2011年3月2日水曜日

三 善根寺檜皮大工の実像

1 棟札に見る中世の活動

 (1) 広八幡神社永禄一二年の棟札
近世以前の唯一の棟札である広八幡神社の永禄一二年の棟札は高さ八七㌢、幅一五㌢という、棟札にしてはかなり大きなもので、その記載内容は非常に詳細にわたります。表面に檜皮葺を請負った職人集団を両側に配し、すべての職人名を列記し、裏面には檜皮の出荷状況まで記録しています。ではその記載内容が解明してくれるものを探ってみましょう。

広八幡神社 棟札表面
 ▼記載内容
表時建立社務池永宗介卅九才子甚次郎十八才 
永禄十貮年己巳八月十二日始 
仕手人数 新兵衛 奈良屋源衛門 サカイ新左衛門 番匠童子
与四郎 孫八 与六 善四郎 新次郎     亀
南方 檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次宿所河内善根寺頭三郎(假名) 
紀州在田郡東広八幡宮御上葺両大工
北方 檜皮大工摂津国四天王寺之住人藤原朝臣宗広源左衛(假名)門尉 
仕手人数 善左衛門 又左衛門 新□衛門 源左衛門 弥五郎
源五郎(小工)  甚四郎 源三郎        番匠童子 
廾四才                          太楠
奉加貮一石大夫郷快傳法印 五十才 根来寺蓮花谷院内 
同霜月二日午時棟上御祝言上遷宮
裏                       
御調作領四拾貫大工大工請取 時奉行社僧薬師院 實秀廾五才
惣奉行 世順卅九才 宮仕助大夫 
熊野檜皮百駄荷数貮百卅荷槙八十荷田那辺ヨリ出也裏山檜皮
五十束此分ハ皆浜湊崎山藤次郎廾五才両度以辛労出之
湯河殿ヨリ両大工ニ依被仰付如此候出在所ハ不定置事候 
在田日高二郡勧進本願社僧弁才天院 實粲   
永禄十貮年己巳十月三日筆者同實粲
1.「南都住人、宿所善根寺」
棟札表面に「檜皮大工南都之住人藤原朝臣家次(ひわだだいくなんとのじゅうにんふじわらあそんいえつぐ)」となっており、その下に「宿所河内善根寺頭三郎(しゅくしょかわちぜんごんじかしらさぶろう)」とあります。この「南都住人」や「大坂住人」という記載は棟札によく出てくるもので、職人の出身あるいは所属を表すものです。北方とある「摂津国四天王寺之(せっつのくにしてんのうじの)住人(じゅうにん)藤原(ふじわら)朝(あ)臣宗(そんむね)広(ひろ)」は大坂の四天王寺に従属する檜皮葺座であることを示しています。では南都住人とあるのはどこに所属していたのでしょうか。これを解明するには、表1の2・4の高山八幡宮の二枚の棟札にある「寺座(てらざ)」という記載がヒントになります。

平安末期以降、商工業者が集団で「座」を結成し貴族や大社寺に従属して貢納金を支払う見返りに諸税の免除と専売特許権を得たのです。畿内では多くの「座」が成立し、大和では特に興福寺とその門跡、大乗院、一乗院に従属する商工座は戦国時代には一〇〇座に近い数に上りました。特に建築関係の手工業座が多く、職種も広範囲にわたっていました。「寺座」とは興福寺に従属する建築職人の「座」なのです。

治承(じしょう)年間(一一七七~一一八一)に重源(ちょうげん)による東大寺再建がはじまり、大和には優秀な技術者が集りました。興福寺は今こそ小さくなっていますが、中世の時代には、現在の奈良駅から春日神社までの区域がすべて興福寺の境内地でした。そこに一〇〇を越える堂塔(どうとう)伽藍(がらん)が建っていました。 

その修復工事は常に行われ、仕事が絶えることはありませんでした。その上に興福寺は大和(やまと)守護(しゅご)として大和一国を治めていましたので、豊かな財力もあり、建築(けんちく)工匠(こうしょう)たちに安定した収入を提供したのです。

春日興福寺は藤原氏の氏神(うじがみ)、氏寺(うじでら)であり、藤原氏一門の祈願による造営では京都の宮廷、公家の工匠たちが造営(ぞうえい)に参加しました。それによって王朝貴族の洗練された美的感覚も確実に取り込まれたのです。大和の伝統的な天平風(てんぴょうふう)と京の公家風の二つの潮流が融合し、当時の建築界の頂点に位置する建築技術が醸成されました。
大和の建築工匠たちは「無双(むそう)の上手(じょうず)」とはやされ他国へも呼ばれて出かけていきました。地方では優秀な技能者が存在せず「無双の上手」と称賛された「奈良大工」を高い報酬と役職で優遇し、中央の高い技術を取り入れたのです。

興福寺建築工匠座は大乗院座、一乗院座、寺座の三座に分かれ、共に大和春日社の造営に従事していました。木工の「寺座」は文明年間(一四六九~一四八七)には大和春日社の工事一切を独占していました。檜皮葺の寺座は木工の「寺座」ほどの強い独占力はなかったものの、春日社の屋根は伝統的に檜皮葺であることから檜皮葺座は重んじられ、門跡第一といわれた有力な座であったのです。
興福寺とその門跡の支配下にあった座の番匠(ばんじょう)たちは主として奈良市中に住んでおり、特に「寺座」の番匠は市外に住む「田舎(いなか)番匠(ばんじょう)」と対称的に呼ばれていて、その大部分が奈良市中に住んでいました。

したがって善根寺檜皮大工たちは興福寺の檜皮葺寺座の工匠として南都に住んでいたのです。棟札に「南都住人」と記載していることがそれを証明しています。畿内における春日興福寺の建築職人の名声は高く、「南都住人」は当時の建築界での最高の技術者であることを示すものであったから、それを誇りとして棟札に記載したのです。 

とにかく、善根寺檜皮大工は永禄一二年という時期に南都に住み、「寺座」として大和春日社の檜皮葺に従事しながら各地に出掛けて檜皮葺を行なっていたことがこの棟札によって確認できます。 

2. 藤原朝臣家次の名乗り
善根寺檜皮大工が「藤原朝臣家次」と名乗るのはなぜでしょうか。平安時代から工匠への叙位(じょい)(位階を授けること)、受領(ずりょう)(地方官の官職を与えること)の授与(じゅよ)が行なわれました。建(けん)久(きゅう)元年(一一九〇)一〇月、東大寺再建の上棟に際し、建築工人に受領が行なわれたと、鎌倉初期の関白(かんぱく)九条兼(くじょうかね)実(ざね)がその日記『玉葉(ぎょくよう)』に記しています。

朝廷が行なう叙位や任官も、朝廷の権力の衰えた室町時代に入ると、京都や奈良では大社寺が所属する工匠にその功績を顕彰する手段として受領号などの官職の授与を行なったのです。河内(かわち)権守(ごんのかみ)や讃岐(さぬき)大夫(だいふ)という称号がみられ、権(ごん)大工(だいく)、正大工(しょうだいく)、惣(そう)大工(だいく)、太夫(たゆう)大工(だいく)などの肩書と共に貴族の姓を与えています。中世に大工の呼称は造営の最高責任者「おおいたくみ」のことで、一般の建築職人は番匠と呼ばれました。

近世に指導者の地位を著わす棟梁という呼称が現れると、大工は一般の建築職人の名称となったのです。一四世紀以降の法隆寺では橘(たちばな)、平(たいら)、藤原(ふじわら)、秦(はた)の四氏が指導者としての大工職に定められて相伝されていました。藤原家次は特に檜皮大工に多く、半数以上が家次を名乗っています。藤原家次は実在の人物であり、南家の武智(たけち)麿(まろ)の一一代後に出てくる人ですが、なぜ家次が多いのかは不明です。

以上のことから善根寺檜皮大工は寺座に従属する時代に興福寺から「藤原朝臣家次」の受領名を拝領していると考えられます。

3. 広八幡神社の永禄一二年の檜皮葺作事(さくじ)の実態
棟札の表に両大工名があり、この檜皮葺替えを四天王寺に従属する檜皮大工とともに請け負っています。摂津では四天王寺、大和では興福寺という畿内でもトップクラスの建築工匠が協力し合う関係がありました。それはその神社の規模によって職人数が不足する場合もあり、職人同士で互いに協力関係が築かれていたのです。

