2012年3月26日月曜日

日下村離婚事情

下村離婚事情
      
1 離婚率 

 離婚率は女性の地位の高い国ほど増加の傾向がある。わが国では、昭和二十五年で人口一〇〇〇人あたりの離婚件数(離婚率)は約一㌫、平成十年においては約二㌫と二倍の伸びである。平成一四年度の離婚件数はこれまでの最多を更新し、二八万九〇〇〇件。離婚率二・三㌫と増加の一途。
平成十五年度の離婚数は二八万六〇〇〇件でその年の結婚数七三万七〇〇〇件の三八・八㌫にのぼる。この増加は戦後女性の経済的自立が進み、社会進出が可能になったことが大きい。
因みに米国四・二㌫、ロシア三・七㌫、イギリス二・六㌫(二〇〇三年)という諸外国の離婚率に比べるとまだ少ない日本であるが、では江戸時代はどうだったのだろう。

奥州安積郡下守屋村(福島県)の近世中期から後期にかけての宗旨人別帳を素材とした統計では初婚での離婚者は結婚数の三七㌫に及ぶ。その離婚者の再婚率は八〇㌫である。意外な離婚の多さに驚くが、この数字は初婚平均年齢が女子で一四才、男子で一七才という早婚と、出稼ぎ奉公という東北地方の特色が大きく存在する。美濃国西条村(岐阜県)の近世後期一〇〇年間についての調査では離婚数は結婚数の一一㌫となっており、天明元年(1781)からの四十年間では一九㌫と、五組に一組は離婚している。いずれも若年での離婚者はその七割以上が再婚している。
武家についての統計では、武士の系譜『寛政重修諸家譜』を素材として、離婚数は結婚数の一一㌫、離婚者の再婚率五八㌫という数字が出ている。宇和島藩の記録では結婚カップルの三六㌫が三年以内に離死別し、結婚が二十年継続したものは四分の一にすぎない。武士の妻の財産はいつ離婚してもいいように別会計であったし、寿命の短さと離婚の多さから、江戸時代に金婚式を迎える夫婦は稀有であった。
人口一〇〇〇人あたりの離婚件数としては明治十六年からの統計があり、現代よりもかなりの高率を示している。十六年の三・三組を最高に三十一年に二・二組と、やっと現代の数字にまで下がるが、この高率は江戸時代の名残りと考えられている。近世は以外にも現代をしのぐ離婚社会であったことに驚かされるが、その背景には何があったのだろう。

2 

一般的に一昔前には、離婚された妻は泣く泣く実家に帰る哀れな女性というイメージで捉えられがちであるが、それは近世においては大幅に修正されなければならない。高木侃氏の著書『三くだり半と縁切寺』では、江戸時代の庶民は女性も男性と変わらぬ労働力という点で高く評価される存在であり、離婚が女性にとってマイナス要因となることはなく、タブー視されることもなかった実情が明らかにされている。近世において離婚は夫から「三くだり半」という離縁状を交付されることで成立した。その文面はおよそ次のようなものであった。

  りえん状
其方事(そのほうこと)、我ら勝手に付
 此度離縁いたし候、(しか)る上は
 向後何方(こうごごいずかた)へ縁付き候とも、差構(さしかまえ)
 これなく候、(よっ)(くだん)如し(ごとし)
           夫
      (『三くだり半と離縁状』)   

「あなたを私の方の理由によって、この度離婚しますので、今後はあなたがどこへ縁組しようと構いません。」という意味である。これは夫による一方的な権利であったのではなく、妻への義務であったといえる。離縁状は次の再婚のために是非とも必要な、いわば再婚許可状であった。江戸時代の法典である『公事方(くじがた)御定書(おさだめがき)』(寛保二年{1742})によると離縁状なしで再婚したものは、男は家財取り上げ・追放、女は髪を剃って親元へ引き渡し、と厳しい処置を受けることになっていた
離縁状さえあれば妻は夫の支配から逃れ、どこへでも再婚出来たので、離婚を望む妻は実家や村の庄屋に斡旋を頼み、また駆け込寺などへ駆け込んで、離縁状の交付を求めることが出来た。いわば離婚の意思を持つ妻の権利はかなり認められていたのである。膨大な離縁状の研究を通じて高木侃氏は、江戸時代の離婚が夫の専権行為ではなく、夫婦とその血縁・地縁の人々を巻き込んだ協議の末の、いわば「熟談離婚」であった、と結論づけておられる。
その上当時の平均寿命が美濃国西条村の記録で三八~九才と、現在の約半分という事情があり、また女性の出産の際の死亡率の高さもあって、再婚の道は現在よりも広く開かれていた。先の例にも見るとおり、離婚者の七〇から八〇㌫という高い再婚率がそれを物語る。
再婚ばかりではなく、三婚・四婚を経験する女性も珍しくはなかった。離婚も再婚も江戸時代の庶民にとってはいわば現在よりも実現が容易な事柄であり、それが離婚と再婚の高率につながっていた。

3 離縁状にみる離婚理由

では江戸時代の離婚の理由はどうだったのだろう。「三くだり半」には「我ら勝手につき」とか「よんどころなき子細につき」などと記され、離婚理由を書かないのが普通である。この「我ら勝手につき」という意味は「夫の一方的意思」ということではなく、「妻に離婚の有責事由がない」と表明することで、女性の将来の再婚に障害とならないことを目的としている。
従って離縁状の文面は「我ら勝手」の他は「悪縁」「夫妻の望なく」「薄縁」「不熟」など抽象的な表現が多く、具体的な理由を記したものは数少ない。わずかに付随文書などで伺えるその理由は、家庭内不和、夫の乱暴や妻の家出、一方の不貞と、いずれもいつの時代にも変わらぬ事情があった。また家事に不向きであるとか、親舅と不和となりこれを見捨て、或いは我侭といった妻側の理由によるものも見受けられる。
また離婚による別離は結婚継続年数が極めて短く、木曽湯舟沢村での十八世紀前半の記録では、平均四年で離婚している。これは近世の結婚にいたる課程は交際期間もなく、当人同士より親の意志が大きく存在していたという事情によるものであろう。

