2012年3月26日月曜日

勝次郎の疱瘡

 勝二郎の疱瘡
          

1 勝二郎疱瘡に罹る

享保十三(1728)年四月、時の八代将軍吉宗の日光社参が行われた。東照神君家康の忌日に当る十七日、日光東照宮では日下村領主本多豊前守が祭礼奉行となり、最も重要な祭礼儀式が行われていた。ちょうどその日、日下村の厳戒態勢の総指揮をとっていた庄屋長右衛門のもとに、大坂から飛脚が駆け込んでくる。勝二郎疱瘡発病の知らせである。       
勝二郎とは、大坂の商家へ養子に入っていた長右衛門の長男真蔵である。商人らしく勝二郎と改名している。養子先野里屋四郎左衛門家は近世初頭から質屋年寄を勤め、大坂三郷南組((1))年寄((2))を勤める名家であった。長右衛門はこうした大坂の有力商人と広い交際があり、それはひとえに彼の財力によるものであった。  
長右衛門家の農業経営の実態を示す確かな史料があるわけではない。しかし宝永元年(1704)の大和川の付け替え以来、河内地方で盛んに栽培された木綿・菜種などの収益率の高い換金作物が、かなりの農民剰余を生み出していたことは想像に難くない。享保改革による年貢増徴政策もこの段階では私領であった日下村には及んでいない。長右衛門家の衣食住のみならず、書物・園芸・旅行などの娯楽や、常に大勢の文人・町人が長期に逗留する生活全般から見ても、かなり裕福であったことが見て取れる。
長男真蔵はこの時一六才、頼山陽と並び称される河内が誇る漢詩人「生駒山人」こそ、彼の後の姿である。
長男疱瘡の知らせは長右衛門家を震撼させる。疱瘡は当時人々を恐怖に陥れた流行病であり、長右衛門家の下女がこの年の二月に疱瘡を発病し、わずか六日で亡くなっている。その死亡率は寛政七年(1795)の米沢藩の記録によると約三割に上る。飛脚の手紙には長右衛門自身に来るようにとの指示があり、それは当時の疱瘡に罹患することの重大さを物語っている。

四月十八日 晴陰有
一朝飯過より元昭、野里屋へ頼み遣し候、勝次郎疱瘡の内看病いたし呉られ候様にたのみ遣候、
一玄喜今日勝二郎疱瘡見廻に参り、夜に入り帰り候、ことのほか大切に相見へ申し候よし語り申候

日光社参での警戒で、庄屋は他出を禁じられ、長右衛門は大坂へ見舞にも行けず、使用人や村の医者玄喜を行かせ、野里屋と親しい商人の元昭に看病を頼んでいる。野里屋でも勝二郎を手厚く看病しているが、長右衛門の心配は尽きない。

2 長右衛門、勝二郎見舞に下る 

四月廿日陰晴有 夜明前より四ツ時迄東風強吹
一今日杢兵衛だけにて田村清蔵殿方迄、勝次郎疱瘡見舞に打帰りに参りたく候間、御役人衆へ御窺い下され候様に手紙遣し候ところ、打帰りに見廻申す様に仰付られ候
四月廿一日晴陰有暮合に雨はら降止
一早朝より杢兵衛召連れ、吉右衛門舟にて日帰りに勝二郎疱瘡見廻に大坂へ下る、角堂に関これあり候故、舟乗り替え、寝屋川を行き、五ツ時に弥兵衛町へ着く、酒なと給候て野里屋へ見廻、宇兵衛、扇屋三郎右衛門なとヽ語り候て八ツ過迄野里屋に居申候、勝二郎疱瘡も昨日までに残らず出揃い、今日より水盛に趣候、七ツ頭にさかい屋へ帰り、平兵衛なとヽ酒給、暮方より舟にて帰り候、夜四ツ時帰宿いたし、それより会所へ出、終夜居申候

ついに日下村領主本多氏の大坂蔵屋敷役人田村清蔵へ勝二郎の疱瘡見舞を願い出る。日帰りで許された長右衛門は翌早朝より大坂へ下る。途中角堂(住道)で関所が出来ており、日下村の船頭吉右衛門の舟を乗り換えている。日光社参での警戒でこうした関所が要所に出来ていたのだろう。
八軒家で舟を下り、早速、内本町橋詰町の野里屋へ勝二郎を見舞う。勝二郎は一時的に熱が下がり発疹が水疱となっていた。

