2011年2月27日日曜日

『日下村森家庄屋日記』



『日下村森家庄屋日記』は、この日下村(現東大阪市)の近世庄屋である、森長右衛門貞靖が18年間にわたって記録した日記です。現在この日下町に住む私たちが、この地の歴史を原本によって読み解くことは大変に意義のあることだという思いから、私たちは平成14年に日下古文書研究会を結成し、解読を進めてきました。

そして『日下村森家庄屋日記 享保13年度』については、所蔵されている東大阪市加納の森義雄氏から原本を提供いただき、その翻刻と、関連文書、さらに登場する様々な出来事の解説を一冊の本として刊行いたしました。その他の15冊については京都大学に所蔵されています。私どもはそのすべてについてコピーをいただき、すでに享保1214年度を解読しましたが、京都大学から翻刻許可がいただけないので刊行に至っていません。

日記の内容
享保13年(1728)に四十代の働き盛りであった森長右衛門は、豊かな学識と練達の筆跡で、日下村の明け暮れを詳細に記録しています。庄屋日記はいわゆる「役用留」として、村役人としての役用のみを記録するものが多いのですが、彼は村中の日常の細々とした出来事にも目を注ぎ、なにげない村人の暮らしを丁寧に書き留めています。昭和40年に刊行された『枚岡市史』などでわかっていることや、地元で言い伝えられてきたことの、さらに奥深い事実が解き明かされ、新たな発見があり、郷土の歴史の史料としてこれ以上のものはない、という実感があります。

そしてこの日下の貴重な史料を、今この地に住む我々が読むということの意義は、想像よりもはるかに大きいものがあったのです。森家の屋敷地も、今は畑になっている庭園の小高い丘も、村の会所も、善根寺浜という船着場も、布市の船頭さんのことも、長右衛門家の向かいの五兵衛さんの家も、日下の年配の方なら誰もが知っている事実でした。

こうした古老が経験してきた、この地の戦前までの農業は、そのまま享保時代に繋がります。庄屋日記に登場する、香盤で時間を計る水番や、蔵米納め、下作米納めの作業は、この地で何百年も永々と営まれてきたことなのです。

田畑の字名などは、古くから農業に従事してきた地元の人が呼び慣わしてきたものですが、急速に田畑が宅地に変わっていく現在、死語になりつつあります。九〇才の古老から教えていただいた「みよし」や、旧家の方からうかがった、「あまよろこび」や「ひのつり」という言葉。また、八朔の日から昼寝がなくなることから、「いやな八朔また来たか」という言葉などは、農作業の中で使われてきた言葉でした。

田畑の単位も、六畝を「むせ」八畝を「やせ」と呼び、「むせ田」「やせもん」という呼び習わし方、また日下村では勾配のきつい山の田んぼが広畝(こうせ)と呼ばれ、一反の面積が他地域より広かったいう事実など、我々には宝物のように貴重な情報でした。こうした地元の特殊な実情を踏まえないと、この庄屋日記に記された細かい数字から、当時の農業経営の実態を把握することは困難です。

享保時代の日下村は、確かに今も、古老の記憶の中に鮮やかに痕跡を残しています。年配の方々にとっては自明のことながら、「今これを記録しなければ!」という思いが強くなっていきました。
地域にあった懐かしい年中行事、古くから連綿と続いてきた伝統や風習が忘れられると、それに付随した言葉や思想も迷信として抹殺されていきます。それは歴史の流れというもので、くい止めることはできません。

『日下村森家庄屋日記』はこの地に生きた先人たちが、その時代時代に新しいものを受け入れ、古いものを忘れ去って生きて来た道に光を当ててくれました。それをたどり、埋もれた化石を掘り出し、現代に繋がる痕跡をさぐる。その作業はどんな苦労も吹き飛ばすほどの楽しさに満ちていました。

何時の時代にも古い史料の解読にはその時代の制約があり、我々の仕事は平成という時代を反映したものにならざるを得ません。我々がたぐり得る記憶にないものは、それ以前に廃れてしまったことなのだから、現時点での記録は、民俗学の一つの方法でもあります。
『日下村森家庄屋日記』の暮らしは現在の暮らしとは大きく違うものです。身分
制と格式に縛られ、支配者への絶対服従しかない時代、すべてが手作業という重労働の農作業、疱瘡や腫れ物にも、漢方薬と鍼灸だけが頼り、平均寿命が四十才前後という、生きることが今よりもはるかに過酷な時代。その中で与えられた境遇をありのままに受け入れ、精一杯生きた人々の姿があります。

