州境御見分之上南都へ御出、東ノ山より御見分之上長谷越ニ、伊賀路、阿保越ニ御戻被成筈ニ御座候、右申入度如斯御座候、以上
七月廿日 岡谷喜右衛門
松村吉左衛門様
八木清右衛門様
御用一行は錦織郡石見川村へ入られるのが二十一日に延びたとのこと、その後河州境目見分の上南都へ廻り、東の山を見分の上長谷越に伊賀路から阿保越に戻られるはずとのことであった。早速作兵衛と与兵衛が石見川へ聞き合わせに行く手はずであったが、さらに恩知村長右衛門よりの情報では、
金剛山ゟ当麻へ御出、龍田法隆寺ゟ南都へ御出、夫ゟ山通り御見分ニ而長谷へ御出被成候とも承候段申越候
金剛山から当麻、龍田法隆寺より南都へ、山通り見分の上長谷という道順で、様々な情報が入り乱れている。
翌二十一日、薬草御用一行が下市を出立し、狭山藩領分河州錦織郡石見川村に到着。吉野下市から真西へ、金剛山の南端の村である。いよいよ御用一行が河内国に入られたということで、河内村々では緊張が高まる。日下村相庄屋の作兵衛が石見川へ聞き合せに出立する。翌二十二日には芝村又右衛門より南辺からの情報として手紙が来る。
植村左平次様昨晩石見川御泊、今晩ハ観心寺か千早ニ御泊、明廿三日金剛山へ御登、夫ゟ和州長柄村へ御泊り、二上か嶽・当麻・生駒御見分ニ而南都へ御越被成候由、南辺ゟ承申候故、知らせ申との手紙ニ而候
金剛山に登った後は長柄村で一宿、二上山・当麻・生駒見分にて南都へ廻るとのこと、情報が複雑に錯綜している。本多氏北辺村寝屋村四郎兵衛と交野郡寺村より、御用一行の予定を知らせてくれるように手紙が来る。北辺村々では南方村よりの情報を待ちかねている様子。
翌二十三日には石見川村へ情報集めに行っていた作兵衛と与兵衛が持ち帰った情報を組中へ廻状する。
廿一日石見川村御泊、廿二日東坂御泊、廿三日和州名柄村御泊、廿四日当麻御泊り、其次ハ不相知候旨知らせ申候、
先の情報とは異なり、最終的な行き先は不明であった。翌二十四日、恩知長右衛門より、岡谷喜右衛門から飛脚で知らせてきた内容として、当麻でのお泊りではなく、龍田にお泊りのあと南都へ出、長谷迄ノ山々見分の後伊賀路へ向かい、御帰りとのことで、河内への見分はない模様とのこと。
国分よりの情報では、龍田で一宿のあと南都へ廻り、「尼上山・信貴山・生駒山へハ御出不被成候よし」とのこと、いよいよ河内は見分なしの様子である。長右衛門は早速南北組中へ「右之通ニ御座候得ハ此辺ハのかれ申候間、左様ニ御心得可被成候」と、生駒山へは御廻りない模様であるが、現地へ確認するまで待つように、と南北二通にして廻状する。
これまでのはりつめた空気が解けほっと安堵の気持ちが河内村々に流れたが、二十三日に帰ったばかりの日下村作兵衛、植付村与兵衛に籠人足を添えた五人が龍田辺に滞在中の一行へ情報を確かめに行く念の入れようである。幕府役人への対応に手落ちは許されないのである。翌二十五日作兵衛が帰り、王寺村から大安寺へ廻り、この辺はお廻りなしとの確証を持って帰る。
早速南北組合村へその旨廻状する。「此辺ハ逃れ申候」という文言に人々の安堵の気持ちがうかがえる。長右衛門はそのあとにこの一件の顛末を記す。
植村左平次様薬草御用ニ御通り被成候覚
一四月上旬ゟ和刕宇田郡山々御廻り被成、夫ゟ吉野郷段々紀刕境迠御廻り被成、七月五日ニ下市へ御出、七月廿日迠下市御薬薗植付等被成、七月廿一日下市御出立、河刕錦部郡石見川村御泊、同廿二日河刕石川郡東坂村御泊、同廿三日金剛山へ御登り、金剛山御昼食ニ而和刕葛上郡名柄村御泊、同廿四日当麻村御昼食ニ而和刕葛下郡王寺村御泊、同廿五日和刕法隆寺御昼食ニ而和刕(原文あき)永井村御泊り
