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2011年3月17日木曜日

八代将軍吉宗の日光社参




八代将軍吉宗の日光社参         



吉宗の政策

享保十三年(一七二八)四月、八代将軍吉宗が日光社参を挙行する。将軍の日光社参は、四代将軍家綱の寛文三年(一六六三)以来六五年ぶりのことであった。吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫し、いわゆる「享保の改革」という政策が強行された。享保七年(一七二二)に窮余の策としてとられた「上米の制」は、諸大名に対し、一万石について一〇〇石を上納させ、その代わりに、参勤交代の江戸在府を半年に減ずるというものであった。この政策はかなりの実績を上げ、短期間で幕府財政を黒字に転ずるものとなった。しかしこれまでに例を見ない大名への課税であり、軍役としての参勤交代を半減するというものであったため、幕府権威が地に落ちた感は否めなかった。この情勢の中、幕府にも大名にも多大な負担を強いるこの一大イベントを行った背景には並々ならぬ吉宗の意図があった。

享保時代はすでに開幕以来、泰平の一〇〇年が過ぎ、武士本来の「兵」としての機能は要求されず、官僚化が進んでいた。特に五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は、合戦で敵の首級をかき切ることが誉れとされた武士の「兵」としての本質を真っ向から否定し、重要な軍事訓練であった鷹狩は禁止となり、武士の軟弱化が進んでいた。ここで人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があった。将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への最大の軍役動員である日光社参は、武士の泰平慣れに一石を投じ、封建主従制の根源にあるご恩奉公の倫理を再確認させるための有効な手段であった。それは将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活につながる。それこそが吉宗の目指したものであり、幕府が更なる改革を強力に推し進めるための原動力となるものであった。


日光社参挙行
この時の日光社参の規模は、供奉者一三万三〇〇〇人、関八州から徴発された人足二二万八〇〇〇人、馬三二万頭といわれる。費用は十代家治の安永五年(一七七六)の時の記録で二二万三〇〇〇両といわれ、この時もそれに匹敵するものであったと思われる。泰平の世では軍役動員、隊列編成に不慣れのこともあり、五日前に江戸城吹上で行軍演習が行われ、吉宗も閲兵している。
出発当日、四月十三日はあいにくの大雨であった。江戸市中主要な橋七ヶ所を閉鎖し、御成道筋は一切人留め、というかつてない厳戒態勢が敷かれる中、奏者番秋元但馬守喬房が午前〇時に先駆け、同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続く。吉宗は二〇〇〇人の武士に守られて午前六時に発駕した。最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前十時で、実に一〇時間を要する行軍であった。(『栃木県史』通史編4近世一九八一
御成道筋の庶民には、「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」(『御触書寛保集成』石井良助高柳真三一九三四というお達しであった。庶民はひたすら家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまであった。
一行は、日光御成道の岩槻城・古河城・宇都宮城で宿泊し、十六日に日光山に到着する。十七日が家康の忌日で東照宮で祭祀が行われた。日下村領主本多豊前守正矩は祭礼奉行を命じられ、この日は将軍の補佐役として緊張の連続であった。まさに一世一代の大役、無事やり遂げて当然、そうでなければ進退にも関わる一大行事であった。
供奉の大名たちそれぞれにとっても、事情は同じであったろう。一つ一つの儀式が、何人も犯すべからざる将軍と幕府の強大な権威を顕示していた。それへのひたすらな服従、それだけが生き残るために是非とも必要な最重要事項であると、誰もが感じたに違いない。吉宗の幕府権威の強化という大きな目的が叶えられた瞬間であった。一行はその後同じ道筋を通り、二十一日には江戸城に帰着している。
 