4 近世離婚女性の権利

 離婚に際しての女性の権利はどうだったのだろう。『徳川禁令考』には

「女性が長年苦労をしたにも関らず、夫の不法による離別においては、女房持参の財産とともに、家の財産を納得いくほどのものを持ち出させること」

という掟条目があり、妻は離婚に際してその事情により、持参財産のみならず、婚家の財産も受け取る権利があった。また夫の不法または意思による離婚の場合には若干の慰謝料や子供の養育費を受け取っている例がある。かなり女性の権利は認められていた。
また鎌倉の東慶寺に代表される縁切寺が夫の非法から女性を救い上げる最後の砦となっていた。離婚を望む女性を庇護し、その再出発を助ける当時の世界でも例を見ない縁切寺という設備と、離縁状という文書によって自由な境遇を得ることが出来た江戸時代のシステムはかなり進んだものといえるだろう。いわゆる男尊女卑・男性優位のイメージで捉えられがちな江戸時代であるが、実際は以外にもたくましく、権利を勝ち取っていた女性像が浮かび上がる。
だがすべての女性がそうだったのだろうか。その辺のところを探るために、わが日下村の離婚事情を見てみよう。

5 日下村離婚事情

日下村でも離婚問題がきっかけとなって御奉行所へ訴訟という事態にまで至った例がある。

二月二日 晴陰有
一久作召連れ、蔵屋敷へ(まかり)(いで)久作訴状差上申候ところ、来る十八日相手徳兵衛召出さるべく、御裏((1))出申候、

享保十三年のまだ肌寒さを残す二月の始め、長右衛門は村人久作を召連れ、日下村領主本多氏蔵屋敷へ久作出入りの訴状を差出した。訴訟は受付けられ、十八日に相手方出雲井徳兵衛とともに出頭を命じられる。日下村も出雲井村もともに上野国沼田藩本多氏領分で、同じ領主の支配地での出入りは蔵屋敷への訴訟となる。
日記にはこの久作出入りという訴訟の内容は記されていないが、この時提出された訴状が京都大学所蔵の『日下村元庄屋長右衛門記録』に残されている。それによってこの訴訟の内容を探ってみよう。

れながら御訴訟
 河州河内郡日下村百姓久作
一御領分出雲井村徳兵衛方へ私妹かやと申す者、九年以前に縁に付、()(がれ)弐人ござ候ところ、妹かや儀、病身に(まかり)成り候に付、右徳兵衛私へ申候は、かや儀(中略)病身に候ては此方不勝手に候間、相対((2))暇遣し申すべく候間、その方え引取くれ候えと申され候に付、私申候は此方にも渡世((3))つかまつり兼ね、難儀罷これあり候上、病身者引請養ヒ申す儀、迷惑のよし、申候えば、徳兵衛申され候はその方申方もっともに候間、養生料として銀弐百目相添え、その方へ戻し申候間、引取くれ候えと、たって申され候に付、是非なく相対にて私方へ引取申候、(中略)右の銀子段々催促つかまつり候えども、何かと申され相渡申さず、迷惑至極につかまつり候、御慈悲の上、右徳兵衛召出され、銀子相渡申す候様に仰付させられ下され候はば、難有く存じ奉り候、以上
日下村百姓久作(印)
享保十三年申二月 
御役所様  
         (『京都大学所蔵史料』)

 日下村久作の妹かやは九年前に日下村の二㌔南にある出雲井村徳兵衛へ嫁ぎ、二人の倅を儲けた。ところが日ごろから病身のため生活に不便であるとして、夫徳兵衛は離婚を申し出、実家の兄久作に身柄を引き取ってくれという言い分である。
 離婚の理由としてもこれは全く夫の身勝手としか言いようがなく、現在では、病気による離婚理由としては特種な疾患の場合を除き、成り立たない類のものである。しかし江戸時代の農村女性は労働力としての価値が大きく、それがないことは離婚理由になり得たのである。女性が独立して生活する手段が奉公などに限られていた時代、かやのような病弱な離婚女性のその身柄を引き受けるのは実家しかない。
実家の兄も病身の妹を養う財力もないものの、養生料二〇〇匁という今の金にして約三〇万円ほどの金をもらうことでやっと納得した。それは捨てておくに忍びない肉親の情でもあろう。しかしその銀子は催促にも関わらず支払われないので蔵屋敷への訴訟となったのである。

6 蔵屋敷にて対決
 
『日下村元庄屋長右衛門記録』には先の訴状に続いて、次の記載がある。
 
右十八日御召出し候御裏判出申候ところ、(中略)二月廿五日に双方罷出候、出雲井村徳兵衛(中略)権兵衛と()()と不義の様に書付にて返答申上候に付、来三月五日に、かや・権兵衛両人共召連れ候様に双方へ仰付けられ候
三月五日久作・かや召連れ、作兵衛・治助罷出候、(中略)権兵衛と()()同心((4))にて印形盗み取り、預り手形致し候様に去月廿五日徳兵衛申出候((5))、委細御吟味成られ候ところ、手形ハ権兵衛書き、すなわち三百目を弐百目に徳兵衛直し申候て、徳兵衛得心の手形之段、権兵衛明白に申すに付、手形御吟味成られ候ところ、なるほど三百目を弐百目に直し候手形故、いよいよ徳兵衛不届きに相聞え申候て三月十二日に双方罷出候ように仰付られ、罷立ち、いせ屋にて作兵衛・治助と出雲井新七と対決いたし、銀百七拾匁にて埒((6))申、すなわち御屋敷へ御下げ願い申下、下にて相済候、
(『京都大学所蔵史料』)

