勝二郎の疱瘡
江戸時代の河州河内郡日下村の庄屋である長右衛門貞靖が書き残した[『日下村森家庄屋日記』には、長右衛門の子息勝二郎が疱瘡に罹った時のことが詳しく記されています。そこから、江戸時代の疱瘡がどのようなものであったかを知ることができます。
享保一三年(1728)四月、八代将軍吉宗の日光社参というビッグイベントが行われ、幕府のお達しで日本国中にかつてない厳戒態勢がしかれていました。その真っ最中の十七日、村の警戒の総指揮にあたっていた日下村庄屋長右衛門のもとに大坂から飛脚が駆け込んできます。長右衛門の長男勝二郎の疱瘡発病の知らせです。勝二郎はこの時一六才、大坂三郷南組惣年寄という町役人のトップを勤める大商人野里屋へ養子に入っていました。
疱瘡は天然痘と呼ばれ、一九八〇年に世界から根絶されたのですが、江戸時代には最も恐れられた流行病でした。この年の初め、長右衛門家の下女が疱瘡を発病し、わずか六日で亡くなっています。その死亡率は約三割といわれ、幼い子どもたちはそのほとんどが亡くなります。
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疱瘡という病気は、まず熱とともに小さな発疹が顔や手足に出て、えんどう豆のような大きさになって全身を覆います。それが水泡になって膿をもつと、病人は高熱と激しい痛みに苦しみ、体も顔も腫れ上がって容貌さえも変ってしまいます。三、四週間で発疹が乾き、かさぶたになりますが、まだ膿をもっていて、痛みと治りかけの猛烈なカユミとで病人は夜も寝られない状態になります。かさぶたが落ちるとあとがくぼみとなり、「あばた面」になります。容貌の変化は特に女性にはつらいことで、
「疱瘡は器量さだめ」といわれたのです。
また症状がひどく目にまで発疹が及ぶと盲目になり、男性は座頭、女性は瞽女という盲人集団に入って生きるしかなかったのです。人々は
「こんな恐ろしい病は鬼神の仕業にちがいない!」
と考え、疱瘡神や疱瘡地蔵を祀り、現代では考えられない迷信が流布しました。牛の糞の黒焼が特効薬として高値で売り出され、幕府も触書を出し、
「黒焼きにした牛の糞を粉にし、白湯にて服用すべし。」
と奨励しました。日下の旧家井上家には、
「おだいもくをとなえ、いただく也」
と朱書された「疱瘡の御守」が残されています。この中にもおそらく牛の糞の黒焼が入っているはずです。今から考えると不衛生この上ない悪迷信ですが、人々はこの病の恐ろしさに、効くと言われれば何でも飛びついたのです。また患者のフトンやネマキまで赤色にし、鎮西八郎為朝を描いた赤い疱瘡絵を護符として枕元に飾ることが流行しました。
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長右衛門はこの知せに
「またよりにもよってこの厳戒の時に、えらいこっちゃ!」
と頭を抱えました。この時、日光社参の警戒で庄屋は外出を禁じられていたので見舞にも行けず、奉公人や村の医者玄喜を看病に行かせます。ついに二〇日には蔵屋敷へ疱瘡見舞の外出を願い出て、日帰りで許されます。早速勝二郎を見舞うと、大坂の疱瘡専門の名医小林見宜の診断を受けて発疹が水疱になっていました。この時代には疱瘡の伝染性も知られていないので、患者を隔離することなく、勝二郎は大勢の奉公人がいる野里屋で手厚く看病されていたのです。
予断を許さない勝二郎の様態に心引かれながらも、夜ふけにとんぼ返りで帰った長右衛門はすぐに会所に出、日光社参の警戒の陣頭指揮に当ります。庄屋としての勤めと、長男の病状とでその心痛は察するに余りあります。
二一日には日光社参での警戒は終わりますが、ホッとする間もなく、二四日に勝二郎は再び高熱を発し、最も危険な段階です。長右衛門は村の用事で大坂蔵屋敷へ出た後、そのまま野里屋で看病に泊り込みます。翌日勝二郎の熱は下がり、長右衛門は疲れ果てたのか駕籠で日下村へ帰ります。
この後勝二郎の様態は少しずつ好転し、与えていた高麗人参も減らします。当時高麗人参は最高の薬で、一匁(四㌘)で約一両(一〇万円前後)という高価なものでした。この頃には村人からの見舞品がたくさん届きます。発病より十日目、勝二郎の発疹が乾き始めます。
「峠は越したので、もはや気づかいはおまへん。」
という医師小林見宜の言葉に、長右衛門は胸をなでおろしたのです。
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危機を脱した五月二日、勝二郎は一番湯にかかります。これは酒湯といわれ、疱瘡にかかってから二週間後くらいに行われる民間療法です。米のとぎ汁に少量の酒と薬草を入れた湯を病人にかけ、体を拭くのです。乾きかけた発疹の激しい痛みとカユミを癒すためでもあり、また疫病を切り抜けたお祝の行事となっていたのです。だがこんな方法が体にいいわけはなく、五代将軍綱吉は六四才で麻疹にかかり、酒湯にかかった翌日に急逝しています。