日光御用銀
日下村領主本多氏は、藩主本多豊前守正矩が日光社参に供奉と祭礼奉行を命じられたため、本多

氏領分四万石の村々へ二〇〇〇両の御用銀を課した。その内容は、前年十二月三日条に、

下総弐万石へ金千両、  但百石に人足八人馬弐疋ツヽ

  沼田壱万石へ金五百両 人足馬同断

  上方壱万石へ金五百両 即御用に立不申候ニ付人足馬ハ御免 
 
とあり、河内領一万石に対して金五〇〇両で、河内村々一万石での割方を行い、石につき銀二匁七

分となり、日下村石高七三五石で計算すると一貫九九〇匁となる。これは現代の金にして四〇〇万

円前後であろうか。関東の領分では馬、人足もかけられているが、上方は遠方のため免除されてい

る。十三年二月に村人から集めて蔵屋敷へ納められた。御用銀は利息を付けて返済されるものであ

るが、本多氏の財政困難の故か、その翌年から利息の支払いのみで、本銀の返済はなかった。
 
日下村の厳戒態勢
幕府は前月から日光社参に関する触書を頻発し、「火の用心、不審者警戒のため木戸・自身番の昼夜勤務と、奉公人の欠落(かけおち)防止、新規の奉公人の身元確認」を厳重に命じている。(『御触書寛保集成』)幕府にとって最も避けたい、この期に臨んだ民衆の不穏な動きを誘発させない配慮である。六五年ぶりの大行事であり、長右衛門と村人にとってもすべてが初体験であった。
日下村では四月十三日の出発の数日前から、廻状が続々と到着する。将軍が江戸城を留守にし、一〇万人の武士が従軍する日光社参がいかに非常事態であったかが分かる。将軍の出発前の十日から、日下村の中心を南北に貫く東高野街道の辻と、南隣の芝村との境の二ヶ所に番小屋を立てさせ、番人三助に昼夜警戒のため村中を見廻らせている。東高野街道という当時の一級国道や、村境は様々な人間が村へ入り込む可能性がある。諸勧進・物もらい・諸商人など、村外のものの入村が禁じられていたから、例を見ない厳戒態勢であった。
将軍が江戸城を出発されると、遠く離れた日下村にも一層緊張感が張り詰める。連日連夜、村役人である庄屋・年寄が会所に詰める。村中に火の用心を触れ廻らせ、不審者を見張らせる。大坂町中では「鳴物停止令(なりものちょうじれい)」が出されたようで、芝居や普請がとまり、夜は町同心が警戒する緊迫の様子が廻状とともに伝わっている。これは「穏便触(おんびんぶれ)」ともいい、普請などの工事や芝居歌舞音曲の芸能を禁じるもので、いつもは賑やかな大坂の繁華街もひっそりと静まり返っていた。
将軍が日光山に到着されると蔵屋敷からの廻状が続々と届く。「庄屋・年寄・村役人の他出は厳禁、喧嘩口論・火の用心を慎み、物静かにつかまつり」とあり、日下村にも「鳴物停止令」が出されたのである。村でのその規制は、音を伴う商売から家庭内労働にまで及ぶ。誰もが作業を取りやめて家の中で謹慎するしかなかった。 
四月二十一日には、「今日 還御相済候につき町中自身番中番共今晩より無用」(『御触書寛保集成』)の触書が廻る。将軍は日光社参を終え、無事江戸城へ還御となり、その夜から厳戒態勢解除となる。日下村でも連日の会所での警戒が終わり、長右衛門はじめ村人はほっと一息いれる。一汁二菜のささやかな朝食で無事祝いをして、一〇日ぶりにようやく自宅で寝ることが出来たのである。
 
無事終了
将軍帰還から六日遅れで、日下村領主本多豊前守正矩が日光から無事に江戸へ帰着された旨の廻状が届くと、早速翌日に長右衛門は蔵屋敷へお悦びに出る。何事があっても領主へのお祝い言上は欠かせない。
この年の十一月、例年の通り年貢率を申し渡される「御免定御渡」のため、本多氏領河内二〇カ村の庄屋・年寄が蔵屋敷へ召集された。その折、日光御用無事終了の祝儀に領主から酒を賜わる。吸物・肴三種にて酒宴が催されたが、蔵屋敷で領民へのこうした接待は珍しいことであった。御用銀を負担した百姓への慰労でもあろうが、譜代大名で奏者番という幕府官僚の中枢にあった本多氏にとって、この日光社参がいかに一世一代の大行事であったかが伺われよう。
将軍の日光社参という幕府の一大イベントが、生駒西麓の日下村の暮らしに与えた影響は大きなものであった。六五年ぶりの行事では長右衛門たちにとっても戸惑いは多く、蔵屋敷からのお達しに忠実に勤め、ただ何事も無く平穏無事に過ぎてくれることだけを願う日々だったに違いない。日下村という山里の小村にも村の要所二ヶ所に番小屋を立て、日夜番人に村中を見廻らせ、庄屋、年寄の村役人が連日会所で寝起きする。これまでに経験のない厳戒態勢である。庄屋としての長右衛門にとっても神経を張り詰めた日々であった。 
 

2011年2月27日日曜日

『日下村森家庄屋日記』



『日下村森家庄屋日記』は、この日下村(現東大阪市)の近世庄屋である、森長右衛門貞靖が18年間にわたって記録した日記です。現在この日下町に住む私たちが、この地の歴史を原本によって読み解くことは大変に意義のあることだという思いから、私たちは平成14年に日下古文書研究会を結成し、解読を進めてきました。

