向井家文書目録
解 題
一 向井家
善根村の向井家は近世を通じて善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っている。善根寺村大絵図(243㌢×134㌢・目録38)は、年代は不明ながら、「註蔵田地」とあることから、足立家の当主が註蔵であった、享保から寛保年間(1716~44)にかけてのものと思われるが、この大絵図には、向井家の現在地に、郷蔵と、太郎兵衛(向井家)屋敷が描かれている。
その屋敷は元禄時代以前の建物とされ、東大阪市の文化財に指定されている。屋根は萱葺で庇には桟瓦を葺いている。縁側に面して平書院を設け、次の間との境には、桃山末期から江戸初期に好んで用いられた大柄な左右対称文様を透かし彫りにした豪放な板欄間をはめ込んでいる。土間には七つカマドが残され、裏庭には二棟の蔵がある。東大阪市内では最も古く、十七世紀のものとしては非常に重要な民家である。裏庭のむくの木は樹齢五百年といわれ、東大阪市の天然記念物に指定されている。
二 善根寺村
善根寺村は現東大阪市の最北東に位置し、東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり恩知川に接する。古代から近世初頭まで日下村の枝郷であった。日下は記紀・万葉に登場する古代から広く知られた地名である。承平年間成立の『倭名類聚抄』の河内郡大戸郷に日下村があり、『新撰姓氏録』には「河内国日下大戸村」とある。
文禄三年(1594)長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて「草香村」と表記されている。徳川氏の時代に入り、元和元年(1615)に天領、その後、寛永11年(1634)7月、大坂西町奉行曽我丹波守古祐の支配下に入る。万治元年(1658)曽我古祐の没後、その子曽我又左衛門近祐が引き継ぎ、その没後、寛文元年(1661)大坂西町奉行彦坂壱岐守の支配下に入る。
この二年後の寛文三年(1663)日下村より分離して善根寺村として独立する。以後、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)天領となり、金丸又左衛門代官支配となる。以後善根寺村は幕末まで一貫して天領であった。
三 文書調査の経緯
向井家には平成十一年にはじめてお伺いし、旧の本屋の中にあった大きな木箱に入った文書群を写真撮影させていただいたのが最初である。その木箱の蓋には、「昭和三十四年五月六日調済」の付箋があり、現当主のお話では、先々代の当主が調査されたものであろう、とのことであった。
その後ご当主から、蔵の中も一度調べてみてほしいとのお申し出があり、平成二十年五月から改めて蔵の調査に入った。蔵の二階の一番奥から10箱の木箱に入った文書群が見つかった。これらは明治以前に木箱に納められたものと思われる。一階からは木箱7箱、ダンボール12箱の文書群が見つかった。ダンボールのものは、かなり新しい時代に整理されて、仕分けされたものと思われる。いずれも近世初期から幕末までの文書群で、虫食いがあり、一階のものは、破損したもの、湿気で張り付いたものが一部あったが、蔵の中に置かれていたことが幸いし、全体的に、状態は良好であった。以後調査完了まで三年を要した。
四 向井家文書にみる善根寺村の概要
向井家文書は近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間(1673~84)は次郎右衛門が勤め(目録602・1566)、その後、宝永から正徳年間(1704~16)は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤め(目録1432・1443)、享保三年(1718)閏10月に向井太郎兵衛家に引き継がれた(目録470)。
それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間(1818~44)には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
文禄三年(1594)長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高1061石9斗6升であり、その構成は田方が78㌫を占め、その内訳は上々田・上田が大部分という、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村であった。
寛文三年に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを『日下村町切帳』(目録75)として日下村から譲り受けた。総数2055点に上る向井家文書の中で、この「日下村町切帳」が最も古いものである。この文書によると、村高1089石7斗7升6合となっている。