その両側には仕手人数とあり、この工事に携わった職人のすべての名前が列挙されています。善根寺、四天王寺ともに八名、番匠童子が一名ずつです。善根寺の仕手の中に奈良屋やサカイとあるのも他所の職人に応援を頼んでいるのです。番匠童子とあるのは建築現場の古図にも描かれているように、大工集団につき従っていた年少の工匠見習いで、少額ながら作料や食料が支給されていました。

広八幡神社の本殿三間社流れ造りの檜皮葺工事に一八名
で遂行しています。八月一二日に仕事始め、十月三日に弁才天院の實粲(じっさん)がこの棟札を執筆し、「霜月二日午時棟上御祝言上遷宮」とあります。現在奈良、大阪、和歌山の檜皮葺工事に携わり、広八幡神社の檜皮葺替も担当された谷上社寺工業株式会社の谷上永晃氏のお話では、「八月から古い檜皮を取り除き、十月から檜皮葺を初め、棟上御祝言は完成の意味で、霜月(一一月)に完成ということでしょう」とのことです。

右側の「建立社務池永宗介」は広八幡神社に遺された三〇枚の棟札の中の元亀四年(一五七三)の拝殿棟札に「社務湯河忠次郎孫池永宗介」とあり、この人物は南北朝以後足利幕府の奉公衆に列する紀州の国人として活躍した湯河氏一族です。裏面左側に「湯河殿より両大工に仰せ付けられ」とあり、湯河氏がこの作事を采配したことがわかります。湯河氏は永禄二年(一五五九)に短期間ですが守護畠山高政の要請で河内守護代に就任しており、畿内の優秀な檜皮大工を招くことも可能であったのです。

広八幡神社 棟札裏面
 裏面に薬師院や弁才天院とあるのは中世に六坊あった広八幡神社の神宮寺仙光寺の子院であり、その僧實秀と世順が奉行を勤めています。この六坊は天正一三年(一五八五)三月の羽柴秀吉の紀州征伐で薬師院、明王院のみが残り、広八幡神社の別当職を交替で継承しました。

天文一六年(一五四七)の棟札でも湯河氏の子息が社務を勤めているので池永宗介がこの時代の別当(べっとう)(寺務担当者)であったと思われます。弁才天院の實粲(じっさん)が在田(有田)、日高の二郡で勧進(かんじん)(寄付を集めること)を勤め、この棟札の筆者でもあります。左側には根来寺(ねごろじ)の塔頭(たっちゅう)蓮(れん)花谷院(げだにいん)の僧の寄進を記していますが、奉加(ほうか)二〇石とあり、当時の根来寺の財力の大きさが偲ばれます。

裏面の中央に記載されるのは檜皮葺の出荷状況です。熊野の檜皮を一〇〇駄二三〇荷と、槙八〇荷を田辺湾から出荷しています。谷上氏のお話では檜皮は原皮師(もとかわし)と呼ばれる職人が山に入り採取します。一本の檜から採取出来る檜皮の量、八貫目(三〇㌔)を一単位として丸く括り、それを一丸(ひとまる)と称するそうです。馬で運んだ時代は、一駄は五丸 といい、三〇㌔のものを五本、つまり一五〇㌔を積んだといいます。現在も檜皮の単位はこの様式を用いています。つまり一〇〇駄は五〇〇丸(一五㌧)となります。檜皮葺は一坪葺くのに一駄、一五〇㌔が必要といわれ、広八幡神社で合計一〇〇駄必要としています。つまり一〇〇坪分の檜皮です。

広八幡神社の三間社流れ造り本殿で約三〇坪の広さです。現在は一間社の摂社三社あり、安永七年(一七七八)の古図には本殿の横に六社の摂社があるので、中世にも一間社の摂社が六社あったとすると六〇坪、合計で九〇坪となります。ほぼ一〇〇駄の檜皮量に相当します。しかし檜皮の量については、さらに裏山檜皮五〇束と記しているので現在より厚く葺いたのかもしれません。

裏山檜皮五〇束は「濱湊崎山藤次郎(はまみなとさきやまとうじろう)廾五(にじゅうご)才両度以辛労出之(りょうど しんろうをもって これをいだす)」とあります。神社は周囲に山や森を持ち、その産する材木で数十年毎の社殿修復をまかなったのです。裏山であっても濱湊崎山より出荷しているのは山と海に狭められた紀州の地形の厳しさ故でしょう。濱湊は有田川か広八幡神社に最も近い広川の河口でしょうか。紀ノ川の河口の紀伊湊が中世には現在よりかなり奥まったところに位置していたように、中世との地形の違いがあり、現在のどこかは不明です。 

谷上氏のお話では和歌山での檜皮採取は、昭和三〇年代でも船で運ぶしかなかったといいます。この出荷の困難さを筆者實粲は、原皮師藤次郎の苦労を讃えるように、「両度(りょうど)辛労(しんろう)をもってこれを出(い)だす」と生々しく伝えています。『棟札銘文集成』の中でも檜皮葺の棟札でこれほど詳細な工事の実情を記載したものはなく貴重な史料です。

檜皮葺の出荷を示す裏面の記載が一〇月三日で、一一月二日の上棟が完成とすると、職人数一八名で葺仕事だけでは一ヵ月でやり遂げています。現在の葺く工程は坪当たり五人といわれます。一八人で一ヵ月、一応二八日間と仮定し五〇四工(く)となります。これは坪五人として一〇〇坪の檜皮を葺く延べ労働人数となります。

その下に、「槙八〇荷」とあるのは昔は?材(こけらざい)として槙が使われたことがあり、?で葺く建物があったのかもしれません。

裏面に御調作領四〇貫とあり、これが大工の給金です。中世の番匠の日別賃金を作料といい、大工で一〇〇文、一般の番匠では二五文という例があり、他に食料米大工一斗、権(ごん)大工(だいく)は九升、座(ざ)衆(しゅう)八升が支給されました。賃金についての史料は少なく確かなことは不明です。

(2)伝承の発生と春日鹿曼荼羅の入手

善根寺春日神社 鹿曼荼羅


善根寺春日神社の宮座に伝わる「春日(かすが)鹿(しか)曼荼羅(まんだら)」は、現在大阪市立天王寺美術館に寄託され、室町時代のものであることが証明されました。
ではこれはどのようにして伝わったのでしょう。室町時代の善根寺檜皮大工が置かれていた春日興福寺内の状況を調べてみました。

中世前期には朝廷や貴族勢力に守られていた造営制度が崩壊し、建築工匠座は大社寺に従属し、職場の安定を求めました。その中では職場をめぐる争いが激化したのです。やがて一四世紀頃には職場の確保を目的とした大工(だいく)職(しき)が成立します。これは大社寺に補任料を納めて補任状を免許されると職場の独占と給田などの庇護を与えられ、その代償として祭礼の用銭、労役奉仕などの義務を負わされるものでした。大工職は大きな権利として相続、売買されたので争奪の対象となったのです。

こうした職場の独占、領主に対する優先権など座衆の対立に対して優劣の根拠となったのは座の先例であり、由緒でした。古くからの正しい由緒が最も貴重とされたから、朝廷との関係を示す古い系図や文書が証拠として持ちだされたのです。

善根寺檜皮大工の伝承はこうした中世の風潮の中で春日社内での優位な地位の獲得のために生み出されたと考えられます。『先代旧事本記』に登場する枚岡神社の主神天児屋根命に随神した二五部の人に自分たちの出自を置くことは、神代とのつながりを意味します。しかも神護景雲二年の枚岡神社からの遷宮につき従ったというのは大和春日社の創祀に関係するわけで、大和春日社の中でも最高の権威を持ちえたはずです。

この由緒はおそらく『先代旧事本記』の内容を熟知した人物が作り上げたものと思われますが、最も効果ある由緒として、春日社内での善根寺檜皮大工の地位を引き上げることに成功したでしょう。

春日鹿曼荼羅のみならず春日曼荼羅には、春日宮曼荼羅、春日社寺曼荼羅、春日本地仏(ほんちぶつ)曼荼羅(まんだら)など諸形式があり、藤原氏一門の尊崇を受け、遠隔地の人々が春日曼荼羅を春日の神として日夜拝することによって参詣に代えたのです。やがて南山城、大和を中心に春日講が結成され、毎月春日曼荼羅の前で法楽を催し、民衆の中に春日信仰として広まっていきました。

春日曼荼羅は興福寺絵所の絵師によって制作されましたが、室町時代には制作、販売を取り扱う絵屋が登場し量産され、春日信仰の大衆化を推し進めました。善根寺檜皮大工たちは自らの権威ある由緒によって室町時代にこの曼荼羅を大和春日社から拝領したか、あるいはそうした絵所で作成された曼荼羅を購入したものと思われます。