その後、村では山の鎌留めを解除し、二十六日には蔵屋敷へ顛末を報告し、薬草御用一件がすべて終了となった。蔵屋敷ではお留守居役の吉田助左衛門はじめ数人の本多氏役人が植村左平次一行へのご挨拶のために国分村へ向かうところであったが、お廻りなしの情報をもって人を遣わし、出立を止めさせる。
この日、八百屋与三右衛門とさかい屋三郎兵衛の料理屋二人が薬草御用御廻りなしのお祝いに来る。河内村々は三月末からの四ヶ月をこの問題に振り回された格好であったから、緊張から解放されてまさにお祝いの気分であったろう。
四ヶ月の徒労
この一件の大騒ぎの原因は何といっても、幕府の事業でありながら、巡村予定の詳細を公表していなかったことが大きい。この年五月に『五畿内志』編纂のための並河五市郎の廻村があったが、この時の触書は大坂町奉行所・蔵屋敷・郡代と三カ所から通達があった。だがこの植村佐平次巡見の触書は郡代や大坂町奉行所からは廻状されていない。
蔵屋敷から「河内へ御廻りあるかも知れず、準備を心得るように」と、用意道具の廻状が出されているのみである。勿論本多氏の藩主は幕府の奏者番を勤めており、幕府派遣の植村佐平次巡村の情報は知りえる地位にあり、それは大坂蔵屋敷へも伝達されたはずであるが、その日程や行動の詳細は知らされていなかったと思われる。
将軍直属の「奥御庭方」出身であり、「駒場薬園預り」の植村佐平次の御用見分となれば、現地の最高の指揮官が随行する必要があり、迎える代官・領主の緊張も特別なものがあったに違いない。特に幕府直属の役人が領内山野を探索するとなると、各地域でも少なからず危機感をもったはずである。
植村佐平次の薬草見分記録には「隠密御用」「内々御用」という記述が十ヵ所見られ、各地の水害のあとの状況などの情報を集めていたことからも、領主にとっても戦々恐々のものがあったと思われる。この領主の動揺はそのまま村々へも伝わり、それぞれに情報収集に躍起となり、大騒ぎとなるのも当然のことであった。
河内国村々では七月に入ってからの動きは益々緊迫し、いつ来られても準備万端抜かりないという状況であったが、一転して見分なしとなったのである。本多氏役人でさえ、薬草御用一行の本多氏領見分にそなえて挨拶と随行のため蔵屋敷を出立するばかりであったが、村方からの知らせで急きょ取りやめる有様であった。
大和での巡見では、これに随行した森野藤助が、その後幕府から薬草六種を拝領して、自ら採取した薬草とともに、現在の大宇陀町にある自宅の背後の台地の畑に栽培し、薬園を作ったが、それ以後、唐種を中心とした貴重な薬用植物の栽培が行われた。藤助に始まって森野家は代々薬草の研究と薬園の整備に努めたため、現在でも、数少ない民間の薬草園として続いている。
後世にもこうした成果を挙げた大和に比べ、河内は本多氏を中心とした組合連合だけで、入用銀高四三九匁五分三厘を費やし、二二ヶ村の四ヶ月にわたる奔走が徒労に終わっただけであった。
組合結成と運営
この四ヶ月間、郡中組合を結成し、惣代を立て、下市から吉野の山奥へ分け入り、情報収集と準備に明け暮れたのは各村の庄屋たちであった。情報発信基地となった下市村へは各郡惣代からの問い合わせが殺到し、岡谷喜右衛門は自らも一行に随行し、情報伝達に超多忙の日々であったろう。それを受けた恩知村長右衛門がさらに北河内の連合組合に情報を伝えたが、彼は淀藩領一三ヶ村の惣代としてその取りまとめにも奔走したわけで、いずれの庄屋衆にとってもこの時の多忙は想像に余りある。
この時本多氏組合に参加したのは最終的には二二ヶ村であった。その領主ごとの内訳は次の通りであった。
