2012年8月30日木曜日

「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」
大和義挙の事跡
 (解説)

いわゆる天誅組(てんちゅうくみ)騒動の顛末の詳細であるが、漢文の知識を駆使しつつ故事を引き、難解漢字を多用する名文である。内容的にはこの義挙を肯定し、勇猛な戦死を遂げた人々を賛美するものとなっている。

文久三年(1863)八月十三日三条実美ら尊王(そんのう)攘夷派(じょういは)による、孝明天皇の大和行幸、神武天皇・春日社での攘夷(じょうい)祈願(きがん)詔勅(しょうちょく)が発せられる。攘夷激派公家が長州と結び、御親征の名のもとに討幕軍を大和に起こさんとして、行幸護衛の兵を集め先発隊が派遣されることになった。   

土佐の庄屋であった吉村寅太郎は松本奎堂(けいどう)藤本鉄石などの尊皇攘夷の最激派の脱藩浪士たちとともに、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えてわずか三八名でを出発した。

 河内を通過する間に軍資金・武器を調達し草莽の志士たちを軍勢に加え大和に入る。八月十七日、幕府天領の大和国五条代官所を包囲し、代官鈴木源内に対し、代官所と所管の村々を速やかに引き渡すよう要求したが源内がこれを拒否したため即座に討ち取り、居合わせた数名を殺害、代官所に火を放った。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とし、「御政府」あるいは「総裁所」を称し、この年の年貢を半減することを宣言する。

しかしこの翌日、京において公武合体派の会津藩薩摩藩中川宮と結び尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした。八月十八日の政変である。これによって大和行幸は中止となり京の攘夷派は失脚し、三条実美ら七名の尊王攘夷派公家は京を追放され長州へ落ち延びた。

挙兵の大義名分を失った天誅組は一転して追討を受ける身となった。天誅組は天川辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発した。天誅組総裁吉村寅太郎は五条の医師乾十郎とともに十津川に入って兵を募り、これを朝命を奉じての挙兵と信じた野崎主計ら約千名の十津川郷士が参加して兵力は膨れ上がった。天誅組は高取城を攻撃するが、兵の銃砲撃を受けて混乱のまま敗走。十津川郷士もこの時一三名の戦死者を出した。三河刈谷藩伊藤三弥のように脱走するものも出て、天誅組の戦力の脆さは否めなかった。

幕府は諸藩に命じて大軍を動員して天誅組討伐を開始する。天誅組は激しく抵抗するが、寄せ集めの軍隊で統率が乱れ、その上主将中山忠光の指揮能力の乏しいこともあり敗退を繰り返し、しだいに追い詰められる。朝廷から天誅組を逆賊とする中川宮の令旨が下され、朝命と信じて加勢した十津川郷士はこれを受けて直ちに離反する。九月十九日、忠光は天誅組の解散を命じる。残党は伊勢方面へ脱出を図るが、東吉野村鷲家口で幕府軍に捕捉され壊滅した。藤堂藩の降参の勧めもはねつけた忠光は桜井から河内を経て大阪へ入り、長州に落ち延びた。卿が二十才にして長州穏健派に暗殺されたのは、その二年後の慶応元年十一月のことであった。

この義挙に参加しながら十津川郷士が放免されたのはひとえに中川宮の深慮ゆえであった。京の政変ののち中川宮より十津川郷士に、朝敵にならぬように離反すべしとの御沙汰書が伝達され、さらに、追討軍に繋獄されていた郷士はすべて赦免され解放された。そこには人数的には軍勢の大部分を占める十津川郷士を本隊から外し、討伐を容易にする意図とともに、禁門守衛の任務を帯びる十津川郷士に朝敵という汚名を着せ得ぬという思いがあった。

中川宮が十津川郷士に篤い信頼を寄せるのは、四名の十津川郷士が梅田雲濱を訪ねた折、南朝忠節者の後裔としてのその気風に感じ入った雲浜より、中川宮執事伊丹蔵人を紹介されたことに発する。文久三年十津川郷士が禁門守護の要職に抜擢されたのも雲濱の力に負うところが大きい。