3 疱瘡の歴史

ここで『日本疾病史』によって疱瘡について記しておこう。天然痘はわが国には天平年間に初めて流行し、「()(がさ)と称し、江戸期には「痘瘡」「疱瘡」と呼ばれた。最初高熱が四、五日続き、熱が下がると発疹が顔に始まり、腕・胴・脚に広がる。赤い斑点が水疱となり、二日ほどして水疱の中が膿になると再び高熱が出る。八日目くらいから発疹がくぼんでかさぶたとなる。熱が下がり、三、四週間するとかさぶたが落ちあばたを残す。回復後の容貌の変化も人々にとって脅威となり、症状がひどく盲目になると((3))((4))といった盲目芸人になるしかなかった。幼君の疱瘡死による主家断絶が家臣を浪人に追いやるという悲劇もあり、疱瘡は多くの人の運命を不幸に陥れた。
古来より疱瘡の流行は度重なり、正徳元年(1711)の大流行では江戸・名古屋・京・大坂と、都市部で何千という死者を出した。恐怖のあまり、九州の大村藩などでは病者を山野の小屋に放置し、一定の看病人しか接触させなかった。それが結果として患者の隔離となり、流行を見なかった。それは古代以来、海の向こうから疫病が上陸する最前線の地域であったからこそ、この疫病の流行性をいち早く見抜く術を知っていたのだともいえる。
疱瘡のその激烈で奇異な病態から鬼神の仕業とされ、各地に疱瘡神や疱瘡地蔵が祀られ、修験者による神事など民間信仰が唯一の救いであった。牛の肉、角や尿までが特効薬とされ、衣類や夜具のみならず、疱瘡神の社も疱瘡除けの御幣も赤色にし、疱瘡を退治したと信じられていた鎮西八郎為朝を描いた赤い疱瘡絵が護符として流行した。
流行が度重なることから江戸時代には専門の痘科が独立してこの疾患に取り組み、香月牛山の『小児必用養育草』や、橘南渓の『痘瘡水鏡録』などの医学書が著わされた。
古くから知られていた免疫性を利用して、寛政元年(1789)には緒方春朔が鼻乾苗法という人痘種痘に成功する。これは痘痂を粉にして鼻から吸引させるもので、ジェンナーの牛痘種痘に先立つこと六年であった。
文化八年(1811)橋本伯寿は『国字断毒論』で疱瘡の接触伝染性を定義づけ、人々はようやくこの病から逃れる術を獲得した。天保十二年(1841)に種痘がわが国に伝えられると、幕府は安政五年(1858)、江戸に種痘所を設置している。大坂で緒方洪庵が「除痘館」を開いたのはそれに先立つ嘉永二年(1849)のことである。
畿内において疱瘡の伝染性さえ知られていなかった享保の時代には、まだ疱瘡患者を隔離するという観念はなく、勝二郎は野里屋で手厚い看護を受けている。長右衛門が見舞った時、勝二郎は発病四日目の第一段階で、この発疹の出るころの死亡が多く予断を許さない。長右衛門は心引かれながらもさかい屋という常宿へ帰り酒を飲む。このあたり、かなりの酒好きだった長右衛門の真骨頂が出ていて面白い。何度も「禁酒」の誓いを立てるが止められない長右衛門である。とんぼ返りで午後十時に帰った彼はすぐに会所に出て、日光社参の警戒の陣頭指揮に当たっている。

4 長右衛門多忙

四月廿二日 晴七ツ時より陰
一今朝飯会所にて給候、庄屋年寄比日相詰居り申候て今朝切にて仕廻にて候故、この内村中何事もこれなき祝ひに一汁二菜にて朝飯給候、茂兵衛、杢兵衛拵え申候
一木寺池泥汲より少々昨日より樋洩り致し候故、今日留め申候
  一勝次郎疱瘡見廻に丹次郎・梅寄老・木積政之介・豊浦久なと手前へ見廻申され候
一今晩玄喜大坂より帰り、勝二郎疱瘡によき事共多くこれあり、食も進み申候間、大方別条もこれあるまじくと存じられ候よし、申来り候

日光社参の一大イベントも終わり、会所で村人と無事祝いのささやかな食事を済ませ、ようやく自宅で寝ることが出来た。玄喜が勝二郎の病状好転の知らせを持って帰り、一安心。連日長右衛門家へは近隣村々の見舞客が来訪。長右衛門の近郷での人望の高さが窺われる。溜池の樋洩れの修理の指示も出し、庄屋としての勤めと、長男の病状とでかなり心労であったであろうが、淡々とした記述である。
 