(3) 秀吉による座の破却 
中世には春日興福寺に従属し、当寺の最高の技術を持って各地に檜皮葺に出かけていた善根寺檜皮大工集団は中世の終りとともに大きく運命が転換することになります。
応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱(一四六七~一四七七)以後、大和でも混乱と兵火にみまわれ、筒井(つつい)氏(し)、越智(おち)氏(し)、十市(とうち)氏などの大和の国人領主が勢力をのばしていました。商工業者は寺社を離れ、春日興福寺に従属していた諸座も、大和の国人領主の下に走り、その保護を受けていました。興福寺のかつての膨大な領地は衰退の一途をたどりはじめるのです。

天正一三年閏八月の羽柴秀長が大和郡山に入城しますと、筒井氏以下大和武士は伊賀へ移されたのです。これによって興福寺の没落は決定的となり、大和に君臨した興福寺の中世的権威は落日を迎えたのです。 

豊臣政権の成立後、秀吉は関所の撤廃と共に、座の破却を行ないました。いわゆる「楽(らく)市(いち)楽座(らくざ)」といわれるものです。天正一五年(一五八七)には豊臣秀長が奈良、郡山の「諸公事座(もろもろのくじざ)を悉(ことごと)く破れ」と命じています。これ以後畿内近国の直轄都市を中心として工人、商人の座をいわず、全面的に廃止され、商工業者は貴族や大社寺から完全に独立して自由な営業を行なうことになりました。

戦国の混乱を制し、天下人となった秀吉にとって、貴族、大社寺の荘園領主に結びついた中世的な経済秩序を打ち破り、経済機構を統一政権に組み込むためにぜひとも必要な手段であったのです。これによって、さしもの春日興福寺の膨大な商工座も解体されました。 

建築工匠の座については「諸座御棄破(しょざごきは)」の命令とともに、諸職人の使用は寺家の自由にしてよいとされ、座が否定されて後も、大社寺においては従来の工匠を召し使って造営修復の作事が行なわれ、かつての工匠によって職場の独占が行なわれました。こうした座は近世には仲間組合へと繋がっていきます。奈良今(いま)辻子(ずし)の符坂油座(ふざかあぶらざ)や大山崎(おおやまざき)の油座は慶長のころには有力な仲間を形成しています。建築座についても仲間を形成し、その後も大和春日社の造営、造替、修復に出仕したのです。

興福寺の「寺座」をはじめとして法隆寺の四人の番匠大工も、中世以来の世襲大工職や夫役(ぶやく)免除の特権を否定され、幕府(ばくふ)大工頭(だいくかしら)中井家の支配下で南京組、西京組、法隆寺組などの工匠集団に編成されて、幕府の行なう諸工事に使役されたのです。興福寺「寺座」は近世に入って「春日座」と称し、慶長一八年(一六一三)の造替では寺座の指導者であった一六人大工が春日座大工として、幕府の大工頭である中井大和守との折衝に当たっています。

中世興福寺は没落し、朱印領二万石を与えられて、秀吉、徳川政権への服従を強いられることになります。数百といわれた座は破却され、座衆は春日興福寺という大きな支えを失ったのです。

善根寺檜皮大工も例外なく非情な歴史の変革の波に押し流されるしかなく、河内善根寺に帰ったのです。それが善根寺檜皮大工の伝承にある「故ありて河内に帰り」ということだったのではないかと思うのです。つまり「南都住人」であった善根寺檜皮大工は、近世への転換によって興福寺に従属する「寺座」として受けていた生活の安定を失い、河内へ生活の基盤を移すことを余儀なくされたのです。それは「檜皮葺座」が興福寺の座衆の中でも符坂油座とともに最も裕福な座であったことを考えても、善根寺檜皮大工にとっては余りにも苛酷な運命であったでしょう。この新しい時代の流れに翻弄された記憶を、伝承の「故ありて」という言葉に込めたのではないかと考えます。

2011年3月1日火曜日

四 善根寺春日神社檜皮大工集団の近世

1 善根寺春日神社の勧請と善根寺村の分村

善根寺檜皮大工集団は座の破却をはじめとした近世への転換にともなって河内に生活の基盤を移し、善根寺に春日神社を勧請し、地元での春日の神への奉仕を拠り所として農業に励みつつ、檜皮葺の生業を継続したと思われます。

善根寺春日神社の創建については善根寺村の隣村である日下村の近世庄屋である井上家に残された、元禄五年(一六九二)の『寺社御改(じしゃ おあらため)吟味帳( ぎんみちょう)』によると「河州河内郡善根寺村 木之宮右之社(きのみや みぎのやしろ)往古(おうこ)より年来(ねんらい)勧請(かんじょう)年暦(ねんれき)知(し)レ不申候(もうさずそうろう) 五八年以前建立替申候(こんりゅうかえもうしそうろう) 宮座( みやざ)人数(にんずう)毎年(まいとし)増減御座候祢宜(ぞうげんござそうろう ねぎ)神子(みこ)神主( かんぬし)当村( とうそん)に無御座候(ござなくそうろう)」とあります。元禄五年の五八年前つまり、寛永一一年(一六三四)に建て替されています。

もともと地元にあった小さな祠を建て替えて勧請したのか、すでに勧請されていたものを社殿だけ建て替えたものか不明ですが、とにかく寛永一一年までに春日神社を勧請しています。
この勧請と善根寺村の村立については他にも史料が存在します。このころの善根寺村には大阪城の石垣普請を命じられた足立家が存在し、生駒山から築石を切り出していました。天正一一年(一五八三)の羽柴秀吉による築城だけでなく、元和六年(一六二〇)の徳川氏による修築の時にも命じられています。 

「足立家千代のしるべ」によると、そのための人夫が二万人を数え、村の開発と善根寺村の日下村からの分村、春日神社の勧請に大きな役割を果たしたとあります。けれどそれは誇張であり、事実は足立家の石垣普請を契機として人々が集まり、善根寺で近世村落が成立する時期と、彼ら檜皮大工の帰郷が重なりあったと考えるのが妥当でしょう。春日神社の勧請も戦国時代にすでに檜皮大工の活動はあったのですから、足立家の石の切り出し以前に勧請されていたはずです。

とにかくこうした事情で一つの村としてまとまり、寛文三年(一六六三)に、日下村の枝郷であった善根寺が分村したのです。もとより帰郷といっても彼らの生活の本拠は善根寺に存在したのです。春日神社が勧請された時、檜皮大工たちを中心として春日神社の宮座が成立したと考えられます。その時には彼らの「春日鹿曼荼羅」は大きな役割を果たしたことでしょう。祭祀的な宮座と興福寺における商業座である寺座が善根寺においては一つのものとなり、「檜皮(ひはだ)御座(おんざ)」と呼ばれたのです。それを証明する石燈籠が善根寺春日神社本殿右に残されています。
その記銘は文字の磨耗が激しいものの拓本をとると次のように読めます。

 北面「善根寺檜皮御座中 長久如意満足所者也」
  南面「奉修 木野宮春日社 燈篭諸願成就所敬白」
  西面「甲午七月吉祥日」
  東面「承応三暦」


承応三年の石灯籠

北面に「檜皮御座中」とあり、承応三年(一六五四)七月に檜皮大工の檜皮御座から春日神社へ奉納したのです。この「木野宮」と称するのは『寺社御改吟味帳』にも「木之宮」と



宝永六年の石灯籠

あり、檜皮葺という木の皮を剥いで成り立つ彼らの生業との関連でしょう。

さらにその他に拝殿南側の玉垣の傍に八基並ぶ石燈篭の真ん中に宝永六年(一七〇九)の年号と「檜皮寺座中」と東面に銘記された石燈籠があります。この「寺座」こそ、中世に春日興福寺に従属していた時に彼らが属していた誇りある地位を象徴するものなのです。彼等は「寺座」であった誇りを忘れず、燈籠にも棟札にも「寺座」と記載したのです。

さらに善根寺での「春日座」についての史料として寛政二年(一七九〇)正月の『春日座中改名帳』という横帳が存在します。これは現在原本は確認できないのですが、『枚岡市史』によると、座に所属するものの出生の届けを座帳に記入し「寺座御許方」として五七名の連記があります。五七名と子の出生を記帳していることから、善根寺春日神社の祭司的な宮座と、檜皮大工の寺座が同一のものとなっていたと思われます。