この分村の詳細な事情は、寛文四年(1664)の「高免吟味願」(目録542)によって判明する。それによると、善根寺村と日下村では田畑の地質が異なり、日下村と同じ斗代では高免になるという理由で吟味願を出したところ、免定を別紙にし、分村を認められたものであった。分村以後の善根寺村高としては、寛文五年(1665)の「年貢免定」(目録680)によると、397石2斗1升8合である。
善根寺村は寛永11年(1634)曽我丹波守古祐から、元禄元年(1688)能勢
出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)天領となる。天領となってから金丸又左衛門代官に提出した元禄四年(1691)の「善根寺村明細帳」(目録123)が存在する。表紙には「要大切保存 古昔当村状態判明ス 昭和36・12・10」の付箋があり、先々代のご当主が調査されたものであった。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。
この元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は360石1斗1升、家数が51軒、そのうち高持35軒・無高16軒となっている。この村高は享保以降、幕末まで426石9升4合となり、家数は文政九年(1826)「宗門人別帳」(目録213)では93軒、そのうち高持35軒、無高57軒と無高が大幅に増加する。
善根寺村は生駒西麓の山方村であり、慶応三年(1867)「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(目録593)によると、杣・木挽職が21軒、石工が2軒あり、山稼ぎが多かったことがわかる。生駒西麓からは生駒石といわれる良質の石材が産出し、石の切り出し事業は、善根寺村豪農である足立家が近世初頭に大坂城石垣普請を請け負って以来の伝統であり、現在の善根寺町においても石材業社が数軒存在する。
さらに水車職が8軒あり、車谷と呼ばれた生駒西麓の急峻な谷筋での水車稼ぎで、薬種製粉・精米・油絞りなどに従事している。他に、木綿商3軒、古手商6軒、古道具商14軒、綿打業3軒、木綿染色業1軒となっており、河内ならではの商工業の発展がみられる。
特に向井家文書としての特徴は、大和川付替え後に開発された新田との水論文書にあるといえる。善根寺村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替えにより、新田として開発された。善根寺村はじめ山方村は深野池に悪水を落としていたが、その深野池が新田になることで、悪水処理に困難が生じた。
それは本田村にとっては死活問題であったから、宝永年間以後、新田との水論が多発した。水利文書126点のうち、水論文書は39点、そのうち新田関係の水論文書は28点にのぼる。
その中でも宝永年間12点、正徳年間9点と、付替え直後に水論が集中するのは、深野新田が耕地整備のために用水井路、悪水井路を開削し、それは直に本田村の水利に影響するものであったから、「悪水迷惑」「井路差構」出入が頻発したものである。
新田側には、自らの田畑に水損の危険があっても、山方村の悪水を請通すことが求められ、その上、山方村の悪水を用水として利用してきた平野部の本田村からも訴えられる状況にあった。享保三年(1718)の京都裁許書(目録1449)によってこの水論に一応の決着がつけられ、宝永年間から多発した水論も以後減少する。それは、紆余曲折を経ながらも、新田が一定の収穫を上げる水田となり、地域社会の一員として認められていったことを物語る。
これらの水論文書は、河内における新田開発が、周辺本田村にもたらした軋轢の大きさを示し、新田開発の実像を物語る史料として貴重なものといえる。
さらに、特筆すべきは、善根寺檜皮大工に関する文書が11点(目録1789-1799)見つかったことである。善根寺檜皮大工について地元では、神護景雲二年(768)の枚岡神社から南都春日社への勧請の際に、檜皮大工の先祖が供奉したという、古代に遡る伝承を持つことでつとに有名である。
実際彼らの活動に関しては、戦国時代の永禄十二年(1569)の棟札が見つかっており、彼らの始まりがそれ以前に遡ることは確かである。中世の時代には、南都興福寺の「寺座」に従属し、当時の最高の技能者として南都に住し、畿内各地に檜皮葺の作事に出掛けていたことが明らかになっている。(拙稿「善根寺檜皮葺大工の伝承と活動」『善根寺町のあゆみ』2009)