しかしこの時十津川郷士の中には時勢に暗く代官所の指図もなく朝命に従うことを良しとせぬ反対派もいて代官所に出訴に及んだ。この時五条代官鈴木源内(すずきげんない)は反対派に、「朝命は郷の名誉であり禁闕守護の大任をはたすべし。それがもし幕府への不首尾となるならば、自分が屠腹して謝すべし」と説諭した。この鈴木源内の誠意ある説得により双方和解にいたったことを思えば、鈴木代官の懐の広い人間性がうかがわれる。天誅組に有無を言わさず斬殺されるには惜しい人物であった。

天誅組の募兵に応じ、率先して最後まで踏み留まった野崎主計は自ら引責して「大君につかえぞまつるその日よりわが身ありとは思はざりけり」の遺詠とともに十津川山中に自刃して果てた。大義に殉じようとしつつ天誅組と十津川郷士との狭間にあって窮地に陥った末の悲劇であった。主計と行動を共にした郷士深瀬(ふかせ)(しげ)()は、八尾の伴林光平(ともばやしみつひら)とともに藤堂藩に捕縛され、斬首された。のちすべての十津川郷士が赦免されることを思えば彼もまた悲運であった。

この義挙は尊攘激派の吉村寅太郎が孝明天皇大和行幸の先駆けとなるべく、尊攘派公家中山忠光を擁立して挙兵したものであった。忠光は先に官位を辞し長州に出奔し下関の夷船襲撃に加わったほどの尊攘急進派であったから討幕軍の大将としてふさわしい人物であった。しかしなんといっても吉村二五才、忠光一八才、しかも十津川郷士などを募兵するも俄かにかき集められた農民兵で武装集団としては結束力に欠ける軟弱なものであった。その上大和代官襲撃の直後、京の政変により朝敵となると十津川郷士は離反し、その後の戦況は悲惨なものとなった。あまりにも過激な尊攘思想に傾倒した末の、短慮に過ぎた挙兵であったといわざるをえない。

この史料ではしかしこの義挙の評価を次のように賛美する。

古今無比ノ忠節家タル楠氏ノ功績モ之ニ及バザルコト遠シト謂フベシ

と忠臣楠氏に比して高く評価し、さらに

斯ク雄大ニシテ清廉潔白ナル盡忠報國心ヲ国家教育ノ基礎タラシメザラバ、何ヲ以テ後昆ノ指導者タラシム可キ

とその盡忠報國心に最大の賛辞を贈っている。

この挙兵に河内からも多くの志士たちが参加した。彼らを天誅組河内勢と呼ぶ。特に河内綿の集散地として栄えた富田林の豪農にして代官であった甲田村(こうだむら)水郡(にごり)善之祐は小荷駄奉行となって金穀・銃砲・刀鎗・鐘鼓はじめ、人足の調達などもすべて受け持ち財政面で大きく貢献した。善之祐は長男英太郎とともに参戦し、河内勢は長野村()(どし)米蔵・鬼住村上田主殿など十数名に上った。しかし逆賊として追討されるに至って水郡は河内勢十三名の連名にて忠光と決別を宣言し紀州へ出んとして十津川郷に入る。湯川村の田中主馬宅に寄宿した折、火薬を投ぜられ一同火傷を負い、自害を覚悟するも善之祐は、「紀州藩に自首し刑場に果て忠誠を天下に知らしめん」と説得して紀州軍に投じ捕縛された。この時守備者はその高い志を壮として酒食を供して慰めたと伝える。一同京都に護送され六角獄にて処刑された。

十津川勢が深瀬(ふかせ)(しげ)()以外すべて放免されたのと対照的に河内勢は無残な最期を遂げた。ただ一つの救いは当時十三才の善之祐の長男英太郎が年少ゆえに放免されたことであった。彼は故郷に帰り、「水郡長雄の履歴」や「長義自叙伝」など後の天誅組研究の貴重な資料を遺した。

しかし天誅組のその無計画で強引な統率に疑問を抱くものも出ていた。河内の植田主殿と十津川郷士玉堀為之進は、天誅組主将中山忠光に抗議し、半日議論したが意見合わず、遂に両名は反逆者の名をもって天ノ川本陣、鶴屋治兵衛邸で斬殺された。