2 大工組、仲間と善根寺檜皮大工

近世においては江戸幕府御大工頭中井正清を頂点として畿内近江六ヵ国に大工組が編成され、組頭を通じて支配が貫徹されました。檜皮葺・?葺の建物が集中する京都では、檜皮大工組の触頭として平岡家が統率し、「屋根師仲間定法写」が残されています。幕府支配の徹底とともに営業の確保、大工間の紛争防止、賃金協定、親方、弟子間の規定など、細部にいたるまで詳細に規定し、いわば同業組合的な機能を果たしていました。

河内においては京都のような檜皮大工組の存在は知られていません。ただ河内大工組についてはそのいくらかが研究で明らかになっています。
中井家支配の河内国大工組は四組記載されています。宝暦九年(一七五九)には新堂組、柏田組、古橋組、額田組二組の六組となり、河州六組と称されます。額田組の半右衛門家は先祖が大坂城御役大工で、宝永四年(一七〇七)から正氏と名乗り、善根寺から二㌔南の山手町に現在もご子孫がお住まいです。

額田組半右衛門富房は東大阪市吉田にある春日神社の享保五年(一七二〇)の再建の時の棟札に記載されており、もし善根寺檜皮大工が善根寺に最も近いこの組と関連して作事を行なっていたのであれば、この春日造りの造営に関係しているはずですが、棟札に善根寺の記載はありません
現在日下町の旧家に「五畿内并近江六ヶ国大工杣木挽方・御朱印旧記録」が遺されており、日下村に四名の幕府御用の杣職が存在したことがわかっています。

五畿内并近江六ヶ国 大工杣木挽方 御朱印旧記録

河内郡日下村 儀右衛門 慶応三卯年九月改

中井主水支配(印)河州中組御用役杣

日下町の山本家に残された四枚の鑑札には写真のように、中井主水支配、慶応三年(一八六七)改とあります。杣職人は儀右衛門・弥助・徳左衛門・佐助の四名です。彼等は幕府の造営の際に、日下の山から材木を切り出す名誉ある役目を仰せつかっていたのです。このような中井家支配の「御朱印旧記録」と鑑札が見つかるのは珍しいことで貴重な史料です。

近世における建築職人はその地域の大工組に従属しその支配に服し、幕府の公用作事の国役にも従事させられ、その上農民として田畑を有する者には年貢と夫役をも課せられました。慶長一二年(一六〇七)に大工陳情により、幕府より畿内近江六カ国大工の田畑高役免除が承認され、一般農民の石高と区別されたのです。 

高役免除の大工高は世襲され、その後、株権として売買の対象となり形骸化します。善根寺檜皮大工の幕末の「枚方宿助郷免除の嘆願書」はそうした近世初頭の大工高が形骸化した結果、改めて免除嘆願を行なう必要が生じたと考えられます。

3 棟札に見る近世の活動 
1.高山八幡宮本殿棟札 万治二年(一六五九)
表 
     萬治二亥年 河州善根寺棟梁         河州善根寺        
和州高山八幡宮社奉御遷宮葺師 宮脇宗兵衛   惣右衛門 新(和州三輪)九郎
六月十一日         同五兵衛 同長左衛門 次(奈良)兵衛
同仕手彦左衛門 同八兵衛 同忠次郎
裏 記載なし

2.水度神社本殿棟札 寛文九年(一六六九)
表 
己寛文九歳       
奉上葺檜皮大工  田中八兵衛藤原朝臣家次敬白
酉三月吉日

天王寺組 □村源右衛門       田中惣十郎
松本□□右衛門      大野□作
□村□兵衛   □□組 長家庄次郎
北野五良兵衛

3.高山八幡宮本殿棟札 元禄三年(一六九〇)

元禄三年       善根寺棟梁 
和州高山八幡宮社奉御造営葺師 寺座八右衛門
七月廾一日         同 五兵衛 
仕手奈良小川町彦兵衛 大坂嶋や町 長左衛門
同 与三兵衛     同 六兵衛 
今辻子町 四郎兵衛    大工 茂左衛門
東向町 市郎兵衛   善根寺 彦左衛門
下清水町  彦四郎     同  藤兵衛   
裏 記載なし

4.諏訪神社本殿棟札 元禄七年(一六九四)
元禄七年甲戌河州河内郡善根寺村藤原朝臣家次 檜皮屋惣兵衛
大工 八兵衛5⑤ 高山八幡宮本殿棟札 亨保十一年(一七二六)

亨保十一丙午年  檜皮大工棟梁        
高山八幡宮御社上葺棟札 河州河内郡善根寺村宮脇五兵衛政重
三月吉日          
大坂こう産町
仕手 肝煎  弥平次
同すけた町  喜右衛門
同のうにんはし  庄兵衛
同大工町  安兵衛
南都高畑寺座  作兵衛
裏 記載なし


(1)棟札に記載された善根寺檜皮大工

年代としては万治から享保にいたる一〇七年間にわたります。
五兵衛・八兵衛・彦左衛門など同じ名前の大工が三名存在します。年代から考えて同一人ではなく、名を子や孫または血縁者に相伝していると思われます。藤原家次は中世の伝統を受け継ぐ受領名ですが、近世においても使用しています。

宮脇宗兵衛・五兵衛、田中八兵衛・八右衛門が棟梁を勤めています。享保一一年には宮脇五兵衛政重となっており、善根寺菩提寺内の墓地にこの宮脇家の宝篋印塔の墓があり、前面に「宮脇氏先区菩提」と銘記され、周囲に四一名の戒名を刻んでいます。西側の墓地内に「法華塔」があり、これはかっての宮脇家の屋敷前の一里塚に宮脇家が建てたものだそうです。
宮脇家墓

法華塔
その碑面は磨耗が激しくわずかに「宮脇宗大夫為人好善近遠慕」「逝年六十有一也」と読め、年号は不明です。この宮脇宗大夫という人物が万治の棟札に登場する宮脇宗兵衛その人と思われます。筆者は平成一一年に善根寺村の近世庄屋である向井家の旧母屋にあった文書群の調査をさせていただきました。

その時に発見した「宗門人別帳」によると、文政四年(一八二一)に五兵衛は二二才、祖母と妹二人の四人家族、一八年後の天保一〇年(一八三九)に五兵衛四一才、妻と一三才の娘との三人家族で、五兵衛はこの時には庄屋を勤めています。そして「手続書」と題した文書に、「当村元庄屋宮脇五兵衛安政五丑年(一八五八)一二月病死仕候、相続人無御座候」とあり、一九年後に相続人がなく断絶したことを伝えています。

宗門人別帳 文政四年
宗門人別帳 天保一年

善根寺の菩提寺住職の記憶では、あとに残された妻が阿弥陀像一体を寺に託していかれたということです。この宮脇五兵衛が、享保時代の日下村庄屋であった森長右衛門貞靖が記録した『日下村森家庄屋日記』の中に登場するのです。

享保一四年(一七二九)に木積宮(現在の石切神社)の屋根葺き替えがありました。江戸時代には木積宮は日下村・額田村・植付村・芝神並(しばこうなみ)村が氏子となっており、四ヶ村で祭祀組合を作り、神社の運営に携わっていました。享保一四年九月二一日、日下村庄屋長右衛門は木積宮四ヶ村の寄り合いに出て、本殿の屋根葺き替えに関する相談をしています。

木積宮の屋根は宝永三年(一七〇六)に葺き替えられ、この年で二三年目にあたっていました。宝永三年には本殿の修復もあり、その費用は三貫二〇〇目(約七〇〇万円)だったようですが、この時は屋根葺き替えだけで、善根寺五兵衛を呼寄せて檜皮葺の見積もりをさせています。
この善根寺五兵衛こそ、善根寺檜皮大工の棟梁であった宮脇五兵衛であることは明白です。善根寺五兵衛は木積宮の檜皮葺について、「下地の通り、こけら葺きにして五〇〇目、替棟の外まで檜皮葺にして一貫目」と見積もりしています。五ヶ村庄屋が村へ帰り、百姓の意見を聞いてからもう一度九月二五日に寄り合います。そこでは額田村庄屋から入札にして下値になるようにしては、という意見で、公儀へ葺き替えの御願いをしてから入札することに決まります。 

額田村庄屋の話では、他の業者にも見積もらせ、「さや(外囲い)もいたし、さやふきかへ共に五〇〇目、」と報告します。つまり檜皮葺の一貫目よりかなり安価であるということは、檜皮葺ではない他の材質であったと思われますがその詳細は不明です。