蔵屋敷の指示通り、二月二十五日蔵屋敷へ久作・権兵衛双方が出頭したところ、徳兵衛は妻かやが、養生料の預かり手形の証人となった出雲井村の権兵衛と不義をしたように書付けた返答書を提出したので、かや・権兵衛と共に三月五日に出頭を命じられる。
三月五日、かや・権兵衛と両村庄屋が出頭する。徳兵衛は権兵衛とかやの不義のみならず、二人が結託して徳兵衛の印形を盗み取り、勝手に手形を書き換えたように申し出ていた。かや・権兵衛はそのような事実がないと釈明する。徳兵衛の申し出は事実ではなく、手形を書いたのは徳兵衛自身であり、しかもその金額を最初は三〇〇目であったのを二〇〇目に改ざんしていることが明らかになる。これで徳兵衛が不届きということになり、七日後に出頭を言い渡される。
宿へ帰り、日下村・出雲井村両庄屋の仲介により、お互いに話し合い示談での解決に持ち込まれ、一七〇匁で双方が納得する。これで蔵屋敷への訴訟の取り下げを願い出て、下にて相済、つまり双方納得の示談解決となる。 
   
三月廿六日銀子百七拾匁いせ屋にて徳兵衛より受取り、徳兵衛預り手形戻し、右の書付を以て蔵屋敷へ御断り申上げ、相済、                       
(『京都大学所蔵史料』)
 
三月二十六日徳兵衛より一七〇匁を受取り、徳兵衛の預かり手形を返却し、蔵屋敷へその旨お届けし、これで一件落着となる。

7 理不尽な夫徳兵衛

この後徳兵衛からかやに渡された離縁状がどのようなものであったかは史料を欠いている。徳兵衛は病弱の妻を非情にも離縁し、その訴訟の際に自分に有利なように、妻と村人権兵衛とのありもしない不義を言い出した上に、その不義の相手と妻とが印形を盗み出して勝手に手形を書いたように言い立てているのだ。   
その実、手形の金額を書き換えたのは徳兵衛自身であった。妻への配慮など一切なく、悪意さえ感じる。このような卑怯千万な夫を持ったかやの身の上は、まさに不幸というほかない。

8 養生料一七〇匁

この一七〇匁という金額について考えて見よう。現代の離婚の際に支払われる金額については、慰謝料と財産分与を含めて、婚姻期間十年の夫婦で平均約四〇〇万円である。江戸時代も若干の金銭が支払われているが、その額は現代よりはかなり低いものである。慰謝料として二両(約一六万円)から五両(約四〇万円)妻の持参財産返還を含めて一五両(一二〇万円)など一定ではない。かやの養生料一七〇匁は慰謝料としては平均額ともいえる。ではこの金額の当時の価値を考えてみよう。
当時蔵屋敷での入札で落とされる米一石の値段は四五匁前後であり、この価格を現在の米一石の平均価格約七万円で換算してみると一匁が約一五五五円であり、一七〇匁は二六万円余りとなる。現在ではこの金額で人一人が暮らせるのは切り詰めて二ヶ月であろう。だが江戸時代の社会を考えて見ると事情は違ってくる。
当時の奉公人の給金を見ると、享保十二年十二月に長右衛門家が雇い入れた下女には一年間の給金として五〇匁(約八万円)、同年一〇月に生まれた長右衛門四男佐市の乳母として雇い入れた女性には八〇匁(約一二万円)を支払っている。ではこの女性給金から見ると一七〇匁という金額は約三年間の給金に匹敵する。
現代からはあまりにも低い奉公人給金であるが、現代のようにすべてを買入れる消費生活とは違い、当時は田畑からの作物で自給自足し、米一石あれば人一人が一年間食べていける社会であった。では一七〇匁で米四石が買える。この養生料でかやの兄久作が納得したのもうなずけるし、徳兵衛も破格に低い金額を提示したとはいえない。

  四月三日 
一久作へ出雲井徳兵衛より取候百七拾匁の銀子、跡月廿六日より作兵衛預り居られ、其内にて諸事入用五拾壱匁三分取残百拾八匁七分作兵衛より、久作へ相渡候

最も久作が受取った金額は、大坂への訴訟にかかった費用、五一匁三分が差引かれ、残銀一一八匁七分であった。訴訟にかかった経費はその解決金から差引かれることになっていた。だがこの金銭でかやの不幸はあがなわれただろうか。
 
9 人権思想と女性解放
 
この金銭は妻かやに支払われた慰謝料ではなく、かやを引き取る実家の兄久作に養生料として支払われたのである。かやは自分の意思も権利もないがしろにされ、病弱の身をまるで犬か猫のようにお金をつけて実家に戻されたのだ。
離婚に際し、しっかりと権利を勝ち取った女性もいたであろうが、それは現代のような社会的な意味での人権獲得では決してない。かやの例に見ても、女性の権利という面では当時は全く未開の時代であった。第一、女であれ、男であれ、人間としての平等な権利というような概念が、身分制と格式に縛られた封建社会に生まれ得ただろうか。百姓は武士の支配の前にひれ伏すしかなかった。
しかし百姓はただ貧農に甘んじ、虐げられていたのではない。自由経済の波に乗り、社会的にも人間的にも着実な成長を続けていた。幕末には民衆の中に近代的思想が芽生えはじめる。嘉永六年(1853)南部藩の大逃散((7))の際「百姓の分際でお上を恐れざる不届き者」と叱責した武士に向かって百姓はこう言い放っている。

「汝ら百姓などと軽しめるは心得違い。百姓のことをよく承れ。天下諸民皆百姓也。汝らも百姓に養はるる也。」

人間としての平等と尊厳を、さらには何ら生産しない武士の上に立つ生産者としての誇りを堂々と主張している。
大名貸によって武士に頭を下げさせていた天下の大坂でも人間としての平等に目覚めていた。近松門左衛門が『夕霧阿波鳴渡』で主人公の伊左衛門に、