酒湯は将軍家・大名家では盛大な儀式となります。この年三月、一六才だった吉宗の嫡男、後の九代将軍家重が疱瘡にかかり、その酒湯の儀の際には諸大名から膨大な進物が献上されたのです。
勝二郎はこの後二番湯・三番湯とかかり、そのつど長右衛門家から祝いとして赤飯を配ります。その後、糸瓜の汁も届けます。かさぶたの膿を押し出し、その痛みとカユミを癒すためです。
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この年は大坂で疱瘡患者が続出し、疱瘡の専門医が引っ張りだこでした。長右衛門が額田の親類を見舞うと、大坂の疱瘡患者に付き添っていて留守です。血縁や地域のつながりが今より濃厚で、義理を欠くことが最も嫌われた時代です。疱瘡患者が出ると皆が放ってはおきません。「疱瘡祭」と称して大勢の親戚や村人が集まり、患者の枕辺を贈物で飾り立てて宴会をするのです。
善根寺村の庄屋向井家には文政四年(1821)の「市次郎疱瘡見舞之留」という文書が残されています。「赤飯」「菓子」「しんこ(米の粉で作った菓子)」「鯛」「らくがん」「酒」「まんじゅう」「金平糖」「ビワ」など実に五三人の村人からの見舞品が書上げてありました。当時の善根寺村の戸数が九〇軒ほどですから、実に六割の村人が見舞品を贈ったのです。人々は集まって隣人の苦しみを分かち合い、厄病を追い払おうと、真剣でしたが、結局こうしたことでますます感染が広がっていくことになります。
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疱瘡は河内でも猛威をふるい、加納村で子どもが高熱で危険な状態になり、
「善根寺の足立さんが持っているうにかうを分けてもらえまへんか。」
と頼み込んできます。「うにかう」は「ウニコール」といい、イッカクという北極海にいる鯨の牙から製した疱瘡の特効薬です。これは中国から貿易で入ってくるので大変高価で、豪農である足立家だから持っていたのです。この子は幸い命を取り留めたようです。
ところが日下村ではとうとう死者が出ます。六月になって
「喜八の息子が疱瘡で相果てました。」
と長右衛門に知せが入ります。早速その日に日下川の堤で火葬します。普通の葬礼の時には日下墓地の火屋という火葬場で火葬するのですが、疱瘡という疫病を避けたいという思いからこうした川の土手での火葬となったのです。
勝二郎は回復後七五日が過ぎた七月三日、日下村に帰って本復祝いをし、「お厄をのがれてめでたいこっちゃ!」
と、祝餅を近郷に配ります。疱瘡は誰もが一度はかかる避けがたいお厄といわれたのです。
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この後、勝二郎の母親佳世が大坂へお礼に行きます。三人駕籠で、はさみ箱(荷物入れの箱)を担ぐ男衆と、お供の女衆二人と総勢七人連れです。村の庄屋の「ごりょんさん」が大坂へ出かけるとなると、なんと大そうなことでしょう。野里屋で家族や大勢の使用人に扇子・木綿の反物、子どもには人形などのお礼の品物を贈ります。
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江戸時代の人々がいかに疱瘡を恐れたか、お分かりいただけたでしょう。神に願い、迷信に頼ることがすべてでした。疱瘡患者の家に集まり、苦しみを共にしようとしたその行為が、かえって流行を拡大させるという悲劇もありました。しかしお互いに薬を融通し合い、何とか隣人を救おうとしたのも、またその地域の助け合いでした。
多くの人がなす術もなく倒れていく中で、丹念で地道な研究によってその伝染性の解明にたどり着いた優れた医者たちもいました。
文化八年(1811)、橋本伯寿は『国字断毒論』を著わして疱瘡が接触すると伝染することを発表し、寛政元年(1789)には緒方春朔が、疱瘡患者のかさぶたを粉にして鼻から吸引する方法で人痘種痘に成功します。
嘉永二年(1849)には大坂で緒方洪庵が「除痘館」を開き、種痘を広めます。けれどもこの種痘も、
「種痘をすると牛になってしまうらしいで!」
という風評が立ち、なかなか普及しなかったのです。民衆の心は旧来の迷信に支配されており、科学的な治療法を理解することができなかったのです。そこで「種痘宣伝の版画」が作られ、種痘の効能をわかりやすく教え広めたのです。
今日撲滅された天然痘に、江戸時代の人々が力を合わせて立ち向かった姿がここにあります。
そしてこの勝二郎はのち、頼山陽にも並び賞される河内に名高い漢詩人、「生駒山人」として大成するのです。
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