閏九月三日に木積宮の神主数馬が七日に奉行所へ屋根葺き替えのお届けに行くことを日下村長右衛門に伝えに来ています。その後十月七日には木積宮屋根葺き替えに日下村より人足三人を遣しています。十月廿九日には屋根葺き替えの費用の割付の相談があり、総費用七八三匁八分一厘となっています。この価格ではおそらく檜皮葺ではなかったと思われます。これを四ヶ村で石高に応じた割付をし、公平に負担しています。

この『日下村森家庄屋日記』の善根寺五兵衛の記載に出会ったことは、五枚の棟札を発見した時と同じような感動がありました。享保一四年といえば、その三年前の享保一一年に奈良県の高山八幡宮の屋根葺き替えに出かけているわけで、善根寺檜皮大工の江戸時代の活躍を証明するものとなったのです。

水度神社の寛文の田中八兵衛もこの時代の指導者とも思われ、万治から元禄にかけて三度名が出てきます。田中家は『枚岡市史』編纂の昭和四〇年代には善根寺に住んでおられたようですがその後転出されたようです。彦左衛門も万治と寛文の二度登場しています。

(2) 檜皮大工の実際の人数

寛文の水度神社の葺替えでは、天王寺組ともう一組の応援を受け、八名の大工名が裏面に記載されています。高山八幡宮の万治には善根寺七名で和州三輪一名、奈良一名、元禄には善根寺四名で奈良から五名、大坂から三名、享保には大坂から四名、南都から一名いずれも応援を受けています。どの作事も善根寺檜皮大工単独で行なうのではなく、必ず奈良や大坂の檜皮大工の手を借りています。これは元来檜皮大工は普段は農業をしながら「出職」として社寺へ出掛け、現場で作業を行い、一定期間で完成させるため、「助職人」として各地から職人が応援に駆け付けたのです。永禄の棟札でも四天王寺の檜皮大工とともに行なっています。では実際の善根寺檜皮大工の人数は何人いたのでしょうか。

日下古文書研究会では平成二一年から再び善根寺向井家に文書調査に入り、今回は蔵の中の文書を調べさせていただいております。そこから檜皮大工に関する貴重な文書が数点見つかりました。そのうちの一通、文化一一年(一八一四)に善根寺春日神社若宮の屋根修復があり、その普請について檜皮大工が約定した一札から檜皮大工の人数が確認できます。

一札之事
一此度当地若宮御殿御屋根修復之義、武左衛門棟梁として仁兵衛・弥右衛門同心致葺立積り
左之通
一檜皮長サ惣テ二尺五寸弐ツ切之事
一軒厚サ平ニテ五寸、出平ニテ四寸地腹玄皮之事
一葺足下壱尺三分足、上弐尺五部足中之間四分足御鉾下壱  
尺三分足、上惣テ四分足之事
一足代手伝人足其外入用物皆式引受申、代銀六百匁出来立之上申請候、相対之事
右之通葺足万端少も無相違、尤かつこうよくふき立、檜皮等も地皮を用ひず随分宜敷所ヲ相用ひ可申候、其外釘入用物等無倹約丈夫ニ葺立可申候、然ル上は当年より三〇ヶ年之間畜類之あらし候は格別不起地軒付等ニ荒相立不申様急度請合可申候、万一荒相立候ハヽ、無料ニテ私共より早速取繕可申候、若其節差支之もの有之候ハヽ相残ル印形之者より取繕可申候、たとひ子孫ニ至り候テも少も違変無御座候、為後日差入申請合一札依テ如件
文化一一年戌年二月 
善根寺村檜皮葺師
棟梁   武左衛門(印)
同村同心  仁兵衛(印)
同村同断 弥右衛門(印)
善根寺村御役人中
右六百匁之内金弐両先受取仕候処相違無御座候以上

この文書は文化一一年二月、善根寺村氏神である春日神社の若宮の屋根葺について、善根寺檜皮大工の棟梁武左衛門と仁兵衛・弥右衛門の三名が屋根葺を請負い、その仕様について詳しく列記し、入用銀六〇〇匁を完成ののちに受け取ることを明記しています。





そしてかっこうよく丈夫に葺き立てること、三〇年間の維持の保障と、もしその期間中に畜類などにより破損した場合は子孫にいたっても無償で修繕することを約定した文書です。
この文書により文化年間には檜皮大工棟梁は武左衛門であり、仁兵衛と弥右衛門が檜皮大工として存在していたことがわかります。
この史料とこれまでに発見された棟札から檜皮大工名を年代ごとにまとめたものが以下の表です。





善根寺檜皮大工変遷表
         広八幡神社
棟札1569
高山八幡宮


棟札1659
       水度神社
棟札1669
         高山八幡宮
棟札1690
諏訪神社


棟札1694
    高山八幡宮
棟札1726
若宮修復文書


1814
棟梁 頭三郎 宮脇宗兵衛 田中八兵衛
           八右衛門
五兵衛
檜皮葺屋


惣兵衛
宮脇五兵衛
政重
武左衛門
大工 新兵衛 宮脇五兵衛



仁兵衛

与四郎 惣右衛門





孫八 彦左衛門





与六 忠次郎
彦左衛門

 

善四郎 長左衛門
藤兵衛



新次郎 八兵衛

八兵衛

永禄の場合は四天王寺に従属する檜皮大工とともに請負っているので惣人数としては一八名ですが、善根寺檜皮大工としては七名です。近世になって永禄一二年と万治二年には七名、
元禄三年には四名、文化一一年には三名となっていたのです。けれどその下には弟子や見習いもいたはずで、三名は大工集団を率いる立場であったと思われます。

棟梁としては田中八兵衛・八右衛門と、宮脇宗兵衛、惣兵衛・五兵衛、文化年間には武左衛門となっています。時代によって変動はありますが、下線のある人物が重複しているように、大工を出す家柄は決まっていたようです。

中世の作事は南都興福寺に従属する寺座としてのものであり、請負形態は近世になってからのものとは異なっていたはずです。近世に南都興福寺の保護を離れて独自で普請請負をするようになってから檜皮大工の規模は縮小されたことは容易に想像できます。それでも彼等の技術と伝統は絶えることなく継承されたのです。


(3) 近世の檜皮葺の実態

近世村落の形成とともに、地域共同体の連帯が強まり、村々で氏神を勧請し、宮座の組織が作られました。支配層も支配地域との結びつきや支配の円滑な運営のために神社の保護に尽くしました。そうした背景があったとしても 神社の檜皮葺の作事は限られたもので、しかも三〇年という檜皮葺の耐用年数があり、一般の大工に比べても仕事量は大きく制限されたでしょう。
当然善根寺檜皮大工集団が近世を通じて檜皮葺の生業を継続するためには農民としての比重が高く、決して豊かな生活の保障が得られるものではなかったはずです。また檜皮葺技術を次世代に伝えていくことの困難さもあったでしょう。文化年間には三名という小規模になっていたのも無理からぬことです。

それでも善根寺檜皮大工集団が生業の燈を絶やす事がなかったのは幕末の史料に見られるように、毎年の春日若宮のお旅所の行宮の松葉の屋根葺に出仕するという名誉ある奉仕があったからではないでしょうか。そして伝承も大きく存在していたでしょう。春日の大和遷宮に供奉したという伝承は檜皮葺の技術とともに子孫や弟子に伝えられ、彼らを支えてあまりあるものであったに違いありません。

そして中世に興福寺寺座であった誇りは彼等から消えることなく、近世の棟札にも宮座の古文書にも石燈籠にも「寺座」と刻み込んでいるのです。では「寺座」という地位は近世にも存在していたのでしょうか。そのへんを解明する史料が向井家文書にあります。

(4)向井家文書「寺座覚書」

向井家の蔵の調査で「寺座覚書」が見つかっています。

寺座覚書

この文書は六丁ほどの竪帳で、破損と虫食いによって判読困難な部分もかなりあり、内容の詳細は解明困難なものですが、末尾に「右之通延享年中御造営之時南都両座ニ致出入候覚書也」とあります。つまり延享年中の春日の御造営の時に南都両座と出入になったことの顛末と思われます。

延享二年八月廿三日に南都 春日御造営の木作初があり、その首尾が前日に通達されたようです。しかし
新法ニ御祝儀  一御殿大乗院様座、二ノ御殿一乗院様座、 三御殿寺座ニ相勤様、 大乗院様御家老多聞院様、南院様御両人より被 仰渡候、左様ニ相勤[  ]古法ニ違甚難渋之段、達テ御願申上候候
とあり、一の御殿は大乗院座、二の御殿は一乗院座、三の御殿は寺座と、新しく普請場所を決めたことが古法に相違するということで願書を差し出したようです。