「侍とても尊からず、町人とても、なに賎しかろうぞ、尊いものはこの胸一つ」

と言わせたセリフは、そのまま大坂町人の心意気であった。
幕末から明治にかけての民衆による世直し騒動は、貧富の格差の除去、土地の平等所有を要求した。だが明治新政府がそうした農民要求を拒否した時、そのエネルギーは自由民権運動となって燃え上がった。
男性が自由平等を勝ち取る闘いに挑んでいた時、平塚らいちょうが「元始女性は太陽であった」と宣言し、女性解放への途についた。しかし道のりは遥かであった。
人口一〇〇〇人あたりの離婚数は明治十六年の三・三組が最高で、明治三十一年に民法が施行されるとその翌三十二年には一・五組と、それ迄の半分に激減する。この明治民法が夫権優位と「貞女二夫にまみえず」という儒教的婦徳を強制し、家制度の中に女性を押し込むことになったと思われる。明治から昭和初期までの女性は、婚家や実家を取り巻く世間体に縛られ、また離婚後の自立の困難もあって、ただ不幸な結婚に耐えるしかなかった。長い闘いの後、戦後の婦人参政権獲得によってようやく扉は開かれたのである。
現在の離婚申立ては九割が妻側からで、その理由も「夫の不貞」が最多で、「生活費を入れない」がそれに次ぐ。男性側の不実に女性が我慢せず対等な権利を主張するようになったのだ。現代は離婚家庭を保護する社会システムがあり、男女雇用機会均等法により、女性の自立が容易となった。今や離婚をマイナスと考える人はいない。その点では江戸時代と変わらないが、女性の権利獲得と自立という点では雲泥の差である。
かやのこの訴訟自体にしても離婚理由が争われたのではなく、養生料不払いが争われたのだ。女性の権利を守る離婚訴訟などこの時代にはあり得なかった。かやの受けた理不尽な扱いは、持って生まれた不幸な運命、という個人的な問題として片づけられたのである。
かやの離婚問題が、女性解放への長い道程を振り返らせてくれた。今我々が当然の如く与えられている権利も、かやたち多くの女性の悲惨な運命を踏み台にして得られたものなのだ。
この後のかやの消息を我々は一度だけ知ることが出来る。この年十月二十日に長右衛門が大坂蔵屋敷へ出向いた折に、親戚や村人六人が同行しており、その中にかやの名がある。往復一〇時間の船旅に耐える元気はあったようである。ただ病弱とされた離婚理由にも、我々の知らない事情が潜んでいたのかもしれない。


1 御裏判(おうらばん):奉行所へ訴状を提出すると奉行所ではその訴訟を受付けた裏判を押し、訴訟の相手とともに出頭することを指示する文言を付して返却する。
2 相対(あいたい):納得、合意の上 
3 渡世(とせい):世渡り、生活
4 同心(どうしん):結託
5 訳(わけ):理由、釈明
6 埒明(らちあけ):解決
7 逃散(ちょうさん):集団での失踪、農民闘争の一形態

参考文献 
『日下村元庄屋長右衛門記録』京都大学所蔵
『近世東北農村の人びと』成松佐恵子 ミネルヴァ書房 2000
『江戸の農民生活史』速水融 日本放送出版 1988
『三くだり半と縁切寺』高木侃 講談社 1992
『江戸の離婚―三くだり半と縁切寺』石井良助 日本経済新聞
社 1965
『徳川禁令考』第六帙 司法省蔵版 1894
『幕藩体制と女性』脇田修
『江戸時代の女性たち』近世女性史研究会編
『武士の家計簿』磯田道史 新潮社 2003
『江戸時代』北島正元 岩波書店 1979
近世離婚事情

日下村事件簿

  日下村事件簿



  1 江戸時代の治安

治安に関しては世界中で最も安全と言われる日本。それも昨今の急激なグローバル化によって犯罪増加は加速化し、安全神話が崩れつつある。新聞の三面記事を賑わす眉をひそめるような事件が凶悪犯罪の増加を印象づける。しかし世界保健機関の最新のデーターによれば、日本の殺人被害者は主要国の中でも最低であり、米国の一〇分の一に過ぎない。さらに東京での平成十四年度の凶悪犯罪は、近来治安回復の効果を挙げたといわれるニーヨークの、それでもまだ三〇分の一に過ぎず、その差は依然として大きいものがある。
幕末慶応元年(1865)に日本に来たドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンが江戸の印象をこう伝えている。
「ここでは君主がすべてであり、労働階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国よりもましてよく耕された土地が見られる。」
江戸時代の日本がその当時の世界のどこよりも、発達した社会秩序が行き渡り、治安の良好さという点で抜群であったことは想像できる。
この平和な日本の江戸時代、わが日下村も凶悪な犯罪は一件も起きていない。窃盗、強盗は勿論、刃傷などの暴力事件も皆無であった。穏やかに過ぎた享保時代の日下村が見舞われた事件、といってもわずかに村を騒がせただけのたわいのないものであったが、そこから当時の社会の一面を覗いてみることにしょう。

2 日下村に他国者入込み

 日下村にようやく春が訪れようとする享保十三年三月のことである。池端の九兵衛の家に突然女が一人駆け込んでくる。
2 日下村に他国者入込み

 日下村にようやく春が訪れようとする享保十三年三月のことである。池端の九兵衛の家に突然女が一人駆け込んでくる。


三月朔日 風雨
一今夜池端久兵衛方へ女壱人かけ込み、板銀一丁出し、薬売りくれ候えと申来り候ところ、そのあとより男壱人参り候て此女ハ自分妻にて不義をいたし、その上銀子八百七拾五匁盗み欠落((1))いたし候者にて候、いかようのゆかりにて此女を引込み置き候やと、ねだり((2))申すに付、文右衛門など出会い、公儀((3))((4))申すべくと作兵衛方迄その者共同道いたし参り候えども、夜もふけ申し候ゆえ、作兵衛逢い申さず、明日まかりいで候様にと申帰し候

この女は板銀一丁出して薬を売ってくれるように頼み込む。板銀一丁というと、三〇~四〇匁位の丁銀のことで、現在の価格にして四~六万円前後の金である。ところがその後から男が入って来て恐喝に及んだ。どうやらこの二人は一味で、いわゆる美人局(つつもたせ)をして金を巻き上げようという魂胆らしい。しかし村人もそうたやすく騙される訳はなく、庄屋作兵衛方へその者共を同道させる。