本多氏領―河内郡日下・芝・神並・植付・額田・出雲井(以上現東大阪市)・国分(現柏原市)・舟橋(現藤井寺市)・誉田・古市(現羽曳野市)・讃良郡北条(現大東市)、以上一一ヶ村
旗本領―四条(彦坂氏領)、豊浦(小林氏領)中野(久貝氏領)・南野(三好氏領)、以上四ヶ村
他大名領―讃良郡野崎・寺川・中垣内・龍間(以上四ヶ村郡山藩、現大東市)・上田原・下田原(藤堂藩、現四条畷市)、以上六ヶ村
幕府領―善根寺
他領村が半分を占めていたが、本多氏領の組合結成に際して、周辺村が参加を申し出たわけで、本多氏領村が主導した。他領から参加した小さな旗本村々も単独でこの大事に対処することは困難であり、近辺の組合に加入するしか方法はなかったのである。検見巡見などで、領主役人を迎えるのには慣れていた村々も、将軍直属の幕府役人を迎えることは初めてであり、その不安と緊張は想像を絶するものがある。組合結成に向かった村の思いはそこのところで一つであった。組合結成間もない四月十九日に、
たとひ河内郡之内ハ、何レ之村壱ヶ村へ御出被成、外ヘハ御廻り無之候テも、組合之内ハ万端一所ニ懸り申筈也
河内郡のうち何れの村へ巡見があったとしても、組合村で負担対処することを申し合わせているが、そのことが最も大きな懸案であった。
この薬草御用一件では河内国で淀藩領分、佐倉藩領分なども独自に組合を結成したと思われる。その他の村は、郡で結合し惣代を出している。長右衛門は北辺の郡惣代を手紙で聞き合わせて記録しているが、讃良郡惣代は寺川村小川十兵衛、交野郡惣代は岡山村長尾茂兵衛と私部村年寄孫右衛門が勤めた。しかしこの名前については九月になって名違いとのことで、寝屋村庄屋から、岡山村庄屋飯田茂兵衛、私部村年寄北田孫右衛門と訂正してきている。
私部村と隣接する私市村は日下村と同じ本多氏領であったが、この本多氏領組合に加わらず郡の結合に参加した。
淀藩・佐倉藩、そして本多氏領分はそれぞれ領主原理に従ったが、交野郡は延享四年(一七四七)から文化八年(一八一一)の間の出願を見ても、旗本の相給村としてその領主的結合、神社の宮座としての結合、地域的結合の三種の村落結合を持ち、国訴の折にはそれを超えた郡中寄合を成立させていた。交野郡・讃良郡ではこの享保の時代にも領主原理よりも、それ以前に成立していた郡結合を選択する方が自然であったのである。
そして本多氏組合は北の讃良郡から南は古市郡までの三〇㌔に及ぶ地域であった。その運営はそれぞれの地区で惣代を立て、情報が発信された。大和下市村からの情報は南方惣代国分村に入り、そこから北方惣代日下村へ発信され、日下村から南北村々へ発信した。
本多氏領分を分断する形の高安郡淀藩の大庄屋大東家が独自に下市からの情報を受けており、そこからも国分村と日下村に発信され、より確実な情報が組合村々へ発信された。日下村庄屋長右衛門はこの組合に加入していなかった本多氏の北辺村々寝屋村や寺村へも情報を流している。つまり、日下村は組合村に限らず、交野郡・讃良郡といった北河内村々の情報発信基地ともなっていたのである。
四月の入ノ波への御用一行への挨拶に始まり、五月から七月にかけて頻繁に寄合を持ち、情報収集のため、日下村庄屋作兵衛・植付村庄屋与兵衛が幾度も大和へ出かけ、確実な情報集めに必死であった。長右衛門は惣代として後方事務につき、組合村への情報発信に努めた。村では水番が佳境に入る時期、それでなくとも多忙を極めるこの時期の大仕事であった。
終盤に差し掛かった七月下旬、いよいよ近日中の見分に向けて村々の準備万端整い、大坂の料理屋が御用一行の食事献立の相談にきて緊張も高まる中、一転お廻りなしの情報が入ったのである。