その返答が河州寺座ハ宮本座故、三ノ御殿相勤申由、右寺座ハ檜皮葺師 三座之座頭故如此申付候と被仰候とあるので、善根寺檜皮大工は河州寺座と称され、宮本座(みやほんざ)であり檜皮葺師で三座の座頭(ざがしら)であるためこの如くに申し付けるのだという返答です。そしてとにかく明二三日に迫っているので木作初の祝儀はこのまま勤めるようにとの指示がありました。

八月二五日に善根寺檜皮大工棟梁である宮脇五兵衛と庄屋太郎兵衛が南都大乗院役所に出頭し、御前御記録帳と寺座之覚書を照合し、相違ないことが確認されます。そのあとの記載は普請の内容と、最後に御普請奉行帯刀様他一名の仰渡しがありますが、欠損が多く詳細は不明です。

全文の解釈は困難ながら、おそらく河州寺座がそれまでの作事の受け持ちを変更されたようで、それを訴えたものと思われます。けれどその原因は不明です。

その後には「寺座法」として座頭になる事が出来るのは「年兄月兄日兄」とあるので、年齢序列が重んじられたようです。

葺初早ク致候者を座頭ニ可致[   ]左様ニ致候テハ古法と相違ニ付、
とあり、檜皮を早く葺く能力によって座頭にするのは古法に違反するとあります。中世以来の伝統で、年齢によって次(階級)が決定されていたものを、実際の能力によって評価する動きが出てきたことへの戒めであろうと思われます。そのあとには養子や他家へ嫁したものの決まり事が記されていますがこれも破損が激しく内容が不明です。
この文書によって貞享・宝永・享保の春日の御造営に、善根寺檜皮大工たちが奉仕していたこと、しかも善根寺檜皮大工が「河州寺座と」称され、南都興福寺内で重要な地位を占めていたことが証明されたのです。近世の棟札にも石燈籠にも古文書にも「寺座」と記録したのは、「寺座」の地位が中世の遺物ではなく、近世においても厳然と存在していたからなのです。

(5)向井家文書「春日社御造営屋弥[ 以下破損]」

(表紙)明和元年 春日社御造営 屋弥
向井家文書の中に明和元年に書上げた春日社御造営の屋根檜皮葺の記録が見つかりました。竪帳の下部が大きく破損しており、解読困難なものですが、春日社の御移殿、酒殿、御本社、若宮、浮雲社などの屋根葺について詳細に寸法と坪数を書上げています。
枚岡市史に掲載された明和三年の『春日社御造営屋根之日記』は向井家に現存しませんので、それより二年前に書上げられたこの文書は、善根寺檜皮大工が春日社御造営に出仕したことを示す貴重な史料となります。
(6)向井家文書「春日社造立諸入用帳」
辛享保六年 春日社造立諸入用帳 丑二月六
これは享保六年(一七二一)に善根寺春日神社造立の経費を書上げたものです。奉行所へお願いに行った時に役人に贈る和紙から、遷宮に必要なもめん生地一疋、春日づくり宮造立の大工手間、檜皮材料と葺き手間、檜皮葺に必要な竹釘、縄をはじめ、拝殿修復、練塀、拝殿左右や練塀下の切石まですべての経費を書上げています。大工手間が多くかかり過ぎたようで、年寄と足立註蔵に相談し増加分を支払っています。 

2011年2月28日月曜日

五 善根寺檜皮大工集団の近代

1 官幣大社春日神社社務日誌

明治維新に至って善根寺檜皮大工の活動は終焉を迎えます。明治元年の「神仏分離令」、同四年の「社寺領上知令」により、興福寺の広大な境内地は没収され、塔頭はことごと
く破却され、両門跡をはじめ院家、学侶は還俗させられました。大和春日社は同四年に官幣大社に列せられます。神職は官吏となり、伝統的な春日社家をはじめ、多数の旧神官は一掃され、野田、高畑の社家町はさびれ果てたのです。

旧来の組織の解体は当然善根寺檜皮大工の死活に大きく影響し、大和春日社の屋根葺替、若宮おん祭りのお旅所行宮の松葉の屋根葺に奉仕してきた習慣は途絶え、官幣大社となった春日社と彼らのつながりは完全に消滅したでしょう。彼らを支えていた一本の綱が断ち切られたのです。

近世においてさえ多くの困難の中でよく持ちこたえた彼らの生業の燈は、ここにおいて燃え尽きるほかなかったのです。

現在の地元の古老によると、大正年間には春日社の造営や祭礼に際して善根寺春日座は主要な席次を与えられて列席したとのことです。昭和になってからも、「春日若宮おん祭り」の行列に参加したこともあったようです。春日神社の提灯や檜皮葺の道具は戦後すぐまでは二五人衆の家の蔵に保管されていたそうです。明治以来すでに百数十年、檜皮葺に関しての地元の記憶も、父や祖父に聞いたという程度のあやういもので時代があまりにも遠くへだたってしまったという感は否めません。

明治以降の確かな記録としては、平安末期以来約七〇〇冊という膨大な記録を残している春日大社の社務日誌の昭和七年一二月一四日条に善根寺が登場しています。現在までの膨大な記録に目を通されている、春日大社名誉参事の大東延和氏のご教示により、その日誌を拝見させていただきました。

  官幣大社春日神社 社務日誌
昭和七年一二月一四日水曜 晴れ
一善根寺春日神社社掌高松諸成来社                        
    例年の通り社醸酒弐升献納ス徹餅トシテ藤丸菓子二個 入一三包授与シタリ



大正時代の善根寺春日神社参道
とあり、善根寺春日神社の御神酒神事で造られたお神酒を春日大社へ毎年献上していたのです。しかし春日大社の中で、檜皮葺大工の存在がどう捉えられていたのかは他に史料はなく全く不明です。

善根寺檜皮葺大工の史料年代表
年代 史料所在
永禄一二年(1569) 広八幡神社棟札和歌山県有田郡広川町
承応三年 (1654) 春日神社石燈籠善根寺春日神社
万治二年 (1659) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
寛文九年 (1669) 水度神社棟札京都府城陽市寺田水度坂
元禄三年 (1690) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
元禄七年 (1694) 諏訪神社棟札東大阪市中新開
宝永六年 (1709) 春日神社石燈籠善根寺春日神社
享保一一年(1726) 高山八幡宮棟札奈良県生駒市高山町
延享二年 (1745) 寺座覚書善根寺向井家
10 明和三年 (1766) 春日造営屋根日記善根寺向井家
11 天明三年 (1783) 寺檜皮大工職補任状善根寺向井家
12 文化一一年(1814) 春日若宮修復文書善根寺向井家
13 元治二年 (1865) 助郷夫役除嘆願書善根寺向井家


おわりに
これまでの検証で、史実としては永禄十二年から幕末までの約三〇〇年にわたる善根寺檜皮葺大工集団の活動が明らかになりました。六枚の棟札と、古文書、文献に記された彼らの軌跡の一つ一つから、山深い善根寺春日神社を守りつつ、檜皮葺大工としての生業に励み、戦国時代から明治直前に至るはるかな年月を越えて活動の記録を残した人々の姿が彷彿としてきます。そして善根寺檜皮葺大工をめぐる伝承は彼等のたどった歴史の影に見え隠れします。

永禄十二年の棟札が彼等の中世における活動を証明し、善根寺檜皮葺大工のはじまりが永禄年間以前に遡ることは確かですが、その具体的な年代はより古い棟札の発見に待つしかないのです。だからといって古代にまで遡ることは考え難いことです。

古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。
古代の日本人は大自然すべてを神として崇拝し、従順な畏服で応えました。それは稲穂の名を冠した穀霊神として降臨した「穂能迩迩芸命(ほのににぎのみこと)」と、その子孫としての天皇への畏敬につながります。貴族の筆頭である藤原氏は「穂能迩迩芸命」の随神「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)を祖先神としました。天皇を補佐するものとして神代から約束されていたと権威づけたのです。
古代の伝承は史実ではないとしても、彼等の生きた証を追い続けるうち、それは生まれるべくして生まれたのだと確信するに至りました。伝承には確かにあった事実が反映し、人のさまざまな思いによって脚色されるのです。