四月廿四日 晴陰有
  一早朝より杢兵衛召連れ歩行にて大坂へ行く、鴻池万左衛門方の請判証文印形取揃え、直に蔵屋敷へ銭持参り候、
一野里屋勝次郎今日ハ熱強く、惣躰不出来に候故、今晩ハ野里屋に泊り、杢兵衛は米手形持たせ今晩在所へ戻し候
 
二十四日勝二郎は発疹が出てから四日目、第二段階の高熱が出る。最も危険な段階である。長右衛門は払米((5))銀納に蔵屋敷へ出、そのまま野里屋で勝二郎の看病に泊り込む小走の杢兵衛に米手形((6))を持って帰らせる配慮も忘れない。 

四月廿五日 晴陰有
  一昼九ツ時迄野里屋に居り、勝二郎も今朝熱は過半さめ申候、玄喜も今朝在所より見廻、今晩逗留し候、註蔵も京より昨夜舟にて下り候よしにて野里屋へ又見廻申候
  一昼九ツより在所へ帰り、玄喜送り参り候駕籠にて帰る

翌日も長右衛門は野里屋で勝二郎に付き添う。玄喜や長右衛門の妻佳世の兄である善根寺の足立家の当主註蔵も上京の帰り道、見舞に駆けつける。勝二郎は少し熱が下がる。長右衛門は勝二郎の看病で疲れ果てたのか、玄喜の乗ってきた駕籠で日下へ帰る。

5 勝二郎の様態好転    

四月廿六日 晴陰有
  一今日七兵衛を勝二郎様子尋ねに遣候ところ、昨夜より人参弐分引け申し候、今朝は熱も快くさめ申候 
   四月廿七日 晴陰有
  一今日道意、勝二郎見廻に駕籠にて大坂へ下り候
  一今朝、見冝老、勝二郎疱瘡見申され候て、もはや気遣いこれなく候よし申され候よし、

翌日勝二郎の様態は好転し、与えていた高麗人参も少なくなる。この時代、治療薬として人参が最高のもので、一匁(三・七五㌘)で約一両(八万円前後)という高価なものであった。翌日には長右衛門の父道意が大坂へ駕籠で下る。この時道意は六九歳、よほど孫が心配だったのであろう。発病より十日目、このあと勝二郎の発疹が乾き「かせ(かさぶた)」となるのを待つだけとなる。大坂の医者、見冝老によるともはや気遣いない、とのこと、長右衛門もようやく肩の荷が下りる。

四月廿八日 晴八ツ過暫陰雷少鳴
  一今日杢兵衛召連れ、作兵衛同道にて殿様日光供奉(ぐぶ)御勤成られ、御機嫌よく、御帰着成られ候御悦びに蔵屋敷へ参り候、新庄村より稲田・左専道へ向い、中濱村ノ南はずれへ出、玉造へ出、舟通り申さず候故歩行
  一いせ屋へ着、御蔵屋敷へ御悦びに出る
四月廿九日 晴
  一さかい屋にて朝飯後、野里屋へ見舞、それより元之助も疱瘡致し候故、見舞申候、

四月二十七日、蔵屋敷より日光社参供奉を終えた領主本多豊前守正矩の無事帰還の廻状が廻る。翌日早速に長右衛門は蔵屋敷へ御喜び言上に上がる。この時舟が通らず、新庄から稲田・中濱・玉造と歩行で行く。勝二郎を見舞い、長右衛門の親戚である紙問屋帯屋の子息元之助も疱瘡とのことで見舞う。大坂でも疱瘡が流行のきざしを見せていた。

6 勝二郎、(ささ)()にかかる

五月二日 晴入梅八専ノ入 昼柄密陰黄昏雨少降
一勝次郎今日疱瘡の壱番湯かかり申候   
五月三日 濃陰溽暑、夜に入雨降
  一野里屋勝二郎昨日酒湯かかり申候故、其祝儀に内より今日赤飯新八に持たせ遣候