植田主殿は藤田東湖の門弟であり、二二才の熱烈な勤皇の志士であった。玉堀為之進は十津川郷林村の庄屋であり、当時五三才の分別を以て慎重論を唱えていた。天誅組が十津川に援兵を求めた時、すでに京都の政変により逆賊とされていたこと、後に十津川が天誅組から離脱せざるを得なかったことを思う時、玉堀の論は当を得たものであったはずである。彼の辞世「国の為仇なす心なきものを仇となりしは恨みなりける」がその無念の心境を映して悲痛である。

八尾から挙兵に応じた伴林光平(ともばやしみつひら)は八尾教恩寺の住職として多くの門人に国学・歌道の教授をしていたが、手紙で参加を求められ五条へ駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。義挙失敗の後、捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した『南山(なんざん)(とう)雲録(うんろく)』を執筆し、翌年二月、京都で斬首された。京都六角の獄舎に移されたときは生野の変で囚われた平野国臣と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。

伴林光林とともに挙兵に応じた平岡(ひらおか)(きゅう)(へい)は大和出身で伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒したものであった。天誅組壊滅後、追っ手を逃れて北畠治房と名を変え、維新後は司法官として横浜、京都、東京の裁判所長を歴任して男爵まで上り詰めた。

伴林光平は河内枚岡の中西多豆廼舎(なかにしたずのや)多豆伎(たずき)父子や豊浦の中村四端(なかむらしたん)・花園の岩崎(いわさき)(よし)(たか)を中心とした歌会に加わり、当時華やかな文芸サロンの一員として活躍していた。そうした影響もあったか、日下村庄屋であった(かわ)(すみ)雄次郎(ゆうじろう)氏も一時この挙に応じたことが知られている。

河澄家には寛政のころ上田(うえだ)(あき)(なり)が逗留し、彼の随筆『山霧記(さんむき)』が遺されている。当時俳人として活躍した枚岡の中村四端(なかむらしたん)同耒耜(  らいし)・浪速の()(えん)らの俳句の掛軸も所蔵されており、河澄家は河内における文芸サロンとして多くの文人たちの活躍の場となっていた。河澄家十九代雄次郎も明治三年から十四年にかけて歌文集『閑居(かんきょ)草紙(ぞうし)』を著し、文芸への傾倒は代々の風雅の伝統を発揮したものであった。当然雄次郎もこの河内文芸サロンで活躍した伴林光林の国学者・勤皇家としての人物像に影響されたことは大いに考えられる。

雄次郎は二四才にして、家人の制止も聞き入れず日下村を出奔して天誅組に参加した。彼は水郡善之祐らの河内勢と行動を共にしていなかったようで、無事に離反してある寺に隠れ住んだ。しばらく忍んで平穏な時代になり、家人は雄次郎らしき人物の生存を知り、説得の上日下村に連れ帰った。家督を継ぎ、常房と称したのちは地元の近代的発展に貢献した。学制施行の折には自邸に郷学校を創設し、孔舎衙(くさか)小学校の建設には土地と私財を寄付し、子供たちの教育に尽くした。明治十四年十一月四十二才の若さで亡くなっている

天誅組の義挙はわずか三八名で出発したあと各地の勤皇篤志家からの資金援助を受け、河内から十津川にいたる道程で、河内勢・十津川勢を加え、千名を超える大軍に膨れ上がっている。勤皇思想の篤い伝統を有する十津川郷は当然としても、河内においてこれほどの加勢をみたその理由は何といっても河内綿の集散地として豪商軒を並べる町場として発展していたことが大きかった。

河内の庄屋・豪農・僧・神官といった村落の上層階級はその財力を背景に、膨大な蔵書を蓄え、自らが古今の典籍を修め、学識を高めるとともに、常に広範囲の文人・知識人との交流を求めた。それは京・大坂に代表される中央の高い文化と、最先端の情報を吸収しようとするものであった。儒学とともに江戸中期からの国学の隆盛はそうした向学の徒を大いに刺激し、幕末の勤皇思想への傾倒はいわば自然な流れとなっていた。とくに南河内は全国の著名な志士たちの訪れる尊攘運動の中心地となっていた。