延享二年(1745)の「寺座覚書」(目録1790)と、明和元年(1764)の「春日社屋弥之日記」(目録1791)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年間から幕末までの南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
しかも、天明と安政年間の、「興福寺修理目代」から与えられた「寺檜皮大工職補任状」が三点(目録1792・1796・1797)残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。善根寺檜皮大工の存在は、古代に遡る伝承とともに、善根寺村の人々が守り伝えてきた歴史事実であり、向井家文書によって彼らの近世における実像と活動が解明されたことは非常に大きな意義がある。
また蔵からは、漢方薬がはいったままの薬箪笥と、裏に木村宗右衛門御役所の墨書と、「木」の刻印がある「御用」木札(長さ28㌢)が発見された。
善根寺村における木札については、枚岡市史編纂主任を勤められた藤井直正先生によると、昭和30年代中ごろ、善根寺村車谷水車郷の山川家より「大坂御城米御用」の木札が発見されている。向井家文書に「御城米五拾五石」の「船賃請取覚」(目録858)と、「御城米弐拾五石」の「送り状」(目録876)があることで、この「大坂御城米御用」木札は、車谷の水車で精米した大坂城米の運送の際に用いられたものであることが確認された。
今回の調査によって、近世における善根寺村の全体像が浮かび上がり、これらの実り多い成果が得られたことは、私ども日下古文書研究会の大きな喜びとするものである。
向井家文書は善根寺村のみならず河内における近世史料としては第一級のものといえる。この史料によってさらに地元の歴史解明が進み、地域史研究に生かされることを願うものである。
なお今回の文書調査に全面的にご協力いただいた向井家ご当主、向井竹利氏に深く感謝申上げます。
平成23年7月
日下古文書研究会 浜田昭子
善根寺村領主変遷
文禄三年(1594) 長束治郎兵衛検地 1061石9斗6升
元和元年(1615) 天領
寛永十一年(1634) 西町奉行 曽我丹波守古祐
慶安二年(1649) 曽我氏検地 1089石7斗7升6合
万治元年(1658) 曽我又左衛門近祐
寛文元年(1661) 西町奉行 彦坂壱岐守
寛文三年(1663) 西町奉行彦坂壱岐守
善根寺村分村
延宝五年(1677) 島田越中守・福富岩之助
天和元年(1681) 藤堂伊予守
元禄元年(1688) 能勢出雲守
元禄四年(1691) 金丸又左衛門代官
宝永元年(1704) 安藤駿河守
正徳四年(1714) 鈴木久太夫代官
享保七年(1722) 桜井孫兵衛代官
同十二年(1727) 玉虫左兵衛代官
同十三年(1728) 鈴木小右衛門代官
寛保元年(1741) 角倉与一代官
宝暦八年(1758) 飯塚伊兵衛代官
宝暦十三年(1763) 旗本勝田幾右衛門采地
安永五年(1776) 風祭甚三郎代官
寛政六年(1794) 鈴木新吉代官
寛政十年(1798) 池田仙九郎代官
享和二年(1802) 柘植又左衛門代官
文化十年(1813) 重田又兵衛代官
同 十三年(1816) 木村宗右衛門代官
天保十一年(1840) 小堀主税代官
同 十四年(1843) 築山茂兵衛代官
同 十五年(1844) 都筑金三郎代官
嘉永二年(1849) 多羅尾又左衛門代官
嘉永六年(1853) 小堀勝太郎代官
文久元年(1861) 小堀数馬代官
江戸時代の河内国河内郡日下村(現東大阪市日下町)の庄屋であった、森長右衛門の残した『日下村森家庄屋日記』や、河内に残された古文書を調査研究し、地元の歴史解明に努めています。郷土の先人たちの生き様を多くの人々に分かりやすく伝えることで、ふるさとへの思いを深めてもらうことを目的に活動しています。
2011年11月22日火曜日
向井家文書にみる近世の善根寺村の概要
向井家文書資料集刊行
向井家文書にみる近世の善根寺村の概要
善根寺村は近世河内国河内郡の最東北(現東大阪市)に位置し、南は同郡日下村、北は讃良郡中垣内村に接する。東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり深野池に接する。
向井家は享保三年(1718)から善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、その所蔵文書は二〇五五点にのぼる。近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っていることから、近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。