五月二日勝二郎は回復に向かい、疱瘡の一番湯にかかる。これは(ささ)()といわれ疱瘡に罹ってから二週間後くらいに行われる民間療法である。『日本疾病史』によると、米のとぎ汁に少量の酒と薬草を入れた湯を病人にかけ、後それを浸した手拭で体を拭くというもの。膿をもった発疹の痛みと猛烈な痒みを和らげるためでもあろうが、危機を脱した祝儀として疱瘡に不可欠の行事となっていた。
酒湯は将軍家・大名家では盛大な儀式となる。幕府は宝永、正徳年間から、疱瘡・麻疹治癒者の江戸城登城に七五日間の禁止期間を義務づけている。災禍を忌避する観点からと思われるが、それでも将軍家の多くの子女が流行病の罹患を免れることはなかった。
この年三月、一  六才の吉宗の世子、後の九代将軍家重が疱瘡に罹患し、その酒湯の儀には、諸大名から膨大な進物が献上された。勝二郎の養父野里屋四郎左衛門はこの年三月末から、大坂南組惣年寄として吉宗の世子、大納言家重の疱瘡御快然祝儀のために江戸に下っていた。東海道の名所見物も兼ね、帰るのは七月初めである。
勿論こうした酒湯の風習が適切な治療であったとは言い難く、五代将軍綱吉は六四才で麻疹に罹り、酒湯にかかった翌日に急逝している。

7 大坂でも疱瘡流行
     
五月四日 朝四ツ時終日終夜雨降大雨
一天王寺弥三郎疱瘡之様に相見へ申し候由にて玄喜に参りくれ候えと今日飛脚参り候よしにて候
五月六日 終日終夜雨降
  一勝次郎今日三番湯かかり申し候(中略)元之助も一昨日より疱瘡かせに趣候よし
   五月八日 晴
一野里屋より勝二郎三番湯迄かかり申し候祝儀に赤飯持ち、人差し越し候、                    
一玄喜今日天王寺へ泊かけに見廻候、弥三郎疱瘡、張り弱く候よしにて今日ハ人参七分入れ申し候よしに候、今晩より大坂籠屋町日比自秀療治也、疱瘡医者也
 
この後四日に二番湯、六日に三番湯とかかり、そのつど長右衛門家から祝いとして赤飯を持たせ、野里屋からも赤飯が届く。
勝二郎の回復の後、大坂商人の疱瘡の記事が続く。日下村の医者玄喜も大坂へ呼ばれていく。天王寺屋弥三郎は大坂籠屋町の日比自秀という疱瘡医者にかかっている。大坂などの都市部には痘科専門医がいたが、享保のこの時代では香月牛山の著書あたりを参考にした民間療法が唯一の治療法であったろう。 
いずれも高麗人参を用い、発疹の張りが弱いと量を増やしている。発疹が出きらず内攻することが最も危険であった。

8 村落共同体の相互扶助

五月十一日 陰
  一朝飯早く給、額田寿松方へ寄る、天王寺弥三郎疱瘡之様子尋ね申候、寿松ハ天王寺に弥三郎看病に附居成られ候
五月十二日 終日終夜細雨降
  一八兵衛方より大坂へ酒取に参候者にさかい屋平兵衛方迄勝二郎気色相尋ね候処、いよいよ気分よく候よし平兵衛申越候、帯屋元之助も昨日二番湯かけ申候よし、又兵衛より申し越候、加納村又兵衛子疱瘡出兼候間、玄喜に承候得ハ、註蔵方にうに(・・)かう(・・)持御座候よし何とそ弐分か是非ならば壱分かもらひくれ候へと加納甚右衛門を以手前へ申越候、

長右衛門が額田の寿松を見舞うと、大坂で疱瘡に罹患した親戚、天王寺屋弥三郎に付き添っていて留守である。こうした行為が流行を拡大させた。しかし義理を欠くということが最も嫌われた時代、親類、村人同士の交際の濃厚さは現在の比ではない。血縁、地縁に繋がるものの相互扶助、それはこの時代に生きるものにとって不可欠の要素であった。
甲斐(山梨)や下野(栃木)では疱瘡に罹ると「疱瘡祭」と称して患者の家に村人が集まり、患者の枕辺を贈物で飾り立てて飲食し、賑やかに祭りさざめく。隣人の苦しみを分かち合い、災禍を追い払おうと人々は真剣であったが、この村落共同体の結束の強さが、最も避けたい病をも共有させることになった。
近郷の大坂へ出るものに野里屋への様子伺いを頼んでいる。それによると勝二郎は気分良好となり、帯屋元之助も危機を脱して酒湯にかかっている。加納村でも患者が出て発疹が内攻し、善根寺の足立註蔵がもっている「うにかう」を少しでも分けてもらえないか、と加納村庄屋を通じて頼み込んでいる。「うにかう」は「ウニコール」といい、一角という歯鯨の牙から製した毒消しで、疱瘡の特効薬とされていた。
長右衛門や作兵衛、註蔵などの豪農、庄屋は常備薬を保管している。この年六月に薬行商人才賀屋忠右衛門が日下村を訪れた際、長右衛門、作兵衛が買い入れた薬は谷神丸・蜀綿子・返魂丹・婦人速効散などかなりの量にのぼる。自宅のみならず、会所にも常備し、それは村人の病気に対処するための、村の医療保健対策であった。
 長右衛門は常に懐中に高麗人参を持参し、村人の病気を聞きつけるとそれを分け与えている。庄屋としての役目はこうした村人の健康管理にも及ぶものであった。