そうした中で富田林甲田村の水郡善之祐は伊勢国神戸(かんべ)の代官で大庄屋を勤める家に生まれ、勤皇の志が強く志士達を金銭的に援助していた。彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている代々勤皇の家であった。黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、文久三年の「足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件」に関与して帰郷する。その後も邸内に常に武芸者を擁して武技を鍛錬させ、勤皇の志篤き十津川郷は事ある時には「三千ノ精兵ヲ得タルニ難カラズ」として武芸者を送り武術を指導せしめていたほどの人物であった。常に王事に尽くさんと待ち構えていた水郡にとって天誅組の義挙はまさに渡りに船であったろう。しかし彼も天誅組の統率の混乱と京の政変により失望し、離脱するしかなかった。しかし時すでに遅く、自らの志とは正反対の討伐される身となって京六角獄で斬られた時は三七才の若さであった。

のみならず各地の勤皇家が天誅組の義挙に賛同し財政援助をしている。河内人中野彌次郎は参陣する伴林光林に軍資を贈り、淡路島の大地主であった古東(ことう)(りょう)()衛門(えもん)は津井港や岩屋港の改修に私財を投じ、海岸防衛隊を組織し武術者を養成していたが、義挙に際し先祖代々の全財産を処分し軍資金として供出した。自らも上洛して挙兵に参加、のち京の六角獄で処刑されている、王塔村天川辻本陣として自邸を提供した鶴屋治兵衛は屋敷のみならず家財一切、兵粮を提供し、天誅組壊滅の後、自邸が幕府軍の本陣になることを嫌って自ら屋敷を焼いた。信ずるもののためにすべてを投げ打った人々であった。

経済的にも文化的にも先進地域であった畿内に彼らのような経済力と行動力、そして時代の先を見通す力とを備えた草莽(そうもう)の志士が多く出現していた。すでに弱体化した幕府の将来のないことを予見し、私利私欲を離れて新しい時代への変革を自らの手で成し遂げようとした人々がいて、彼らの財も命も惜しまぬ支援があればこその義挙であった。

あまりにも拙速に過ぎ、現実を見る冷静な判断も計画性も欠いた精神性のみが先走りした挙であったが、その一途な純粋性ゆえに、多くの志士を行動に駆り立て、そしてなによりも勤皇の伝統を堅持する十津川郷士にとっては、武器を取って馳せ参ぜずにおれない挙となったのである。

大きな犠牲を払い失敗に終わったとはいえ、この挙は尊攘派の初めての武力蜂起という点で、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府権威の失墜を決定的にしたことで、近代日本へ向かう時代の歯車を一つ推し進めたといえよう。

 

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「旧今西村文書にみる十津川郷の歴史」
解 題 


この史料集に収録したものは、十津川郷旧今西村文書である。その内訳は、元十津川村長上杉直温家(屋名(やみょう)花屋・上杉久氏所蔵)、玉置里見家(屋名下村・今西・和平(わだーら)玉置健一氏所蔵)、惣代家(羽根金二氏所蔵)の文書群である。全体の約八〇㌫を占め、二二四点にのぼる上杉家文書については巻末に文書目録を収録した。但し「玉置山始末書写」については天理大学附属天理図書館所蔵である。

旧今西村(現十津川村今西)は十津川村のほぼ中央部、東に十津川沿いの西熊野街道と168号線、西には熊野参詣道小辺路が通る、その中間に位置する地域である。今西川がその西を流れ南の西川に注ぎ、西川は南の十津川に合流する。西に大谷村、東に小森村、北に川津村、南に玉垣内村があるが、いずれの集落とも三㌔から五㌔離れている。明治十六年『十津川郷村誌』(平成二四年三月復刻)によれば、

地形高地にして風雪の害を蒙ること殊に極まれり。気候寒暑共に酷烈なり。南北に鬱蒼たる樹木生ずといえども高土なる故に薪木運搬に不便。物産、米四二石、麦三五石、大豆一石一斗、小豆五斗、玉蜀黍(とうもろこし)四一石、里芋一万斤、その産額多分豊穣を得ざるをもって喰うに不足し平素他国の輸入を仰ぐ。製造物、椎茸百二十斤、製茶三百八十斤、紙麁三百斤、然して上品は稀なり。堺・大阪・新宮等に運搬す。