ほっとした空気が流れる中、しかしそれでも安心できず、二十三日に大和から帰ったばかりの日下村作兵衛と植付村与兵衛に籠人足を添えた五人が、疲れも厭わず龍田辺まで急行して最終的なお廻りなしの確証を得たのである。四月から御用一行の行動に振り回された緊迫の日々であったから、村々の安堵は想像にあまりある。
薬草御用に対する村落の対応はどこでも緊張を強いられるものであったが、貧しい山中の村では、御用役人の宿泊にも、諸道具にもこと欠くありさまであった。植村佐平次は享保十三年四月に四国に入ったが、徳島県那賀町木頭出原の旧家近藤家の古文書には
右申上ル通難所第一御駕籠通不申候、御宿之儀各別其外畳・薄縁等所持仕者一人も無御座候、其上諸役人大勢御入込被成候而ハ道夫共之宿無御座候、尤燭諸道具等難相調御座候
「駕籠の通行もままならぬ難所であり、宿といっても畳や薄縁を持つ家は一人もなく、諸役人大勢でお越しなされても、道普請をしなければならず、その道人足の泊る宿もなく、燭や諸道具を調えることもできない。」と実情を訴えている。険しい阿波山中の村での、普段から満足に畳や燈火もない厳しい暮らしの中で、幕府役人を迎えることがいかに困難なものであったかが垣間見られる。御用一行を迎える村々は、どこでもこのようなかつてない動揺の中にいたのである。
組合入用割賦
八月末には組合村が植付道場へ寄合、薬草諸入用の割賦をする。
八月廿八日 晴
一今日薬草諸入用組中寄合致割賦候故、朝飯後作兵衛同道ニ而植付道場へ参候
組合村之覚
中ノ村 南ノ村 北条 野崎 寺川 中垣内 龍間
上田原 下田原 善根寺 日下 芝 神並 植付
額田 豊浦 出雲井 四条 国分 舟橋 誉田
古市 合弐拾弐ケ村
村高合壱万三千五拾五石六斗五升四合
山高合百六拾六石壱斗八合
但山銀ハ壱石四十目かへニ米ニ直ス
入用銀高四百三拾□匁五分三厘
内
五匁 水桶壱荷払候代引
弐匁 薬草籠壱荷払候代引
弐拾五匁 道具代并損料三ツ割ノ壱分
交野郡へ掛ルニ引
三拾匁 八百屋与三右衛門へ遣候銀、是ハ河内郡九ケ村、上田原・下田原・龍間十弐ケ村かゝり故引
拾匁 豊浦道場寄合両度ノ茶代、右同断
十二ケ村懸り
残三百六拾七匁五分三厘
百廿弐匁五分壱厘 村割掛り
三割 百廿弐匁五分壱厘 高掛り
百廿弐匁五分壱厘 山高掛り
外ニ
十弐ケ村分 追村割懸り 三匁三分弐厘ツヽ
日下村懸り 廿壱匁壱分三厘
日下村取かへ 七拾壱匁
村高に山高を加え、山銀は米に換算して加えている。入用によって負担村を分け、買入れた道具の損料まで考慮し、さらに村割、村高、山高と、三種の掛け方で公平を期している。この緻密な計算で村々から不満が出ないように考慮された入用の割賦方法は、それまでの村落結合で幾多の経験を重ねてきたからこそ可能であった。
この地域では徳庵組四二ヶ村という河内国の半分以上を占める水利組合で、四二ヶ村もの村々が共同で行う水利普請の割賦を公平に分担してきた経験がある。命に直結する水の問題だけに緊迫したやり取りがあったはずで、そこで全員が納得する割賦方法が練られていた。
河内においては領主性原理では十分対応できない問題には、地域性原理によって自由な村落結合が可能であった。本多氏二〇ヶ村支配組合の郷割では経費の村負担は高割と村割であったが、地域性原理の村連合では高割・村割の他に家割によって負担の均衡化をはかっていた。家割は百姓個人が受益者となるという意味を持ち、地域の暮らしの中から生まれてくる共通問題への対処という役割が明確になっている。