そして『日下村森家庄屋日記 享保13年度』については、所蔵されている東大阪市加納の森義雄氏から原本を提供いただき、その翻刻と、関連文書、さらに登場する様々な出来事の解説を一冊の本として刊行いたしました。その他の15冊については京都大学に所蔵されています。私どもはそのすべてについてコピーをいただき、すでに享保1214年度を解読しましたが、京都大学から翻刻許可がいただけないので刊行に至っていません。

日記の内容
享保13年(1728)に四十代の働き盛りであった森長右衛門は、豊かな学識と練達の筆跡で、日下村の明け暮れを詳細に記録しています。庄屋日記はいわゆる「役用留」として、村役人としての役用のみを記録するものが多いのですが、彼は村中の日常の細々とした出来事にも目を注ぎ、なにげない村人の暮らしを丁寧に書き留めています。昭和40年に刊行された『枚岡市史』などでわかっていることや、地元で言い伝えられてきたことの、さらに奥深い事実が解き明かされ、新たな発見があり、郷土の歴史の史料としてこれ以上のものはない、という実感があります。

そしてこの日下の貴重な史料を、今この地に住む我々が読むということの意義は、想像よりもはるかに大きいものがあったのです。森家の屋敷地も、今は畑になっている庭園の小高い丘も、村の会所も、善根寺浜という船着場も、布市の船頭さんのことも、長右衛門家の向かいの五兵衛さんの家も、日下の年配の方なら誰もが知っている事実でした。

こうした古老が経験してきた、この地の戦前までの農業は、そのまま享保時代に繋がります。庄屋日記に登場する、香盤で時間を計る水番や、蔵米納め、下作米納めの作業は、この地で何百年も永々と営まれてきたことなのです。

田畑の字名などは、古くから農業に従事してきた地元の人が呼び慣わしてきたものですが、急速に田畑が宅地に変わっていく現在、死語になりつつあります。九〇才の古老から教えていただいた「みよし」や、旧家の方からうかがった、「あまよろこび」や「ひのつり」という言葉。また、八朔の日から昼寝がなくなることから、「いやな八朔また来たか」という言葉などは、農作業の中で使われてきた言葉でした。

田畑の単位も、六畝を「むせ」八畝を「やせ」と呼び、「むせ田」「やせもん」という呼び習わし方、また日下村では勾配のきつい山の田んぼが広畝(こうせ)と呼ばれ、一反の面積が他地域より広かったいう事実など、我々には宝物のように貴重な情報でした。こうした地元の特殊な実情を踏まえないと、この庄屋日記に記された細かい数字から、当時の農業経営の実態を把握することは困難です。

享保時代の日下村は、確かに今も、古老の記憶の中に鮮やかに痕跡を残しています。年配の方々にとっては自明のことながら、「今これを記録しなければ!」という思いが強くなっていきました。
地域にあった懐かしい年中行事、古くから連綿と続いてきた伝統や風習が忘れられると、それに付随した言葉や思想も迷信として抹殺されていきます。それは歴史の流れというもので、くい止めることはできません。

『日下村森家庄屋日記』はこの地に生きた先人たちが、その時代時代に新しいものを受け入れ、古いものを忘れ去って生きて来た道に光を当ててくれました。それをたどり、埋もれた化石を掘り出し、現代に繋がる痕跡をさぐる。その作業はどんな苦労も吹き飛ばすほどの楽しさに満ちていました。

何時の時代にも古い史料の解読にはその時代の制約があり、我々の仕事は平成という時代を反映したものにならざるを得ません。我々がたぐり得る記憶にないものは、それ以前に廃れてしまったことなのだから、現時点での記録は、民俗学の一つの方法でもあります。
『日下村森家庄屋日記』の暮らしは現在の暮らしとは大きく違うものです。身分
制と格式に縛られ、支配者への絶対服従しかない時代、すべてが手作業という重労働の農作業、疱瘡や腫れ物にも、漢方薬と鍼灸だけが頼り、平均寿命が四十才前後という、生きることが今よりもはるかに過酷な時代。その中で与えられた境遇をありのままに受け入れ、精一杯生きた人々の姿があります。