9 勝二郎の母佳世、大坂へ
  
この時期勝二郎の母親の行動は日記に一切出てこない。長右衛門の妻佳世は日下村の隣村善根寺村の豪農足立家の娘であった。母親としての心痛も並たいていではなかったと想像されるが、長右衛門は記録しない。彼女はこの後勝二郎が回復してから初めて大坂へお礼に出かける。

五月十九日 終日曇折々雨はら候 
一未明よりかよ大坂へ参候、勝次郎疱瘡無事仕上げ申候故、見舞ながらに参り候、乗物にて参候、新八・七兵衛・伊左衛門三人懸り、挟箱壱荷杢兵衛持、下女弐人、はる・しも、外に源次郎相添遣候
  一野里屋へかよ初めて参候故、三本入扇子内へ遣候、おとらへ人形、つまへ晒半疋、助三郎へ半紙弐束、下女三人へもめん壱端ツヽ、勝二郎草履取下男へもめん壱端ツヽ(後略)
  一小橋屋へもかよ初めて立寄候故、三本入扇子、お豊へ紙三束
一帯屋へもかよ初めて立寄候故扇子、元之助へ人形、元之助うばへもめん壱端遣候、右三軒へ参候、未明より出、薄暮に帰候

勝二郎全快の数日後、佳世が未明に大坂へ立つ。三人駕籠で、杢兵衛が((7))持ち、下女二人と下男も添え、総勢七人懸りである。野里屋で家族や大勢の使用人にそれぞれのお礼の品物を贈っている。そしてこれが長男勝二郎の養子先野里屋への彼女の初めての訪問なのだ。長右衛門は庄屋としての勤めで度々大坂へ出かけるが、佳世を同行したことはない。親戚の小橋屋や帯屋へも礼に寄る。ここにも勿論初めての訪問である。

10 勝二郎全快

五月廿一日 晴陰有七ツ時より夜へ向雨降
  一七兵衛今日勝二郎見舞に遣候、(へち)()の汁たせ遣候 疱瘡之絲爪汁ヲ付、うミ押出し候、
 
勝二郎にへちまの汁を届けさせる。「膿を押し出し」、とあり、発疹の治りかけに、膿が出て猛烈な痛みと痒みがあり、それを和らげる効果があったのだろう。
  
六月三日 晴 
一喜八方ノ善太郎疱瘡にて今日相果申候て水屋ノ北堤にて火葬いたし候
 
六月に入り、日下村の喜八の息子が疱瘡で死亡する。墓地の焼場ではなく、日下墓場から少し西に下った日下川の堤での火葬である。疱瘡という怖れられた流行病での死亡がこうした処置になった。勝二郎のように手厚い看病で回復するものもいる中、抵抗力のない幼児はなす術もなく果てていった。疱瘡死亡者の約七割は乳幼児である。
これ以後勝二郎の疱瘡の記事はなくなり、かわりに長右衛門が麻疹にかかり、さかんに寒気と瘧に見舞われる。この頃は中年になってから麻疹にかかる人も多かったのである。

七月三日 朝陰次第に晴、八専に入                  
  一日中前に勝次郎参り候、乗物にて挟箱持、小童召連れ参り候、疱瘡仕上げ初て参り候、六月晦日七十五日の忌明にて候、

回復後七五日が疱瘡の忌明けとされていた。勝二郎はその期間も過ぎた七月三日に日下村を訪れ、本復祝いをする。長右衛門は肴を買い込んで迎える。これで勝二郎は疱瘡の試練をめでたく乗り越え、長右衛門家は平穏を取り戻す。

八月八日 陰折々小雨降
  一勝次郎大切に成り疱瘡別条なく仕上候悦に今昼餅致し、家内祝い申候、元昭老・妙清・いさも手前へ呼寄せ、餅振舞候、廻り者共へもちとらせ候

さらに一ヶ月過ぎた八月八日には餅を搗き、方々へ配っている。地方によっては疱瘡餅と称し、疱瘡神に供えることも行われた。   
「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」といわれた江戸時代、こうした流行病への罹患は「お(やく)」と呼ばれて多くの人が一度は経験する避けがたい災禍であった。それを無事平癒するということがいかに喜ばしいことであったかがわかる。