今回の薬草御用組合でも村高と山高に山銀を加え、掛け方も三種に分け、公平な受益者負担という誰もが納得する割賦となっている。村田路人氏が、「村連合での郡中議定は地域社会に共通する課題を、広範囲の村々が共同することで解決しょうとするもので、その手続きは民主的で村々の意思が平等に反映されるシステムであり、入用も全体で負担し、それが村連合における強制力となっていた。」とする構図がここにある。
複合的な結合が互いに関連しあって河内の地域社会は成り立っていたのであり、それによって複雑で多様な問題への対処が可能となっていた。それが今回の将軍直属の役人巡見というこれまでにない緊迫した問題にもいち早く組合結成に持ち込み、その経費負担についてもすでに経験済みであった合理的な方法がとられたのである。
河内の村連合システム
八月末の組合での総費用の清算で、入用高四三九匁五分三厘のうち、日下村掛り二一匁一分三厘であった。そのうち、日下村取替分が七一匁あり、差し引き返却分の方が多かった。日下村の惣代としての役割の大きさを示している。
だが村の負担として金額的にはたいしたものではなかった。村々にとって初めて迎える幕府役人への対応が、いかに緊張を強いられたものであったか、幕府権力への服従しかない時代、それぞれの村の庄屋にとっても精神的な負担の方が大きい事件であった。それが組合結成への大きなエネルギーとなったといえる。
とりわけ徳庵組四二ヶ村という大和川付替え運動を主導した水利組合を擁していた河内では、こうした連合のあり方はすでに水利をめぐる幾多の訴願闘争で経験済であり、惣代への権限委任によって、広範囲の村々の意思が結集するシステムはすでに築かれていた。これがもっと大きな問題であれば他の大名領や郡とも結集したはずで、より大きな郡中組合の可能性はこの時にすでに存在し、そのエネルギーは醸成されていたといえる。
河内の庄屋たちが、水利という農業経営にとって命ともいえる問題とともに、こうした将軍直属の役人巡見というこれまでに経験したことのない案件についても、村々の結束によって立ち向かい、根気よく協議を重ね、解決に導いてきた幾多の経験が、成熟した地域社会の実現に結びついた。享保時代に培われた村連合システムの智恵と経験が生かされ、地域の暮らしに直結する問題の議定制定の場として郡中寄合が成立し、それは惣代制という合法的形態につながり、国訴という高度な経済闘争を実現することとなった。
註
1 上田三平『日本薬園史の研究』図版第二六 植村佐平次採薬日記 昭和五年 岩波書店
2 『福壽堂年録』柳沢文庫蔵
3 『日本財政経済史料巻三』経済之部三薬園蕃殖方523p
4 前掲1 182p
5 松島博『近世伊勢における本草学者の研究』昭和49年講談社
6 「近世国家の薬草政策」『歴史学研究639号 1992・11『植村佐平次政勝書留』(国立国会図書館蔵)
7 薮田貫『国訴と百姓一揆の研究』歴史科学叢書 1992
8 『阿波学会研究発表紀要16号』 阿波学会 1970
9 前掲7
10 村田路人『日本史講座』6巻「近世社会論」3近世諸権力の位相
河内郡山根村々
生駒西麓
沼田藩本多氏領分=北条・日下・芝・植付・額田・出雲井・切川・池島
高安西麓
淀藩稲葉氏領分=楽音寺・神立・大竹・水越・千塚・大窪・山畑・服部川・郡川・黒谷・教興寺・垣内・恩知
河内国南辺
沼田藩本多氏領分=国分・舟橋・誉田・西浦・古市
佐倉藩松平氏領分=山田・春日・一須賀・山城・寛弘寺・森屋・川野辺
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