1 離婚率
離婚率は女性の地位の高い国ほど増加の傾向がある。わが国では、昭和二十五年で人口一〇〇〇人あたりの離婚件数(離婚率)は約一㌫、平成十年においては約二㌫と二倍の伸びである。平成一四年度の離婚件数はこれまでの最多を更新し、二八万九〇〇〇件。離婚率二・三㌫と増加の一途。
平成十五年度の離婚数は二八万六〇〇〇件でその年の結婚数七三万七〇〇〇件の三八・八㌫にのぼる。この増加は戦後女性の経済的自立が進み、社会進出が可能になったことが大きい。
因みに米国四・二㌫、ロシア三・七㌫、イギリス二・六㌫(二〇〇三年)という諸外国の離婚率に比べるとまだ少ない日本であるが、では江戸時代はどうだったのだろう。
奥州安積郡下守屋村(福島県)の近世中期から後期にかけての宗旨人別帳を素材とした統計では初婚での離婚者は結婚数の三七㌫に及ぶ。その離婚者の再婚率は八〇㌫である。意外な離婚の多さに驚くが、この数字は初婚平均年齢が女子で一四才、男子で一七才という早婚と、出稼ぎ奉公という東北地方の特色が大きく存在する。美濃国西条村(岐阜県)の近世後期一〇〇年間についての調査では離婚数は結婚数の一一㌫となっており、天明元年(1781)からの四十年間では一九㌫と、五組に一組は離婚している。いずれも若年での離婚者はその七割以上が再婚している。
武家についての統計では、武士の系譜『寛政重修諸家譜』を素材として、離婚数は結婚数の一一㌫、離婚者の再婚率五八㌫という数字が出ている。宇和島藩の記録では結婚カップルの三六㌫が三年以内に離死別し、結婚が二十年継続したものは四分の一にすぎない。武士の妻の財産はいつ離婚してもいいように別会計であったし、寿命の短さと離婚の多さから、江戸時代に金婚式を迎える夫婦は稀有であった。
人口一〇〇〇人あたりの離婚件数としては明治十六年からの統計があり、現代よりもかなりの高率を示している。十六年の三・三組を最高に三十一年に二・二組と、やっと現代の数字にまで下がるが、この高率は江戸時代の名残りと考えられている。近世は以外にも現代をしのぐ離婚社会であったことに驚かされるが、その背景には何があったのだろう。
2
一般的に一昔前には、離婚された妻は泣く泣く実家に帰る哀れな女性というイメージで捉えられがちであるが、それは近世においては大幅に修正されなければならない。高木侃氏の著書『三くだり半と縁切寺』では、江戸時代の庶民は女性も男性と変わらぬ労働力という点で高く評価される存在であり、離婚が女性にとってマイナス要因となることはなく、タブー視されることもなかった実情が明らかにされている。近世において離婚は夫から「三くだり半」という離縁状を交付されることで成立した。その文面はおよそ次のようなものであった。
りえん状
一其方事、我ら勝手に付
此度離縁いたし候、然る上は
向後何方へ縁付き候とも、差構
これなく候、依て件の如し
夫
(『三くだり半と離縁状』)
「あなたを私の方の理由によって、この度離婚しますので、今後はあなたがどこへ縁組しようと構いません。」という意味である。これは夫による一方的な権利であったのではなく、妻への義務であったといえる。離縁状は次の再婚のために是非とも必要な、いわば再婚許可状であった。江戸時代の法典である『公事方御定書』(寛保二年{1742})によると離縁状なしで再婚したものは、男は家財取り上げ・追放、女は髪を剃って親元へ引き渡し、と厳しい処置を受けることになっていた。
離縁状さえあれば妻は夫の支配から逃れ、どこへでも再婚出来たので、離婚を望む妻は実家や村の庄屋に斡旋を頼み、また駆け込寺などへ駆け込んで、離縁状の交付を求めることが出来た。いわば離婚の意思を持つ妻の権利はかなり認められていたのである。膨大な離縁状の研究を通じて高木侃氏は、江戸時代の離婚が夫の専権行為ではなく、夫婦とその血縁・地縁の人々を巻き込んだ協議の末の、いわば「熟談離婚」であった、と結論づけておられる。