11 おわりに

種痘によって人々が疱瘡の脅威から逃れるにはまだ一〇〇年余りの時が必要であった。勝二郎の疱瘡は神に願い、迷信に頼るしかなかった享保のころの人々の必死な思いを伝える。疱瘡に罹った隣人のその苦しみを共有することこそ、当時の共同体社会の人としてのとるべき行動であった。その行為がまたより流行を拡大させたという悲運な事情もあった。しかし村人の健康管理を意識し、薬を融通し合い、人々を災禍から救おうとしたのも、またその村落共同体の相互扶助であった。
多くの人がなす術もなく倒れていく中で、丹念な史料の収集と地道な研究によってその伝染性の解明にたどり着いた優れた医者たちもいた。今日撲滅されたといわれる天然痘に、人類が立ち向かった一つの姿を垣間見ることが出来る。
そして勝二郎の母佳世の行動を通じて、この時代の女性というものの役割、置かれた境遇を知ることが出来る。佳世はこの時三五才、一九才から五男三女を生み、うち一男三女を早世させている。日記に佳世が登場するのはお産と病気の時だけで、女性の日常は男性の目には記録に値するものではなかった。
佳世の野里屋への初めての訪問という記述は少なからず我々を驚かす。長男を養子に出す、という一家の重大事に対して、彼女がどのように関ったか知るよしもないが、少なくとも養子先を見ることもなくその決定に従ったことだけは確かである。
長右衛門家の庭は名庭園として大坂三郷にも知られていたらしく、蔵屋敷役人や、商人の妻子が野崎観音参詣の帰りに訪問されることがあった。大坂三郷の裕福な家の女性はかなり自由に物見遊山に出かけていたらしい。しかし長右衛門の妻佳世が村を出るのは日記に見る限りこれが初めてである。長右衛門は日下村の庄屋として大坂へは度々出かけ、周辺の寺社参詣へも頻繁に出かけているが、佳世を同行したことはない。近郷に鳴り響く豪農として、長右衛門家には常に多くの来訪者があり、家を守るべき主婦としての佳世は簡単に家を空けるわけにはいかなったのだろう。
発言力、行動力もなく、現代の女性からは考えられない閉鎖性の中にいて、それに疑問を持つこともない人生だったと想像される。重労働に満ちた家事と育児のかたわら、大勢の使用人を使った農業経営、庄屋としての多忙な責務、村の有力者としての広範囲な交際など長右衛門の生活のすべてを支えたのである。
佳世は五五才まで生きたが、江戸時代の平均寿命は『江戸の農民生活史』によると美濃国(岐阜)西条村の統計で三九才とされる。その短い人生を男性に従属し、大勢の子を産み、逆縁の悲しみに耐えつつ、村を出ることもなく家を支えることだけが女性に求められたことであった。
女性が一個の人間としての覚醒に至るのは明治以後のこと。さらに自立を果たし自分の人生を生きるために家の外へ出始めたのは戦後のことであり、それはごく最近のことである。現代女性の自由な境遇も、こうした佳世たちの長い歴史の上に勝ち取ったものなのだということに改めて気づかされる。

大坂三郷南組(おおさかさんごうみなみぐみ):大坂の都市組織の単位で北組・南組・天満組に分かれていた。
惣年寄(そうどしより):大坂町奉行の下で町の行政に携わる町役人、近世初頭からの由緒を持つ家が世襲で任に当る。
座頭(ざとう):琴や三味線を弾く芸能や按摩や鍼などを業とする法体の盲人
瞽女(ごぜ):三味線の弾き語りで門付けをする盲目の女性芸能者
払米(はらいまい):年貢米を蔵屋敷で入札し売払うこと 日下村で入札し、村買いにすることも多かった
米手形(こめてがた):米切手のこと 蔵屋敷で売払った米の証書 米と交換するがこのまま流通させることもできた
鋏箱(はさみばこ):外出に際し、必要品を入れて従者に鋏棒で担がせた箱

参考文献
『日本疾病史』富士川遊 平凡社 1979
『江戸病草紙』立川昭二 筑摩書房 1998
『江戸の農民生活史』速水融 日本放送出版 1988
『御触書寛保集成』高柳真三 岩波書店

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