3 恐喝犯を会所で尋問

三月二日 晴
   一朝飯後作兵衛と会所へ出、昨夜池端久兵衛方へ参り候てねだり申し候、堺かいせん加田屋与兵衛方に相勤めおり申し候、吉右衛門と申す者に遭い申候ところ、久兵衛方に私妻引込み置き候儀、御番((5))へ御断り申上候間、さように御心得下され候えと申すに付、勝手次第につかまつり候様に申し帰し候、帰り申すあとより池端久兵衛付け遣し候ところ、布市仁右衛門方女も居申し、其者も居申し候よし、立帰り申すに付、仁右衛門呼寄せ吟味いたし候ところ、今朝未明に善根寺番人権助、右両人同道いたし参り候てこの者に飯給させくれ候様にと、頼み申候に付、近付にてハこれなく候えども、権介頼みに付、飯給させ候よし申候
一今日池久兵衛方之儀に付、これ以後かようの儀、これなき様の思案、致しくれ候えと文左衛門、藤右衛門、善右衛門なと会所へ参り候

 翌日会所へ出た庄屋長右衛門と作兵衛は、昨日の事件の当事者に面談する。堺廻船、加田屋与兵衛方に勤める吉右衛門と名乗る男は「九兵衛方へ私の妻を引き込むとはけしからん、奉行所へ訴え出る!」と変わらず強気で恐喝を続ける。ここらで穏便に収めて何がしかの金銭を出すだろう、という男の魂胆は見え見えで、長右衛門は「勝手次第に訴えるがよかろう」と相手にしない。その男の跡を九兵衛に付けさせたところ、なんと日下村の西、布市の仁右衛門方に入ってゆく。昨日の女も一緒に居る様子。早速帰って注進する九兵衛に、長右衛門は今度は仁右衛門を呼寄せさせて尋問する。
仁右衛門の言うには「今朝善根寺村番人権助がこの両人を同道し、この者たちに飯食べさせてやってくれと頼むので、知り合いではないが権助の頼みなので飯を食べさせたのだ」と。この辺に何か事情がありそうである。恐喝は不成功に終わり、これでどうやらこの夫婦連れは日下村を退散したらしい。
村人の代表が、九兵衛方での一件についてこれ以後このようなことのないように方策を講じてもらいたいと会所へ願い出る。日下村で他所からこうしたいわばヤクザ世界のものが入込んでくるのは滅多にないこと。この事件の解決とその後の対策は村にとっての緊急事項であった。

4 善根寺番人権助の尋問

三月三日 晴
一伝九郎参り候て権介儀詮議いたし申候ところ、しかとハ知レ申さず候よし申来り候
三月六日 朝之内陰後晴
一今日野崎観音((6))へ讃良郡十三ケ村庄屋中寄合、十三ケ村ノ番人呼付()(ごろ)子供をかとわかし者入込み申す間、心を付け申す様にと申付け候よしに候
三月七日 晴
一伝九郎参り、権助義段々詮議いたし候えども、とくと品申さず同類之儀も一円申さず候、とかく己壱人に引かつき了簡極めおり候ものと存じ候、しかる上ハ権助義もいかように致し申すべき哉、未だ了簡にも落ち申さず候よし申候

早速翌日から善根寺村番人、権助の取調べが始まるが、何も知らないと言い張る。しかし吉右衛門と名乗る夫婦連れの旅烏(たびがらす)が布市仁右衛門に世話になっている経過に何か事情が潜んでいるのは明らかであった。
ちょうどこの時、日下村の北にあたる讃良郡で子供(こども)勾引(かどわかし)誘拐犯が入込み、一三カ村の村役人が集まり番人に警戒を言いつけている。戦国期に盛んであった人身売買は元和二年(1616)に禁制が出されたが依然として労働力や芸人、あるいは茶屋や遊郭へ売り込むために人さらいが横行する実態があったのだ。何か物騒な雰囲気である。
日下村では権助の尋問取調べが続く。しかし伝九郎の報告では七日になっても相変わらず、知らぬ存ぜぬでシラを切り通すつもりらしい。この上は権助の処置をどうしたものか、いい方策が見つからないという。

5 権助の処置

三月十五日 大風雨 吹降共強
一池弥兵衛儀伝助方へねたらせ候儀、誤り証文((7))致し、相済くれ候様にと八兵衛へ頼み申候間、その通に相済くれ候様にと八兵衛申来り候

とにかく(わび)証文をとって一件落着とするということになる。

三月晦日 前夜より雨昼八ツ時迄降継候
一伝九郎参り候ゆえ、権介義此方に差構う事これなく候間、その方勝手次第に仕り候様にと申渡候
 
三月も晦日になって、伝九郎が権助の処置を仰ぎにくるが、長右衛門は「こちらは構わないので勝手次第に」と差図する。
 善根寺村は日下村のすぐ北にあり、かつては枝郷であったため、何かと関わりあった村であったが、支配は私領の日下村とは違い天領であった。従って、善根寺村番人の処置に日下村庄屋長右衛門が介入することは避けたかったのであろう。

6 事件関係村人に詫証文を取る

四月二日 晴 昼柄少陰
一池弥兵衛、同久兵衛、布市仁右衛門壱人ツヽ会所へ呼付け、三人共一札取り置き候、去月朔日夜池ノ久兵衛方へねたり取に参り候一儀に付、三人共一札取り置き候、弥兵衛ハねたり者にちやうちんかし候誤り、向後不埒なる筋つかまつりまじくとの一札也、布市仁右衛門ハその者に宿かし申し候誤り、向後立宿は勿論壱輪の諸勝負宿つかまつりまじくとの一札也、池久兵衛儀ハ脱躰((堕胎))之療治向後一切つかまつりまじくとの一札也、初夜前に仕廻い 会所より帰り、三人の一札ハ庄左衛門呼寄せ書かせ候 

とうとう事件から一ヶ月後、他国ものねだり事件一件に関して、関係村人からそれぞれ詫証文をとって解決に持ち込まれた。
池弥兵衛は他国者に提灯を貸し、その行為を咎められた。そして布市仁右衛門は「宿貸し候誤り」という詫証文をとられる。この時代他国者に宿を貸すことは御法度に定められていた。善根寺村の近世庄屋である向井家に遺された享保六年(1721)の御触書写に次のようにある。
 
一海道筋旅人、一夜の外に二夜に及び宿致候者、吟味つかまつり、惣じて郷中には一夜の宿も貸すまじく、(『向井家文書』)