その上当時の平均寿命が美濃国西条村の記録で三八~九才と、現在の約半分という事情があり、また女性の出産の際の死亡率の高さもあって、再婚の道は現在よりも広く開かれていた。先の例にも見るとおり、離婚者の七〇から八〇㌫という高い再婚率がそれを物語る。
再婚ばかりではなく、三婚・四婚を経験する女性も珍しくはなかった。離婚も再婚も江戸時代の庶民にとってはいわば現在よりも実現が容易な事柄であり、それが離婚と再婚の高率につながっていた。
3 離縁状にみる離婚理由
では江戸時代の離婚の理由はどうだったのだろう。「三くだり半」には「我ら勝手につき」とか「よんどころなき子細につき」などと記され、離婚理由を書かないのが普通である。この「我ら勝手につき」という意味は「夫の一方的意思」ということではなく、「妻に離婚の有責事由がない」と表明することで、女性の将来の再婚に障害とならないことを目的としている。
従って離縁状の文面は「我ら勝手」の他は「悪縁」「夫妻の望なく」「薄縁」「不熟」など抽象的な表現が多く、具体的な理由を記したものは数少ない。わずかに付随文書などで伺えるその理由は、家庭内不和、夫の乱暴や妻の家出、一方の不貞と、いずれもいつの時代にも変わらぬ事情があった。また家事に不向きであるとか、親舅と不和となりこれを見捨て、或いは我侭といった妻側の理由によるものも見受けられる。
また離婚による別離は結婚継続年数が極めて短く、木曽湯舟沢村での十八世紀前半の記録では、平均四年で離婚している。これは近世の結婚にいたる課程は交際期間もなく、当人同士より親の意志が大きく存在していたという事情によるものであろう。
4 近世離婚女性の権利
離婚に際しての女性の権利はどうだったのだろう。『徳川禁令考』には
「女性が長年苦労をしたにも関らず、夫の不法による離別においては、女房持参の財産とともに、家の財産を納得いくほどのものを持ち出させること」
という掟条目があり、妻は離婚に際してその事情により、持参財産のみならず、婚家の財産も受け取る権利があった。また夫の不法または意思による離婚の場合には若干の慰謝料や子供の養育費を受け取っている例がある。かなり女性の権利は認められていた。
また鎌倉の東慶寺に代表される縁切寺が夫の非法から女性を救い上げる最後の砦となっていた。離婚を望む女性を庇護し、その再出発を助ける当時の世界でも例を見ない縁切寺という設備と、離縁状という文書によって自由な境遇を得ることが出来た江戸時代のシステムはかなり進んだものといえるだろう。いわゆる男尊女卑・男性優位のイメージで捉えられがちな江戸時代であるが、実際は以外にもたくましく、権利を勝ち取っていた女性像が浮かび上がる。
だがすべての女性がそうだったのだろうか。その辺のところを探るために、わが日下村の離婚事情を見てみよう。
5 日下村離婚事情
日下村でも離婚問題がきっかけとなって御奉行所へ訴訟という事態にまで至った例がある。
二月二日 晴陰有
一久作召連れ、蔵屋敷へ罷出、久作訴状差上申候ところ、来る十八日相手徳兵衛召出さるべく、御裏判出申候、
享保十三年のまだ肌寒さを残す二月の始め、長右衛門は村人久作を召連れ、日下村領主本多氏蔵屋敷へ久作出入りの訴状を差出した。訴訟は受付けられ、十八日に相手方出雲井徳兵衛とともに出頭を命じられる。日下村も出雲井村もともに上野国沼田藩本多氏領分で、同じ領主の支配地での出入りは蔵屋敷への訴訟となる。
日記にはこの久作出入りという訴訟の内容は記されていないが、この時提出された訴状が京都大学所蔵の『日下村元庄屋長右衛門記録』に残されている。それによってこの訴訟の内容を探ってみよう。
恐れながら御訴訟
河州河内郡日下村百姓久作