とある。深山幽谷の地として農産物は二九六人(明治九年調べ)の人口の食用にも不足し、産物もわずかとあれば厳しい暮らしであった。

古くは十津川郷西川組に属し、村内は上原・下原・釜中・三坂の小字に分れ、枝郷として真砂(まなご)()がある。西は湯泉地温泉に至り、さらに南に進むと玉置山である。この山に鎮座する玉置神社は十津川村の祖神を祭る村人の心のよりどころであるとともに、熊野本宮大社に至る大峰奥駆道が中央を貫く修験道の霊場でもある。

東大阪市内の当会がこの文書群にであったいきさつは、十津川村玉置神社の神官である玉置健一氏が当会に入会されたことに端を発す。玉置氏は玉置神社に奉職する中で、限界集落となっていく今西地区の状況に心を痛め、故郷にあったかつての暮らしの姿を明らかにしなければと文献資料の収集調査に努める中で、村に遺された古文書を解読する必要に迫られて当会で勉強をはじめられたのである。

私どもでは玉置氏の持ち込まれる古文書の解読にとりかかろうとしていた、そんな二〇一一年九月、台風一二号による大水害が起こったのである。十津川村の被害は大きく、玉置氏の実家のある今西地区の集落でも地盤崩壊の危険があり、住民は仮設住宅に移っておられた。

しかも明治期に十津川村長を勤めた上杉直温氏の蔵も地すべりの危険があるということで、文書をすべて蔵出しした上、当会へ持ち込まれたのである。早速文書整理にとりかかり、目録を作成する中で、近世初頭からの貴重な史料がぞくぞくと出てくることに驚くばかりであった。

昨年秋から本格的に解読を進める中で、十津川村の歴史にとっぷりと浸ることになった。古来忠孝を尊び、仁義を重んじ、皇室への赤誠尽忠一筋の土地柄、村人が守り伝えてきた誇り高い由緒、幕末維新における十津川郷士の活躍、戊辰戦争における北陸から函館への転戦、明治二二年の水害による北海道への移住など、山深い土地で厳しい自然に寄り添いながら、数々の困難を乗り越えて生きてきた人たちの生々しい記録がそこにあった。村域の九六㌫が山林というこの地域ならではの人々の純朴で一途な思いと、彼らの歩んできた確かな年月の重みに心打たれた。

玉置氏が地元のことを語りだすと口角泡を飛ばして止まらない。そこには生まれ育った郷土への熱い思い、伝え聞いてきたふるさとの歴史への誇りが息づいていた。そのひたすらな思いに突き上げられて、これは早く史料集として刊行しなければという思いに駆られた。

この史料集はひとえに玉置氏の十津川村の歴史に対する深い思い、篤い郷土愛の故に生まれたのである。当会はそのお手伝いをさせていただいただけで、これも私どもに与えられた縁というものであろう。

十津川村の現在について、『十津川郷村誌』の「復刻に寄せて」(十津川村教育長・長曽昌弘氏)を引用させていただこう。

 わが十津川。この山里は今静かです。本村の人口は四千人を切りました。今月末村内四つの中学校は閉校し、四月には村内ただ一つの十津川中学校が開校します。生徒総数八二名です。また四つの小学校への今春の入学児童総数は二一名です。少子化・高齢化・人口減少が同時に進行する先例のない時代を突き進み、限界集落ということばが各所で現実になっている十津川村です。

延享元年(1744)の「村明細帳」によれば、戸数一九一七軒、男四六〇五人、女三八二〇、総人口八四二五人であったことを考えれば現在の人口は半分以下にまで減少している。

今西村地区について言えば、明治九年には五六戸、二九六人であったが、昭和三四年には二八戸となり、現在は七戸、九人となっている。そのほとんどが高齢者世帯である。しかも昨年の水害以後、元の家に戻ることができたものはわずか三世帯に過ぎない。地盤がゆるんでいるため、今なお大雨が降ると恐怖にさらされる暮らしである。この地域がいずれ廃村になる可能性は大きいと言わざるを得ない。