そして長右衛門の姿から見える河内の庄屋の実像は、私たちの想像をはるかに超えたものでした。河内の豪農は、一大経済都市として繁栄する大坂と隣接するという大きな利運を背景に、都市大坂から郷土の発展に利するための最先端の情報知識を獲得しました。
そのために河内の豪農は、近郷庄屋階級ばかりでなく、大坂の有力商人とも盛んに縁組しました。長右衛門の長男は大坂南組惣年寄である大商人へ養子に入っていたのです。近世初頭から何代にもわたって繰り返されてきたそうした姻戚関係は、否が応でも河内の豪農の人脈を拡大させることになります。

長右衛門の交友関係は大坂惣年寄をはじめ、町奉行与力といった大坂行政の中枢を担う人物から、有力な用聞、大名出入商人、諸国問屋にまで広がっていました。しかもそのほとんどは姻戚でつながっていたので、親密な交流となっていました。

長右衛門は大坂南組惣年寄や町奉行所与力といった大坂三郷の行政の中枢を担う人物から、幕府の動向や大坂の都市行政の実情を、有力な用聞、大名出入商人からは、大名領国の社会経済情勢を、大坂商人となった息子たちからは大坂経済の最先端の情報を入手したのです。

それは長右衛門の視野を多角的なものにし、正確な情報分析能力を養うこととなりました。いわば河内の庄屋はこの多様な環境での経験と政治力によって単なる百姓身分を越える存在となり、実質的には、大坂の武士や町人と並び立つ地位に上り詰めていたのです。

河内の豪農庄屋は大坂経済の恩恵を受けて、財力においても武士階層を圧倒していました。常に蔵屋敷で平身低頭する長右衛門の方が、領主役人よりも懐が豊かであったことは誰の目にも明らかでした。長右衛門は豊かな財力と幅広い人脈、さらに確かな力量を持つ人物として一目置かれる存在であったことは想像にかたくないでしょう。

長右衛門は蔵屋敷役人から町奉行与力への口利きを依頼され、用聞同士の争論の仲介までしています。蔵屋敷役人も奉行所役人も、事あるごとに河内の庄屋を呼び出し、直接に村落出入の仲介人として指名し、さまざまな依頼事をし、賂を受けるのです。河内の豪農庄屋の存在は大坂の武士にとって依存するに足るものであったのです。

また長右衛門は河内地域の他の村々との寄り合いにも出かけます。この時代の村々の抱えていた問題、田畑の収穫に大きく影響する水利問題での争いや、また天候不良による不作の時には、年貢の減免のために、村々が連合して訴えを起こします。

とりわけ河内においては大和川付替え後に開拓された新田との軋轢が度々の水利争論となって大きく立ちはだかってきたのです。

長右衛門の肩に重くのしかかるものは現在の企業戦士の比ではありません。支配者と村との狭間にあって、村の安泰と村人の暮らしのよりよい成り立ちに心を砕いた長右衛門の姿は、この時代の庄屋階級の典型であり、そこには父祖伝来の地への深い郷土愛と使命感が伺えます。

長右衛門は今よりはるかに高価であった本をたくさん買い入れています123部もの蔵書を持ち、自身の子弟教育ばかりでなく、村人に本を貸し出して、村人の教育に役立て、文化の高揚を目指す姿勢があります。まず村のこと、村人の暮らしに心配りをすることが庄屋というものの勤めでありました。

自然を敬い、より良い暮らしを希求しつつ、襲いかかる病気や災害などの不幸にも力を合わせて立ち向かった先人たちの姿からは、確かにあった営みの重さがひしと迫ってきます。そこに今の私たちが忘れてしまった大切な何かを感じとることができます。

この日記を読むことで長右衛門たちが守ってきた暮らしが今の私たちの暮らしに息づいていることを知ることができ、自分たちの住むふるさとへの誇りと愛着を新たにすることが出来たのです。
二百八十年前の享保時代の生駒西麓の日下村の暮らしがどのようなものであったかを多くの人々に知っていただきたいという思いから、これからも『日下村森家庄屋日記』の解読を続け、それをあくまでも一般の人にわかりやすく解説したものを目指して、刊行していきたいと考えています。

しかし今のところその希望は叶えられそうにありません。京都大学の翻刻許可が困難という大きな難問が立ちはだかっているからです。でも私どもはその重い扉を開けていただける日が来るまで努力を続けていきたいと思っています。
                                                                                         日下古文書研究会   浜田昭子

『日下村森家庄屋日記 享保13年度」についてはすでに完売しています。
しかしその内容の一部については『くさか村昔のくらし』の中の「280年前の村の暮らし」と
「享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から」に掲載しています。




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