善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間は次郎右衛門が勤め、その後、宝永から正徳年間は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤めた。
享保三年に向井太郎兵衛が庄屋となり、それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
文禄三年(1594)の長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高一〇六一石九斗六升であり、その構成は田方が七八㌫を占め、その内訳は上々田・上田が過半を占める、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村である。
寛文三(1663)に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年(1649)の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを「日下村町切帳」(一・1)として日下村から譲り受けた。
寛永十一年(1634)に曽我丹波守古祐支配となり、
以後元禄元年(1688)の能勢出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)に天領となる。この年に金丸又左衛門代官に提出した「善根寺村明細帳」(二・1)が存在する。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。以後善根寺村は幕末まで天領であった。
元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は三六〇石一斗一升、家数が五一軒、うち高持三五軒・無高一六軒と、高持が無高の倍であった。村高は享保三年(1718)に四二六石九升四合となり、家数は、文政九年(1826)「宗門人別帳」では九三軒、人数四四五人、そのうち高持三五軒、無高五七軒と無高が大幅に増加する。さらに嘉永四年(1851)家数一〇一軒、人数四九八人と、順調に発展する。
善根寺村は山方村であり、「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(十・1)によると、杣職・木挽職などの山稼ぎや、急峻な谷川を利用した水車稼ぎが多く、木綿商・古手商など、河内ならではの商工業の発展がみられる。
また村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替後に新田として開発され、善根寺村はじめ本田村との水論が多発した。深野新田関係の水論文書は二八点にのぼり、享保三年の京都裁許書によってこの水論に一応の決着がつけられることになる。
特筆すべきは、十一点の善根寺檜皮大工に関する文書である。善根寺檜皮大工については、戦国期、永禄十二年(1569)の棟札が発見されており、中世からの活動が確認されているが、これらの文書によって、彼らの近世の実態が明らかになった。
延享二年(1745)の「寺座覚書」(二十四・1)と、明和元年(1764)の「春日社造営屋弥[破損]」(二十四・2)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年中(1684~1688)より南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
しかも、天明三年(1783)、安政三年(1856)、同七年(1860)「興福寺修理目代」から与えられた三点の「寺檜皮大工職補任状」(二十四・3)が残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。
延享元年からの神尾若狭守巡見に関する触書(八・7・8)が二三点にのぼり、村は次々に届く触書に緊張しつつ準備に奔走し、年貢増徴の御旗を掲げてやってくる勘定奉行を迎えた。
「神尾若狭守巡見宿泊明細」(十四・12)によると、善根寺村豪農足立家に神尾若狭守以下四七名、向井家に堀江荒四郎以下一八名が宿泊している。
明治改元の直前、慶応四年(1868)四月から五月にかけて、神仏判然令・丁銀廃止・「天下の大事にあたり金穀御用を相勤めるべし」との太政官通達など、二八項目にのぼる「維新触書」(二十三・1~28)が折紙に写し取られている。
何百年の眠りから覚めたこれらの文書が、新しい地域史の解明に繋がることを期待したい。
最後に、この資料集作成にあたり、所蔵文書の提供にご協力いただきました向井家ご当主・向井竹利氏に深く感謝申し上げます。
日下古文書研究会
浜田昭子
向井家文書にみる近世の善根寺村の概要