幕藩体制下において領国間の人や商業の交流は支配者にとって最大の警戒事項であったから禁制となっていた。布市仁右衛門が咎にされたのは旅人の逗留ばかりではなく、その次に「諸勝負宿つかまつりまじく」とある。また池九兵衛は「脱躰((堕胎))の療治向後一切つかまつりまじく」という一札を取られているこの二つの文言がこの事件の真相を明らかにしてくれそうである。まず輪の諸勝負から解明しよう。
 
7 一輪の諸勝負

「壱輪の諸勝負」とは賭博である。三月朔日の夜中に池端九兵衛方へ恐喝に及んだ旅人は、恐喝が首尾よく行かないと見ると、善根寺村番人権助の手引きで布市仁右衛門方へ赴きそこで賭博が開帳されたのだ。何人かの村人が参加したと思われるが、その村人は咎に問われていない。事を大きくせず、村中で納めるための長右衛門の判断でもあろう。
賭博は幕府も再々禁令を出している御法度で、もしこの事態が蔵屋敷や大坂町奉行所の知るところとなれば事は面倒になる。関わった村人全員が重罪に問われるばかりでなく、村役人である長右衛門と作兵衛も連帯責任で罪科に処せられる。この事件は内々に決着し、蔵屋敷にも奉行所にも報告されていない。
 しかし旅の博徒が村人の家で賭博開帳という事実は長右衛門にとっては捨て置けないものであった。

8 村の番人 

この事件の大きな鍵を握るのが、博徒が頼った善根寺村番人権助である。彼は何者で、博徒との関係はどのようなものであったのだろう。それを解明するために、この時代の番人というものをさぐってみよう。
この時代の番人は非人番と呼ばれることもあり、いわゆる非人に属する人たちであった。村外れに小屋をかけ、野荒し、盗賊の番をし、年に幾ばくかの米麦を村から給与される、いわゆる村の警備を受け持った存在であった。この番人は村々に一軒づつ分散していた。 
摂津、河内の非人番は多くが大坂四ヶ所長吏の支配下にあった。四ヶ所長吏とは大坂の天王寺・鳶田・道頓堀・天満の垣外(かいと)と呼ばれる地域に置かれた非人宿の長のことである。
近世初頭から都市には雑多な民衆が流入していた。その中には村落共同体の秩序からはみ出た、いわゆる正業に就かない人々、困窮により村々から逃散し、また犯罪者や転び切支丹((8))となり村落を追放された人たちもいた。そうした人々が取り合えずは身を寄せあい、都市の発展とともに、非人集団として成立してゆく。内部組織が整えられ、その頂点が長吏で、下に小頭、若き者、その下に町々の木戸番を勤める弟子たちがいた。
その内部組織の統制は厳しく、その権利は金銭を伴って取引される番人株となっており、定まった請人の保証がなければ番人になることは出来なかった。彼らは町や豪商に抱えられ、垣外番として町の警備を担当していた。そして彼らは周辺村落へも派遣されたのである。
だが善根寺村番人が出てきているが、日下村番人が出てきていない。年末に日下村の村役人と「小走」などの村の御用を受け持っている者への給与の変更が申し渡されているが、その中にも番人給与は記されていない。ただ日光社参の折に三助に夜番をさせているので、この人物が番人を兼ねていたと思われる。

9 大坂垣外番

町や豪商に抱えられた垣外番の重要な使命は「非人政道」といわれるもので、外からやって来る非人の悪ねだり(勧進)を排除することであった。非人の本来の生活の手段は町を勧進、物乞いして廻り、何がしかの金銭を得ることで、町の清掃、下水浚えなども受け持っていた。その権利も番株に組み込まれて統制されていた。
その権利外の者の悪ねだり、つまり勧進の強要は、その世界のものに取り締まらせることが最も効果的であった。支配者にとってこの手段は必須のものであったことは、「目明し」という存在に端的に現れている。

10 目明し

大坂垣外中間の者たちは役木戸とともに町奉行所の手先御用((9))を勤め、彼らは「目明し」と呼ばれていた。とりわけ垣外の中でも顔役と言われるような犯罪世界に強い影響力を持ったものが任命された。罪を犯し、その詮議の際に他の犯罪者を訴人して許され、抱えられたものもいた。
奉行所御用で与力・同心に付いて町廻りをする時は犯罪者を取り締まり、盗賊・博徒・私娼を摘発するが、一歩職務を離れると賭博をし、私娼を自ら抱え、遊郭へ寄る辺ない女性を送り込んでいたのが、彼らの実態である。
そうした表裏で相反する役目を兼ねる人たちを「二足わらじ」と呼んで大坂町人は嫌ったという。犯罪社会へのより効果的な取り締まりが可能となる彼らの起用は、また一方で権威を傘に着た横暴な行為にも繋がり、町人の迷惑になることも多々あったのである。
そうした犯罪者の手を借りることが由々しき問題として幕府は何度も「三番所に目明しはいない」と否定し、その悪ねだりを禁じている。しかし、現場の奉行所与力・同心たちも、犯罪世界の実情に通じた彼らからの情報協力がなければ、犯罪者の摘発は非常に困難なものであったから、幕末まで絶えることなく彼らは活躍したのである。
特に遠国での犯人探索に関しては同じ世界のものである村落の番人を動員し、他国の犯罪世界に渡りをつけて捜査協力を依頼することで、問題はいち早く、しかも内々に解決出来たのである。「蛇の道は蛇」というこの倫理はまさに幕藩体制下に生まれるべくして生まれたといえよう。実に人間社会の一面を端的に表現し、しかもそれはいつの時代においても真理である。

11 日下村ねだり事件の真相

ではわが日下村に降りかかった他国ものねだり事件はやはりその理に叶うものであった。恐喝に来た渡り博徒吉右衛門がまず善根寺村番人を頼っていることがそのことを明白に物語る。権助がこの吉右衛門と顔見知りであろうとなかろうと、彼には同じ世界のものの頼みを無視できない事情があった。他国ものの村での逗留は御法度でもあり、暫定的に滞在する場合は番人に頼り、それが同じ世界のものであれば内々にする、というのがこの世界の掟であった。
賭博で何がしかの金銭を儲けた吉右衛門が、権助にも分け前を与えていることは確かである。伝九郎の取調べにも頑強にシラを切り続ける権助にはヤクザ世界のものとしての信念があったのだろう。
そして布市仁右衛門も権助の頼みで他国者を家に上がりこませ、賭博をさせるというのは、いかがな料簡であろうか。摘発されれば重罪に処せられることは明白である。ではこの時代の賭博事情を探ってみよう。それにはまず賭博の歴史に目を向ける必要がある。