旧今西村の歴史を伝える古文書を史料集として刊行し、かつての暮らしを明らかにすることは大きな意義があるものと確信する。それは確かにあった十津川郷の暮らしの営み、伝統を誇りとして生きた十津川人の生きたあかしを後世へ伝えていくものとなるであろう。 

最後にこれらの文書の翻刻掲載を許可していただいた、天理大学付属天理図書館、上杉久氏、玉置健一氏、羽根金二氏に心より感謝申し上げます。

平成二四年九月          
                 日下古文書研究会 浜田昭子


  

                       十津川郷今西村全景








2012年6月12日火曜日

象の来日物語




象の来日物語            

 

二八〇年前に象が大坂へやってきました。八代将軍吉宗は新し物好きで、外国から珍しい動植物を輸入しました。長崎の通訳から象のことを聞いた吉宗は早速中国の貿易商人に象を注文したのです。

広南(ベトナム)から牝牡二頭の象が長崎に到着したのは享保十三年(1728)六月七日のことでした。牝象は到着の三ヶ月後、九月に死亡しましたが、牡象は翌十四年(1729)三月十三日、ベトナム人の象使い二名と通訳が付き添い、長崎を出発しました。関門海峡を船で渡り、あとは陸路で江戸へ向います。

幕府は象通行のための注意事項をお触書にして出しています。道中では、青草や藁・飲水・象小屋の他、川渡りのための船を用意させます。また牛馬はもちろん犬猫などの動物は外に出さないこと、大勢の見物人が集まり騒がないことなども厳しく言い渡されています。象の巨体で暴れるようなことがあると大変なことになりますから、幕府は神経をつかって細々したことまで触れています。

多摩川の六郷渡しのような大きな川では舟橋を組ませます。川幅一〇六㍍に船三六艘を並べ、杭と(とら)(づな)という太い綱で固定して、その上を通行させるのです。延べ八〇五人の人足が七日間かけて作業しました。この費用は近郷六二ヶ村が負担させられたのです。

象が通行するそれぞれの村でも領主から触書が廻されています。鐘・太鼓・拍子木などは鳴らさないこと。鍛冶屋(かじや)や大工など大きな物音を出す商売や、煙が上がる作業も禁止させます。象通行の当日、人々は仕事どころではなかったのです。

「享保の象行列」(山下幸子・尼崎市史研究紀要)によれば尼崎城下を行く象の行列は、村役人や御徒目付(おかちめつけ)が先頭を行き、見物人や牛馬を排除し、足軽(あしがる)が犬猫を追い払います。後ろの「象食い物人足」が象の食べ物、米・藁・笹の葉・草などを運んでいます。時には饅頭やミカンなども与えます。もちろん飲水も桶で運びます、大名行列にも負けないくらいの大行列でした。象の小屋も牛小屋の四倍くらいの広さが必要だったのです。

この象がやってくるという情報は早くから大坂に伝わっており、河内の人たちもこの巨大な珍獣を一目見ようと待ちかねていました。四月二十日には到着ということで、その前日には芝村(現石切)・日下村・善根寺村から村人がぞくぞくと大坂へ向かいます。

いよいよ二十日になり、象は尼崎から神崎・十三へ向かい、天神橋筋を通り、大坂城の南西にあった南組惣会所へ到着します。沿道では大坂人のみならず、近郷の村人が馴染の宿屋に泊りこんで象を見物しています。

「ワーえらい大きいなー!鼻が長いでー!耳が大うちわみたいやなー!」とびっくりしています。

象は南組惣会所で四日間を過ごし、四月二十六日に京都に到着し、天皇に拝謁します。しかし御所に上がるには位が必要ということで、「広南従四位象(こうなんじゅしいぞう)」という位が与えられ中御門天皇の上覧(じょうらん)に供したのです。宮中では象をお題とする歌会まで開かれました。その時の天皇の御製(ぎょせい)が、