参考文献
『大阪府全志』大正一二年 『中河内郡誌』大正一一年
『枚岡市史』昭和四〇年 『和歌山県史』和歌山県 
佐藤正彦『天井裏の文化史』
『棟札銘文集成』平成八年 国立民俗博物館
大河直躬『番匠』 一九七一年
豊田武『座の研究』 昭和五七年
大野七三『先代旧事本紀訓註』 平成元年
黒田昇義『春日大社建築史論』 
『玉葉』第三巻
『大乗院寺社雑事記』第五・六・七巻
原田多加司『檜皮葺と?葺』 一九九九年
高松米三郎『孔舎衙春日宮社記』 昭和一五年
上田正昭『春日明神』 一九八七年
川上貢『近世上方大工の組・仲間』 一九九七年
「向井家文書」向井竹利氏所蔵


2011年2月27日日曜日

『日下村森家庄屋日記』



『日下村森家庄屋日記』は、この日下村(現東大阪市)の近世庄屋である、森長右衛門貞靖が18年間にわたって記録した日記です。現在この日下町に住む私たちが、この地の歴史を原本によって読み解くことは大変に意義のあることだという思いから、私たちは平成14年に日下古文書研究会を結成し、解読を進めてきました。

そして『日下村森家庄屋日記 享保13年度』については、所蔵されている東大阪市加納の森義雄氏から原本を提供いただき、その翻刻と、関連文書、さらに登場する様々な出来事の解説を一冊の本として刊行いたしました。その他の15冊については京都大学に所蔵されています。私どもはそのすべてについてコピーをいただき、すでに享保1214年度を解読しましたが、京都大学から翻刻許可がいただけないので刊行に至っていません。

日記の内容
享保13年(1728)に四十代の働き盛りであった森長右衛門は、豊かな学識と練達の筆跡で、日下村の明け暮れを詳細に記録しています。庄屋日記はいわゆる「役用留」として、村役人としての役用のみを記録するものが多いのですが、彼は村中の日常の細々とした出来事にも目を注ぎ、なにげない村人の暮らしを丁寧に書き留めています。昭和40年に刊行された『枚岡市史』などでわかっていることや、地元で言い伝えられてきたことの、さらに奥深い事実が解き明かされ、新たな発見があり、郷土の歴史の史料としてこれ以上のものはない、という実感があります。

そしてこの日下の貴重な史料を、今この地に住む我々が読むということの意義は、想像よりもはるかに大きいものがあったのです。森家の屋敷地も、今は畑になっている庭園の小高い丘も、村の会所も、善根寺浜という船着場も、布市の船頭さんのことも、長右衛門家の向かいの五兵衛さんの家も、日下の年配の方なら誰もが知っている事実でした。

こうした古老が経験してきた、この地の戦前までの農業は、そのまま享保時代に繋がります。庄屋日記に登場する、香盤で時間を計る水番や、蔵米納め、下作米納めの作業は、この地で何百年も永々と営まれてきたことなのです。

田畑の字名などは、古くから農業に従事してきた地元の人が呼び慣わしてきたものですが、急速に田畑が宅地に変わっていく現在、死語になりつつあります。九〇才の古老から教えていただいた「みよし」や、旧家の方からうかがった、「あまよろこび」や「ひのつり」という言葉。また、八朔の日から昼寝がなくなることから、「いやな八朔また来たか」という言葉などは、農作業の中で使われてきた言葉でした。

田畑の単位も、六畝を「むせ」八畝を「やせ」と呼び、「むせ田」「やせもん」という呼び習わし方、また日下村では勾配のきつい山の田んぼが広畝(こうせ)と呼ばれ、一反の面積が他地域より広かったいう事実など、我々には宝物のように貴重な情報でした。こうした地元の特殊な実情を踏まえないと、この庄屋日記に記された細かい数字から、当時の農業経営の実態を把握することは困難です。

享保時代の日下村は、確かに今も、古老の記憶の中に鮮やかに痕跡を残しています。年配の方々にとっては自明のことながら、「今これを記録しなければ!」という思いが強くなっていきました。
地域にあった懐かしい年中行事、古くから連綿と続いてきた伝統や風習が忘れられると、それに付随した言葉や思想も迷信として抹殺されていきます。それは歴史の流れというもので、くい止めることはできません。

『日下村森家庄屋日記』はこの地に生きた先人たちが、その時代時代に新しいものを受け入れ、古いものを忘れ去って生きて来た道に光を当ててくれました。それをたどり、埋もれた化石を掘り出し、現代に繋がる痕跡をさぐる。その作業はどんな苦労も吹き飛ばすほどの楽しさに満ちていました。

何時の時代にも古い史料の解読にはその時代の制約があり、我々の仕事は平成という時代を反映したものにならざるを得ません。我々がたぐり得る記憶にないものは、それ以前に廃れてしまったことなのだから、現時点での記録は、民俗学の一つの方法でもあります。
『日下村森家庄屋日記』の暮らしは現在の暮らしとは大きく違うものです。身分
制と格式に縛られ、支配者への絶対服従しかない時代、すべてが手作業という重労働の農作業、疱瘡や腫れ物にも、漢方薬と鍼灸だけが頼り、平均寿命が四十才前後という、生きることが今よりもはるかに過酷な時代。その中で与えられた境遇をありのままに受け入れ、精一杯生きた人々の姿があります。

そして長右衛門の姿から見える河内の庄屋の実像は、私たちの想像をはるかに超えたものでした。河内の豪農は、一大経済都市として繁栄する大坂と隣接するという大きな利運を背景に、都市大坂から郷土の発展に利するための最先端の情報知識を獲得しました。
そのために河内の豪農は、近郷庄屋階級ばかりでなく、大坂の有力商人とも盛んに縁組しました。長右衛門の長男は大坂南組惣年寄である大商人へ養子に入っていたのです。近世初頭から何代にもわたって繰り返されてきたそうした姻戚関係は、否が応でも河内の豪農の人脈を拡大させることになります。

長右衛門の交友関係は大坂惣年寄をはじめ、町奉行与力といった大坂行政の中枢を担う人物から、有力な用聞、大名出入商人、諸国問屋にまで広がっていました。しかもそのほとんどは姻戚でつながっていたので、親密な交流となっていました。

長右衛門は大坂南組惣年寄や町奉行所与力といった大坂三郷の行政の中枢を担う人物から、幕府の動向や大坂の都市行政の実情を、有力な用聞、大名出入商人からは、大名領国の社会経済情勢を、大坂商人となった息子たちからは大坂経済の最先端の情報を入手したのです。

それは長右衛門の視野を多角的なものにし、正確な情報分析能力を養うこととなりました。いわば河内の庄屋はこの多様な環境での経験と政治力によって単なる百姓身分を越える存在となり、実質的には、大坂の武士や町人と並び立つ地位に上り詰めていたのです。

河内の豪農庄屋は大坂経済の恩恵を受けて、財力においても武士階層を圧倒していました。常に蔵屋敷で平身低頭する長右衛門の方が、領主役人よりも懐が豊かであったことは誰の目にも明らかでした。長右衛門は豊かな財力と幅広い人脈、さらに確かな力量を持つ人物として一目置かれる存在であったことは想像にかたくないでしょう。

長右衛門は蔵屋敷役人から町奉行与力への口利きを依頼され、用聞同士の争論の仲介までしています。蔵屋敷役人も奉行所役人も、事あるごとに河内の庄屋を呼び出し、直接に村落出入の仲介人として指名し、さまざまな依頼事をし、賂を受けるのです。河内の豪農庄屋の存在は大坂の武士にとって依存するに足るものであったのです。

また長右衛門は河内地域の他の村々との寄り合いにも出かけます。この時代の村々の抱えていた問題、田畑の収穫に大きく影響する水利問題での争いや、また天候不良による不作の時には、年貢の減免のために、村々が連合して訴えを起こします。

とりわけ河内においては大和川付替え後に開拓された新田との軋轢が度々の水利争論となって大きく立ちはだかってきたのです。

長右衛門の肩に重くのしかかるものは現在の企業戦士の比ではありません。支配者と村との狭間にあって、村の安泰と村人の暮らしのよりよい成り立ちに心を砕いた長右衛門の姿は、この時代の庄屋階級の典型であり、そこには父祖伝来の地への深い郷土愛と使命感が伺えます。

長右衛門は今よりはるかに高価であった本をたくさん買い入れています123部もの蔵書を持ち、自身の子弟教育ばかりでなく、村人に本を貸し出して、村人の教育に役立て、文化の高揚を目指す姿勢があります。まず村のこと、村人の暮らしに心配りをすることが庄屋というものの勤めでありました。