一御領分出雲井村徳兵衛方へ私妹かやと申す者、九年以前に縁に付、世倅弐人ござ候ところ、妹かや儀、病身に罷成り候に付、右徳兵衛私へ申候は、かや儀(中略)病身に候ては此方不勝手に候間、相対暇遣し申すべく候間、その方え引取くれ候えと申され候に付、私申候は此方にも渡世つかまつり兼ね、難儀罷これあり候上、病身者引請養ヒ申す儀、迷惑のよし、申候えば、徳兵衛申され候はその方申方もっともに候間、養生料として銀弐百目相添え、その方へ戻し申候間、引取くれ候えと、たって申され候に付、是非なく相対にて私方へ引取申候、(中略)右の銀子段々催促つかまつり候えども、何かと申され相渡申さず、迷惑至極につかまつり候、御慈悲の上、右徳兵衛召出され、銀子相渡申す候様に仰付させられ下され候はば、難有く存じ奉り候、以上
日下村百姓久作(印)
享保十三年申二月
御役所様
(『京都大学所蔵史料』)
日下村久作の妹かやは九年前に日下村の二㌔南にある出雲井村徳兵衛へ嫁ぎ、二人の倅を儲けた。ところが日ごろから病身のため生活に不便であるとして、夫徳兵衛は離婚を申し出、実家の兄久作に身柄を引き取ってくれという言い分である。
離婚の理由としてもこれは全く夫の身勝手としか言いようがなく、現在では、病気による離婚理由としては特種な疾患の場合を除き、成り立たない類のものである。しかし江戸時代の農村女性は労働力としての価値が大きく、それがないことは離婚理由になり得たのである。女性が独立して生活する手段が奉公などに限られていた時代、かやのような病弱な離婚女性のその身柄を引き受けるのは実家しかない。
実家の兄も病身の妹を養う財力もないものの、養生料二〇〇匁という今の金にして約三〇万円ほどの金をもらうことでやっと納得した。それは捨てておくに忍びない肉親の情でもあろう。しかしその銀子は催促にも関わらず支払われないので蔵屋敷への訴訟となったのである。
6 蔵屋敷にて対決
『日下村元庄屋長右衛門記録』には先の訴状に続いて、次の記載がある。
右十八日御召出し候御裏判出申候ところ、(中略)二月廿五日に双方罷出候、出雲井村徳兵衛(中略)権兵衛とかやと不義の様に書付にて返答申上候に付、来三月五日に、かや・権兵衛両人共召連れ候様に双方へ仰付けられ候
三月五日久作・かや召連れ、作兵衛・治助罷出候、(中略)権兵衛とかやと同心にて印形盗み取り、預り手形致し候様に去月廿五日徳兵衛申出候訳、委細御吟味成られ候ところ、手形ハ権兵衛書き、すなわち三百目を弐百目に徳兵衛直し申候て、徳兵衛得心の手形之段、権兵衛明白に申すに付、手形御吟味成られ候ところ、なるほど三百目を弐百目に直し候手形故、いよいよ徳兵衛不届きに相聞え申候て三月十二日に双方罷出候ように仰付られ、罷立ち、いせ屋にて作兵衛・治助と出雲井新七と対決いたし、銀百七拾匁にて埒明申、すなわち御屋敷へ御下げ願い申下、下にて相済候、
(『京都大学所蔵史料』)
蔵屋敷の指示通り、二月二十五日蔵屋敷へ久作・権兵衛双方が出頭したところ、徳兵衛は妻かやが、養生料の預かり手形の証人となった出雲井村の権兵衛と不義をしたように書付けた返答書を提出したので、かや・権兵衛と共に三月五日に出頭を命じられる。
三月五日、かや・権兵衛と両村庄屋が出頭する。徳兵衛は権兵衛とかやの不義のみならず、二人が結託して徳兵衛の印形を盗み取り、勝手に手形を書き換えたように申し出ていた。かや・権兵衛はそのような事実がないと釈明する。徳兵衛の申し出は事実ではなく、手形を書いたのは徳兵衛自身であり、しかもその金額を最初は三〇〇目であったのを二〇〇目に改ざんしていることが明らかになる。これで徳兵衛が不届きということになり、七日後に出頭を言い渡される。
宿へ帰り、日下村・出雲井村両庄屋の仲介により、お互いに話し合い示談での解決に持ち込まれ、一七〇匁で双方が納得する。これで蔵屋敷への訴訟の取り下げを願い出て、下にて相済、つまり双方納得の示談解決となる。