時しあればひとの国なるけだものもけふ九重にみるがうれしき 

というもので、天皇ばかりでなく、この時象を見た文人は和歌・俳句・狂歌などの作品を残しています。

刀の(つば)根付(ねつけ)(帯にはさむ飾りもの)にも象がデザインされ、当時の歌舞伎役者も顔負けという大人気!「象のかわら版」が出されて、それには、「象の大きさは、長さ一丈(3㍍)、高さ五尺余(1・5㍍)あり、鼻は長く四尺(1・2㍍)もある。眼は笹の葉のごとく、すべて長い鼻を巻きのべて食をとり水をのむ。足は柱のごとく太く、足指は見えず、栗のような爪五ツあり。尾は牛の尾のごとし。その寿命五百年をたもつ」とあって、寿命五百年は大げさですが、初めて象を見た人々の驚きが伝わります。

その後象は、東海道を通って江戸浜御殿に到着し、将軍吉宗が江戸城大広間から象を見物したのです。これ以後、象は浜御殿で飼育されますが、次第に大きくなって気も荒くなり、像使いが殺されるという事件が起きます。飼育に行き詰った幕府は、餌係の中野村の源助に払い下げることとなります。浜御殿から中野村にうつされた象は周囲に空堀と土手を築いた小屋に収容されました。

中野村の源助さん、ここでひともうけをしようと考え、ゾウ小屋を建て、入場料をとって庶民に見物させました。象をかたどった記念グッズやゾウだんご・ゾウ餅も売り出します。毎日大量に排泄される糞も無駄にはしません。乾燥して黒焼きにし、「象洞(ぞうとう)」と称して、当時最も恐れられた流行病(はやりやまい)疱瘡(ほうそう)(天然痘)に効果があると宣伝したため、人々が争って買い求めたのです。しかしこれが本当に効いたかというと、そんなはずはないわけで、当時の書物には、「疱瘡の薬といって象洞を十六文で売っているが、効いたものは一人も無し」とあります。

しかし、なんと言っても浜御殿でのような手厚い保護は得られず、待遇の悪化となり、一年後寛保二年(一七四二)に象は死亡します。長崎に上陸してから一四年後のことでした。

その後も源助さんは象の頭蓋骨と牙の見世物興業を行っています。たいした商売根性です。その後象骨と牙は中野村宝仙寺へ売却され、長く寺宝として保存されていたのですが、戦災で焼失したそうです。現在東京都中野の公園に象小屋の跡という看板が立っています。 

誰もみたことのない珍獣の象がやってくるという出来事はこの年のビッグイベントでした。河内人たちもこぞって見物に出かけ、生きた象の姿に度肝を抜かれたに違いありません。 

その後の象の運命は悲劇的であったのですが、「広南従四位象」という殿上人となって天皇に拝謁し、各地で一大象ブームを引き起こしたことで、日本の歴史に大きな足跡を残すことになったのです。

参考文献
『江戸時代の古文書を読む』「享保の渡来象始末記」太田尚宏 徳川林政史研究所              
                       
         本稿は石切神社発行季刊誌「いしきりさん」H24夏号に掲載





江戸時代のお花見


❀ 江戸時代のお花見 ❀ 

                 



日本人にとって春の一番の楽しみは花見である。石切駅の下にある日下新池は桜の名所である。堤の桜が満開になると、背後の山の緑とともに水面に映えて絵のように美しい。享保時代の春の一日、日下村の庄屋であった森長右衛門さんは、訪れた客と日下新池の畔で、弁当と酒を持参して花見を楽しんでいる。

江戸時代は、石切駅のガードを越えて生駒山へ続く辻子谷道も花の名所であった。急峻な谷筋を登っていくと、鷲尾山興法寺があるので「鷲尾山(わしおやま)」と呼ばれた今は桜はないが、『河内名所図会』の巻五に

鷲尾山(わしのおやま) 神並村の上方也。山脈伊駒山に続て、山峰悄絶にして、桜樹多し

とあるので、江戸時代には山ザクラが多く自生していたのであろう。

二八四年前にここ鷲尾山で行われた花見を紹介しよう。享保十三年(1728)の春三月八日のことである。日下村領主である譜代大名本多氏の蔵屋敷役人田村清蔵が日下村の庄屋長右衛門を訪れ、大坂の両替商鴻池善兵衛を鷲尾山の花見に招待したいとのことで協力を求めてきた。