自然を敬い、より良い暮らしを希求しつつ、襲いかかる病気や災害などの不幸にも力を合わせて立ち向かった先人たちの姿からは、確かにあった営みの重さがひしと迫ってきます。そこに今の私たちが忘れてしまった大切な何かを感じとることができます。

この日記を読むことで長右衛門たちが守ってきた暮らしが今の私たちの暮らしに息づいていることを知ることができ、自分たちの住むふるさとへの誇りと愛着を新たにすることが出来たのです。
二百八十年前の享保時代の生駒西麓の日下村の暮らしがどのようなものであったかを多くの人々に知っていただきたいという思いから、これからも『日下村森家庄屋日記』の解読を続け、それをあくまでも一般の人にわかりやすく解説したものを目指して、刊行していきたいと考えています。

しかし今のところその希望は叶えられそうにありません。京都大学の翻刻許可が困難という大きな難問が立ちはだかっているからです。でも私どもはその重い扉を開けていただける日が来るまで努力を続けていきたいと思っています。
                                                                                         日下古文書研究会   浜田昭子

『日下村森家庄屋日記 享保13年度」についてはすでに完売しています。
しかしその内容の一部については『くさか村昔のくらし』の中の「280年前の村の暮らし」と
「享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から」に掲載しています。




2011年2月25日金曜日

『善根寺町のあゆみ』

「善根寺町のあゆみ」刊行

 

日下古文書研究会では平成二十年春に「かわちくさか村昔のくらし」を刊行しました。その後善根寺町の方々からもこのような本を作りたいという声が上がりました。善根寺町には今まで町史というような歴史文化を網羅した本はなかったのです。
そしてそれは善根寺町において長年、地元の歴史文化に関する新聞記事を蒐集してこられた新聞文化資料館々長中谷作次氏の長年の念願でもあり、何度か計画しながら果たせずにいたのでした。地元からの要望を契機に「善根寺町史」の実現に向かって動き出すことになりました。
 
まず誰にも分かりやすいものをということで「善根寺町のあゆみ」という題目にして地元の皆さんのご協力をお願いすることになりました。孔舎衙校区の自治連合会の酒井秀和会長に委員長をお願いし、「善根寺町のあゆみ」編集委員会を立ち上げました。経費については東大阪市の地域まちづくり活動助成金を申請することになりました。
 
内容については、中谷作次氏が長年にわたって収集された郷土史料をご提供いただき、それを参考にして項目を決めました。考古学・古代・中世の時代については藤井直正先生と勝田邦夫氏に執筆をお願いしました。

藤井直正先生は『枚岡市史』編纂主任を勤められた東大阪市の歴史の大先輩であり、四〇年にわたる研究の成果の集大成となる原稿をお寄せいただきました。「善根寺町のあけぼの」はまさに藤井先生でなければ書けない、とっておきの善根寺町の歴史のはじまりです。
 
勝田邦夫氏は発掘を通じて古代のムラを紹介していただき、中世の時代に善根寺地域を支配した水走氏の動向についても解説していただきました。
 
近世については日下古文書研究会の浜田昭子が担当しました。当会で読み進めている『日下村森家庄屋日記』には善根寺村の事情も豊富に収録されており、特に足立家の動向については日記の記載が大いに役立ちました。

また当会では平成二十年より善根寺町の近世庄屋である向井家に文書調査に入っており、そこから近世文書が多く出ていた関係で、「向井家文書から見る善根寺村」という一項を設けました。向井家は近世初頭から庄屋を勤めておられ、古文書が多く残されていました。
 
現在では元禄時代(一六八八~一七〇四)以前の村方文書が発見されるのは稀といわれる中で、それよりはるかに古い文書群が遺されていました。慶安二年(一六四九)の帳切帳や、善根寺村が日下村から分村した事情のわかる寛文四年(一六六四)の文書など、驚きの発見が続きました。三六〇年前の虫食いだらけの文書に、よく残っていてくれたと感動の連続でした。
 
最大の発見は善根寺檜皮葺大工の記録「寺座覚書」です。この文書は、善根寺檜皮葺大工が南都春日興福寺において「河州寺座」と呼ばれて活動していたことを証明する貴重な史料となりました。建築職人として春日興福寺に属するということが、当時の最高の技術者集団であったことを示しています。善根寺春日神社において連綿と行われている「御神酒神事」とともに、この善根寺檜皮葺大工の歴史こそ、善根寺町民にとって最も誇りとするべきものではないかと思います。
 
これらの文書を使って近世の善根寺村の生の暮らしを地元の皆さんに知っていただける事ができたことは文書調査に携わるものにとって望外の喜びでありました。
 
「大川沿いの史跡」と「昔のくらし」につきましては、地元の方々に取材や史料提供でご協力をいただきました。また孔舎衙校区のお茶の間サークルの皆さんに取材し、戦争体験者の貴重なお話を「戦争の時代」と題して収録しました。六〇年あまりを経てもなお胸の痛む思いを抱き続けてきた方々は辛い記憶を吐き出すように話してくださったのです。
 
たくさんの地元の方々の熱意によってこの本が出来上がりました。セピア色の写真と現在の善根寺町の写真を入れて、読みやすい楽しいものを目指しました。
 
善根寺町の歴史は、はるか縄文時代に始まりました。この本を手に取ると、時空を超えた歴史の旅に飛び出すことができます。この地にどのような人々がいたのか、その暮らしがどのようなものだったのか、それを知ることはこの上ない喜びです。
 
そしてまぎれもなくあった、先人たちが永々と築き上げてきた暮らしの上に今の私たちの暮らしがあります。過去を振り返る事はこれからをより良く生きるための智恵を得ることです。ふるさとの歴史文化をよく知り、先人たちの生きざまに敬意をはらいつつ、それを誇りにして生きるかぎり、私たちの前には明るい未来が開けてくるはずです。この本をそのための一冊にしていただければこんなうれしいことはありません。
 

                        日下古文書研究会 浜田昭子
 
目次
             
 刊行のことば        
  地図 文久元年村絵図    
明治十八年の善根寺村 
現在の善根寺町    
  目次 執筆担当 
       
善根寺町のあけぼの
  縄文土器の発見            

古代の善根寺町
  山丘の古墳           
  発掘された古代のムラ        
  神武天皇の伝承            
  原始蓮                

中世の善根寺町
  水走氏の動向             
 氏神・春日神社の祭祀      
「檜皮御座」の始まりと活動   

近世の善根寺町
 大坂築城と日下石           
 石奉行・足立家の系譜        
 足立家の活動        
 足立家の大名貸        
 足立家の味岡新田訴訟      
 「向井家文書」に見る善根寺村 
 善根寺村の分村事情       
 車谷の水車          
 東高野街道と一里塚        

近代の善根寺町 
 稲荷山遊園地と谷崎潤一郎    
 昔の暮らし          

善根寺町の文化財
 大川沿いの史跡        
 善根寺町の寺院            
善根寺町の石造物           
民俗と信仰              
 
 あとがき            
 編集委員会 協力者名     

 

2011年2月24日木曜日

講演のお知らせ




★ くすのきカレッジ日本史・郷土史学科

「江戸時代の暮らし」

2017・10・10(火)PM7:00~8:30 
        明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』より



2017・12・12(火)  PM7:00~8:30 
         明治の医師の日記『忍耐堂見聞雑誌』より    

講師浜田昭子

場所:くすのきプラザ (若江岩田希来里内)
    近鉄若江岩田駅前


★ 河澄家講演会

2017・10・29(日) 13:30~15:30 

  

講師 浜田昭子
 
東大阪市指定文化財 旧河澄家 072-984-1640 申込み 10月1日より  東大阪市日下町7-6-39





孔舎衙公民分館
ふれあい勉強会
★2018.3.7



河内の豪農と都市大坂
      『日下村森家庄屋日記』を史料として

講師:浜田昭子








































2011年2月23日水曜日

例会のご案内


             例会案内

以下の日時で例会を行っております。
参加ご希望の方は下記までお電話ください。
又は直接下記会場へ起こしください。
日時:2017年度 月2回

11月 12(日)    14:00~16:00    『忍耐堂見聞雑誌』解読

11月 26(日)      〃            〃


12月 3(日)      〃            〃
12月 17(日)     〃            〃





 ・場所:孔舎衙(くさか)公民分館 
近鉄バス停 孔舎衙小学校前(
)
     東大阪市日下町5-3-37 
・TEL・FAX 072-985-8791
  ・浜田昭子 072-987-2996