12 賭博の歴史

賭博は古代から人々を魅了してきたものらしい。十二世紀の後白河法皇の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「我子は二十になりぬらん、博打してこそ歩くなれ」とあり、この時代すでに多人数で諸国を巡回する高名な博徒が種々の文献に記されており、賭博は国々を放浪して成り立つ職業であった
十五世紀の伏見宮貞成親王の日記『看聞(かんもん)御記(ぎょき)では貴族の遊芸娯楽の中には賽・双六・囲碁・聞香・闘鶏闘茶・連歌などの種々の賭博があり、身分の高い公家は勿論、皇族も例外ではなく興じている。近世では尾張藩の武士朝日定右衛門重章の手になる鸚鵡(おうむ)籠中記(ろうちゅうき)が、元禄期の武士町人・僧から門番・中間などの武家奉公人に至る人たちの賭博盛況ぶりを赤裸々に伝える。
都市部では賭博は庶民の娯楽となっており、警察機構の末端に位置する目明しや番人が同心などの役人を賄賂で引き込み、その盛んなことは取り締まりに追いつくものではなかった。村落を放浪する賭博専業者は多くそれぞれの余儀ない事情から人別帳から外された無宿者で、彼らは賭博常習者を誘い集団化してゆく。「清水港の次郎長」「国定村の忠治」の講談でも知られるように、幕末には広範囲の縄張りを有する博徒の親分も出現していた。

13 近世村落賭博事情

宝塚市米谷地区の近世庄屋和田家に残された文書の中に、賭博に身を持ち崩した倅の親子の縁を切り人別帳から除くようにと願う文書がある。家から家財を持ち出し、親の名で借金を繰り返し放浪する倅を一度は改心させたものの行状は改まらない。ついに

親子の血統相除き申したく、御憐愍を以て右倅、岩吉除き、帳なし((10))に下され候様(『和田家文書』)

とあり、わが子を無宿人に切り離す最後通告をしなければならない親の嘆きを伝えている。それはまさに十二世紀の『梁塵秘抄』の世界そのままであり、こうした人間が博徒集団へ組み込まれていくのである。いつの世にも賭博は人としての道を踏み外させる魅力があり、それに抗いきれない弱い人間も絶えることがない。その事情はわが日下村でも変わりないものであった。   
日下村の三㌔南には河内一宮「枚岡神社」があり、相撲や軽業の興行が行われている。そうした祭礼や興行で人の集まる場所には香具師((11))や芸人とともに博徒が入込み、必ず賭博が行われた。大坂のような都市に出て遊ぶということがそう簡単ではない村落の住人には普段から娯楽らしい娯楽とてなく、賭博はまるで麻薬のように人々を惹き付けただろう。
日下村のような平和に見えた村落にも仁右衛門のような、そういう状況が用意されれば賭博に手を出す人はいたし、一夜限りとはいえその輪に加わった村人もいたのだ。普段から村人同士で賭博に興じるというようなこともあったとしたら、それはむしろ当然のことで、彼らはあるいは積極的に、喜んで、一夜の賭博を楽しんだかもしれない。
日下村で普段から賭博が行われていたか、ということに関しては、享保十二年一月から三月にかけて、長右衛門方に四・五人の村人が集ると、連れ立って庄左衛門方に行き、「庄左衛門方にて遊び候」という記述が頻繁に出てくる、これが賭博である可能性は高い。賭博は庄屋自らも興ずるものであったのだ。
もっと穿った見方をすると、善根寺村番人権助自身がそうした博徒を手引きし、仁右衛門宅での賭博を開帳させたとも考えられる。この時代、日下に限らず河内一帯は木綿という米の二~三倍にもなる収益率の良い商品作物の生産で、かなり銀を持つ百姓がいたことは容易に想像される。そうした情報が裏の世界に伝わらないわけはなく、一儲けしようという風来坊が入り込んだとしても不思議はない。

14 沖仲仕

この他国ものが堺廻船加田屋与兵衛方に勤める吉右衛門と名乗っていることも注目される。いくつもの堀が縦横に走り、水運が流通の主体であったこの時代、廻船屋は多くの港湾労働者を船荷の積み下ろしのために雇いこむ。沖仲仕はこうした浜働きに多くの垣外非人を下働きさせており、博徒世界と切っても切れない繋がりがあった。
力自慢の集まる沖仲仕には相撲取になるものもいたし、博徒の親分になるものもいたのだ。重労働に明け暮れる沖仲仕にとって、賭博は大いなる楽しみであり、長ドスを帯びて町や村を席巻して廻る博徒の姿はまさに英雄に写っただろう。

15 近世堕胎事情

その次に九兵衛の咎は「脱躰の療治」とあるが、これは音が同じであればどんな漢字でもあてた当時からいえば堕胎のことであろう。では女が駆け込んできた理由もその辺のところにあるのかも知れない。江戸時代、生まれた子をすぐに殺す間引きは東北や中国地方などの貧村に多く見られたことであるが、堕胎の風習もそれに劣らず広範囲に行われていた。
生まれる前に処置することはそれほどの罪悪とは考えない風習があった。その方法としては暴力を加えるものと薬を用いるものがあり、堕胎薬は町で売られていた。豊臣秀吉に仕えた中条帯刀に始まる産婦人科医は中条流といわれる「子おろし医者」として堕胎を専門とし、「(つい)(たち)(がん)」という堕胎薬を売りさばいて暴利を得ていた。
勿論この時代のそうした堕胎が安全であるはずはなく、悲惨な状況で命を落とす女性も多くいた。しかしそれを選ぶしかないそれぞれの事情があったのだ。女が板銀一丁という高額で求めた薬も堕胎薬であれば納得がいく。貞享三年(1686)には「子おろし薬」は金一分(約二万円前後)で売られている。
間引きは幕府も禁令を出している厳しい御法度であったが、堕胎は大目に見られていた。日下村から三㌔ほど南の客坊村の享和二年(1802)の『村方取締并倹(むらかたとりしまりならびにけん)約定書(やくさだめがき)』(『井上家文書』)には、