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ではなぜ大名である本多氏の役人が大坂町人を接待する必要があったのか。そこには大名貸というシステムがあった。近世も早い時期から諸大名は財政窮乏に陥り、大坂町人からの借金がなければやっていけなかった。蔵屋敷の役人たちは大坂の両替商に頭を下げ、金を引き出すのに必死であった。毎年扶持米を給与し、節季の祝儀、盆暮の付け届けなど、種々の贈答を欠かさなかった。特に新しい借金を申し込む時には大坂町人を招いてお茶屋で接待をし、酒肴や芸者をはべらせて振舞までする。

武士として高い身分を誇り、町人や百姓からあがめられてはいても、金がなくては暮らせないのが現実。大坂では町人が金の力で武士の上に立っていた。それゆえにこそ天下の大坂と呼ばれた。又そこに、建前よりも本音・実質を重んじる「大坂人かたぎ」が生まれてきたのだ。

鴻池善兵衛は大坂にその人ありとうたわれた鴻池善右衛門の兄の筋で、かなりの金を本多氏に融通していた。本多氏役人はさらなる借金の申し込みのためにこの町人に振舞をしなければならなかったのである。

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今回はその接待を鷲尾山での花見と決め、長右衛門の屋敷で軽く夕飯を振舞うようにとの申し出である。しかもそれは翌日なのである。さあそれから長右衛門家は大騒ぎ。

「こらえらいこっちゃ!」とばかり、人足を集めて座敷や庭園を掃除させ、下男を大坂へ買物にやる。大坂の料亭の板前を呼寄せ、四重の大きな重箱に豪華な料理を詰めさせる。

翌日朝、村の船着場にお出迎えすると、主客の鴻池善兵衛が蔵屋敷役人や取り巻きの大坂町人を引き連れて九人で到着。早速一行は鷲尾山へ花見物に登る。茶、弁当、豪華な肴を詰めた提重と、よもぎもち・豆粉もち・下々へはにきりめし・にしめなどを下男に持たせる。

花見を終えて午後三時ごろから長右衛門家で宴席。麦飯と一汁六菜という豪華さ。鯛やウナギの焼き物に、塩貝・くらげの酢の物、よめな・干大根のしたし物、奈良漬やたくあんの香の物まで二〇種類にのぼる山海の珍味。長右衛門も粗相があってはたいへんと、下女下男を指揮し、

「はよ! お膳とお酒運んでんか!」と料理の手配に右往左往。

ようやく宴もはね、日暮れには船で帰られる。大坂へ四時間はかかるので、帰りの船にも、どじょう・白魚・サザエのつぼ焼き・たまごという高級な料理を持たせ、燭台や傘も積み込まれる。

まさに至れり尽くせりの接待である。「麦飯と醤油汁のかるいもので。」といわれて、これだけの饗応をしなければならないのが、村の庄屋の勤めであった。 

この接待にかかった費用は、銀一三〇匁、今の金にして二〇数万円。これを本多氏支配の村々二〇ヶ村で負担させられたのだ。その数日後に蔵屋敷へ出た長右衛門は、花見に来られたことのお礼を申し上げている。

長右衛門は、夕方来た役人に有無を言わさず急に明日の接待だといわれて、てんてこ舞いに振り回され、豪華なご馳走を供し、大金を費やし、それが終われば蔵屋敷にお礼言上に上がるのだ。百姓には武士への絶対服従しか選択肢はなかった。それに逆らうことなど夢にも考えなかっただろう。

とはいえ支配階級の武士が金に困り、最下級に位置づけられている町人が裕福というこの現実こそが、江戸時代を覆う巨大な矛盾であった。日下村のお花見一件が、如何ともしがたい、この時代の社会の現実を、鮮やかに切り取って私たちに見せてくれている。

現在の辻子谷道には、山道の両側に西国八十八ヶ所の本尊と弘法大師像が仲良く並ぶ石仏が興法寺まで続いている。

  

辻子谷道

日下新池の桜


参考文献『日下村森家庄屋日記』森義雄氏所蔵




      



日下新池の桜