三月廿六日銀子百七拾匁いせ屋にて徳兵衛より受取り、徳兵衛預り手形戻し、右の書付を以て蔵屋敷へ御断り申上げ、相済、
(『京都大学所蔵史料』)
三月二十六日徳兵衛より一七〇匁を受取り、徳兵衛の預かり手形を返却し、蔵屋敷へその旨お届けし、これで一件落着となる。
7 理不尽な夫徳兵衛
この後徳兵衛からかやに渡された離縁状がどのようなものであったかは史料を欠いている。徳兵衛は病弱の妻を非情にも離縁し、その訴訟の際に自分に有利なように、妻と村人権兵衛とのありもしない不義を言い出した上に、その不義の相手と妻とが印形を盗み出して勝手に手形を書いたように言い立てているのだ。
その実、手形の金額を書き換えたのは徳兵衛自身であった。妻への配慮など一切なく、悪意さえ感じる。このような卑怯千万な夫を持ったかやの身の上は、まさに不幸というほかない。
8 養生料一七〇匁
この一七〇匁という金額について考えて見よう。現代の離婚の際に支払われる金額については、慰謝料と財産分与を含めて、婚姻期間十年の夫婦で平均約四〇〇万円である。江戸時代も若干の金銭が支払われているが、その額は現代よりはかなり低いものである。慰謝料として二両(約一六万円)から五両(約四〇万円)妻の持参財産返還を含めて一五両(一二〇万円)など一定ではない。かやの養生料一七〇匁は慰謝料としては平均額ともいえる。ではこの金額の当時の価値を考えてみよう。
当時蔵屋敷での入札で落とされる米一石の値段は四五匁前後であり、この価格を現在の米一石の平均価格約七万円で換算してみると一匁が約一五五五円であり、一七〇匁は二六万円余りとなる。現在ではこの金額で人一人が暮らせるのは切り詰めて二ヶ月であろう。だが江戸時代の社会を考えて見ると事情は違ってくる。
当時の奉公人の給金を見ると、享保十二年十二月に長右衛門家が雇い入れた下女には一年間の給金として五〇匁(約八万円)、同年一〇月に生まれた長右衛門四男佐市の乳母として雇い入れた女性には八〇匁(約一二万円)を支払っている。ではこの女性給金から見ると一七〇匁という金額は約三年間の給金に匹敵する。
現代からはあまりにも低い奉公人給金であるが、現代のようにすべてを買入れる消費生活とは違い、当時は田畑からの作物で自給自足し、米一石あれば人一人が一年間食べていける社会であった。では一七〇匁で米四石が買える。この養生料でかやの兄久作が納得したのもうなずけるし、徳兵衛も破格に低い金額を提示したとはいえない。
四月三日
一久作へ出雲井徳兵衛より取候百七拾匁の銀子、跡月廿六日より作兵衛預り居られ、其内にて諸事入用五拾壱匁三分取残百拾八匁七分作兵衛より、久作へ相渡候
最も久作が受取った金額は、大坂への訴訟にかかった費用、五一匁三分が差引かれ、残銀一一八匁七分であった。訴訟にかかった経費はその解決金から差引かれることになっていた。だがこの金銭でかやの不幸はあがなわれただろうか。
9 人権思想と女性解放
この金銭は妻かやに支払われた慰謝料ではなく、かやを引き取る実家の兄久作に養生料として支払われたのである。かやは自分の意思も権利もないがしろにされ、病弱の身をまるで犬か猫のようにお金をつけて実家に戻されたのだ。
離婚に際し、しっかりと権利を勝ち取った女性もいたであろうが、それは現代のような社会的な意味での人権獲得では決してない。かやの例に見ても、女性の権利という面では当時は全く未開の時代であった。第一、女であれ、男であれ、人間としての平等な権利というような概念が、身分制と格式に縛られた封建社会に生まれ得ただろうか。百姓は武士の支配の前にひれ伏すしかなかった。
しかし百姓はただ貧農に甘んじ、虐げられていたのではない。自由経済の波に乗り、社会的にも人間的にも着実な成長を続けていた。幕末には民衆の中に近代的思想が芽生えはじめる。嘉永六年(1853)南部藩の大逃散の際、「百姓の分際でお上を恐れざる不届き者」と叱責した武士に向かって百姓はこう言い放っている。