一男女若き者身持ち不埒につき、懐妊におよび候節、産婦(さんぷ)入用((12))、小児片付入用など勘定仕立、七分三分に割合、男より七分、女より三分差出し、穏便に相済候よう致すべきこと
 但双方不埒の筋申立て、村役人へ申し出候はば相ただし候上、不埒の申分いたし候者、過料銭三貫文差出させ、村の入用に致すべきこと

とあり、こうした若い女性の婚姻前の懐妊が珍しいことではなく、「小児片付け」という堕胎処置があたりまえのように行われていたことがわかる。その際の双方の話し合いが度々紛争になり、過料三貫文(約六万円)という細かい金銭的な取り決めが必要なほどそれは頻繁に起こったのだ。
その後には
  
一若き者他村へ夜遊びに参り候義は申すに及ばず、居村にても夜遊びに参り、長咄など致し候儀決して致すまじく候

とあり、「夜遊び」という若者同士の遊興が盛んであった頃が分かる。そしてそれは堕胎に関する詳細な規定を見れば、若者の男女交際、いわゆる「ヨバイ」という風俗にも繋がっていたことは明白である。「ヨバイ」は赤松啓介氏の著書にその実態が詳しいが、江戸時代を通じて広い地域に存続してきた。
河内長野地方では明治末期に村に交番が出来てから若者のヨバイが消滅へと向かい、堕胎や賭博も摘発され止んでいったという古老の話を民俗学者の宮本常一が取材している。明治までの村落でそうしたことがいかに蔓延していたかを物語る。
 小児片付入用、過料銭三貫文という文言が、若者の夜遊びの赤裸々な実態を暴露し、わが日下村においても堕胎薬を置き、またその療治を行う家があったことはこの時代の村落としてはごく普通のことであったと理解できる。ただ他村から買いにきてこうした問題が起こるというのでは長右衛門にとっては見過ごすわけにはいかず、ここで一札とる必要があったのだろう。

16 おわりに

こうして日下村を騒がせたこの他国者入込み事件は内々に収められ、村は穏やかさを取り戻す。庄屋長右衛門には取り調べをするまでもなく、善根寺村番人権助の立場も仁右衛門の賭博行為も九兵衛の堕胎療治もすべて分かっていたはず。村人が隠れてする行為は庄屋はすべてわかって見ぬふりをする、ということも必要であった。村人の咎は庄屋の管理不行届きとなり、一身同体の関係なのだから。
この事件も詫証文で終わらせることはあまり波風立てずに決着をつける最上の方法であった。しかも村人への戒めという点では確かに効果が上がっているのだ。
長右衛門がたった一行「諸勝負宿つかまつりまじく」と記してくれたお陰で、我々はこの時代の裏社会に生きる人間の姿をちらりと垣間見ることが出来た。沖仲仕出身の吉右衛門がやがて博徒に身を持ち崩し、女と二人連れで恐喝と賭博を生業(なりわい)村々を放浪する。村落の番人を巻き込んでしまえば娯楽に飢えた村人たちを手玉に取るのはたやすいことで、その渡世は一度はまれば抜け出せない面白いものであったろう。
そして「脱躰((堕胎))の療治」という文言がそんな渡世に生きる女の境遇を浮かび上がらせる。彼女はその必要があって自らの体を危険にさらす堕胎薬を買い求め、男とともに賭博で一儲けして日下村を後にする彼らの訪問は日下村には人騒がせではあったが、我々にはこの時代の裏社会に生きる男と女ひと時の瞬間を鮮やかなで照らし出してくれた
その光は村落にあった村人の生活の実態をも白日の下に曝す。娯楽に乏しい人々のつらい労働を終えたあとのひと時を癒してくれたものが何であったか、そして若い男女の恋のエネルギーの行き着く果ての風俗をも。
日下村にあった暮らしの暗部を赤裸々に暴きすぎたかもしれない。だがそれは明治以前の閉ざされた村にあって、年中行事や講の集まりと同じように、人々の暮らしに大きな位置を占める民俗文化であった。

1 欠落(かけおち):農民が村を失踪すること
2 ねだり:強請 ゆすり 
3 公儀(こうぎ):幕府、奉行所などの支配権力
4 断り(ことわり):奉行所などへの届出、訴訟 
5 御番所(おばんしょ):大坂町奉行所
6 野崎観音(のざきかんのん):大東市にある福聚山慈眼寺
7 誤り証文(あやまりしょうもん):詫証文、謝罪文書、始末書、
8 転び切支丹(ころびきりしたん):キリスト教禁止にともない、信者であったが信仰を捨てた者
9 手先御用(てさきごよう):犯人探索に従事する警察業務の末端
10 帳なし(ちょうなし):人別帳に記載のない無宿者
11 香具師(やし):祭礼などで見世物を興行し、粗製品を売る者、
12 入用(にゅうよう):費用、経費

参考文献
『近世日本身分制の研究』塚田孝 兵庫部落問題研究所1987
『都市大坂と非人』塚田孝 山川出版社2001
『目明し金十郎の生涯』阿部善雄 中央公論社 1981
『井上家文書』井上家昌氏所蔵
『和田家文書』和田正宣氏所蔵
『大阪市史第三巻』大阪市 平成二年
『賭博Ⅲ』ものと人間の文化史 増川宏一 法政大学出版局 1983
『向井家文書』向井竹利氏所蔵
『赤松啓介民俗学選集第四巻』赤松啓介 明石書店 2000
『河内国滝畑左近熊太翁旧事談』宮本常一 未来社 1993

文中の歴史的身分差別を示す名称の使用は正しい歴史認識のためであり、不当な歴史差別を惹起するものではないことをご理解いただきたい。