そして長右衛門の姿から見える河内の庄屋の実像は、私たちの想像をはるかに超えたものでした。河内の豪農は、一大経済都市として繁栄する大坂と隣接するという大きな利運を背景に、都市大坂から郷土の発展に利するための最先端の情報知識を獲得しました。
そのために河内の豪農は、近郷庄屋階級ばかりでなく、大坂の有力商人とも盛んに縁組しました。長右衛門の長男は大坂南組惣年寄である大商人へ養子に入っていたのです。近世初頭から何代にもわたって繰り返されてきたそうした姻戚関係は、否が応でも河内の豪農の人脈を拡大させることになります。

長右衛門の交友関係は大坂惣年寄をはじめ、町奉行与力といった大坂行政の中枢を担う人物から、有力な用聞、大名出入商人、諸国問屋にまで広がっていました。しかもそのほとんどは姻戚でつながっていたので、親密な交流となっていました。

長右衛門は大坂南組惣年寄や町奉行所与力といった大坂三郷の行政の中枢を担う人物から、幕府の動向や大坂の都市行政の実情を、有力な用聞、大名出入商人からは、大名領国の社会経済情勢を、大坂商人となった息子たちからは大坂経済の最先端の情報を入手したのです。

それは長右衛門の視野を多角的なものにし、正確な情報分析能力を養うこととなりました。いわば河内の庄屋はこの多様な環境での経験と政治力によって単なる百姓身分を越える存在となり、実質的には、大坂の武士や町人と並び立つ地位に上り詰めていたのです。

河内の豪農庄屋は大坂経済の恩恵を受けて、財力においても武士階層を圧倒していました。常に蔵屋敷で平身低頭する長右衛門の方が、領主役人よりも懐が豊かであったことは誰の目にも明らかでした。長右衛門は豊かな財力と幅広い人脈、さらに確かな力量を持つ人物として一目置かれる存在であったことは想像にかたくないでしょう。

長右衛門は蔵屋敷役人から町奉行与力への口利きを依頼され、用聞同士の争論の仲介までしています。蔵屋敷役人も奉行所役人も、事あるごとに河内の庄屋を呼び出し、直接に村落出入の仲介人として指名し、さまざまな依頼事をし、賂を受けるのです。河内の豪農庄屋の存在は大坂の武士にとって依存するに足るものであったのです。

また長右衛門は河内地域の他の村々との寄り合いにも出かけます。この時代の村々の抱えていた問題、田畑の収穫に大きく影響する水利問題での争いや、また天候不良による不作の時には、年貢の減免のために、村々が連合して訴えを起こします。

とりわけ河内においては大和川付替え後に開拓された新田との軋轢が度々の水利争論となって大きく立ちはだかってきたのです。

長右衛門の肩に重くのしかかるものは現在の企業戦士の比ではありません。支配者と村との狭間にあって、村の安泰と村人の暮らしのよりよい成り立ちに心を砕いた長右衛門の姿は、この時代の庄屋階級の典型であり、そこには父祖伝来の地への深い郷土愛と使命感が伺えます。

長右衛門は今よりはるかに高価であった本をたくさん買い入れています123部もの蔵書を持ち、自身の子弟教育ばかりでなく、村人に本を貸し出して、村人の教育に役立て、文化の高揚を目指す姿勢があります。まず村のこと、村人の暮らしに心配りをすることが庄屋というものの勤めでありました。

自然を敬い、より良い暮らしを希求しつつ、襲いかかる病気や災害などの不幸にも力を合わせて立ち向かった先人たちの姿からは、確かにあった営みの重さがひしと迫ってきます。そこに今の私たちが忘れてしまった大切な何かを感じとることができます。

この日記を読むことで長右衛門たちが守ってきた暮らしが今の私たちの暮らしに息づいていることを知ることができ、自分たちの住むふるさとへの誇りと愛着を新たにすることが出来たのです。
二百八十年前の享保時代の生駒西麓の日下村の暮らしがどのようなものであったかを多くの人々に知っていただきたいという思いから、これからも『日下村森家庄屋日記』の解読を続け、それをあくまでも一般の人にわかりやすく解説したものを目指して、刊行していきたいと考えています。

しかし今のところその希望は叶えられそうにありません。京都大学の翻刻許可が困難という大きな難問が立ちはだかっているからです。でも私どもはその重い扉を開けていただける日が来るまで努力を続けていきたいと思っています。
                                                                                         日下古文書研究会   浜田昭子

『日下村森家庄屋日記 享保13年度」についてはすでに完売しています。
しかしその内容の一部については『くさか村昔のくらし』の中の「280年前の村の暮らし」と
「享保時代の出来事―『日下村森家庄屋日記』から」に掲載しています。