「汝ら百姓などと軽しめるは心得違い。百姓のことをよく承れ。天下諸民皆百姓也。汝らも百姓に養はるる也。」
人間としての平等と尊厳を、さらには何ら生産しない武士の上に立つ生産者としての誇りを堂々と主張している。
大名貸によって武士に頭を下げさせていた天下の大坂でも人間としての平等に目覚めていた。近松門左衛門が『夕霧阿波鳴渡』で主人公の伊左衛門に、
「侍とても尊からず、町人とても、なに賎しかろうぞ、尊いものはこの胸一つ」
と言わせたセリフは、そのまま大坂町人の心意気であった。
幕末から明治にかけての民衆による世直し騒動は、貧富の格差の除去、土地の平等所有を要求した。だが明治新政府がそうした農民要求を拒否した時、そのエネルギーは自由民権運動となって燃え上がった。
男性が自由平等を勝ち取る闘いに挑んでいた時、平塚らいちょうが「元始女性は太陽であった」と宣言し、女性解放への途についた。しかし道のりは遥かであった。
人口一〇〇〇人あたりの離婚数は明治十六年の三・三組が最高で、明治三十一年に民法が施行されるとその翌三十二年には一・五組と、それ迄の半分に激減する。この明治民法が夫権優位と「貞女二夫にまみえず」という儒教的婦徳を強制し、家制度の中に女性を押し込むことになったと思われる。明治から昭和初期までの女性は、婚家や実家を取り巻く世間体に縛られ、また離婚後の自立の困難もあって、ただ不幸な結婚に耐えるしかなかった。長い闘いの後、戦後の婦人参政権獲得によってようやく扉は開かれたのである。
現在の離婚申立ては九割が妻側からで、その理由も「夫の不貞」が最多で、「生活費を入れない」がそれに次ぐ。男性側の不実に女性が我慢せず対等な権利を主張するようになったのだ。現代は離婚家庭を保護する社会システムがあり、男女雇用機会均等法により、女性の自立が容易となった。今や離婚をマイナスと考える人はいない。その点では江戸時代と変わらないが、女性の権利獲得と自立という点では雲泥の差である。
かやのこの訴訟自体にしても離婚理由が争われたのではなく、養生料不払いが争われたのだ。女性の権利を守る離婚訴訟などこの時代にはあり得なかった。かやの受けた理不尽な扱いは、持って生まれた不幸な運命、という個人的な問題として片づけられたのである。
かやの離婚問題が、女性解放への長い道程を振り返らせてくれた。今我々が当然の如く与えられている権利も、かやたち多くの女性の悲惨な運命を踏み台にして得られたものなのだ。
この後のかやの消息を我々は一度だけ知ることが出来る。この年十月二十日に長右衛門が大坂蔵屋敷へ出向いた折に、親戚や村人六人が同行しており、その中にかやの名がある。往復一〇時間の船旅に耐える元気はあったようである。ただ病弱とされた離婚理由にも、我々の知らない事情が潜んでいたのかもしれない。
註
1 御裏判(おうらばん):奉行所へ訴状を提出すると奉行所ではその訴訟を受付けた裏判を押し、訴訟の相手とともに出頭することを指示する文言を付して返却する。
2 相対(あいたい):納得、合意の上
3 渡世(とせい):世渡り、生活
4 同心(どうしん):結託
5 訳(わけ):理由、釈明
6 埒明(らちあけ):解決
7 逃散(ちょうさん):集団での失踪、農民闘争の一形態
参考文献
『日下村元庄屋長右衛門記録』京都大学所蔵
『近世東北農村の人びと』成松佐恵子 ミネルヴァ書房 2000
『江戸の農民生活史』速水融 日本放送出版 1988
『三くだり半と縁切寺』高木侃 講談社 1992
『江戸の離婚―三くだり半と縁切寺』石井良助 日本経済新聞
社 1965
『徳川禁令考』第六帙 司法省蔵版 1894
『幕藩体制と女性』脇田修
『江戸時代の女性たち』近世女性史研究会編
『武士の家計簿』磯田道史 新潮社 2003
『江戸時代』北島正元 岩波書店 1979
近世離婚事情