善根寺村は近世河内国河内郡の最東北(現東大阪市)に位置し、南は同郡日下村、北は讃良郡中垣内村に接する。東は生駒西麓のなだらかな山地で、西は平坦地となり深野池に接する。
向井家は享保三年(1718)から善根寺村の庄屋を勤めた家柄であり、その所蔵文書は二〇五五点にのぼる。近世初頭から一貫して善根寺村の地を動くことなく現在に至っていることから、近世の村方文書が途切れることなく揃っている点で貴重である。
善根寺村の庄屋については、寛文三年の日下村からの分離後、延宝・貞享年間は次郎右衛門が勤め、その後、宝永から正徳年間は、大坂城石垣普請を請け負った善根寺村の豪農・足立十右衛門方昌が勤めた。
享保三年に向井太郎兵衛が庄屋となり、それ以後幕末まで一貫して向井家と、善根寺村檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛家が庄屋・年寄役を勤めている。文政から天保年間には庄屋役不在となった日下村の兼帯庄屋を勤めており、その時期の日下村方文書が存在する。
文禄三年(1594)の長束治郎兵衛検地では、日下・布市・善根寺を含めて村高一〇六一石九斗六升であり、その構成は田方が七八㌫を占め、その内訳は上々田・上田が過半を占める、いわゆる生産力の高い典型的な河内農村である。
寛文三(1663)に日下村から独立するが、この時、日下村として行われた慶安二年(1649)の検地帳のうち、善根寺村の田畑に関する部分のみを「日下村町切帳」(一・1)として日下村から譲り受けた。
寛永十一年(1634)に曽我丹波守古祐支配となり、
以後元禄元年(1688)の能勢出雲守まで、大坂西町奉行の支配が続き、元禄四年(1691)に天領となる。この年に金丸又左衛門代官に提出した「善根寺村明細帳」(二・1)が存在する。今回の調査では、村明細帳としてはこの一点のみであった。以後善根寺村は幕末まで天領であった。
元禄四年「善根寺村明細帳」によると、村高は三六〇石一斗一升、家数が五一軒、うち高持三五軒・無高一六軒と、高持が無高の倍であった。村高は享保三年(1718)に四二六石九升四合となり、家数は、文政九年(1826)「宗門人別帳」では九三軒、人数四四五人、そのうち高持三五軒、無高五七軒と無高が大幅に増加する。さらに嘉永四年(1851)家数一〇一軒、人数四九八人と、順調に発展する。
善根寺村は山方村であり、「御運上御冥加其外餘業稼取調書上帳」(十・1)によると、杣職・木挽職などの山稼ぎや、急峻な谷川を利用した水車稼ぎが多く、木綿商・古手商など、河内ならではの商工業の発展がみられる。
また村の西に広がる広大な深野池は、宝永元年(1704)の大和川付替後に新田として開発され、善根寺村はじめ本田村との水論が多発した。深野新田関係の水論文書は二八点にのぼり、享保三年の京都裁許書によってこの水論に一応の決着がつけられることになる。
特筆すべきは、十一点の善根寺檜皮大工に関する文書である。善根寺檜皮大工については、戦国期、永禄十二年(1569)の棟札が発見されており、中世からの活動が確認されているが、これらの文書によって、彼らの近世の実態が明らかになった。
延享二年(1745)の「寺座覚書」(二十四・1)と、明和元年(1764)の「春日社造営屋弥[破損]」(二十四・2)によって、興福寺大乗院役所から「河州寺座」という地位を与えられていたこと、貞享年中(1684~1688)より南都春日社の造営に善根寺檜皮大工が出仕していたことが判明した。
しかも、天明三年(1783)、安政三年(1856)、同七年(1860)「興福寺修理目代」から与えられた三点の「寺檜皮大工職補任状」(二十四・3)が残されており、中世における「大工職」の地位を、近世においても興福寺から補任されていたことが証明された。
延享元年からの神尾若狭守巡見に関する触書(八・7・8)が二三点にのぼり、村は次々に届く触書に緊張しつつ準備に奔走し、年貢増徴の御旗を掲げてやってくる勘定奉行を迎えた。
「神尾若狭守巡見宿泊明細」(十四・12)によると、善根寺村豪農足立家に神尾若狭守以下四七名、向井家に堀江荒四郎以下一八名が宿泊している。
明治改元の直前、慶応四年(1868)四月から五月にかけて、神仏判然令・丁銀廃止・「天下の大事にあたり金穀御用を相勤めるべし」との太政官通達など、二八項目にのぼる「維新触書」(二十三・1~28)が折紙に写し取られている。
何百年の眠りから覚めたこれらの文書が、新しい地域史の解明に繋がることを期待したい。
最後に、この資料集作成にあたり、所蔵文書の提供にご協力いただきました向井家ご当主・向井竹利氏に深く感謝申し上げます。
日下古文書研究会
浜田昭子
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